月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「存在を抱きしめたか」

2022年のFIFAワールドカップを観ていて「これまでとなにかちがう」と感じたのは、世界中の美女たちをカメラが抜く映像や報道がなかったことだ。
ルッキズムとの批判を恐れたのだろう。
正直に言うと、私はちょっと残念であった。美女がだめなら、美男も、マッチョも、おもしろコスチュームのバカも写したらいいじゃん、と思うのだ。お祭なんだから。

人種差別や性的マイノリティーに関する議論に比べて、ルッキズムは地味かつ根深いが、問題点を列挙するなら、以下のようになるだろう。
醜形恐怖症や摂食障害の誘発
若年での、そして、過度な美容整形への執着
顔にアザがあるなど身体的特徴に基づいた就職差別
外見を嘲るいじめ
もっとあるだろうけど、いったんこのへんで。

制度としての差別をひとつひとつ廃絶していくのが人間社会の、歴史を通じた使命であるとするなら、私はそれに賛同する者である。
しかし、人間というのは差別して判断し決定する生き物であるから、ルッキズムというのは除去できない。

差別にまつわる活動家や言論人(とまで呼ばなくても、いわゆる意識高そうなインフルエンサー)をどうも信用できないのは、「私は無罪であるが、きみら社会はまちがっている」という立ち位置からものを申してくるからだ。

私には差別感情は、ある。

申し訳ない(字義通り、申すべき言い訳がない)が、たとえば、今後とくになんのかかわりがあるわけでもないが、ウェイトレスがかわいかったらうれしい。
インスタグラムで美女が素敵な感じで写っていたら「いいね」押しちゃう。
電車に美女がいたら見ちゃう。女のみならず、いい男がいたら服装とか髪型とかちょっとマネしたくなる。
それと同じように、どんなに走りが軽快で燃費がいいクルマがあっても、見た目がカッコよくなかったら乗らない。
醜いネコが道端に落ちてても拾わないけど、かわいいネコが死にかけていたら助けちゃう。実際うちの寅ちゃんはそうして義妹に拾われた。

いま、世の職場では「その髪型かわいいね」とかも言えないらしい。とにかく外見に言及してはいけないという。いけない、というか、しないほうがいいらしい。
だったら人間はもう化粧もおしゃれもしないで、全員スウェットでウロウロしたらいいのだ。私はおしゃれなので苦痛を感じるからイヤだけど。

外見に基づく差別というのは必ずある。

ではなぜテレビでニュースを読む女性アナウンサーは飛びきりの美人揃いで、それが疑問視されていないのだろう。私は疑問視しているぞ。
人前に出る仕事だから? いや、人前に出る仕事などこの世にたくさんあって、理由にならない。ニュースを正確に伝える目的のためなら、声が聞きやすいとか発音がきれいなことは重視されても容姿は関係ないはずなのだ。

結局のところ、「そのほうが視聴率を取れる」というビジネスに基づいて、ルッキズムは連綿とつづく。

ちなみにもっと言えば、美人アナウンサーのとなりにいる男性アナウンサーは年配で容姿はとくに問題にされないのは、性差別と年齢差別が関係するが、所詮テレビはその程度の倫理観であり、人様や社会にモノ申せるような機関ではないはずだ。低俗の権化であることに自覚的であってもらいたいものだ。

広告にしても、「きれいになる」「若返る」「白くなる」は溢れかえらんばかりで、人間の欲望の深い深いところに、外見至上主義は根付いていることがよくわかる。
美人の被告は懲役が軽いという統計データまである(出典は忘れたが不思議はないはずだ)。

 

美男美女は得することが多いのは否定できない。これは事実だ。
人生のある局面においては人間も商品にならざるを得ないのだ。恋愛もそう。就職もそう。人気投票に晒される職業は特にそうだ。

私は2000年代初頭に電通に入社したときビビった。同期の男たちの中に、ビビるくらい男前がそこここにいるのだ。美女のほうは(少なくとも当時はいわゆるコネ入社も多かったからなんとも言わん。縁故入社については拙著『広告業界という無法地帯へ』に書いた気がするのでここでは措く)まぁ、一般社会の比率と同じくらいかな。

私は私で若いころは「マエダさんてモテるでしょ」と言われてきたが、実際はモテなかったので、心の中で「うるさいわ。なんやその質問は。抱いてくれるとでも言うのか!?」と思っていた程度の男前である。そんなレベルちゃうねん。

面接官も人の子だから、同じくらい優秀な人間が来たら、見た目のいいほうを採ってしまうのだろう。
履歴書に顔写真を貼らせないでほしい、という要請や時代の流れもあるようだが、名前からもわかることは多いし、どこまで伏せるべきなのだろう。私の弟はアメリカに住んでいるが、ユウシ・マエダという名前では書類審査も通らず、勝手に「マイケル・マエダ」という名前で送ったら採用されたこともあった。

学歴差別だから校名も書かせない、という会社もあるが、そうなったら誰をどう選ぶのだろう。AIが書いた模範回答が並ぶ中、社員が抽選や順番で送られてくるようなら、人間は人間性を求めて、むしろマシーンに近いなにかになる。

社用車みたいな没個性の、しかし一定の基準はクリアする性能を持つ、無味無臭の人間を求めるのならそれでもよいが、おもしろい会社および社会にはならないだろう。

さっきからよくヒトをクルマに喩えるが、私は20年前の古くて重たいクルマに乗っている。だからスタートが悪く、走り出しはスピードが出ない。
だからタイミングが重要で、青信号になったら即座に動き出すように心がけている。

横にいた小さくて白いトヨタは加速がよく、シューッと先を行くがさほど高速は出ない。その後ろにはトラックがいて、ゴー、ゴッと咳込むような音を立てギアを上げて懸命に前進する。イキッたスポーツカーは猛スピードで追いついてくるが、結局トラックのうしろでブレーキを踏む。

私はこれを見て、人間社会の縮図であると思った。
速いひと、遅いひと、白いひと、赤いひと、大きいひと、小さいひと、カッコいいひと、ダサいひとなど、それぞれがいて、同じルールの下、それぞれの目的地へ進もうとしている。これが多様性の姿だ。

日本人がやりがちな、みんなを同じクルマにすることの正反対なのだ。

おのおのの特徴を抱えて、性能を活かして、追い越したり追いついたりしながらも必要なときには譲り合って、煽ることなく、事故ることなく、いきたいものである。
それを若い子たちに教えなくてはいけない。ほかの誰かのようでなくていいのだ。

だから、他人を指さして差別だと非難するのもいいが、まずは各人が自分の在り方(ブスであること、バカであること、チビであること)を認めて、受け容れて、しかし向上心を持って、幸せを感じられる社会づくりのほうがいま必要なことなのだ。


あなたは、最近、子供を抱きしめたか。成績とか点数じゃない。存在を抱きしめたか。
愛していると伝える方法を考えたか。妻にきれいだねと、夫に素敵ねと、言ったか。できる友人に敬意を表したか。できない友人を「いいんだぜ」と慰めたか。

バカな友人と肩を組んで笑ったか。ブスな部下をほかと等しく成果のみで評価したか。チビな店員に威圧的な態度をとらなかったか。杖ついたじいさんに席を譲ったか。おばあちゃんを背負って横断歩道を渡ったか。

社会を大変革させるアイデアなど私にあるわけはなく、それくらいしか思いつかんが、そういうことからではないのか。

 

youtu.be