月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「すべてのお母さんとそのドラ息子たちへ」

もうすぐ母の日である。

私自身は(主人まかせで)母の日になにか特別なことはしてこなかったので、えらそーになにかを説ける立場にはないのだが、カントリーミュージックには母親を歌ったすてきな歌がいくつもある。

新旧のその中から3曲ご紹介したい。

①”Mama Don’t Forget to Pray for Me” by Diamond Rio (1991)

Well hello, It's good to hear your voice
I hate to call so late but I didn't have a choice
I'm calling you from Dallas headed for L.A.
I wish I had more time to talk, there's so much to say

もしもし 声が聞けてよかったよ
遅くにかけてすまない でもどうしても話したかった
ダラスからかけてる これからLAへ
もっと時間があればよかったんだけど 話したいことはたくさんあるから

No I ain't forgot how I was raised
But I'm livin' way too fast
It's a roller coaster ride, up and down

いえ、あなたにどう育てられたかは忘れてないよ
だけど人生は激しすぎて
浮かんだり沈んだり ジェットコースターのようだよ

My new job is going great
I'm headed for the top
I should be happy but somehow I'm not
Sometimes I think the devil has got me by the sleeve
Oh Mama
Don't forget to pray for me

新しい仕事は順調だよ トップを狙えるかも
幸せであるはずなのに どうしてかそうじゃないんだ
ときどき悪魔の誘惑に負けそうになる
ママ 僕のために祈るのを忘れないで

 

 youtu.be

一番だけ訳しましたので、興味がある方はYouTubeでどうぞ。

 

 

ダイヤモンドリオの”Mama Don’t Forget…”は、私が高校生のころに発表された曲で、当時私はカントリーの好きな曲を集めて、CDからテープに録音していた。
CDは、私にカントリーを教えてくれた父親がいくらでも買ったりもらったりしてきたから、家にたくさんあった。
母親はさしてカントリーに興味があるわけでもなかったが、父がずっとそれを聴いてきたから自然と慣れ親しんでいたと思う。
私が高校を卒業して、アメリカの大学へ旅立つときには、母親のために一本のカセットテープを家に残した。そこには「ママ、僕のために祈ることを忘れないで」というこの歌が含まれていた。

はじめて母親からアメリカの大学に届いたエアメイルの手紙には、”Sure(もちろん)”と返事があった。

 

つぎの歌は物語になっているので歌詞の全文を訳す。

②”She Was” by Mark Chestnutt (2002)

She started her new life ten dollars in debt
That's all it took to get started back then
A trip to the courthouse across the state line
No one could stop her, she'd made up her mind
He was eighteen, she wasn't
彼女は10ドル借金して新しいくらしをはじめた
当時はそんなものだった
州境の向こうの裁判所へ出かけた
誰も彼女を止められなかった 彼女は心を決めていた
彼は18だった 彼女はちがった

But she said she was and never thought twice
Came back home as my daddy's wife
She just shook her head when her momma said "Are you sure he's the one?"
She was
でも彼女は「そうです」と言った 考え直すなんてありえない
私の父の妻として 家に帰った
彼女のママが「ほんとうに彼でいいの?」ときいても 彼女はとりあわなかった
彼女は確信していた

He took a job and farmed on the side
He made the ends meet, but she kept 'em tied
Changes were coming to their little world
She said "What would you like, a boy or a girl?"
He said "Are you?"
彼は職を得て 副業に農家をやった
彼はなんとかやりくりし 彼女はそれを支えた
彼らのちいさな世界に変化が起きた
彼女は言った「男の子と女の子 どっちがいい?」
彼は言った「もしかして…」

She said she was and never thought twice
'Bout takin the next step in building their lives
Soon there were three and she tried to be everything to us
And she was
彼女は「そうよ」と言った 考え直すなんてありえない
ふたりの生活のつぎのステップにすすむことを
やがて三人ふえた
彼女は僕たちのすべてになろうとした
そして 彼女はそうだった

Those precious moments turned into years
In what seemed like the blink of an eye
I held her hand as I leaned down to ask her "Momma, Are you ready to say goodbye?"
そんな大切な日々は またたく間に年月となり
僕は彼女の前にかがんで その手を取った
「ママ さよならの準備はいいかい?」

She said she was but she thought twice
Holdin' my hand as she let go of life
Daddy always said a woman like her would be hard to give up
And she was
She was
If there ever was a picture of love
She was
彼女は「そうね」と言った 
でも考え直して 僕の手を握りながら 命を手放した
父はいつも言っていた「彼女のような女はあきらめきれないよ」
そうだね

彼女はそうだったね
もし愛情にかたちがあるのなら
彼女がそれだった

 

 youtu.be

"She Was"というシンプルな言葉が、
She said she was(18歳ではなかったけど、そうだと言った)
She said she was(妊娠したの? と訊かれ、そうだと言った)
She said she was(逝く準備はできたと言った)
She was(彼女こそ愛情のかたまりだった)
とさまざまな意味において常に通用するところが、この歌の高い芸術性と、英語のおもしろさを示していると思う。

 

母親の来し方からいまわの際までを描く歌は、Blake Sheltonの”The Baby”にも通じるところがある。
こちらは10年前にコラムに書いているので、あとでどうぞ。

monthly-shota.hatenablog.com

つぎは、今やカントリー界のスーパースターであり、危険行為(BARの屋上から椅子を投げて落下させた)で捕まったり泥酔して暴言吐いたりといった悪童でもあり、稀代のストーリーテラーでもある、Morgan Wallenからの一曲。

 

③”Thought You Should Know” by Morgan Walen (2022)

What’s goin’ on, mama?
Something just dawned on me
I ain’t been home in some months
Been chasin’ songs and women
Makin’ some bad decisions
God knows I’m drinkin’ too much
Yeah, I know you’ve been worrying ’bout me
You’ve been losin’ sleep since ’93

元気にしてる? ママ
急に思いついて電話してみた
何ヶ月も帰ってないよね
新曲とおねえちゃんたちに忙しくてさ
失敗ばかりだし 飲みすぎかもね
ああ 心配かけてることはわかってる
93年に俺を産んで以来 寝不足なんでしょ

I thought you should know
That all those prayers you thought you wasted on me
Must’ve finally made their way on through
I thought you should know
I got me a new girl down in Jefferson City, and
She lets me fish whenever I want to
Yeah, I’m still proud of where I came from
Still your only damn son
Can you believe I’m on the radio?
Just thought you should know, thought you should know, thought you should know

知っておいてほしいんだ
あなたがムダだったと思った俺へのすべての祈りが
とうとう通じたようなんだよ
知っておいてほしいんだ
ジェファソンシティに彼女ができてさ
いつでも好きなときに釣りに行かせてくれる
ああ 俺は今でも故郷に誇りを持ってるし
あなたのドラ息子だし
俺の歌がラジオで流れてるって信じられるかい?
知っておいてほしいんだ 知っておいてほしいんだ ただ知っておいてほしいんだ

Oh, by the way, mama, didn’t mean to ramble on ya
How’s everything back at home?
Yeah, how’s that garden comin’?
Is dad still doing dumb s—?
And how’d he keep you this long?
Yeah, I’m sorry that I called you so late
I just miss you but anyways

ところでママ だらだら話すつもりはなかったんだ
家ではどうだい 庭ではきれいに咲いた?
おやじはまたバカなことやってんだろ?
よくまだいっしょにいるよね
ああ こんなに遅くにかけてごめん
ただ会いたいなと思ってさ 
とにかく 知っておいてほしいんだ

(中略)

That I really like this girl down in Jefferson City, and
Turns out she’s a lot like you
Yeah, I’m still proud of where I came from
Still your only damn son
The bus is leavin’ so I gotta roll
Just thought you should know, thought you should know, thought you should know
I thought you should know, thought you should know
I thought you should know, thought you should know, thought you should know
ジェファソンシティのあのコのことが ほんとうに好きでさ
なんだか母さんによく似てるって気づいたんだ
ああ 俺は今でも故郷に誇りを持ってるし
あなたのドラ息子だし
バスが出るから もう行かなくちゃ
ただ 知っておいてほしいんだ 知っておいてほしいんだ 知っておいてほしいんだ

知っておいてほしかったんだ

youtu.be

私はモーガン・ウォレンが好きすぎて、過去にも二度、曲を紹介している。

monthly-shota.hatenablog.com

 

monthly-shota.hatenablog.com

 

③の”Thought You Should Know”は、①”Mama Don’t Forget…”と共通して、遠く離れた母親に電話するシチュエーションである。アメリカでも日本でも典型となる母と息子の関係性なのだろう。

興味深いのは21世紀も4分の1が過ぎたってのに、(スマホでの)テキストメッセージではなく「電話」だし、SpotifyやYouTubeでもなく、テレビですらなく「ラジオ」が登場することだ。

現代をもってしても、電話は歌になるが、フェイスブックメッセンジャーやLINEやZOOMではまだうまくいかないのだ。コクが出ないのだろう。

今朝ちょうど、「コクってなんやねん。テキトーなことぬかしやがって」とググったら、「複雑さ(味の深み)」「(口の中での)広がり」「持続性(後味の余韻)」の3つの要素で構成される、とジェミニくんが教えてくれた。

紹介した3曲に、コクは感じていただけただろうか。

 

私の母親は数年前から施設にいるので、電話で直接話すことはもうない。電話をするのは面会の予約をするためだけである。
私は関西、母は東京にいるため、それも年に数回できればいいほうだ。

母が元気で実家にいたころ(いや、いまも元気にボケてるだけなんだけど)にだって、電話をすることはほとんどなかった。
たいした用事もなく電話したところで、
「ちょっといま台所で煮物してるから!」とか、
「いまから出かけるところなの!」とかで早々に切られて、
「なんだよせっかくかけたのに」と気分が悪くなることばかりだったと思う。
だいたい母親に相談することなどなにもない。

母親に望むことは「オレより長生きしないでおくれやw」くらいかな。
だって親より先に死なないことがそもそもの親孝行だろう?

昨年の秋だったか、施設に母親を訪ねた際、私は自社で販売するボクモフーディ―を着ていた。

sunawachi.comでどうぞ

「かわいいわね、それ」と母が興味を示した。
「ええやろ、うちのやねん」
「えー、あたしもほしい」
「いらんやろ、施設にいるだけなのに。フリースも持ってるし」
「あたしもちょうだい。お金なら払うから!」
「財布も持ってないのに、どうやって払うんやw」

押し問答の末、私は12月が母親の誕生日でもあったので、後日プレゼントすることにした。

年が明け、2月ごろ、私は東京にいる兄に会った。

「おかんは、オレがあげたフーディー、気に入ってるみたい?」
「ああ、この前面会に行ったとき着てたよ。『なんかわからないけどショータがくれた』って」

なんかわからないけど!w

そんな調子なので、話すことはもうあんまりないんだけど、いま私がしているように、遠くから母親を想うことが、電話をかけることとほぼ等価なのではないかとすら思える。

 

すべてのお母さんたちに、愛を。
それが花であれ、電話であれ、手紙であれ、祈りであれ、なんであれ。愛を。

 


(対訳はすべて前田将多)

「なぜ日本人がJAPANを着られないのか」

自分の着るTシャツの胸になにが書いてあるか、帽子になにが刷ってあるか、に無頓着なのは困ったものだと思うのである。
友人の関さんなんかは
「そのシャツ、いいですね。どこのですか?」
と訊いても、
「え!? 知らん。嫁さんが買ってきた」
とまったく気にしていない。

しかし、さすがの関さんも、奥様が「CARIFORNIA」とプリントしてあるTシャツを買ってきたときには拒んだそうだ。関さんは一応留学経験があるから英語はわかる。
正しくはCALIFORNIAだ。LとRが間違っている。

ふたたびしかし、私としては関さんが「CALIFORNIA」というTシャツを着ていたら、
「なにをイキっとんねん。キャリフォーニアになんの縁もないやろ。しばらくおったのはインディアナやろ」
と脱がさんばかりに食ってかかると思う。

シャツの胸に書いてあること、帽子で頭に示していることには責任を持たなくてはならない。
それは、アメリカの影響下にある現代文化においては、基本的には「支持」や「好き」を表明することになるからである。

最近は「LA」や「NY」のロゴが入った野球帽をかぶる女性が多い。LAドジャースとNYヤンキースだ。

私はMLBファンなので、「ヤンキースの誰を応援しているんですか」とか「プレイオフに行けるといいですね」などと訊いてみたくなる衝動に駆られる。
他人に気安く話しかけてくるアメリカだったら、たとえばミネソタシアトル・マリナーズの帽子をかぶってると「マリナーズファン?」などと訊かれるはずである。

実際、カナダでカウボーイをしていたときに、地元に敬意を示そうとサスカチュワン・ラフライダースというフットボールチームの帽子をかぶっていたら、見知らぬカウボーイから「昨夜はどうだった?」と尋ねられた。前夜、私はロデオの会場にいたので試合など見ていなかった。

ただ「やっぱそうなるわな」と思ったのだ。

日本人はそのあたりに無頓着で、英語でたとえどんな酷いことがTシャツに書いてあっても誰も気にしない可能性が高い。
電通時代に後輩の女性が「Too Busy to Fuck」と書いてある上着を着ていた。私はお節介と知りつつ、「それを着て外国に行かないでね」と伝えた。

反面、日本人は、シャツに日本語でなにか書いてあるとやたらと反応してくる。
昔、予備校の英語講師が笑って言った。
「キミら、『Coca Cola』と書いているTシャツは着るくせに、『伊藤園の梅こぶ茶』だったら、ゼッタイ着ないよな!」

まったくその通りだ、と30年数前の私は思った。※伊藤園の商品名は正しくは「梅こんぶ茶」である。

私は一時期あえて「カワサキオートバイ」と、カタカナで表記してあるTシャツを着ていた。予想通り、やたら話しかけられた。

いま、私の会社である「スナワチ」もTシャツを販売しているが、カタカナ表記なのはそういう狙いもある。実際に、着てくれているお客さんは「なにそれ」とよく訊かれるようだ。

さて、本題である。

日本でアメリカの星条旗がでかでかと刷ってある服を着る日本人はいる。イギリスのユニオンジャックもよくいる。

なのに、日本人が「日の丸」を着ていると、急に「右翼」みたいになる。「こわいひと」、「ちょっとおかしいひと」、「あんまり関わり合いたくないひと」みたいになる。

おかしいだろ。
こんな国はほかに見たことがない。 

 

しかし、私もバカじゃないからその気持ちはわかる。

まず、右翼団体が悪い。街宣車がうるさい。たとえ正しいことを主張していたとしても、ひとに聞いてもらうには伝え方というものがある。あんなふうに日の丸をデカデカと掲げて、周囲への威嚇のために使ってほしくない。

そして左翼も悪い。卒業式で日の丸に背を向けるとか、国歌を歌わせないとか、そういう連中が“教育”に携わっていると思うとゾッとする。

www.sankei.com

(あの輿石東センセイでも最近ではこう述べているらしい)

なんでもかんでも「差別!」と指弾して、「日本が好き」と表明しただけで「外国人を差別するのか!」と因縁をつけてくるような、思考がどうかしちゃってるひとらがいる。
「ケチャップが好き」と言っただけで「お前はマスタードは嫌いなのか!」と怒鳴られたら、誰だってイヤだろ。そういうお前らが、特に、念入りに嫌いだよ、ワタシは。

だから、ふつーの日本人は右にも左にも関わり合いたくなくて、愛国心というものは心に秘めなくてはいけないものだと考えるし、日の丸はアブナイからなるべく触れないでおこうとする。

あんまりそういうの考えたくもないから、自国は避けて、なんとなくカッコいい星条旗とか、どことなくオシャレなトリコロールとかは日常でふつーに着る。
それが、右端でも左端でもなく、真ん中にいる我々大多数の日本人だと思う。

歪んでるし、抑圧されてると言っていい。

自分の愛国心に手を伸ばして、その感触を確認しようとするとき、私の胸に去来するのは、生まれ育った町とか、育ててくれた両親とか、これまでがんばって社会を築いてくれたふつーの日本人たちだし、かつての猛烈サラリーマンたちだし、世話焼きな女たちだし、歴史上の英雄たちだし、国民のために日々祈ってくださっている上皇今上天皇両陛下である。
そして、彼らのおかげで生きて、日本人としてあちこちの国のひとたちと交流してきた自分自身の来し方も同時に想う。

愛国心というのは、べつに自民党支持とか参政党がどうとかは関係ない。まぁ、共産党はどうかと思うけど。そういう次元のハナシではないのだ。

私はアメリカでヒーヒー言いながら大学を出て、インドネシアとカナダで文字通り額に汗して働いて、明日もドイツ人と飲みに行く予定がある。
彼らは、私がどっぷり日本人だから、私に日本のことを訊いてくるし、私を通じて日本をますます好きになってくれたら光栄である。そう思って付き合っている。

私は、私が愛する日本が、私のせいで嫌われるのはガマンがならない(ハナから嫌っているひとは私にはどうすることもできないのでその自由だけ認める)。

この感覚は、日本を、親とか過去の勤め先とか応援するチームとか愛用するブランドとかに置き換えても成立する。

だから、私は、私が愛してやまないジャパンの帽子をかぶりたいが、それによって先述のように「うわ~、ウヨクっぽいおっさんがいるっ」となったら困るのである。いや、困らないけど、やだ。
USAの帽子や、UKの帽子をかぶるくらいふつ~にJAPANをかぶりたいのである。
べつに他人に押しつけやしないけど、ドジャースマリナーズの帽子をかぶるくらいの気安さでかぶりたいのである。

だから、自分たちで「ふつーの日本人がふつーにかぶれるJAPANなキャップ」をつくった次第である。

ご一読の上、CAMPFIREよりご支援を賜ることができれば大変うれしいです。
「べつに他人に押しつけやしないけど」と書いたけど、これに関してはあなたに売りつけたいくらいなのです。
買ってくださるみなさん、どうもありがとうございます。

 

補遺:CAMPFIREでの受付期間が2025年11月11日に終了後は、弊社 sunawachi.com で通常販売いたします。
特典のクイックワッペンやTシャツも同様です。

「『排外主義』という批判はどうなんだ?」

参議院議員選挙が終わったので、心おきなく書ける。
今回の選挙でははじめて「外国人問題」が争点となった。

外国人問題とひと言でいっても、仔細に見れば、「①オーバーツーリズムの問題」、「②国家の安全保障に関する問題」、「③不法滞在者の問題」、「④移民政策の問題」などに分けられる。

特区民泊の95%は大阪府にあり、その4割はチャイニーズによって経営されていて、誰のための「特区」なのかわからなくなっている問題(吉村大阪府知事は廃止を検討※1)は、①に含まれるし、埼玉県川口市クルド人と地域住民との摩擦は③と④に含まれることになる。

外国人による土地取得の問題は②に直結する場合もあるし、海外富裕層による不動産投機の過熱は①であり④であり、やがて②にもなり得る。

ちなみに神戸市は投資目的のマンション空室に課税する検討をはじめた。中央政府が無策だから地方が自ら動かざるを得なくなったのだろう。※2

チャイナ政府の影響下にあるプロパガンダ機関の孔子学院の国内大学への浸透※3、外国メディアやチャイナの五毛党によるインターネット言論空間における影響力※4、企業・大学などの研究機関や政府関係組織へのスパイ活動※5など、外国人や海外勢力にまつわる問題は山積していて、かつ放置されてきた。

我が国にスパイ防止法に相当する法律がないことはよく知られている。

安全保障ウォッチャーの私からすれば「やっと外国人問題が選挙の争点になったか」と思っていたのだが、案の定「排外的」という批判があって、選挙期間中はかなり論点がブレた。

それは「そういうひとたちの戦術なのだろうか」というほど、必ずそうやって議論を差し止める動きが起きる。そう、我が国では、議論することはおろか、問題提起することすら許されないのである。

そうやってこれまで何年、何十年も、議論が停滞させられて、問題が不可視化されてきたのは事実だろう。

保守系の政党の主張に押されて、今回ようやく与野党の各党が政策を出さざるを得ないところまで来た、と言える。

私も長く海外生活をしたことのある人間としてわかるが、まず大前提として、上記の諸問題やそれへの対策は、善良な一般外国人にはほとんどなにも関係がないことなのだ。

煎じ詰めれば「ルールを守ってくださいね」、「侵略的な行為には法律を整備して対処します」というだけのハナシなのである。

「排外的」と批判される意味がわからない。また、百歩譲って、場合によって排外的に振る舞うことがあってなにがいけないのだろう。

数年前に、日本人女性の旅行者が「出稼ぎ売春」を疑われて、アメリカの入国審査で拒否されることが相次いだ。※6

結局あれにしても、こちら日本側にできることはなにもなかったはずだ。受け入れ国には「好ましからざる人物」を拒絶する権利があるのだから。

最近ではアメリカ入国に際してはSNSの投稿やスマホに保存した画像をチェックされた末に入国を拒絶されることもあり得る仕組みになっている。

日本にもその権利はある。

入管法第5条〈上陸拒否事由〉

(1)保健・衛生上の観点から上陸を認めることが好ましくない者
(2)反社会性が強いと認められることにより上陸を認めることが好ましくない者
(3)我が国から退去強制を受けたこと等により上陸を認めることが好ましくない者
(4)我が国の利益又は公安を害するおそれがあるため上陸を認めることが好ましくない者
(5)相互主義に基づき上陸を認めない者

これを読めばわかる通り、これくらい漠然とした理由で入国を断ることだってできてしまうのだ。

外国に立ち入るということは、その許可とそれに伴う制限のもとに入国・滞在するわけで、その国の人々と同じ権利が自動的に与えられるわけではない。誰がどこの国に行ってもそうだ。

基本的人権(平等権、自由権社会権参政権)はすべての「国民」に保障されるべきものだが、「法のもとでの」自由や平等が守られるのであって、そもそも参政権は外国人にはない。
「外国人に基本的人権はない」と言いたいのではない。必ず制限が伴うということだ。

「法のもと」に関して言えば、我が国は出入国管理法と在留資格をかなり恣意的に、はっきり言えば、人権の名のもとに甘く運用してきた。

技能実習制度という看板をかけて実質的な労働力を外国から受け入れてきた(制度の良い悪いは措いて、言い換えによって超法規的な運用をしてきたことは確か)。

「留学」の在留資格(学生ビザに相当)で就業(アルバイト)ができてしまうという、北米ではあり得ない境界の甘さがまかり通ってきた。

永住権を取得するよりも帰化するほうが条件がゆるいという不道理※7を見て見ぬふりしてきた。

移民についても、与党はこれまで一度も選挙の争点にしないまま、気づけばぬるっと増加させてきた。※8

なかんづく隣国チャイナは、日本の防衛白書〈中国は、軍事や戦争に関して、物理的手段のみならず、非物理的手段も重視しているとみられ、「三戦」と呼ばれる「輿論(よろん)戦」、「心理戦」、「法律戦」を軍の政治工作の項目としているほか、軍事闘争を政治、外交、経済、文化、法律などの分野の闘争と密接に呼応させるとの方針も掲げている〉と述べる通り、あらゆる手段で周辺国に影響を与えようとする。

自国の一部である香港にしてきたことですら、言論の自由を奪い、被選挙権を制限し、報道機関を潰し、陰惨を極める。
日本政府は、この隣国に対しての訪日ビザの要件緩和には、相当慎重になるべきではないのか。

それに対して国民が不安を募らせて、現状に(外国人全般にではない)不快感を覚えるのは当然のことだ。ついにそれが溢れ出たのが今回の選挙であった。

それを「排外主義」のひと言で封殺しようというのはどういう了見なのか。民主主義の否定だ。

これまでもこれからも滞在や居住になんの問題もない外国人の方々と、不法に居座ったり、日本から経済的利益や情報を搾取または詐取しようという外国勢力をいっしょくたに扱おうとしているのは、人権派ヅラしたあなた方のほうだぞ。善良な外国人や外国出身の日本人たちに失礼極まりない。

「国民の声」が常に正しいわけではないし、民主主義が毎回正常に機能するわけではないのは承知だが、対話と議論を前提にしないと、国は前に進めないだろう。

外国人問題について議論して、国を進めようとする試みを「排外主義」と批判するのはもっての他なのだ。

共通する事例として、安楽死尊厳死の議論だって欧州は次々に進ませていく中、我が国では「人権」を盾になにも進ませてもらえない。これで先進国といえるのだろうか。※9

我が国がそういう未熟な振る舞いをして足踏みしている間に、デンマークはあえて強権をもって移民街のゲットーを解体して、結果ある程度の問題解決を見た。※10

寛容すぎたスウェーデンは「移民統合に問題がある」と認めて、「500万円あげるから出ていってくれ」とまでオファーする始末。※11

オーストラリアは非居住外国人による投資を目的とした中古物件購入を原則禁止した。新築物件については政府に申請が要る。※12

シンガポールは外国人の不動産物件購入には60%の税金をかけている。※13

世界の国々は自分たちの国を護ろうと、法の整備を進めている。

日本にスパイ防止法がないことは先に書いたが、諜報機関もない。

政府は一体なにをしてきたのだろう。
メディアはどこを向いて報じてきたのだろう。
スパイ防止法制定に反対の意見表明をしてきた日弁連は、誰の立場を代弁しているのだろう。※14

世界から何周遅れたいんですか、ジャパンよ?

 

(了)

 

※1 「変質した特区民泊は廃止」反転目指す自民の明言を機に火が付いた大阪の外国人政策論争 - 産経ニュース

※2  タワーマンション「空室税」 有識者会議で検討開始 神戸市|NHK 兵庫県のニュース

※3 オーストラリアの著名大学6校、「孔子学院」を閉鎖 中国政府出資の教育機関 - BBCニュース

※4 西側を攻撃する愛国的な中国人ブロガーたち - BBCニュース

※5 企業秘密をぶっこ抜く産業スパイ…元公安が教える「打つ手なし」「情報ダダ漏れ」な最悪ケースとは? | ニュースな本 | ダイヤモンド・オンライン

※6 日本人女性「売春疑われた…」アメリカへの“入国拒否”相次ぐ このまま増えれば「ESTA利用国」除外の可能性も? | 弁護士JPニュース

※7 日本人に帰化したナザレンコさん「あまりに簡単な宣誓書」「国への忠誠、軽視されている」 「移民」と日本人 - 産経ニュース

※8 令和6年6月末現在における在留外国人数について | 出入国在留管理庁

※9 イギリスで可決された安楽死法案から考える日本の「安楽死」と「尊厳死」|一般社団法人日本終末期ケア協会

※10 移民街を容赦なく解体 デンマーク左派、同化政策推進で国民不安払拭 排外主義を撃退 難民危機10年 欧州の変貌 - 産経ニュース

※11 スウェーデン政府、移民の帰還手当を大幅に増額、1人当たり最大35万クローナに(スウェーデン) | ビジネス短信 ―ジェトロの海外ニュース - ジェトロ

※12 オーストラリア、外国人の中古住宅購入を禁止-住宅価格対策の一環 - Bloomberg

※13 中国人富裕層流入のシンガポール、外国人の住宅購入に課す税率2倍に - Bloomberg

※14 日本弁護士連合会:「国家機密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」に反対する決議

「自由とか希望とか、子供とか」

昨年の2024年に生まれた新生児が68万6000人あまりで、はじめて70万人を割って過去最低を更新した。

www3.nhk.or.jp

出生率は西高東低の数値を示していて、高い順では1位沖縄、2位福井、3位宮崎、4位島根、5位宮崎。最下位は東京で、46位宮城、45位北海道、44位秋田、43位京都となっている(厚生労働省)。

ただ、「東京の人間は高い給与を得て、子供もつくらずに自分勝手に暮らしてばかり」という批判はまっとうではないかもしれなくて、元プレジデント編集長の小倉健一氏はこのように述べている。

〈この指標には未婚女性も含まれるため、結婚していない女性(主に18歳〜24歳の女子大学生や若い就労者)が多く集まる東京では、数値が異常に低く出てしまうのだ。

 人口動態をみても、就学や就職のため若年層が東京都に転入する一方で、30代〜40代前半の子育て世帯が転出する傾向にあることは明らか。子育てを始めるまでは東京にいて、子どもが生まれると地方へと転出している。

 その点を無視して、「都市部の出生率が低いから少子化が進んでいる」という論は不適切である〉

diamond.jp

また、〈少子化の改善や経済成長を考えるなら、人材や投資については、むしろ東京への一極集中を加速させていくことが大事だろう〉とも主張していて、私はそこに関しては意見を異にする。

私は、東京一極集中こそが日本をつまらなくさせている一因だと思っている。が、それは人口の多寡の話ではない。情報やお金が首都圏に一極集中することによって、日本の価値観がのっぺりと東京色になっていくことが、全体にとって果たしてよいことなのか、と問うているのだ。

関係ないけどこの前EXPO行ったので…

私は東京で生まれて、アメリカで大学教育を受けて、大人になってからは大阪と奈良に住んだ。インドネシアとカナダにも長期滞在して仕事をしたことがある。

東京は故郷(家族がいて、同級生がいる)という観点では好きだけど、住みたいとは思わない。

日本は大戦に敗けて以来、アメリカ型の経済社会を形成してきた。
それは『弱さ考』で井上慎平氏も〈いかに「アメリカのふつう」が「ビジネスのふつう」になっているかについての驚きを共有したかった〉(P169)と論考しているが、日本人の生き方とアメリカ人のやり方の間に歪みが生じていて、現代の人たちが感じる苦しさにつながっている。

それはアメリカのキツいところばかりをマネしようとして、やさしいところ、豊かなところを採り入れようしてこなかったことにも起因している。アメリカのやさしさと豊かさとは、まさに「多様性」である。

日本社会のような「多様性を口にしながら考え方のちがう人間を排除していく」偽善的な態度ではなくて、本当の意味で「いろんなやつがいて、いろんな考えがある」事実が何事においてもベースにあることだ。

だから、アメリカにはどの地方都市にも、そこに誇りを持つひとたちがいて、北部には北部の、南部には南部の、都市には都市の、田舎には田舎の、価値観やライフスタイルがある。そして、そこには良い悪い、上下の観念が絡まない。

言うなれば、都会に関してはアメリカには地方都市しかない。「中央」は分野によって異なる。政治ならワシントンDCだし、映画ならLAだし、芸術ならNYだし、重工業や物流ならシカゴ、カントリー音楽ならナッシュビルが「中央」となる。普段の中央は「おらが村」だ。

田舎と都市という基軸で見ても、田舎は都会を羨ましがっていないし、都会は田舎を見下している観はあるにしても、田舎側は屁とも感じていない。田舎こそがアメリカの「中央」であるという誇りすらある。

タイパだ、コスパだ、レジリエンスだ、インクルーシブだ、リスキリングだという「東京的な」言葉使いに基づく旗振りは、「結婚して子供を何人か持って、家族を大切にして暮らそう」というスタイルと嚙み合わなくないか? 

結婚なんてコスパ悪いよ? 子育てなんてタイパめちゃくちゃじゃない?

もっといえば、東京発のマスメディアや企業社会がつくり上げてきたような、「加害者にならないことが至上」で、「失敗してはいけない」、「逸脱してもいけない」社会規範が、若い世代の彼ら彼女らを恋愛や結婚や子育てから遠ざけているのではないか。

若いひとたちを見ていると「ひとを傷つけることにこんなに臆病なんだ」と驚かされることがある。

先日も、匿名のブログで「ヤリチンを始めて、やめた」というコラムを読んでそう感じた。要するに「自分が傷つくことと、他者を傷つけることが怖くてプレイボーイになりきれなかった」ということで、著者自身は最後に「コスパ」にまで言及している。

anond.hatelabo.jp

恋愛すると傷つくし、結婚すると失敗(相手への不満が募る)するし、有名人の事例を眺めていると逸脱(不倫)したらそこまで社会的に抹殺されちゃうの? とそりゃあ、なにもかも面倒くさくなっちゃうよな。

そういう、責任を負いたくなくなる社会を、我々大人たちが築き上げてきたんだから、問題は根深いよ。

失敗したくないから、子供の教育費はたっぷり必要なのだろうし、安全や健康のためにはアレにもコレにもお金がかかるだろうし、と考えていったらキリがないのだけど、少子化は経済の問題だけでは解決は望めないと思う。

出産費用無料とか不妊治療の保険適用とかは、「なんで今までそうしてこなかったの?」「子供は国の宝なんだろ」と、自民党国会議員とかの襟首をねじり上げてやりたいけど、もっとビンボーだった時代に、人々はあんまり深く考えずに子供を四人も五人も育ててきていたのだから説明がつかない。

それをいまは考えちゃって、グーグルとかAIとかに訊いちゃって、将来のリスクと自身への報酬を精査しちゃって、加害も被害もダメ絶対、なので、結果こうなったとしか言えん。

国がいくらがんばっても、お国のために子供をつくろうなんて時代じゃないし、そんなひとはいないはずなので、みんな自分の好悪や損得に照らし合わせて生きてきた末に、このようになってしまっただけなのだ。

我々、いわゆる氷河期世代を棄民のように扱ってきた政治のせいでもある、とははっきり言っておきたいが、それだけではなかろう。

私自身もそうだが、私の友人には子供のいない夫婦が多い。そんなプライバシーを根掘り葉掘り尋ねたことはないが、おそらく、朝起きて晩まで働いて、疲れて家に帰って、そのときちょうど奥さんのほうも帰宅していて、ちょうど時間が合って、お互いにちょうどセックスしたい気持ちと余分な体力があって、そのときがちょうど妊娠に適した日だった、という何万分の一の確率の日に出くわさなかったのだろう。

女性の社会進出と少子化の関連はある。立命館大の筒井淳也教授は〈日本企業の基幹労働力として採用された者は、「職務内容」「勤務地」「労働時間」という三つの「無限定性」を受け入れることを要求されます〉として、共働きでの子育てのしづらさを指摘している。

www.ritsumei.ac.jp

今さら時間は遡れないので、少子化に打つ手はあるのか、と考えてみるなら、企業が社会に与えてきた影響を修正していくことからはじめるのが適切だろう。

要するに、これまでやってきたような働き方改革とか育休とか子育て家庭への仕事の分担調整は進めてほしいと思う。ちゃんと未来に希望が持てる給料を払ってほしいし、マシーンではなく人間が働いている前提の職場や社内制度をつくってほしい。

でもそれも弥縫策に過ぎないのかもしれない。

 

もっと本質的で、でもきっとどーせ受け容れられないであろうことを言うなら、多夫多妻制のようなことにして、つまり「お金持ちがたくさん妻/夫を持てる社会」になれば子供は増えるだろう。
お金持ちと呼ぶと誤解を生むから言い直すが、生殖能力と生活能力と子供を持ちたい意志があるひとたちみんなである。

あの政治家もあの司会者もあのコメディアンもあの経営者も、実際にお金持ちは家庭以外のあちこちに子供を持っているわけだが、「隠し子」という言葉がある通り、隠されていて子供本人は気の毒である。人権侵害である。
もうそんな時代じゃないだろう。それこそインクルーシブにいこう。

つくれるひとがつくる。育てられるひとが育てる。結婚したくないひとはしなくていい。
それでも子供を持ちたいならどうぞ産んで育ててください。養子でもいい。何人でもどうぞ。

政治家の仕事は、その子らが(相続や人権上)不当な不利益を被らないように、スピードをもって制度を現実に適合させることである。5年も10年も議論すんな。

いま(国民からの許可も支持もなく)やろうとしている安易な移民推進は必ず国を分断して崩壊させるだろう。

日本が成熟して、「いろいろなひとがいる」という多様性を受け容れて、婚外子であろうが、第二妻、第三夫であろうが「そういうひともいる(けど、私はちがう)」と干渉しないくらい、ちゃんと大人の社会になることができれば、子供は増えるかもしれない。

上位数パーセントの富豪たちが子供をこさえても、全体からすれば微々たるものなのだけど、なんか息苦しい社会をつくっちまったから、子育てとか不安ばっかだし、精子だって元気に飛びまわらないのだ。

自由とか希望とか、そういうおためごかしみたいな、でも現実を生きていくためには大切な言葉が、いま気持ちの中に足りてないのだ。

「自由」の正しい使い方を実践して、その上で自分たちを育ててくれた国や地域に敬意と連帯感を持てるような教育を推進すれば、「ここで子孫を残したい」と考えるのは、人間として生き物として自然なことではないだろうか。

メディアもプライバシーを暴いて一方的な価値観を押しつけないし、企業も差別をしないし広告を引き上げないし、教育も地域愛や愛国心に基づいた教員が担い、匿名のお前らも無関係な人間に対して誹謗中傷をしない。本人らは誹謗中傷しているつもりがないのが根本的な大問題なのだが、勝手な正義感を振りかざさない。それが実現できれば、子供も増えるし、大人にとってもより住みやすい日本になるだろう。

夢かな、ボクはいま夢を見ていたのかな…。

少子化を見つめたら、我が国の問題や恥部がよくわかりましたね。

わかったなら、ワタシを有識者会議とかに交通費・弁当付きで呼んでください。

「アメリカ南部ひとり旅③(ロブ篇)」

ジェイソンと別れたあと、私はもう二度と来ないかもしれないキャンパスを(来ると思うけど)クルマでもう一周だけして、そこからおよそ80マイル北上した。ノースキャロライナ州からバージニア州に入り、バージニアビーチに宿をとった。

すっかり陽は暮れ、夜になると標識の文字や数字が見えにくくなって困った。

アメリカの高速道路の出口には数字が振ってあり、大変わかりやすい。たとえば「86」で出るとわかっていれば、「84、85、さて次だ」と予測ができる。

インターステイトは95号など奇数なら南北、20号など偶数なら東西に走っているため、これも親切だと言える。考えたひと、本当にえらい。

バージニアビーチは一応リゾート地なので、BARを探してバーボンでも飲ろうと思っていたが、ホテルにチェックインしてみると、どっと疲れを感じてしまい、どこにも行けなかった。しかも2月という季節外れなので、きっと店も開いていなかったはずだ。

翌日は朝日に輝く大西洋を眺めてから、朝食を求めて散歩してみたが、目当てのレストランはやはり開いていなかった。仕方なくサブウェイで食事。

Virginia Beach

バージニアビーチは、ノーフォークとチェサピークという街が隣接していて、このあたりの海は軍港なのである。軍事航空博物館を見物したあと、さらに戦艦ウィスコンシンを見学に行った。

ウィスコンシンは日本軍とも戦った戦艦

 

 www.militaryaviationmuseum.org

 

nauticus.org

約700マイル(1120km)運転したレンタカーをノーフォーク空港で返却するときがきた。
その前にガソリンを満タンにしなくてはいけないので、空港手前のガスステイションに入ったら、どうも物騒な界隈だったようだ。昼間から身なりのよくない黒人のおっさんらがウロウロしている。
さっさと済ませて出ようと思ったら、機械がクレジットカードをうまく読み取らない。ここで何度も試して時間を使うのはおっかなかったので、次のステイションへ移動。

わざわざ人種を書くのはポリティカリー的にコレクトではないのだろうが、悪いけど危機管理として、やはり怖いものは怖いぞ。

 

フロリダ州タンパへ飛ぶ。

ジョージア州アトランタサウスキャロライナ州チャールストンノースキャロライナ州マーフリースボロ(大学)→バージニア州ノーフォークと旅してきたが、5つ目の州、フロリダのタンパが最終目的地となる。

ここでは長年の親友、ロブがオランド空港で拾ってくれて、タンパの自宅に泊めてくれる。

ロブとはケンタッキーの大学で知り合って、30年近くずっと付き合いが続いている。それでも、彼が日本に私を訪ねてきたことはなく、いつも私が会いに行く。非常にアメリカ人らしい。
アメリカ自体にな、見どころが多すぎて海外に行く必要がないんだ」と言って憚らない。彼が行ったことある外国は「カナダとバハマ」。
「それはカウントに入らん」と、いつも私が言う。

そんなロブとは、間にコロナ禍なんかもあったし、彼がケンタッキーからフロリダに引っ越したこともあり、実に10年ぶりの再会となった。

①で述べた通り、今回の旅はもともとはロブがついに日本に来るというので待っていたら、仕事の都合で延期したため、私のほうからフロリダまで出向くことにして、それならいっそポールやジェイソンにも会ってみよう、と計画が膨らんでいったのである。

タンパでの2日間は、太平洋戦争の時代にも活躍した巨大商船アメリカン・ビクトリーの中を歩き回って人間が造る構造物の偉大さに感心したり、思いがけず野球の試合観戦ができたりしてうれしかった。

www.americanvictory.org

シーズン中ではないからあきらめていたのだが、タンパでは東部のMLB各チームが春季キャンプを行なっていて、ボルティモア・オリオールズデトロイト・タイガースのオープン戦を観に行くことができたのだ。

キャンプ地の球場は小さいので、打撃音までよく聴こえて、ゲームの雰囲気をたのしめた。しかも、前日は珍しく雨だったが、この日はフロリダらしい陽光を浴びることができた。

前日の雨の様子

その晩は、こちらは約20年ぶりに会うKCという友人も、フロリダの別の町から駆けつけてくれて、いっしょに晩メシを食べることができた。

 

さて、フロリダにて、この旅の最大の目的を果たすことができたので以下に報告する。
ちょっと長くなるがお付き合いください。

2010年にロレックスがサブマリナーというスポーツモデルの緑色を発売した。これはベゼルもフェイスもグリーンで、見る角度によって濃く見えたり薄く輝いて見えたり、大変美しいものであった。
私は当時これを購入した。

10年間か15年間くらい私が使用して、いつかロブに贈ろうと考えたのだ。
その年、ロブに息子が産まれた。名前をローナンという。
ロブはアイルランド系なので、グリーンが好きである。
そういうふたつの理由で、この時計は彼にぴったりではないかと私は思ったのである。

私から受け継いだロブがまた十数年間使って、ローナンが結婚とか就職とか、大人になったと認められるときに譲れば、素敵ではないか。
そんな夢想をしていたら、いつの間にか、ほんとうに15年が過ぎてしまった……。

私はこの時計を10年前にカナダでカウボーイしていたときにも腕にしていた。

私自身も気に入っていたが、私の番は終わってしまったのだ。

「ロブ、ちょっと、渡したいものがあるんだ」
私はロブに、時計を差し出して、この15年がかりのストーリーを話した。

彼はよろこんでいた。
「え、マジで。ほんとにいいのか」みたいな、ふつうのリアクションだったが、いつかローナンに、というところまで含めて、歓迎してくれた。

ハタチ過ぎで知り合ったオレたちが、もう50手前だよ。信じられるかよ?

想像及び期待していたようなイッパシの大人にはなれていないけど、もうそろそろ、ひとつの長い章を終える支度みたいなものをしなくてはならない自覚はあるんだ。
老いるつもりもまったくないのだけど、なにかを誰かに差し出したり、次に受け渡したりするようなフェイズであることは感じ取っているんだ。

それがなになのかよくわからないのだが、ひとまず15年かかって、時計は渡すことができた。

これにて、ミッション・コンプリートだ。

ロブの家には子供たちが4人いて、犬が2頭、ネコが2匹いて、フォルクスワーゲンが4台あった。
ロブ曰く、「ふだんは、仕事に行って、帰宅して子供たちの世話をして、寝て、また仕事に行くだけだから、こんなふうに遊んだのは久しぶりだ」。
子供が5人いるポールも同じようなことを言っていたから、アメリカ人の日常生活というのは実に地味なものなのだろう。

ロブには、空港への送り迎えから寝床からメシから観光まで、ホントなにからなにまで世話になってしまった。

ありがとう、マイビッグアメリカンブラザー。
また会おうぜ、ロブ。

 

(了)

「アメリカ南部ひとり旅②(ジェイソン篇)」

ポールと会った翌日からはロードトリップに出た。ジョージア州の大都会アトランタから、高速道路を東へ東へおよそ300マイル(480km)運転して、サウスキャロライナ州チャールストンへ向かった。

とにかくアメリカ人ドライバーは飛ばすひとが多いので、制限速度の65マイルや70マイル(112km)で走っていても、ビュンビュン追い越されていく。私が借りたレンタカーは三菱ミラージュという小型車なので、70マイルくらいが快適に走れる限界で、長いトレイラーを追い越そうと時速80マイルも出すと、横風の影響を受けて怖いし、ステアリングを握る手に力が入ってしまう。

カントリーミュージックを聴きながら、クルマを二本の線の間に保つことに集中して道の先へと進む。ゴルフのマスターズで有名なオーガスタという街を過ぎて、インターステイト20号を降り、小さな町をいくつか通過しながらハイウェイを走って、最後はまたインターステイトに乗って26号を終点まで行く。

宿泊したのはさらに北へ50マイルのジョージタウン

チャールストンは大西洋に面した海の町である。19世紀以前の雰囲気を残したオールドタウンだ。
なぜここを旅の目的地のひとつに選んだかというと、南北戦争の開戦の地となったサムター要塞があるからだ。

ここでカンタンに南北戦争について解説する。いかなる戦争もカンタンに説明することはできないのを承知で、ごくごく端的にご紹介する。

南北戦争というのは、英語ではAmerican Civil Warとか、Civil Warと表記される。シビルとは「市民の」「一般市民の」とか「国内の」という意味である。
アメリカ合衆国はThe United States of Americaのことだが、この戦争が勃発するふた月ほど前に、南部の7州(最終的には11州)が合衆国の連邦政府から離脱して、南部連合=The Confederate States of Americaを形成していた。

つまり、連邦vs.連合の戦争である。

これを南北戦争と翻訳したひとは、じつにうまいことわかりやすく訳したものである。ただし、英語で言うときに「えーと、ノース・サウス・ウォー?」となってしまうから注意が必要だ。

工業で発展していった北部と、奴隷制を基盤にした綿花やたばこ葉栽培の農業主体の南部が、経済格差や人権への考え方の相違によって分裂してしまったのだ。

いまも共和/民主のアメリカ社会の分断が論じられているが、アメリカはその歴史を通じて、人種、戦争、銃器、共産主義などの諸問題を通じて常に分断されてきた。その最悪の例が、南北戦争であった。

南北戦争は文字通りアメリカが経験した最悪の戦争で、以降の一次、二次大戦、朝鮮戦争ベトナム戦争でのアメリカ人の死者を足し上げても、南北戦争での死者62万人には達しない、と云われている(アトランタ歴史センターによると、民間人の死者も含めると67万人)。

それくらい強烈な戦争だったのだが、北軍を率いたグラント将軍や南軍のリー将軍をはじめ、多くの将校はウエストポイント陸軍士官学校での同窓だったり旧友だったり、人間をつぶさに見つめてみると、各人の決断や人生の機微になんだか魅かれるものがある。

日本人が戊辰戦争の哀しさや厳しさにいつまでも心打たれるのに共通した感情が湧き起こるのである。

1861年4月12日に、南部連合デイビス大統領の命令により、サウスキャロライナ州の兵士たちが、人工島の基地であるサムター要塞への砲撃を開始した。小さなサムター要塞は二日で陥落するのだが、そこから本格的な内戦に発展し、バージニアテネシージョージアなどの各地で大戦闘が繰り広げられることになる。

特に、私がその朝までいたアトランタ北軍から徹底的な焼き討ちに遭い、そこから東へ向けてジョージアの町々が壊滅させられていく。映画『風と共に去りぬ』で描かれた惨劇である。

今回、私は海に面したビジターセンターから辛うじて小さく見える要塞を眺めただけで、フェリーでのサムター観光まではしなかった。

Fort Sumter Visitor Center

もう一ヵ所、寄りたい場所があったので、先を急ぐ必要があった。旧奴隷市場博物館である。

 

 oldslavemartmuseum.com

 

 

前述の通り、チャールストンは海の町なので、アフリカから連れてこられた奴隷たちがここで買い手から品定めされるという、まさしく「ショウルーム」がこの建物だったのだ。

MARTというのがすごいだろ

ちなみに奴隷ひとりは19世紀当時の価格で何千ドルもしたそうなので、現代にたとえるとトラクター1台を買うような大きな買い物ではあったようだ。
そして、南部の農家の中でも奴隷を所有できたのはごく一部の富豪だけであった。

そうであったにしても、人間を道具として、商品として、所有物として、売り買いするビジネスがここで行なわれていたという事実に慄然とする。

特に、奴隷たちを輸送したときの様子が描かれた、寝台とは呼べない、棚のようなスペースに彼らを並べて積んだ状態には胸が痛んだ。寝返りも打てないだろうし、夜半のトイレなどはどうしたのだろう、と……。

白人の野蛮性、残酷性に背筋が寒くなる思いがした。悪いけど、ひと事のように「白人の」と書かせてもらう。人類の歴史など、知れば知るほど白人の横暴の記録だし、それはどこかで現在でも遍在している。私は憚ることなくそう考えている。

 

もちろん、集団への評価をそのまま個人に転嫁することはできなくて、私はつぎの目的地でもアメリカ人の友人に会いに行く。

翌日も300マイルのドライブだ。サウスキャロライナからノースキャロライナへ。

私はこの旅を急遽計画することになった際、ジェイソンに手紙を書いていた。彼は、私が90年代半ばに学んだ小さな大学で出会った友人で、テニスチームでいっしょだった。

週末にコーチ(監督)の運転するバンで遠征に出かけてモーテルに泊まったり、そこでキャンパスの誰がかわいいとか話し合ったりといった、古い思い出を共有している。が、1997年の卒業式以来、会っていない。
会っていないどころか、当時はまだインターネットが普及していなかったから、住所をメモ帳に残していた以外、連絡先もわからなかった。

それは彼の実家の住所なので、ご両親が健在なのか、その住所の場所にまだ住んでおられるのかまったく不明だった。とにかく、エアメールを手書きして、私の連絡先などは見誤りのないようにタイプして、私がその土曜日に大学を卒業以来はじめて訪ねること、約30年ぶりに会えるとうれしい旨を綴って郵便局から送ってみた。

前回登場したポールは苗字が珍しいのでフェイスブックで見つけることができたが、ジェイソンはジェンキンスという比較的ありふれた姓なので、たくさんのジェイソン・ジェンキンスがいて、特定できなかったのだ。

彼からは私が日本を発つ水曜日の朝に返信のEメールを受け取った。私からの連絡をとてもよろこんでくれていたし、いまでも近隣に住んでいるそうだが、そのときはインフルエンザで寝込んでいて、土曜日に大学まで会いに行けるかわからない、とのことだった。

ジェイソンは私がジョージアにいるときも、サウスキャロライナにいる間にも体調を連絡してくれて、当日の朝になって「(快復したので)行けると思う。午後1時でいいか」と言ってきた。

そのとき私はまだ百数十マイルも手前を運転中だった。「いや、ちょっと遅れてる。2時にして」

今日はインターステイトではなく、ハイウェイ11号で北上していた。前者は州間高速道路で、信号がなく速度が速い。後者は町々をつなぐ道路で、郊外では速度はそれなりに速いが、町中では信号がある。

見知らぬ小さな町から町を通り過ぎながら、90年代からそう変わらない、キャロライナの景色をたのしんだ。

大学の町が近づいてくると、ちょっと胸に迫るものもあった。18才の私が、わけもわからずアメリカの東海岸の大学にやって来て、言葉の壁はもちろん、さまざまな劣等感や将来への不安とたたかいながら生きた場所なのだった。そこにおよそ30年の月日が流れたのだった。

いろんな感情が入り混じって、どう表現したらいいのか、言葉にできない。
いや、しなくては旅コラムにならないのだが、言葉にできたところで、本人である私以外の誰にもわかりはしまいとも思う。

大学のメインの建物の前にクルマを停めて外に出ると、すぐに声がした。

「ショータ!」

ジェイソンと再会をよろこび合ってハグをした。それから2時間くらいかけて、懐かしいキャンパスをいっしょに歩いて回った。

私は寮からこの池の前を通って授業に通った。光っているのは噴水

「テニスコートが新しくなったんだよ」とか、「大学のチームの名前が、ブレイブスからホークスに変わったんだ」とか、「スポーツは結構強くて、今日もバスケの大きな試合があるからみんなスタジアムに行ってるはず」とか聞きながら、ひと気のない敷地内をふたり占めした。

「ショータ、覚えてるか? お前がテニスの遠征にシューズを忘れてきたこと」
「いや、覚えてない。で、試合はどうしたんだ」
「確かコーチの靴を借りて出場したけど、大きくて困ったとか、そんな感じだったはず」

忘れ物落とし物失くし物の三冠王である私は、当時からひどかったようだ。

「それから、遠征で泊まったモーテルで、お前が有料ポルノビデオのチャンネルをつけて、翌朝コーチから『誰だ!w』って叱られて……」
「それも覚えてない!」

まったく、私は恥ずかしい青春時代をアメリカで送っていたようだ。

ふたりで図書館に入った。二階の奥の部屋で、イヤーブック(その年の学生たちとキャンパスの様子を記録した、日本でいう卒業アルバムみたいな本)を見つけて開いた。

「これ、誰だっけ?」

ジェイソンがひとりの黒人学生を指した。
「えーと、……アントワン?」
「そうだ! アントワン・フィーニックス!」
「うおぉ、アントワンの名前が30年ぶりにオレの口から出てくるとは思わなかったわw」

それからしばらく、ジェイソンと「こいつはいまどうしてるかな」、「彼、覚えてる?」、「彼とは友達だったわ」などとページを繰りつつ、回想に耽った。
そして、結局は「このコ、かわいかったな」、「そうだ、このコもかわいかった」と、昔とまったく同じようなアホ学生の会話をした。

ジェイソンもSNSで私のことを捜そうとしたことがあったという。しかし、漢字はともかく、アルファベットにしてしまうとShota Maedaもわりとありふれた名前なので、やはり見つけられなかったそうだ。

本当に、また会えてよかった。

私の人生の中で、外国に友人たちがいるというのは、大きなよろこびのひとつである。それは若いころに英語を学んで、上記のように恥をかきつつ、この大学では円形脱毛症にもなりつつ、どうにか生きてきた証のようなものなのだ。ある時期に、ある場所で、彼らと人生が交差して、離れて、また交わることができた。

ありがとう、インターネット。

ジェイソンは卒業直後に結婚した女性とはうまくいかず、いまは6年ほど別のひとと住んでいるという。彼女は馬が好きで、他人の分も合わせて5頭も敷地で飼っていて、自分たちはキャンパー(トレイラーハウスのこと)を家にしている。
今度はそっちにも訪ねたいものだ。テントを持ってきてもいいし。

カネも時間も余っているわけではないのに、この旅を実行して本当によかった。
また会おうぜ、ジェイソン。

(旅はつづく。つぎはフロリダ州タンパへ……)

「アメリカ南部ひとり旅①(ポール篇)」

さまざまな行きがかり上の要因によって、2週間前に航空機を手配して、アメリカに行くことになった。実に五年半ぶり。大人になってから、こんなに長い間、海外に行かなかったことはない。

もともとは、この冬に、アメリカ人の親友であるロブが日本にはじめてやって来ることになっていて、それとは別に、インドネシア人の友人もはじめて日本を訪れる予定だった。それがふたりとも仕事や家庭の事情でキャンセルになった。

「なんだよ、もう……」と、連中のだらしなさに私は呆れて、アメリカをこちらから訪ねることにしたのである。

旅というのは、神様がいて、行けるときには「行ってこい」と背中を押してくれるし、行けないときには力を貸してくれない。そんなものだ。今回は、私が旅の神様に味方してもらったのだろう。

旅の計画はやや面倒だったが、国際線の航空機以外にも、レンタカー、国内線航空券、ホテル、友人たちとの約束を定めていって、行きたい街や施設をひとつひとつ決めていった。

今回訪ねたのは、

ジョージア州アトランタ
サウスキャロライナ州チャールストン
ノースキャロライナ州チョーワン大学
バージニア州ノーフォーク
フロリダ州タンパ

ということになる。

アメリカには近年なら2014年、15年、17年、18年、19年に渡航しているのだが、西海岸が多く、東海岸側には何十年も行っていない。中でも、私がウェスタンケンタッキー大よりも前に在籍していたNC州のチョーワン大学は1997年の卒業式(履修は96年12月だが、式は97年5月に春と秋の学期をまとめて行なわれた)以来、一度も訪問していない。

今回、せっかくの機会なので当時の友人たちにも会ってくることにした。

まずはアトランタのポールである。

彼はチョーワン大学で出会った、私のはじめてのルームメイトだ。ポールはカンボジア系の移民二世で、アトランタ近郊で生まれ育った。

私があてがわれた大学キャンパス内の寮はパーカーホールといい、左隣りの部屋はドイツ人留学生で寮の世話係(ホールダイレクターと呼ばれた)も務めたトーマスで、右隣りは日本人の先輩たっちゃん(先輩だが私はたっちゃんと呼んだ)で、彼のルームメイトはタイ人のトンだった。

要するに、留学生が集められていたフロアだったのだ。そこにアジア系とはいえ、歴としたアメリカ人のポールがいたというのは、当時の大学のええ加減さで笑えるのだが、現代だったら人種差別として問題になっていたかもしれない。

とにかく、右も左もわからない私は、壁のブロックに直接白いペンキを塗った刑務所のような部屋に、ポールと住んだのだ。

ポールはまだ英語もちゃんと話せない(いまでもちゃんとしているかどうかは怪しいが)日本人留学生の私にとても親切にしてくれた。わからないことはまず彼に訊いたし、英語のことやアメリカのことを彼から多く教わった。

キャンパスの裏の池でいっしょにボートに乗ったり、テニスをしたり、若者らしい遊びをしたが、私がいまでもジムに通って筋トレしているのは、彼の影響でもある。ポールは高校時代から体を鍛えていたようで、アジア系男子にしては立派な筋肉をしていた。

私は筋トレというのはスポーツ選手が必要に迫られてするものだと、なんとなく考えていたので、筋肉が男の存在に与える影響や、精神に及ぼす効果については、のちに知ることになる。

はっきりとポールのマネをしてはじめたわけでも、彼に教わったわけでもないが、筋トレをはじめたときに「そういえばポールはしていたな」と意識はしたはずだった。

ポールには当時、ブリジットという白人の恋人がいて、私が部屋にいないとすかさずセックスをしていた。授業から寮に戻ると、ドアに「ショータ、しばらく時間をくれ」などと貼り紙がしてある。

これはもう「いまセックスしています」と貼り紙しているに等しいようにも思えるのだが、私は私で、「もう、しゃーないな」と特に腹を立てるでもなかった。ただ、彼女の体臭がわりときつくて、行為のあとの部屋に入るのは閉口させられた。

一度なにかの拍子に、「ヒマさえあればセックスしやがって!」みたいにからかったところ、思いのほか落ち着いたトーンでふたりから説教の返り討ちに遭った。

「セックスはね、素晴らしいことなの。お互いを理解し合うこと、いたわり合うこと、愛情を表現することなのよ」

うるせえよ。当時童貞だった私には「うるせえよw」だったのだが、アメリカ人というのはかくもセックスをまじめに捉え、堂々と語り、称揚するものなのかと面食らった覚えがある。

 

私がアメリカで大学教育を受けた90年代はまだインターネットは普及以前で、もちろんSNSなどなかった。だから、よほどの筆まめでもない限り、一度別れると関係が途切れてしまうことがふつうだった。

ポールは私より先にチョーワンを離れて、ノースキャロライナ大に転入していくことになった。

そのときには私は彼との二人部屋を出て、別の寮で一人部屋に住んでいた。

彼が最後の日にわざわざ私の寮まで挨拶しに来てくれた日のことはよく覚えている。よく覚えているのは、ちょっとした後悔がそこに絡んでいるからだ。

私はその日、昼寝をしていて、彼からのノックで起こされた。そのためややぼーっとしていたのだ。

ポールは「明日ここを出ていく」と告げたのち、このように言った。

「俺たちが離れたら、もう二度と会うことはないかもしれないよな?」

寝起きだった私はそのとき、むにゃむにゃと口ごもりながら、「え、いや、そんなことないんじゃない? また会うよ」と返したように思う。だけど、私としては、あのとき、なぜ、もっとハッキリとした口調で、断定的に、

「いや、きっとまた会おう。きみと出会えてよかった。いろいろ世話になって、ありがとう。またいつかな、ポール」
と、感謝とともに伝えることができなかったのか、と悔いていたのである。

時は流れて、2016年。フェイスブックで彼を見つけた。ポールの苗字はサイングという(カンボジア系の)珍しいものだから、間違いなかった。

そこからはフェイスブック上での付き合いは復活したが、今回ようやく実際に会いに行った。たぶんあの、寝ぼけながら別れた日が96年だから、29年ぶりかな。

ポールはいま、アトランタ近郊で、住宅ローン会社に勤め、編入先の大学で出会った(ブリジットではない)白人女性と結婚して子供が五人いるという。

ジョージア州で私が行きたかったストーンマウンテンに、彼の運転で連れて行ってくれた。アトランタの街から出たあたりにある巨大な岩のレリーフで、南北戦争のときの連合軍(南軍)のジェファソン・デイビス大統領、ロバート・リー将軍、勇将トーマス“石壁”ジャクソンが花崗岩の一枚岩に彫られている。

私の今回のひとり旅は、古い友人たちに再会することをテーマにしながら、南北戦争の博物館や史跡を訪ねることも裏テーマとして設定してあった。だから、ここは是非訪れたい観光スポットのひとつだったのだ。

ポールと岩山の頂上まで登ってみた。標高513メートルで、駐車場から30分くらいで登れるのだが、その日は寒い一日で最高気温が0度。木々がある途中はマシなものの、平たい頂上部に出ると風が強く吹いてたまらんかった。長居はできない。

ひとまず満足して、晩ごはんの店を探しに、ポールのレクサスでアトランタの街を走り回った。ポールは外食することが稀で、飲み歩く習慣もないそうだ。

私なら、外国から友人が来るという場合、大阪のキタならあのへんはどうだろう、ミナミならあそこがいいし、あのBARにも連れて行ったろかなとアイデアが湧いて出るはずなのだが、そこは事情がちがう。

結局、私がグーグルして見つけた、ホテル近くのおしゃれメキシコ料理店に入った。

食べながら、私は冗談のつもりで、「なんだポール、きみは飲みにも行かんし、煙草も吸わないし、なにがたのしくて生きてるんだ?」と言った。

ポールは低い調子で、大真面目に答えた。

「俺は、妻と同じ価値観を共有している。同じ人生のゴールを見ている。そして、同じ宗教を信じている」

もしかして、むっとさせたのならスマン。冗談や、冗談。マジメか。

いつぞや、ふたりがかりでセックスの素晴らしさについて滔々と説かれた日を、私は思い出した。ポールはマジメなんだなぁ。

奥さんをそこまで愛していて、五人の子供を育てながらレクサスに乗っている。マジメなひとってすごいと思った。

私は大学の寮に、ポールが別れの挨拶に来た日のことを彼に話した。

「……だから、もっとちゃんと言いたかったんだよ。『また会おう』ってさ。見ろよ。30年くらいかかったけど、会えたじゃん!」

テラス席を囲う防寒ビニールが、古いガラス窓のように夜の景色を歪ませて映す。瓶入りのコロナは軽々と喉をすべって胃に消えていく。しみじみといい夜だった。

「子育てももうすぐ終わるし、そうしたらジャパンにでも旅行したいって、妻と話していたんだ」

いいね。また会おうぜ、ポール。

(旅はつづく。次回はサウスキャロライナ州チャールストンへ……)