月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「ワタシは差別をしない」という人間こそ、私は軽蔑する

今季からドジャースに移籍した大谷翔平選手はスーパースターである。ここに疑問の余地はない。彼がどれだけスゴイ野球選手なのか、いまさら説明する必要もないだろう。

シーズン開幕前のいま、日本では、彼のキャンプでの姿やコメントのひとつひとつが報じられ、結婚発表のときには大騒ぎとなった。

だから、我々は大谷サンが世界的に有名であると思い込んでしまうが、そうではない。

ここにモーガン・ウォレンというカントリー歌手がいる。
彼の3rdアルバム”One Thing at a Time”が全米のオールジャンルのビルボードチャートで19週連続1位となり、ガース・ブロックスが1991年に名盤”Ropin’ the Wind”で打ち立てた記録を抜いたと、ニューヨークタイムズ紙ですら報じている。

www.nytimes.com

ガース・ブルックスを知らないアメリカ白人はいないし、私からすれば「あの『ローピン・ザ・ウィンド』を抜いた」と耳にすれば、モーガン・ウォレンの『ワン・シング・アト・ア・タイム』がいかに好評なのか驚きとともに得心する。

でも、みなさんからしたら、なんのこっちゃわからないでしょ?

大谷サンもそうなのだ。北米においても野球に興味がない層からしたら知らないひとであるはずだ。

 

先般、アカデミー賞の授賞式において、助演男優賞を受賞したロバート・ダウニーJr.が、トロフィーを手渡す役割だったキー・ホイ・クアンを無視して、奪うようにそれを手にし、直後にティム・ロビンスとは握手をし、サム・ロックウェルとはフィストバンプをした。受賞者名が書かれた紙を渡そうとするクアンを二度も無視する様子すら映し出されている。

主演女優賞を受賞したエマ・ストーンも、ミシェル・ヨーからは受け取らず、わざわざジェニファー・ローレンスのところまで掴んだ像を引っぱってきて、彼女から受け取ったように見てとれる。

このふたりの白人俳優が、同業のアジア人をまるで眼中にないかのように振る舞ったことが、「アジア人差別」であるとして話題になった。

www.usatoday.com

ここから「なにを思ったらいいのだろう」と私は考えた。

ロバート・ダウニーJr.とエマ・ストーンを指さして「人種差別主義者!」と批判すればいいのだろうか。
彼らの出演する作品を今後ボイコットするべきなのだろうか。

まぁ、これがいまふうの、最も簡単かつ、浅はかな人間がやることだ。

そうじゃない。

私がまず思ったのは「ひとは差別をしてしまうものであることを知る」ということである。

ここで言う、「ひと」はひと事の「ひと」ではない。私であり、あなたであり、誰しものことだ。

毎度言う喩えだが、道の向こうから浅黒い肌の東南アジア系の女性三人が歩いてきたとしても、私は怖くない。しかし、黒人の男三人であったなら、恐怖を感じる。

いきなり掴まれて殴られないだろうか。カネを脅し取られないだろうか、と警戒する。

さっと距離を空けて歩くかもしれないが、実際にアメリカの街でそういう状況になったときには、私はなおさら意地を張って、彼らを避けずに堂々と歩いた。

怖かったからだ。怖かったからこそ、「ナメんじゃねえぞ」と意地を張って、避けずに歩いたのだ。

ちなみに、ブラジルのサルバドールという街で、同じようにして、黒人三人に取っ捕まって血塗れになるまで殴られた上、財布を盗られた赤城さん(仮名)という友人もいるので、ふつうに回避したほうがいい。

黒人はアメリカ全体の人口比率でいえば14%しかいないのに、ネットで流れてくる衝撃映像で、店を略奪したり罪のない誰かを殴ったりしているのはほとんど黒人だ。
だから、悪いけど、私は見知らぬ黒人は暴力的である、なにされるかわからないと、知らず知らずのうちに感じてしまう。そう、恐怖心であり、差別心だ。
私にはそれがあることを認める。

同様に、アメリカで暮らしたことがあるならわかるはずだが、アジア人(の、特に男性)は大人しくて小さくておどおどして見え、そりゃあナメられる。誰かの使用人というイメージが強いようだ。

ダウニーJr.とストーンのあの振る舞いには、悪いけど弁護の余地はない。

自身を大いに恥じてほしいと思うが、残念ながらハリウッドで生き残るようなひとらは歯牙にもかけないはずだ。
二日経ったいまもなんら謝罪のコメントはない。

それでも、私自身が万が一アカデミー賞を獲って、満場の客の前で立ち上がり、ステージへ上がったときに、トロフィーを差し出されて、視界のその先には親友のコタニさんが手を叩いて祝福してくれていたら……。
もしかしたら、ベトナム系だかスロバキア系だかわからないが、目の前のひとの手からトロフィーだけを引っ掴んで、まっすぐコタニさんのところへ歩いて抱擁を交わしてしまうかもしれない。

そういう可能性はなきにしもあらずだな、と思った。

なぜなら、繰り返すが、「オレもあんたも、思わず差別をしてしまう人間だから」だ。

そして、「ガース・ブルックスは知らないくせに、大谷サンは世界的に有名だと思い込むくらい、ひとは自己中心的」なものだからだ。

だって、日本社会を見れば明らかで、「外国人タレント」というひとたちも、ほとんどは白人か黒人で、ヒスパニック系や中東系、東南アジア系はほぼ見たことがない。白人はインテリという立場で扱われるし、黒人タレントはおもしろキャラとして仕事がくる。

差別とは言わないまでも、予断と偏見の上に成り立っているのである。
それに対して、あなたは違和感を持ったことはあるだろうか。

「ワタシは差別をしない」という人間こそ、私は軽蔑する。

「差別は反対」だし、「それが是正される世界を望む」けれど、「差別してしまう習性から自分だけは無関係である」と主張する浅はかな人間は信用できん。
神でもなければ、そんな無謬に生きられることはない。

私には差別心はある。あるからこそ、ひとりの人間が目の前にいたときに、人種や出身や容姿にかかわらず、意識して「そのひと」として扱おうと心掛けている。
そうしたいと望むけれど、常にうまくいくわけではない。

あなただってそうだろう。
ただ、そんなとき、相手の目を見て謝れる人間でありたい、とは思っている。

私が著名人だったら、すぐに週刊誌に抹殺されるような人物だ。

デカい黒人が来たら怖いし、かわいコちゃんから「抱いて」と言われれば抱いてしまうだろうし、「足のつかねえカネだから、お前にやるよ」と差し出されれば懐に入れちゃうし、酔っ払ってるときに「よお、コカインあるけど、やるか?」と誘われたらやっちゃうかもしれないし、船が沈みそうならコタニさんよりも先に見知らぬ子供を先に救命ボートに乗せるだろう。

私はそういう弱くて愚かでデタラメな人間だ。コタニさん、いっしょに死のう。