僕は仲間たちと「JR環状線一周飲み会」というのをここ何年もつづけている。
一周19駅ある大阪の環状線を毎月ひと駅飲み歩くという遊びだ。
ルールは「ネット検索をせずに、足と勘で店を探す」、「チェーン店には入らず、地元のひとが来るような小さな店を選ぶ」ということだけ。
去年、吉岡さんが買った車を新潟まで引き取りに行くという用事にかこつけて、上越市高田まで四人で行って、ひと晩飲み歩いたのが(我々に)好評だったので、今年もどこかへスピンオフしようということになった。
候補地は、淡路島とか高知県とかいくつか挙がったが、「大和ミュージアムに行こうよ」ということで広島県呉市に決まった。
そんなわけで、おっさん四人の呉旅です。
今回は二泊になる。
金曜の晩に大阪を吉岡さんのトヨタ・ランドクルーザーで出発して、深夜になって呉に到着。
呉の宿はなんだか込んでいて、僕だけほかの三人とは別のホテルを予約してあった。結局、六時間くらいかかったので、チェックインしたときには深夜〇時を越えていた。
それなのに、男たちは「一杯だけでも飲みに行きたい」という。
いま、ひとのせいにしたけど、行けるなら僕も行きたい。
ここは(前夜祭であり、無駄にする時間はなかったので)検索したけど、一軒オーセンティックなBARに目星をつけた。
「オーナーがいれば入れてくれるだろう。雇われの店長なら断られる」と予想して扉を開けたが、その通りだった。若いバーテンダーは「もう閉店なので」と言った。
つぎにビルの二階のロックBARを訪ねて階段を上がった。着いてみるとなんだか音楽がガンガンかかっていてうるさそうだ。
これは僕らのタイプではないな、と判断して振り返るとその向かいにいい感じのおしゃれなカフェバーがある。その名も「CALM BAR」という。
「ここだ」
我々の嗅覚が反応した。オーナーらしき中年の男性が快く迎えてくれた。
いいBARだった。
もう夜も深いので、我々は大騒ぎすることなく静かに飲んで、初日を気持ちよく締めくくった。
翌日は大和ミュージアムへ。ここから二日間、一向は海軍浸けとなった。
呉は映画『この世界の片隅に』の舞台であった通り、海軍の町である。
軍港があって、三菱重工やIHI(旧石川島播磨重工業)など軍需産業の工場がある。
そのほか映画作品でいうと『孤狼の血』のロケ地であったり、『仁義なき戦い』のモデル地であったりするのでヤクザもかつては多かったのだろう(僕たちがその晩、夜の町をほっつき歩いた限りにおいては怖いひとはいなかった)。
大和ミュージアムは常設展と企画展「日本海軍と航空母艦」ともに内容盛りだくさんで、大変満足した。
その通り向かいに通称「てつのくじら」と呼ばれる海上自衛隊呉史料館があり、そこでは潜水艦に関する展示をめぐったあと、実際の潜水艦の内部の見学ができる。
高田帽子店にも立ち寄った。この店はなかなかのものだった。
大正二年(1913年)創業。海軍御用達の軍帽を製造販売している。
士官がかぶるような帽子は、僕が買ってもかぶるところがないので、作業帽(略帽)みたいなのがあれば……と思ったが、海軍(海上自衛隊)の帽子は正式なものなので、隊員が身分証明書を提示しないと買えないそうだ。
山本五十六元帥(当時中将)の帽子も製造したということで、元帥からの令状の絵葉書が店に飾ってあった。
非常に入りづらい感じの小さな店なのだが、店主の奥様がお話しの上手な方で、いろいろ聞かせてもらってたのしい時間を過ごした。そして、いろいろ買った。
その晩は、我々は県内から合流してくれた唐木さんを迎えてスピンオフ飲み会を開始した。
以降は、関さんのツイートをご参照ください。
6時間のドライブの末、0時30分、扉を開けた瞬間、ヤニの香りが鼻を刺激するWiFi激弱の安ホテル着。一軒だけ飲みに行きます。 https://t.co/dJzHhuZnSJ
— 関 泰久🌗 (@Campaign_Otaku) 2023年9月15日
この一連のスレッドをご覧になれば、我々のしょーもなくもたのしい町歩きの様子はだいたいおわかりいただける。
唐木さんと別れて翌日、僕たちは午前中だけ遊んで、大阪へ帰るつもりだった。
近くの港に、砕氷船「しらせ」が南極から寄港していて一般公開されているという情報をもとに、クルマでそこへ向かってみた。ところが、何キロも手前から大渋滞で動かない。
それほどの人気だとはまったく知らなかった。
埒が明かないので、僕たちは急遽予定変更して、橋を渡って江田島へ渡った。それも決めたわけではなくて、ただ橋が出てきて、標識にそう書いてあるから「行ってみる?」くらいの軽い気持ちでハンドルを切ったのだ。
海上自衛隊士官候補生学校(旧海軍兵学校)があるというので、様子を見に行った。すると門のあたりに「校内見学」の案内看板があった。
守衛の若い隊員に、見学できるのか尋ねてみると、
「はい、『ひとさんまるまる』にこちらに来ていただければ」
と言うではないか。
午後一時を「ひとさんまるまる」と呼ぶその言い方に我々はハートを撃ち抜かれ、時計を見ると現在正午過ぎ。よし、ぜひ参加しようということになった。
ここで少しだけ、日本の海軍の歩みについて予備知識を。
江戸末期にいきなり黒船が来て開国を迫られたと思っている方もいるだろうけど、ちがう。
それ以前に十年間くらい、オランダ、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアは船を送ってきて開国を迫っていた。ペリー艦隊の威圧についに屈して開国となった。
が、そこから長きに亘る、国を護る闘いがはじまるのである。欧米の植民地になるのか、独立を死守するのか。当時は切実な国家的危機にあった。
幕府はオランダの助けを借りて長崎に海軍伝習所を創設する。航海術、造船術、砲術、測量術、算術、機関学を学ぶ学校だ。
そこには勝海舟や、のちに最後まで新政府に抵抗して北海道の五稜郭に立て籠る榎本武揚もいた。
財政難などの理由で長崎の伝習所が閉鎖され、築地に移るが大政奉還により消滅。紆余曲折を経て、1869年、新政府が築地に海軍操練所を創った。明治三年(1870年)、海軍兵学校と改称され、イギリス流の海軍教育が行われた。
1888年に、誘惑も多い東京を離れ、勉学と訓練に集中できるよう江田島に移設された。
江田島の海軍兵学校は、英国のダートマス、米国のアナポリスと並ぶ、世界三大兵学校と称されたのである。
庁舎の赤レンガは一個一個油紙に包まれてイギリスから輸入されたものだそうで、1893年に竣工された。
とにかく、そんな由緒ある、エリートのための学校なのだ。
ちなみに「えだじま」ではなく「えたじま」だそうだ。
見学ツアーは案内役のおばさまについて歩くが、途中で白い制服に身を包んだ幹部候補生が引き継ぐ場面があり、彼のお話を拝聴した。
おそらく四〇代後半か五〇過ぎくらいのその候補生(つまり僕とそう変わらない)の存在感に、僕は圧倒された。
基本的には若い候補生が来る学校だが、彼のように「おじさん候補生」もいる。
「おじさん候補生はなんでここに来るのですか」
と、社会科見学に来た小学生みたいな質問をしてみたところ、
「ある程度昇進すると上官から『試験を受けてみろ』と言われます。それは断れませんので(笑)、受験して受かるとここに四カ月ですが(新入隊員は一年間)入学することになります」
と教えてもらった。
その受け答えがものすごく堂々としていて、上官への敬意と自身の誇りが、諧謔の中にも滲み出ていて、カッコよかったのだ。
ただの体育会系バカでも、頭でっかちでもなく、知力も体力も備わっていないと務まらないはずだ。
エリートが入る学校だけに、訓育はかなり厳しいもののようだ。登山、遠泳、ボート漕ぎなどの大会がつぎつぎにあって、常に競争させられ、順位が示される。たった一年とはいえ、卒業式のあとそのまま艦船に乗って遠洋航海に出て、半年から八カ月ほどかけて各友好国の海軍を表敬訪問するという。だから、実質二年弱の期間となる。
ふと目を転じれば、猛暑の中、作業服を着た生徒たちが砂利敷きの広場の小石の下にある雑草を丁寧に探して抜いている。それを白い制服の教官が真っすぐに立って見守る。そうやって、この広大な敷地はチリひとつ落ちていない美しさを保っている。
正直、僕はこれまでの自分の生き方を反省した。
僕は、権威をバカにし、団体行動を拒絶し、ルールを軽視して生きてきた。そういういい加減な不良がカッコいいと思ってきたフシがある。
目上の人間の言うことに従わず、一丁前に文句だけは言ってきた。
結果、組織からドロップアウトしたが、いまでも内心どこかで、荒野の用心棒を気取っている部分がある。
オレは間違っていた。こんなやつはなんの役にも立たない。自己満足に生きているだけだ。
小さな不満を飲み下して、大きな義務に従う人間のうつくしさに適うはずがない。
五〇手前になって、僕という人間が治るわけもないが、僕は本当に打ちのめされた気分になったのである。猛省である。
ここが海軍兵学校であったときの最後の生徒であった徳川宗英氏がものした『江田島海軍兵学校 世界最高の教育機関』(角川新書 2015年)に、以下のような一文があった。
〈真に権威に服従できる人になってこそ、はじめて部下を統率することもできるのである〉
きっとその通りなのだろう。僕にはもはやわからない世界だが、そうなのだろう。
見学コースの最後に、教育参考館という資料館があった。ここは東郷平八郎司令長官の遺髪が納められているような神聖な場所でもあるので、一礼して建物の中に入る。
江戸後期から日清日露戦争、そして太平洋戦争を戦った海軍時代のお歴々の記録や、兵士の遺品や遺書などが展示されている。
僕はその中のひとりの軍人に注目した。佐久間勉大尉という。
短く刈った頭髪に切れ長の目で、凛々しく微笑む写真があった。僕の目にも惚れ惚れするような男っぷりなのである。
佐久間大尉は1879年福井県の生まれだ。中学生のときに、小浜港に入港した巡洋艦「橋立」の片岡八郎艦長の講演を聞いて、影響を受け、海軍兵学校に入学した。
卒業して少尉となり、日露戦争にも参加している。中尉に昇進し、主に機雷の除去に従事した。
その後、潜水艇乗りになる(当時は潜水艦とは呼ばず、艇だった)が、潜水艇というのは1900年にアメリカ海軍で正式採用されたばかりの、まだ新しい技術だった。日露戦争では、日本軍は「ロシアは潜水艇を持っているかもしれない」と疑心暗鬼になったが、ロシアでは実用化されていなかったことが戦後になってわかる。
佐久間大尉は国産第一号の第六潜水艇の艇長となるが、海軍に九隻あった中でも第六は耐波性が弱く、小型で、操縦が難しかった。
1910年4月15日、訓練中にその事故は起きた。
13名の乗組員とともに、母艦である歴山丸を離れて沖へ向かった佐久間艇長の第六潜水艇は、潜航したまま再び海面に上がってくることはなかった。
事故の原因は通風筒から海水が入った際に、開閉弁を閉めるために引いたチェーンが切れ、大量の海水が流入し、浮力を得られなくなったことだ。
ガソリンを噴出して浮き上がろうと試みるも管に裂孔が生じて艇内にガスが発生した。
沈没した艇内にて佐久間艇長は絶命する前に、薄れゆく酸素の中、遺書を残した。
事故を起こしたことを謝罪するとともに、この事故に萎縮することなく海軍が今後も潜水艦研究に励むことを望んでいる。
一部を抜粋する。
〈佐久間艇長遺言
小官ノ不注意ニヨリ 陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス、誠ニ申訳無シ、
サレド艇員一同、死ニ至ルマデ 皆ヨクソノ職ヲ守リ 沈着ニ事ヲ処セリ、
我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃レシト雖モ 唯々遺憾トスル所ハ 天下ノ士ハ 之ヲ誤リ以テ
将来潜水艇ノ発展ニ 打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ 憂フルニアリ、
希クハ 諸君益々ニ 勉励以テ此ノ誤解ナク
将来潜水艇ノ発展研究ニ 全力ヲ尽クサレン事ヲ
サスレバ我レ等一同モ 遺憾トスル所ナシ〉
この文につづいて佐久間大尉は、事故の原因について詳細に説明し、状況を報告している。
そして〈呼吸非常ニクルシイ〉中、部下たちの働きを称え、その遺族が生活に困らないよう天皇や上官たちに願った。
〈潜水艇員士卒ハ 抜群中ノ抜群者ヨリ採用スルヲ要ス、
カカルトキニ困ル故、幸ニ本艇員ハ皆ヨク其職ヲ盡クセリ、満足ニ思フ〉
〈謹ンデ 陛下ニ曰ス、
我部下ノ遺族ヲシテ 窮スルモノ無カラシメ給ワラン事ヲ、
我ガ念頭ニ懸ルモノ之アルノミ〉
佐久間勉大尉、32才である。
隊員は各自の持ち場についたまま死亡していた。最後まで事態改善に努めたことが明瞭にわかる姿だった。
外国でも潜水艇の事故はあったが、酸素を求めて全員がハッチ付近に積み重なるようにして絶命していたり、殴り合って争った形跡があったりしたという。
第六潜水艇の事故と、佐久間大尉の遺書は、国内外で大きなニュースとなり、英米独仏といった諸外国から弔電が届けられ、わずか五年前に敵国だったロシアからも称賛の言葉が贈られた。
夏目漱石は東京朝日新聞に佐久間艇長に関するエッセイを書き、与謝野晶子はこの事故を十を超える歌に詠んだ。
それくらい世の中に大きな衝撃を残した出来事だったようだ。
いま、百年以上が経って、僕もこの件についてはじめて知ったし、多くの日本人が軍隊にまつわることはすべて悪のように教育されて育ってしまったことは大きな損失であるように思う。軍人というのは、日本以外のどの先進国でも尊敬の対象だ。
佐久間大尉のような生き方と死に方をした人物を育てた海軍の偉大さに畏れ入るばかりである。
「我ハ常ニ家ヲ出ズレバ 死ヲ期ス」と遺した佐久間大尉とおなじ覚悟を持って自分は生きているか、永遠に生きるような勘違いをしていないか、甚だ恥じ入る思いで己を顧みた次第だ。
我々が生きるここは、甘っちょろいゼロリスク社会どころか、本当は生存率ゼロ世界なのだ。
リスクを受け容れる。いつか死ぬことを知る。だけどポジティブでいる。永遠に生きるようなフリをしない。ネコのように自分が気持ちいいことを追い求める。犬のように友達を大切にする。人間らしくカッコ悪く生きて、カッコよく死ぬことを望む。
— マエダショータ (@monthly_shota) 2023年9月12日
これが私の考える"丁寧な暮らし"だ
さっき、僕の友人の中でも、最もなんにも考えていないと評判のタイラーさんがやってきて、「ヤフーニュースがジャニーズ一色なんですけど」と言って、帰っていった。
いままさに安全保障の危機が迫っているというのに、念仏のように平和を唱えて悦に入るひとたちは正気なのか、沖縄のデニーはなにを考えているのか、ウクライナ支援削減を主張する米国の共和党保守強硬派はまたもや孤立主義に陥るつもりなのか、さまざまな憤りが湧いちゃったポリティカルショータは、ひとまず缶ビールを開けて、ちょっと長くなってしまったこのコラムを終えます。
これを読んだ有為の若者には、江田島の海上自衛隊幹部候補生学校も、ぜひ進路選択の視野に入れていただければと思う。
(了)
参考資料:
徳川宗英著『江田島海軍兵学校 世界最高の教育機関』(角川新書)
足立倫行著『死生天命 佐久間艇長の遺書』(ウェッジ)