月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「虫のように必死に、人間のように恋を」

ひろのぶと株式会社から初の書籍である、稲田万里著『全部を賭けない恋がはじまれば』が刊行された。

この新興出版社は、「初版印税20%」、「累進印税™」を旗印にして、田中泰延さんが立ち上げた会社である。日本では通常、本の作家への印税というのは10%に設定されていて、なぜかここに疑問をはさむ余地はなかった。「そういうもの」だったのである。
著者がしんどい思いして泣きながら書いた一冊の対価が、税務署が黙って持っていく消費税と同額なのだ。

これをなんとか変えたい、本を書いて生活できる社会を創り出したい、という思いで設立されたのが、ひろのぶと株式会社なのである。

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田中泰延氏は、私の前職の先輩であり、上下関係を越えた盟友であり、私は同社の一口株主でもある。

であるからこそ、私がこの本を紹介するにあたり、この「月刊ショータ」の方針に反することなく、本当のことを書かなくてはならない、と少々緊張しながらこれを書いている。
稲田万里さんが「コスモ・オナン」名義でnoteに書いていた『日曜興奮更新』というマガジンがめっぽうおもしろくて、下品で、それでいて不潔感がなくて、サイコーだったのだ。

本書にも、このマガジンの中からいくつかの短編が加筆修正されて収録されている。

コスモ・オナンこと稲田氏の書く短編小説に、私がはじめに抱いた印象は「ブコウスキーみてえだな」であった。
チャールズ・ブコウスキーというアメリカ作家・詩人がいて、彼の『町でいちばんの美女』(新潮文庫)を読むと、だいたい仕事もせずに酒を飲んで、女を殴って、オナニーして寝るハナシがいくつもいくつも書いてあり、読み終えると、たったいま、いったいなにを読まされたのかよくわからないのだ。

『全恋』の舞台はカリフォルニアではなくて、東京の高円寺とか錦糸町で、主人公の女の子がしょーもない男としょーもないセックスをする連作短編だ。そこには著者の東京観であるとか、高円寺観が反映されていて、彼女の目にはこの町は紗をかけられたようにある種、朧で、乾いていて、あらゆる関係が薄弱な場所のように受け取れた。

東京に生まれた私にとっては、高円寺というのはおばあちゃんが住んでいたところだ。
小学生のころに、母親に頼まれたものを自転車で届けに行くと、おばあちゃんがポチ袋に入れた五百円玉を用意して待っていてくれて、私にはそれがたのしみだった。
電車に乗ってかよった塾の帰りには、母親がクルマで迎えに来てくれて、同じ塾に通う同級生といっしょに駅の南口で拾ってもらうことになっていた。
大人になってからは、古着屋を巡ったり、家族で食事会をしたり、つまりは生まれ育った町に近いのである。

はっきり書いておくと、私は私の故郷に地方からやって来て、路上において集団で缶ビールを飲んでそのまま捨てていったり、犬のようなセックスをしたり、ビルの屋上で立ちバックして性病をうつされるような連中が大嫌いだったのである(過去形ね)。
彼らにとっては、誰の町でもなくて、自分の町ですらなくて、旅の恥はかき捨てのように、東京の男/女はヤリ捨てのように振る舞うことが当たり前であっても、私にとってはそうではなかったのだ。

東京という街に対する認識は決定的にちがう。そこに幻想がない。憧れもない。
だから、私は本作を読んで、自分が不快感を覚えないか不安があったことは認めざるをえない。

それでも、『全恋』を読み終えて思うのは、どこに生まれても、生きていくことはむつかしい世の中で、ひとりの女が、得体の知れない町やセックスの相手と対峙していく姿に、まるで卑しさも不潔感も感じられないのである。必死に生きているだけなのだ。

この女には「自分の存在価値を認めてほしいがために、男に媚びて股をひらく」ようなところがない。「こんなスケベなことを堂々と書けるワタシってかわいいでしょ」というあざとさも感じられない。
清々しいほど純粋に、ただ「セックスがしたい」のだ。

人間はセックスをするために生きていると言っても過言ではない。
遺伝子というのは種の保存のためのプログラムによって突き動かされているからである。正確には、個の保存のために、我先に、やつを蹴落としてでも、カネを払ってでもセックスがしたいのだ。

そういう一種哀しいようで、実に明快なエンジンによって、人間はドライブされている。

「センセーに言うたろー」、「文春に売ったろー」といった幼児性を脱ぎ去ることができない日本人は、それを認めなくてはならない。無関係の人間のセックスに立ち入ってアクセスや視聴率や購読部数を稼ごうとする連中よりも、この主人公はよほど正直で真っ当な生き方をしているではないか。

稲田氏の切れ味の鋭い文章には、ありきたりな表現をするなら粗削りなところがあり、そこここにキンタマくらい光を放つものがある。
さらに研鑽を積んで賢くなったらいいのか、このままのバカで突破するのがいいのか、私は判ずる立場にない。

おもしろくて、滑稽で、すこしかなしくて、帯にある通り赤裸々な性と生なのにぜんぜん悪辣さがなくて、いま本を閉じた私の心の中には、歩み去ろうとする小さな女性の後ろ姿だけが、なぜか浮かんでいる。

また、一冊の書籍としても、特色印刷、UV厚盛印刷、フィルム貼り加工などなど様々な技巧が凝らされていて、中身と一体となった芸術作品としてよくできている。
無名作家の処女文芸作品に注いだ労力と投資を心配した私に、
「初版が売切れたって赤字や。でも一発目の本で、しょーもないもん作られへんからな」と語った田中社長の言葉に嘘はなかった。ひとまず発売前重版、おめでとうございます。
稲田万里とひろのぶと株式会社の、鮮烈なデビューを目にすることができた。

エピローグに登場する新宿のキャッチの男の台詞に、私から著者にそのまんま伝えたいひと言があった。

「お前、どんだけ大変な目にあってんだよ。最高だと思うよ」

優れた小説家のデビュー作を読むと、たまに不安になることがある。自分のことを棚に上げて、大きなお世話ながら、「この人は次を書けるのだろうか……」と。

稲田氏には、元気でスケベでくだらない話を、我々にもっと読ませてほしい。
と、思っていたら、ちゃんと本の中で答えてくれていた。

〈まだこれからも書けそうだ〉

 

心に浮かんだ、歩み去る女性は、小説家として出発をした稲田万里の姿だったのだろう。