月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「約束を交わしてはいけない国」

新型ウィルスによる長い長い災禍にもようやく光明が見えはじめたかと思った2022年2月末、ロシアがウクライナに侵攻した。

ニュース解説にある通り、これは「ブダペスト覚書」を踏みにじる行為である。
ブダペスト覚書というのは、1994年12月5日にハンガリーブダペストで署名された政治協定でつまり「ウクライナベラルーシカザフスタンの三ヶ国が核兵器を放棄する代わりに、アメリカ、ロシア、イギリスの核保有国が安全保障を提供する」というもの。

いったいロシアというのは約束を守ったことが一度でもあるのかな、と思った次第である。

日本人の我々からすると、まず思い浮かぶのが「日ソ中立条約」である。

これは原文を見てみると、4か条しかないシンプルなもので、以下のような文言である。
第一条 両締約国は 両国間に平和及友好の関係を維持し 且 相互に他方締約国の領土の保全及不可侵を 尊重すべきことを約す

第二条 締約国の一方が 一又は二以上の第三国よりの軍事行動の対象と為る場合には 他方締約国は該紛争の全期間中 中立を守るべし

第三条 本条約は両締約国に於て其の批准を了したる日より実施されるべく 且五年の期間効力を有すべし 両締約国の何れの一方も 右期間満了の一年前に 本条約の廃棄を通告せざるときは 本条約は次の五年間自動的に延長せられたるものと認めるべし

第四条 本条約は成るべく速に批准せらるべし 批准書の交換は東京に於て成るべく速に行はるべし

最終的に、ソ連はそれを破棄して、敗戦間近の日本軍に宣戦布告をするという火事場泥棒みたいなことをしたわけだが、ソ連にはソ連の言い分があるようだ。
ソ連がドイツと戦っているときに、日本はドイツを支援したじゃないか」ということらしい。

こちらとしては、「いやいや、うちはおたくを攻めていませんし、勝ち馬に乗れそうになったとたんに突然なんか言うてきましたね」ということになる。

時系列で並べてみよう。
1939年8月23日、独ソ不可侵条約
1940年9月27日、日独伊三国同盟
1941年4月13日、日ソ中立条約
1941年6月22日、ドイツがソ連領に侵攻
1941年8月14日、イギリス・アメリカが大西洋憲章が発表。第一条に「領土の不拡大」が謳われた
1941年9月24日、連合国会議において、ソ連を含む各国がそれを承認
1945年4月5日、ソ連外務大臣モロトフ日ソ中立条約の破棄を通告
1945年7月16日、アメリカが核爆弾の実験に成功。ポツダム会談中のトルーマン大統領は21日にそれを知る。
イギリス首相だったチャーチルも、トルーマン政権の国務長官バーンズも、核爆弾があればソ連の対日参戦は不必要と考えていたが、ルーズベルト大統領時代から参戦を求められていたソ連スターリンは、“戦利品”ほしさに戦闘準備を急ぐことになる。
1945年8月6日、広島に核爆弾投下
1945年8月8日、ソ連が日本に宣戦布告
1945年8月9日、つづいて長崎に核爆弾投下
1945年8月15日、日本、ポツダム宣言を受諾し降伏
1945年9月5日までに、ソ連北方領土を占拠
1945年10月24日、国際連合憲章が発行

国連憲章テキスト | 国連広報センター


1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約により、日本は連合国48ヶ国と講和。
ただし、ソ連は調印せず
1956年10月19日、日ソ共同宣言により国交は回復。「平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する」とあり、平和条約締結後に、ソ連歯舞群島色丹島を引渡すことに同意
1956年12月18日、日本が国際連合に加盟

サンフランシスコ条約
「日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」(第二条 c項)
とある。
日本政府は「択捉、国後、歯舞、色丹の四島は千島列島に含まれない」と主張しているし、サンフランシスコ平和条約に調印していないロシアは権利を主張する立場にない、としているが、このあたりがこじれた原因だろう。

北方領土問題の経緯(領土問題の発生まで)|外務省


島嶼がいっぱいあって「近接する諸島」とひとまとめにしてしまったところに落とし穴があった、としか思えない。

ロシアとしては「近接する諸島に対するすべての権利と書いてある」と言いたいのだろうが、少なくともアメリカは領土不拡大の大西洋憲章に則り、1972年5月15日に沖縄も返還している。ただし、まだ軍事基地があるから、なおややこしい。

アメリカ軍がいなくなったら、ロシアも安心して島を返してくれるのだろうか。いや、そうなったら、チャイナとロシアが我が国を本格的に取り合うかもしれんよね。

その後、日本とソ連(ロシア)の間にはいろいろあったけど、結局、北方領土問題は動かず、
2020年7月4日、領土割譲を禁止したロシア改正憲法が発効
プーチン大統領のこの措置により、北方領土問題は日本にとってさらにむつかしいものとなった。

こうして振り返ると、太字にした約束事を、ロシアはことごとく破ってきている。

ぜんぜんすっきりとしない北方領土問題が、すっきりおわかりになったかもしれないが、ひとつはっきりわかることは、「ロシアのような国とは、ひとつたりとも、約束を交わしてはいけない」ということではないだろうか。

 

(了)

f:id:ShotaMaeda:20220228202654j:plain

 

岡田和裕『ロシアから見た北方領土』(光人社NF文庫 2012年)
A. J. ベイム著 河内隆弥訳『まさかの大統領』(国書刊行会 2018年)

「きみの中の、なにかを進めるのが旅なのではないか」

もう2年半近くも海外に行っていないことになる。
まぁ、そんなに長い時間でもないけど、どうもこの2022年もムリなんじゃないか、つぎはいつになるんだろうと考えると心が重たくなる。
特に近年は、2017年(カナダ→サンフランシスコ)、2018年(ミラノとテキサス)、2019年(シアトル)と毎年どこかへ行っていたので、なおさらかもしれない。

そんなわけでか、最近は昔のことをよく思い出す。
90年代前半は、まだインターネットが普及する以前であった。一度外国に行けば、毎日のように安否を確認することや、起きた出来事を伝えることはできなかった。

僕が18才でアメリカの大学に行ったとき、入学の前に両親と旅行をした。
テネシー州ナッシュビル。父と僕が好きだったカントリーミュージックの中心地だ。兄と弟は日本に残った。

f:id:ShotaMaeda:20220131182937j:plain

ナッシュビルには、グランド・オール・オプリー・ハウスというカントリーの殿堂とされる劇場があって、そのステージに立つことはカントリー歌手の誉れである。そのときは、GAOHには建物の前までしか行かなかったが、隣接したオプリー・ランドUSAというテーマパーク(1997年に閉館してモールになった)の中の屋内ステージで、Doug Supernawという歌手のコンサートを観た。

ダグ・スーパーノウは”I Don’t Call Him Daddy”という曲がヒットしていて、僕も父親も好きだった。

youtu.be

歌の内容は、離婚した男が、元妻が新しい男と住む町へ息子に会うために行きたいが、生活もギリギリで時間的余裕もない。硬貨を握りしめて息子に電話して言われた、「僕はあの人をパパとは呼ばないよ。パパとはちがうから」という言葉に涙する、という市井のアメリカ人の生活感を伴ったものだ。
カントリーはいつも庶民の音楽で、日常の悲しみや喜びを歌にして伝えてくれる。

僕は一丁前にカウボーイハットをかぶって席に座っていたのだが、うしろの女性から帽子をチョイチョイと触られ、
「+&$@X%...ヘッロー」
と言われた。
なにを言われているのかわからなかったので、訊き返すとどうやら「ステージが見にくいからハットを取ってくれないか」と言っているようである。
ヘッローは”hat off”だったのだ。

”Would you mind if I ask you to take your hat off?“とかなんとか言っていたのだろう。
僕は素直にハットを頭からとったが、いま考えると、カウボーイに対して「ハットを取れ」などとよく言ったものである。
こちらも観光客なら、向こうもお上りさんだったのだろうが、エチケットとしてはたしかに、男性は屋内では帽子を脱ぐことになっている。しかし、カウボーイは例外なのである。
だから、映画の中で、サルーンのバーカウンターでウィスキーを飲むカウボーイたちはハットをかぶったままだ。
さらに言うと、ひとのカウボーイハットに断りもなく手を触れることはご法度だ。
これは本当なので覚えておいてほしい。

しかし、当時の僕はそんなこと知らないし、英語よくわかんねーし、アメリカ人でけーし、こえーし、なにも言わずに従ったのだった。
まぁ、いまでも「おいおい、きみはカウボーイに対してハットを脱げと言っているのか? このハットをか?」などと僕が言うかと言えば、言わないと思うけど。言ったとしても冗談とわかるように言うだろうし、前が見えにくいなら帽子くらい取りますけど……。
僕もライブハウスで、背の高い男が自分の前に立つとイヤだもん。

数日間のナッシュビル滞在をたのしんだあと、僕は両親と空港で別れることになった。
僕はそこからバージニア州ノーフォーク空港へ飛び、彼らは日本へ向かう。
僕が飛行機の通路へと歩き去る際、母親はカメラを構えていたが、なんだか照れくさいし、これからはなにがあってもひとりでなんとかしなくてはならない恐怖もあったし、僕はすぐに背を向けて背中越しに手だけ振った。
後年、母は「写真にうしろ姿しか写ってないじゃない」と文句を言ったが、それはそれでいい写真だったのではないだろうか。

田中泰延さんと上田豪さんとのトーク配信で語ったことがあるが、「いまでももう一度してみたい体験」は、このあとノーフォーク空港に降り立ってからの逸話だった。

『僕たちはむつかしいことはわからない』(1時間37分50秒あたり)

youtu.be

バージニア州の南隣りのノースキャロライナ州の小さな大学から迎えが来ているはずだったのに、誰もいない。15分待って、30分くらい待っただろうか。
さすがに不安に耐えきれなくなった僕は大学の留学生担当者に電話をしようと公衆電話を探した。番号が書いたメモ帳を探して、コインを出して、えーと英語でなんて言えばいいんだろう……と考えていたところで、ちょうど肩をつんつんとされた。
迎えの人らしき黒人のおじさんがそこにいて、「きみがショータか?」と訊かれた。
「そ、そうです。そうです。ジャパンから来ました」
「日本人なんて滅多にいないからすぐわかったよ、ハハハ」

ということで、大学名が横腹にプリントされた白いヴァンに乗せられて、1時間半ほど揺られる。
そのときに「オレ、これからどういう場所に連れて行かれるんだろう……」という、これまで感じたことのない不安な気持ちで車窓から眺めた、広い広いコーン畑の茫漠。
傾きはじめた太陽の光が、コーンの穂先を淡く縁取る寂寞。
なにかができるから来たわけではなく、なにもできないのに来てしまった、息苦しいような当惑。

カウボーイがラッパーになってライム(韻)をキメちゃうくらい、とにかく不安の重たさがすごかったのだ。
それなのに、いま46才で振り返ると「あんな感情はもう持ちえないのだろうか」と、もう一度味わってみたい気持ちがこみ上げて来もするのである。

だからこそ、その縮小再生産でもいいから、あの心がキュッとするような鋭敏な感覚を求めて、旅を繰り返すのだと思う。

二年後、僕の弟もアメリカで進学することになり、僕はなにも手を貸していないのだが、彼も自分で学校を決めたようだった。新学期がはじまる九月まで英語学校に行く予定で、夏休み中にまた両親と渡米してきた。
休暇に入ったばかりで一時帰国前の僕がテキサス州ダラスで合流して、ジョンFケネディー博物館などを訪ね、ダラスの街を観光した。

そして、二年前にナッシュビル空港でそうしたように、今度は弟だけがカンザスへ飛び、僕と両親は日本へ帰ることになった。
弟が、たぶんあのときの僕と同じような表情を浮かべて機内に消えると、母は人目も憚らずに泣いた。父に抱きついて泣きじゃくった。
僕はあんなに泣いた母を見るのははじめてだった。そして、同時に気づいた。
きっと僕を見送ったときにも同じように泣いたのだろう、と。

それを確かめたことはないけど、「いや、あんたのときは、空港でホットドッグ食べて、日本に帰ったわよ」とか言われたらメンボクない。

いま当時の母親くらいの年齢になって、僕が思うに、自分の身の一部が引き剥がされるような辛さがあったのではないだろうか。
僕には子供がいないからわからないけど、もしも寅ちゃんが旅に出ると言ったら「気をつけてな」と送るだろう。

f:id:ShotaMaeda:20220131183334j:plain

「気をつけてな、寅ちゃん」

でも、ジョージくんだったら「ダメ絶対!」と離さないだろう。

f:id:ShotaMaeda:20220131183428j:plain

「ジョージくん、なにかまちがってるよね」

僕はノースキャロライナで、さんざん恥をかきながらアメリカ生活になんとか順応していった。

授業で「なにか宿題が出た」ということは理解できても、なにが宿題かよくわからないので、毎回授業のあとに教授のところに行っては、「あのー、宿題はなんでした?」と尋ねたものだ。
社会参加意識の高い友達に誘われてはじめて献血をしたときは「取られる血液の量はたったの1パイントだから大丈夫だ」なんて言われたが、パイントという単位がどれくらいかわからなかった。
それが473mlと、わりとたっぷりなことをあとになって知った。
僕は午後の授業で貧血になって机に突っ伏した。

いつものように教授のところに宿題の内容を訊きに行くと、「寝てるからだ!」なんて小言を言われたが、「いえ、ちがうんです。献血をしたもので……」としどろもどろに拙い英語で言い訳をして、小さな屈辱を飲み込んだ。

とにかくあの頃はわからないこと、言えないことが悔しかった。ふつうのことができないということに無力感を覚えた。アジア人の男がモテないことに劣等感を味わった。
英語の壁は途方もなく高かった。

「青春というのは、なにもかもが恥ずかしい時代だ」と、たしか中島らもが書いていた。
三島由紀夫は『金閣寺』の中で、「そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在していないと言う贅沢な不満から生まれるものではないのか」と主人公に述べさせている。

僕は十分かどうかは定かではないけど、一応ちゃんと存在はしてるし、恥ずかしい思いもするけれど、少なくとも46才のいまなら、わからないことは堂々と「わかりません」と言える。英語なんか、いまでも6、7割しかわからないし。
わからないことは恥ずかしくないし、スベるのも恐れずに、あの手この手でまわりの人をもっと笑わせることもできるだろう。

小学校も中学校も高校も、会社員時代も、それなりにたのしかったけど、戻りたいとは思わない。
しかし、アメリカの大学には、現在の厚かましいおっさんのままで、恥知らずな鈍感さのままで、このヒゲを生やしたままで、このウィスキーを飲める量のまま(当時は一切飲まなかった)で、戻ってみたいとは思うことがある。

もちろん、戻ることはできないから、せめて先に進みたい。新たな旅がしたい。
振り返れば、僕のスゴロクの駒がこれまでに止まってきた、ここやあそこに、旅があったように思う。

 

(了)

 

先月トバしましたが、”寅ちゃん本”が発売になっております。Thanks.

asokamo.shop-pro.jp

そういえば、これだって旅の話です。

www.amazon.co.jp

「アメリカの叫び」

カントリーのラジオから叫びのような歌が聴こえてくる。

鉄をグラインダーで削ったときに飛び散る火花のような歌声と、胸ぐらを掴んでくるようなメッセージが、うつくしい旋律に乗せられている。

「なんだこの歌は」と驚いて調べてみると、Aaron Lewisという、浅生鴨さんを彷彿させるおじさんだった。
90年代の終わりにデビューして、00年代はじめにヒット作を放ったStaindというハードロックバンドのボーカリストが、カントリーに転向したそうだ。
同じく90から00年代に活躍したロックバンド、Hootie & the BlowfishのDarius Ruckerもさらに早い時期からカントリー歌手になっている。

つまり、カントリーいうのは、アメリカの歌うたいが還ってくる、THEアメリカンミュージックといっても過言ではない。

この、アーロン・ルイスによる「I’m Not the Only One」という歌は、基本的にはアメリカ人の愛国心を丸出しにした、反リベラルの政治メッセージソングである。

ジャパンは息苦しさに悶え苦しんでいるが、アメリカだってもがいているのだ。

果てしない貧富の差、共和党民主党の深い断絶、暴発する人種問題への怒り、歴史すらも書き換えたいキャンセルカルチャー。そこへ来て、一国で77万人の命を奪ったウィルス禍、20年を費やし元の木阿弥となったアフガン撤兵……。

f:id:ShotaMaeda:20211201225733j:plain

日本人の愛国者として、僕にもほとんどは頷ける内容の歌詞なのだが、” willing to bleed or take a bullet for being free”という部分は、イマイチすんなりと飲み込めない。
「自由のために血を流す」というのは、圧政に苦しむ少数民族とか、香港や台湾の人たち、不当に弾圧される人々が言うならわかるのだが、たとえアメリカがタリバンに負けたとしても(実際、敗北と呼べる結果なのだが)、アメリカは自由のままであるだろう、と思うのだ。

いまでも戦国時代みたいな国情の他国を、宗教も政治制度もちがうアメリカ合衆国が民主主義で平定しようというのは、あまりにも無理があった。そのために血を流した米兵士に大義を与えたい気持ちはわかるし、濫觴911のテロ事件であったとしても、どうにも戦いつづける意義のない戦争だった。
「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」に近い態様だったことだろう。

wedge.ismedia.jp

アメリカというのは建国の歴史からして、なにかを他者に押しつけて、組み敷いて、突き進んできた国なので、それは悪癖であり宿痾のようなものだ。
東から西へ領土を拡大していくことを「マニフェスト・ディスティニー(明白な運命)」と云って正当化したし、先住民にキリスト教を布教することは「野蛮人を文明化する、正しい行ないである」と考えていたし、南北戦争での奴隷解放を受け、1870年に憲法修正第15条によって黒人にも選挙権を認めたものの、南部諸州では人頭税や読み書きテストを課すなどあれこれの妨害があり、およそ100年後、1965年の投票権法成立を見るまで人種差別は顕著で執拗だった。

だから、この歌にもアメリカの傲慢なところが滲み出ているように感じられて、「そういうところが、世界から嫌われるところやぞ!」とも思うのだが、それでもなお、この歌は僕の心を惹きつけてやまない。

アメリカの歌と思って聴けば矛盾もあるが、我がこととして聴くならば、僕も国のために斃れたひとたちには敬意を持っているし、もしもこの国の自由が脅かされるような事態になったら、あらゆる手段で戦うつもりはあるからだ(まっさきに死ぬタイプだけど)。

Youtubeでは、この歌のいくつかのバージョンが視聴できて、一番多いもので480万回再生され(2021年12月現在)、14万の高評価と1万5千件のコメントがついている。ラジオでも毎日流れている(僕が聴くラジオ局では、ExplicitといってFワードを使って歌うバージョンが平気でオンエアされている)。

アーロンは、ひとりではなかったのだ。

彼に賛同するかどうかは聴くひとの勝手だが、多くのアメリカ人が現代に対して感じている、焦燥や憤懣が表現されている。

 

youtu.be

“I’m Not the Only One” by Aaron Lewis

Am I the only one here tonight
Shaking my head and thinking something ain't right?
Is it just me?
Am I losing my mind?
Am I standing on the edge of the end of time?

俺だけか 今夜ここに
なにかがおかしいと思って 首を振るのは
俺だけ? 俺の頭がおかしいのか?
俺はこの世の終わりにいるのかね

Am I the only one?
Tell me I'm not
Who thinks they're taking all the good we got?
And turning it bad
Hell, I'll be damned
I think I'm turning into my old man

俺はひとりぼっちか? ちがうと言ってくれ
やつらがこの社会のいいところを奪って 捻じ曲げる
そうなったら俺も終わりだな
俺はオヤジみたいになってきたな

Am I the only one willing to bleed
Or take a bullet for being free?
Screaming 'What the fuck!' at my TV
For telling me
Yeah, are you telling me?
That I'm the only one willing to fight
For my love of the red and white and the blue
Burning on the ground
As the statues coming down in a town near you
Watching the threads of Old Glory come undone

俺だけか? 自由であるために
血を流すことを 弾丸を喰らうことを 厭わないのは
なんじゃそりゃ! とテレビに叫ぶ
なに言ってやがる 
俺だけだとでも?
焼け落ちる 赤と白と青の国旗への愛のために
戦おうという気があるのは
きみの近くの町でも銅像が倒され
歴史の連なりが断ち切られるのを眺める

Am I the only one not brainwashed
Making my way through the land of the lost
Who sees it as it is
And worries about his kids
As they try to undo all the things he did

俺だけなのか? 洗脳されていないのは
失われゆく国でなんとか前に進もうとするのは
事実をそのままに見るのは
子供の未来を憂うのは
神がしてきたことを やつらがナシにしていく中で

Am I the only one who can't take no more
Screaming, 'If you don't like it, there's the fucking door'
This ain't the freedom we been fighting for
It was something more
Yeah, it was something more

俺だけか? もう無理だと思うのは
気に喰わないならドアはあっちだぜと叫ぶ
こんな自由のために戦ってきたわけじゃないだろ
もっと大きななにか
そう もっと大切ななにかだろう

Am I the only one willing to fight
For my love of the red and white and the blue
Burning on the ground
Another statue coming down in a town near you
Watch the threads of Old Glory come undone
Am I the only one?
I can't be the only one

俺だけか? 自由であるために
血を流すことを 弾丸を喰らうことを 厭わないのは
そんなバカな! とテレビに叫ぶ
なに言ってやがる 
俺だけだとでも?
焼け落ちる 赤と白と青の国旗への愛のために
戦おうという気があるのは
きみの近くの町でも銅像が倒され
歴史の連なりが断ち切られるのを眺める

俺だけか? 俺だけなはずはないだろう

Am I the only who quit singing along
Every time they play a Springsteen song?

俺だけか? スプリングスティーンの曲が流れるたびに
合わせて歌うことをやめたのは

Am I the only one still sitting here
Still holding on, holding back my tears
For the ones who paid with the lives they gave
God bless the USA
I'm not the only one willing to fight
For my love of the red and white and the blue
Burning on the ground
Another statue coming down in a town near you
Watching the thread of Old Glory come undone

俺だけだろうか まだここにいるのは
涙をこらえながら まだ持ちこたえているのは
命を捧げた者たちのために
アメリカに神のご加護を
俺だけじゃないだろう
焼け落ちる 赤と白と青の国旗への愛のために
戦おうという気があるのは
きみの近くの町でもまた銅像が倒され
歴史の連なりが断ち切られるのを眺める

I'm not the only one
I can't be the only one
I'm not the only one

俺だけじゃない 俺だけなはずはない
俺だけじゃない


(対訳:前田将多)

youtu.be

補遺:ブルース・スプリングスティーンは長らく労働者を代弁するロック歌手として認知され、「The Boss」の愛称で大衆から敬われてきたが、2020年10月に、「トランプが再選されたらオーストラリアに移住する」と発言した。アーロン・ルイスは「ひとりの男のために国を捨てようなど、それがアメリカ人としての態度か」と怒っているようだ。

「毛のことに、いちいちうるさい国」

大阪の高校で、「髪を黒く染めろ」と強要されてモメた末、不登校になった女子生徒が慰謝料など損害賠償を求めた二審判決がニュースになった。

一審の報道:

www.nikkei.com

二審: www.sankei.com

判決は、一審と同じく、「学校側の指導に違法性はない」として女生徒の訴えを再び退けたが、不登校の間に座席表や名簿から名前を省いたことは違法として220万円の求めに対して33万円の支払いを命じた。

このニュースは一見、「女生徒は生まれつき髪が茶色いのに、無理矢理に黒く染めさせられた」と思うのだが、よく読むと、一審において「生来の髪色が黒色だという合理的な根拠に基づいて指導した」と認められていて、つまり「女生徒の生来の地毛は黒かった」のである。

はっはっは、やりよるのぉ。

 

僕が思ったことは二点ある。
①本当に生まれつき茶色い髪のひとだったなら、裁判所は違法と判じただろうか(すると思うし、すべき)。
②たとえ彼女が頭髪を茶色く染めていたとしても、それを黒く染め直させる校則ってなんなのだろうか(後述)。

よその小娘が茶髪にしようがしまいが、ひと事だから僕はそんなふうに寛容に考えられるのだろうか。自分に娘がいて、彼女が金髪にして厚化粧して、半裸みたいな恰好で、頭悪そうなチャラチャラした男たちを引き連れて、平気で外を歩いていたら、僕はどのように反応するか、想像してみた。

……泣きながらぶん殴るかもしれないし、「青春を謳歌しとるのぉ」と目を細めるかもしれない。わからない。

f:id:ShotaMaeda:20211031183414j:plain

犬猫で考えて申し訳ないけど、こんな弱虫でもちゃんと育てるし…

f:id:ShotaMaeda:20211031183521j:plain

こんな暴れん坊でも、傷だらけになって抱きしめますがね…

僕が通った都立高校は自主性を重んじる校風で、およそ校則というものがなかった。
唯一、「体育館では体育館履きを履け」くらいのもので、上履きで体育館に入った生徒が、体育教師に殴られたという話を耳にして「おいおい、規則のレベルに対して罰が異常にキビシイなwww」と当時ビビったものだ。

服装も格好も自由だったので、僕は髪を伸ばしてポニーテイルに結んでいた時期もあるし、3年時にはカウボーイハットをかぶって登校していた。ふだんは自転車通学なのに、ハットかぶって馬じゃなくて自転車に乗るのがどうも納得できなくて、ハットの日はわざわざ電車で行っていた。

同級生には金髪に脱色した生徒もいたし、ヒゲもいたし、どんな格好をしても自由だった。

富田くん(仮名)はパーマをかけて登校した日に、「林家ペーか!」とみんなに爆笑された。以来、卒業まで「ペー」と呼ばれるハメになった。女子からも「ペーさん」と呼ばれていた。

自由とはそういうものだ。自己表現して、それがダサかったり汚かったりすれば、まわりからそれなりの評価を受けるのである。

いま四十代半ばの僕らの時代でいえば、たとえばリーゼントにしてボンタン履いていれば、街でツッパリに絡まれる確率は高くなっただろう。イキッた格好をしていれば、それなりのリスクがあるのだ。
それでもなお自分のしたい格好を貫きたいなら、イバラの道かもしれないが、かき分けて進むしかない。
その過程でなにかを学ぶこともあるだろう。それこそが教育である。

そういえば、女性が半裸みたいな服装で電車に乗って痴漢に遭って、「そんな服着てるからだ」と言うおっさんがいたら、そっちが社会的に半裸にされて吊るし上げられる。それはわかる。
従って、あくまでも悪いのは痴漢なのだから、イキっていてヤンキーやチンピラに絡まれたとしても、ヤンキーやチンピラが悪いのだろう。
うん、だけどヤンキーやチンピラは、悪いのが前提なので、そう主張したところで、なにかが解決するわけではないね。

 

高校生が髪の毛を染めることはなにがいけないのだろう。

上記のように「街で危険な目に遭うリスクを避けさせるため」なのであれば、自動車に轢かれるかもしれない登校などさせられなくなる。

「まわりとちがうことをしてはいけない」のであれば、期末試験で全科目100点取ってもいけないし、身長が190センチになってもいけないことになりはしないか。

アメリカで大学に行っていたカンタさんの言である。

僕も同じく大学教育をアメリカで受けて、いろいろなことに気づいた。
「人だかりは黒山ではなかった」し、「肌色という色はなかった」のである。

「日本は”decipline”が優れている」と外国からは思われていて、つまり規律正しいということだ。
災害で被害を受けて、みんなが困った状況になっても、よその国みたいに食料や物品を強奪し合うようなことにならないのは、確かにすばらしい国民性である。
それはぜひ今後とも大切にしていきたいものだが、「髪の毛を染めない」ことは規律なのかどうか。

僕はちがうと思う。

学校教育において「規律」というなら、「お互いに助け合う」とか「弱い者をいじめない」とか、人間として当たり前だと我々が思っていることをちゃんと教えるべきだし、国際化する現代においては、「ひとの肌や髪の色についてとやかく言わない」と教えた方がいいくらいだ。
出席するとか試験で及第点を取るとかを含め「約束を守る」ことさえできていれば、髪の毛の色など規律でもなんでもない。

バカな教師がバカな規則をでっちあげて、それを勝手に規律だと思い込んでいるだけだ。

くだんの高校だって、ウェブサイトを見にいけば「なりたい自分を実現する」だとか「輝く個性」だなんて書いてある。キサマ、どのクチが……。

 

そして、学校だけでなく、社会一般の中でも、こういったバカな規則が溢れかえっているのがジャパンなのである。

monthly-shota.hatenablog.com

この国では長らく、人間をおんなじカタチした鋳型に嵌め込んで量産するのが教育だとされてきた。だけど、それが間違っていることなど、誰でも気づいているはずなのに、自分たちの目の前のくだらない規則は等閑視してしまう。

友人が、あるイベントで百貨店に立つことになったのだが、百貨店側から「ヒゲは禁止」と言われたそうだ。

「は? バカじゃないの」と僕は彼に言ったあと、「『御社の多様性というものへの見解についてお聞かせください』とでも訊いたら?」と付け加えた。

まぁ、たたかうことにすると二審まで行かなくちゃならなくなって面倒くさい(大阪メトロ運転士の「ヒゲ訴訟」も二審までいって原告の勝訴)から、そこまでしなくてもいいんだけど、こういう「誰かに叱られるかもしれないから、先まわりして当たり障りなくしておく」という態度が、社会を息苦しくさせていて、自分らしく働くことが歪められている要因のひとつである。

 

で、ヒゲ禁止と言われた友人はどうしたか。

「ずっとマスクしてましたから、関係ないですよ」

はっはっは、やりよるのぉ。

「古いものは、腐ってない限りよいのではないか」

ダイバーシティだとかサステナビリティ―だとかSDGsだとかポリティカリーコレクトネスだとか、ホント―にうるさい世の中になったものだが、いつの世も敬意を払われモテるのは、男らしい人、女らしい人であるというのは強烈な皮肉である。

f:id:ShotaMaeda:20210831193747j:plain


……てなことを、アメリカの刑事ドラマや日本の探偵小説を通じて思った。

寅ちゃんもこう言っていたし。

 

「古い男」と聞いて、二階さんみたいなのを想像されると困っちゃうのだが、カッコいい男はたいていちょっと古いのである。

僕がここ何年も観ているのは『シカゴPD』で、これはシカゴ51分署の消防士たちを描いた『シカゴファイア』のスピンオフとして製作され、現在シーズン7まで続いている。
シカゴ警察署に設置された特別捜査班のハンク・ボイト捜査官は正義の悪徳刑事で、ギャングから押収したカネを自分の金庫に隠し持っていて、仲間が人質になるなどイザというときには、そこから札束を出してきて使うし、事件解決のためなら暴力、拷問、なんなら殺人まで厭わない冷血漢だ。
反面、特捜班の部下たちには強い連帯感を持っていて、よい父親のように頼りになる男でもある。

www.axn.co.jp

最近見たのは『BOSCH』というアマゾン製作の刑事ドラマ。シーズン7で完結したが、これはアマゾン史上最長で、彼がLA警察を辞めて私立探偵になってからのスピンオフ作品が今後発表されるという。
主人公のハリー・ボッシュは典型的な一匹狼タイプで、上層部に媚びないので出世はしないが、直属の上司(女性)の顔は立て、捜査資料をしつこくしつこく読み込んで事件解決に執着する。

www.amazon.co.jp

f:id:ShotaMaeda:20210831193939j:plain

Amazon primeより

5作の長編を今年読み終えてしまって、出るのか出ないのかわからない次作が待ち遠しいのは原尞さんの『探偵沢崎シリーズ』。
1988年に『そして夜は甦る』でデビューしてから約30年の間に長編は5つしか書いておらず、2作目と3作目の間が5年とすこし、3作目と4作目が9年、4作目から最新作にいたっては13年以上もかかっているという、生ける伝説の探偵小説作家である。
沢崎は西新宿にあるワタナベ探偵事務所の探偵だったが、雇用主が疾走したため、ひとりで事務所を経営している。ボロい車に乗り、警察にもヤクザにもクールな減らず口をやめず、硬骨漢そのものなのである。

f:id:ShotaMaeda:20210831194742j:plain

最新刊『それまでの明日』

f:id:ShotaMaeda:20210831194815j:plain

いずれも「古い男」たちばかりで、軽やかに生きているようには思えない。

対義語となる「新しい男」というのは、まぁ「いまどきの男」ということだから、流行に敏感で、いまならスニーカーとかプレミア価格でも集めちゃって、なんなら転売しちゃって、テクノロジーに対してはアーリーアダプターで、スマホに心拍数とか燃焼カロリーとか記録させちゃって、米津さんのような本当の天才にしか許されないマッシュルームカットしちゃって、ミニマリストでビーガンでノンバイナリーで……。

世界は広いからどんな人がいてもいいんだけど、急に言い出すのやめてよね。
おじさんたちおばさんたちは、なにがなんだか飲み込むのにひと苦労なんだよ。

 

ところで僕の3冊目の本は翻訳書になった。

『寅ちゃんはなに考えてるの?』というタイトルで、夜な夜な僕が寅ちゃんになにを想うのか問いかけた彼の返答の言葉が「200寅ちゃん」収蔵されます。
ネコの寅ちゃんが言うことは、僕の意見ではありません。僕はあくまでも翻訳しただけなので、著者は寅次郎名義です。
でも、内容は知っているので、200寅ちゃん読むとなんだか心動かされることは約束できます。

特装版はレザー張りの表紙で、9月20日までの予約数に応じて製作する予定。ですので、予約しないとほぼ手に入らないとお考えください。
レザーは黒、焦げ茶、茶色、グレーなどで、牛革もあれば山羊革もあるので、基本的にはどんなレザーがお手元に届くかはそのときまでのおたのしみ(11月発送予定)。

通常版は紙の表紙で、撮影したレザーを印刷したデザインになります。

ランダムにいくつかご紹介:

 あー、うっとうしいw

飼い主から見た寅次郎は、ボイトのように暴力的で、ボッシュのようにしつこくて、沢崎のように腹立つネコなのですが、たまに古くさくてもよいことを言いますので、ぜひ購入をご検討いただきたいです。

いまどき革張りの書籍なんて作らないし作れないんですよ。しかもただの写真集ではなくて、1ページ1ページ、デザインがちがう…。
これは、ただの本を超えたなにかになるはずです。

 ご予約はこちら:

asokamo.shop-pro.jp


Thanks.


タイトル:『寅ちゃんはなに考えてるの?』
著者:寅次郎
版元:ネコノス
デザイン:上田豪
撮影:田中泰延(特装版)
レザー協力:内山高之
印刷ディレクター:ムラ係長
訳者:前田将多

「世界はなにをそんなにサステインしたいのか」

いま、世界中を覆い尽くす大問題は「偽善」なのではないかと思う。
もちろん、ウィルスは喫緊の問題なんだけど、ワクチンのおかげで克服の道筋がついた。そのうち治療薬も出てくることだろう。

アディダスが名品スタンスミスにレザーを使うことをやめて、合皮に変更したという。
そして、それを“サステナブル”と称している。

mens.tasclap.jp

それを履いて焼肉屋に行ったらもう矛盾する。
スタンスミス・ユーザーの全員がビーガンだというなら「はい、がんばってください」と言うしかないが、牛革というのはすでに廃品利用素材なのだ。

牛の肉を食べるでしょ。日本人は内臓も食べるでしょ。
皮と骨が残るんですよ。
骨はいかんともしがたいから棄てるとして、皮は防腐されて革になる(2021.6.3追記:牛骨も砂糖の漂白やゼラチンの精製に使われるそうです)。

レザーというのはそういうものなのである。
毛皮のために動物を養殖して殺すのとはわけがちがうのだ。

動物を殺さないで自分が食っていくというのは結構な理念だけど、植物は殺していいのか。
僕にはその答えはまだわからない。

種から一生懸命に芽を出し、生きたい一心で土の上に茎を伸ばし、太陽を浴びて元気に葉を広げ、生を謳歌するように花を開いて、やがて自分の遺伝子を残すための種子を内包した実を結ぶ。
そういう葉っぱとか実とか根を、掻っ捌いて、グツグツ煮て食べていいのかどうか。
植物に意思がないのかどうか、僕は知らないし、仮にないとするなら、「意思がないものはその命を奪ってもいい」ということになり、それは「津久井やまゆり園殺人事件」の植松聖死刑囚と同じ考え方に通じてしまわないか。

ことさらにビーガン批判をしたいのではない。
僕は牛や豚や魚は食べるが、犬は食べない。
自分としてはその「差別」について、ぼんやりと「知能が高い動物は食べたくない」と考えている。
その知能とは「僕とコミュニケーションできるかできないか」をなんとなくの境界線にしているものの、人によっては「牛は人になつく」という。

f:id:ShotaMaeda:20210531191433j:plain

僕のカウボーイとしての経験からは、牛の知能ではほとんどコミュニケーションはできない、と考えているが、飼い方によってそうではないのかもしれない。
もちろん、よく見たらかわいいので、よく見ないようにしていた。
このあたりは拙著『カウボーイ・サマー』でも触れた。

結局、かなり知能が高いクジラだって店で出されりゃ食べてしまう。

そして、再び「コミュニケーションできないなら殺していい」という植松聖の狂気と同じところにたどり着かないか。僕は自分の考えに苦しむ。

しかし、苦しんでいても腹は減るから、やっぱり肉を食べる。

ことさらに批判するつもりはないと言った舌の根も乾かぬうちに恐縮だが、僕はビーガンは「食うに困らない都会生活者の戯言」と考えている。
一日キツい肉体労働をしたあと、這う這うの体で野山から人里に帰り着いたとき、肉が食べたくなるのである(個人の感想です)。
なにも食うものがなくて、目の前にウサギがいたらやむを得ず殺して食べてしまうのだ。
だから、都会で裕福な人が趣味としてビーガンやるのは別にいいのではないか。

選択が増えることもいいことだ。電子書籍ができても、紙の本はなくならず、用途に合わせて選べるのと同じだ。

そこにサステナブルだとかなんとか、大層な御説をくっつけて、生きる環境のちがう人に押しつけてくるから問い詰めたくなるのである(問い詰めないよ)。

 解説しよう。
人工肉をヨシとして、肉をダメとする人は、結局、科学的に培養してまで「肉を食べたい」んじゃん、と思うのである。そこまでして肉を食べたいわけでしょう。

肉が嫌いなら、それはそれでいいので、葉っぱとか豆を食べておいたらいいのでは。

つまり、「本当は愛のあるセックスをしたいのに、それができないから、おカネを払ってその代替サービスである風俗店を利用する」のでしょう。

ここでは女性の性の搾取や貧困との結びつきについては分けて措くので、別の議論を持ち込まないことにするが、人工肉と性風俗はこんなふうに似通っている、という、まぁワタシの戯言でした…。

動物であれ植物であれ、命を食べないと生きていけないわけだし、誰かに羞恥を超えて裸になってもらわないとセックスはできないわけだ。
そういう厳しさとか、恥ずかしさとか、他者の負担をないことにして、なにをサステイン(持続、保持)したいのだろう。自分自身の「独善性」としか僕には思えないんだな。

独善性を分解すると、自分は正しいということ、自分は善であること、自分は加害者でないこと。それは、煎じ詰めると、自分は生きる価値があると思いたいこと、である。

そこまでしないと、自分の生きる価値を認められない蒙昧を、人間性も動物の命(バッファローやクジラ)も資源もさんざん収奪してきた白人の国がこしらえた横文字で飾りつけるのは、やはり偽りの善、すなわち偽善なのではないかと思う。


僕の考えが原始人なのかもしれんが、原始人なりに、すでに血管に入ってしまって止めようがない毒のような、偽善について憂うのである。

「恋のドアは、開けておけ」

ラジオで悩み相談の番組を聴いていたら、こんな質問だった。
「私は恋愛に興味がなくて、彼氏もほしくありません。親や友人など、まわりの声も鬱陶しいし、本当に価値観を押しつけてほしくないです。こんな生き方は許されないのでしょうか」

それに対して、スタジオに遅刻してやってきたIKKOさんがいつもの調子で、
「そんなの、もっ・た・い・な~い~!♡♪」
と答えていて苦笑してしまった。

ほかの回答者からは、
「恋愛は、他者を思いやる気持ちとか、自分のダメなところを学べる最強の機会なので、あきらめてほしくはない」
という理性的な言葉もあり、NHKらしいバランスであった。

僕の親しい後輩にも、僕と知り合って十数年、30越えてもカノジョがいるところ一切見たことない滝下くん(仮名)という男がいる。
意識が高すぎて、昼間はアートディレクターとして働き、残業でどんなに遅くなっても毎晩10Km走り、サウナに通い、週末はひとりで山に登る。カレー作りにも一時期ハマっていたが、「スパイスから作りだすと一日かかるので……」と、最近はしていないそうだ。

「あいつは、晩年は山奥の小屋に住んでヨガをやって暮らすだろう」と、我々仲間のあいだでは言われている。

過去には、僕も滝下くんに対して、IKKOさんのように「きみは毎日なにが楽しいねん」と問うたことが何度かある。しかし、ジョギングして、サウナ行って、山登りするのが楽しいらしいので、それ以上なにを言ってもムダなのである。

滝下くんは、僕が過去に書いたコラムの中で、「クルマを運転したくないのは、加害者になる可能性があるから」と答えた人物だ。

 

magazine.kinto-jp.com

 訊いたことはないが、もしかしたら恋愛に関しても同じように「加害者になるから」と考えているのかもしれない。

自分自身の若いころを振り返ると、僕にも一時期「恋愛などしたくない」と思っていたことはある。理由はちがう。
それは「僕と付き合ってください」「デートしてください」「セックスしたいです」など、恋愛というのは自分の要求ばっかりで、なんじゃこりゃ? 利己の追求も甚だしいな、と考えていたからだ。

 好きな人の時間を奪う、人生の一部を借りる、肉体と交わる。それを要求するような権利や、それに見合う価値など自分にあるのだろうか、何様なのだろうか、と思っていたのだ。

好きな人がいて、その人の幸福を願うなら、彼女が好きなようにするのが一番なのであって、自分の要求に応えてくれたとしても、彼女の幸福など約束できない。オレはそんな無責任はしたくない。

もしもそのコが、自らの選択においてオレといたいというなら、それはヤブサカではないが、こちらからオファーを出すことなどおこがましい。
オレが素っ裸で横たわって、静かに目をつむり、「好きにして♡」などと言えればいいが、そんなニーズが見いだせない。

19、20才くらいのころじゃないかな。そんな時期に、そんなふうに考える男が、モテるわけないよね……。

かくしてモテない青春時代を送ったのであった。

 

加害/被害の対立構造で恋愛を考えたことはないが、大人を長いことやっていると、その両方になったことはある。
“加害”してしまったことはトゲのように時折チクリと胸を刺すし、その後の行動に判断を下す上で抑制になることもある。それが人間としての成長ということなのだろうと思う(ちなみに、小学校を卒業して以来、女性を殴ったことはないので誤解なきよう)。

“被害”を受けたことはもはやどうでもいいことだが、そう、大人になって、自分の価値も独善も、いろんなことがどうでもよくなった。晴れて、雑で穢れた大人になったのだ。

何事も、あまりくよくよと考えていいことはない。

僕は考えることをやめた。考えることは寅ちゃんに任せて、たまにそれを聞かせてもらえればよい。

 どうしてお腹が減るのか、どうして夜は眠たくなるのか、いつまでも考える人はいないだろう。そして、その考えを人に認めてもらおうとすることなど無意味なので、その前に食べるなり眠るなりしたらいいのだ。

人類というのは、恋をしてセックスしないと絶滅するわけで、本能に組み込まれたことに意味を見出そうとしたり、抗おうとしたりしてもムダである。
大切なのは、ドアを開けておくことではないだろうか。そうすると、いつか誰かが入ってくる。
いや、いつまでたっても入ってこないこともある。だけど、誰かを無理矢理に入れることはできないし、わざわざ鍵をすることもないだろう。

 

f:id:ShotaMaeda:20210430220051j:plain

もらった釣銭が多くて、返しに行った先の店員と仲良くなることもあるだろう。
人数合わせのため草野球に呼ばれてしぶしぶミットを持って行ったら、二塁手が女性で、ど真ん中ストライクなこともあるだろう。
自転車のチェーンが外れた女の子を助けたら、恋のホイールが回りだしてしまうこともあるだろう。ないか。
となりの家から電線をひっぱって電気を盗んでいたのがバレて、謝りに行った先の娘に電撃が走ることもあるだろう。ないか……。

しかし、僕は、男に限った話だが、バーカウンターで「火を貸してくれ」と言ってきたドイツからの男と友達になったし、アメリカの学生寮の共用キッチンで料理をしていて、向かいの部屋にバターをもらいに行って、そこに住む男と親友になって20年以上がたつ。

ドアを開けておいたからだ。
若いきみには、たまにまちがえたかのように恋の対象が入ってくるかもしれないじゃないか。

そんなものだ。

だけど、滝下よ、深夜に10km走っても職質されるだけだし、朝からカレーを仕込んでる部屋とかサウナに女の人が入ってくることはないからな。きみのひとり用テントに突如入ってくるのは、熊くらいのものだ。

やっぱり、あいつはヨガするしかないな。ヨガ教室が人気出て、それが高じて、変な反動で、いやらしい宗教とか開きませんように……。