月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「世界はなにをそんなにサステインしたいのか」

いま、世界中を覆い尽くす大問題は「偽善」なのではないかと思う。
もちろん、ウィルスは喫緊の問題なんだけど、ワクチンのおかげで克服の道筋がついた。そのうち治療薬も出てくることだろう。

アディダスが名品スタンスミスにレザーを使うことをやめて、合皮に変更したという。
そして、それを“サステナブル”と称している。

mens.tasclap.jp

それを履いて焼肉屋に行ったらもう矛盾する。
スタンスミス・ユーザーの全員がビーガンだというなら「はい、がんばってください」と言うしかないが、牛革というのはすでに廃品利用素材なのだ。

牛の肉を食べるでしょ。日本人は内臓も食べるでしょ。
皮と骨が残るんですよ。
骨はいかんともしがたいから棄てるとして、皮は防腐されて革になる(2021.6.3追記:牛骨も砂糖の漂白やゼラチンの精製に使われるそうです)。

レザーというのはそういうものなのである。
毛皮のために動物を養殖して殺すのとはわけがちがうのだ。

動物を殺さないで自分が食っていくというのは結構な理念だけど、植物は殺していいのか。
僕にはその答えはまだわからない。

種から一生懸命に芽を出し、生きたい一心で土の上に茎を伸ばし、太陽を浴びて元気に葉を広げ、生を謳歌するように花を開いて、やがて自分の遺伝子を残すための種子を内包した実を結ぶ。
そういう葉っぱとか実とか根を、掻っ捌いて、グツグツ煮て食べていいのかどうか。
植物に意思がないのかどうか、僕は知らないし、仮にないとするなら、「意思がないものはその命を奪ってもいい」ということになり、それは「津久井やまゆり園殺人事件」の植松聖死刑囚と同じ考え方に通じてしまわないか。

ことさらにビーガン批判をしたいのではない。
僕は牛や豚や魚は食べるが、犬は食べない。
自分としてはその「差別」について、ぼんやりと「知能が高い動物は食べたくない」と考えている。
その知能とは「僕とコミュニケーションできるかできないか」をなんとなくの境界線にしているものの、人によっては「牛は人になつく」という。

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僕のカウボーイとしての経験からは、牛の知能ではほとんどコミュニケーションはできない、と考えているが、飼い方によってそうではないのかもしれない。
もちろん、よく見たらかわいいので、よく見ないようにしていた。
このあたりは拙著『カウボーイ・サマー』でも触れた。

結局、かなり知能が高いクジラだって店で出されりゃ食べてしまう。

そして、再び「コミュニケーションできないなら殺していい」という植松聖の狂気と同じところにたどり着かないか。僕は自分の考えに苦しむ。

しかし、苦しんでいても腹は減るから、やっぱり肉を食べる。

ことさらに批判するつもりはないと言った舌の根も乾かぬうちに恐縮だが、僕はビーガンは「食うに困らない都会生活者の戯言」と考えている。
一日キツい肉体労働をしたあと、這う這うの体で野山から人里に帰り着いたとき、肉が食べたくなるのである(個人の感想です)。
なにも食うものがなくて、目の前にウサギがいたらやむを得ず殺して食べてしまうのだ。
だから、都会で裕福な人が趣味としてビーガンやるのは別にいいのではないか。

選択が増えることもいいことだ。電子書籍ができても、紙の本はなくならず、用途に合わせて選べるのと同じだ。

そこにサステナブルだとかなんとか、大層な御説をくっつけて、生きる環境のちがう人に押しつけてくるから問い詰めたくなるのである(問い詰めないよ)。

 解説しよう。
人工肉をヨシとして、肉をダメとする人は、結局、科学的に培養してまで「肉を食べたい」んじゃん、と思うのである。そこまでして肉を食べたいわけでしょう。

肉が嫌いなら、それはそれでいいので、葉っぱとか豆を食べておいたらいいのでは。

つまり、「本当は愛のあるセックスをしたいのに、それができないから、おカネを払ってその代替サービスである風俗店を利用する」のでしょう。

ここでは女性の性の搾取や貧困との結びつきについては分けて措くので、別の議論を持ち込まないことにするが、人工肉と性風俗はこんなふうに似通っている、という、まぁワタシの戯言でした…。

動物であれ植物であれ、命を食べないと生きていけないわけだし、誰かに羞恥を超えて裸になってもらわないとセックスはできないわけだ。
そういう厳しさとか、恥ずかしさとか、他者の負担をないことにして、なにをサステイン(持続、保持)したいのだろう。自分自身の「独善性」としか僕には思えないんだな。

独善性を分解すると、自分は正しいということ、自分は善であること、自分は加害者でないこと。それは、煎じ詰めると、自分は生きる価値があると思いたいこと、である。

そこまでしないと、自分の生きる価値を認められない蒙昧を、人間性も動物の命(バッファローやクジラ)も資源もさんざん収奪してきた白人の国がこしらえた横文字で飾りつけるのは、やはり偽りの善、すなわち偽善なのではないかと思う。


僕の考えが原始人なのかもしれんが、原始人なりに、すでに血管に入ってしまって止めようがない毒のような、偽善について憂うのである。