月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「きみの中の、なにかを進めるのが旅なのではないか」

もう2年半近くも海外に行っていないことになる。
まぁ、そんなに長い時間でもないけど、どうもこの2022年もムリなんじゃないか、つぎはいつになるんだろうと考えると心が重たくなる。
特に近年は、2017年(カナダ→サンフランシスコ)、2018年(ミラノとテキサス)、2019年(シアトル)と毎年どこかへ行っていたので、なおさらかもしれない。

そんなわけでか、最近は昔のことをよく思い出す。
90年代前半は、まだインターネットが普及する以前であった。一度外国に行けば、毎日のように安否を確認することや、起きた出来事を伝えることはできなかった。

僕が18才でアメリカの大学に行ったとき、入学の前に両親と旅行をした。
テネシー州ナッシュビル。父と僕が好きだったカントリーミュージックの中心地だ。兄と弟は日本に残った。

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ナッシュビルには、グランド・オール・オプリー・ハウスというカントリーの殿堂とされる劇場があって、そのステージに立つことはカントリー歌手の誉れである。そのときは、GAOHには建物の前までしか行かなかったが、隣接したオプリー・ランドUSAというテーマパーク(1997年に閉館してモールになった)の中の屋内ステージで、Doug Supernawという歌手のコンサートを観た。

ダグ・スーパーノウは”I Don’t Call Him Daddy”という曲がヒットしていて、僕も父親も好きだった。

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歌の内容は、離婚した男が、元妻が新しい男と住む町へ息子に会うために行きたいが、生活もギリギリで時間的余裕もない。硬貨を握りしめて息子に電話して言われた、「僕はあの人をパパとは呼ばないよ。パパとはちがうから」という言葉に涙する、という市井のアメリカ人の生活感を伴ったものだ。
カントリーはいつも庶民の音楽で、日常の悲しみや喜びを歌にして伝えてくれる。

僕は一丁前にカウボーイハットをかぶって席に座っていたのだが、うしろの女性から帽子をチョイチョイと触られ、
「+&$@X%...ヘッロー」
と言われた。
なにを言われているのかわからなかったので、訊き返すとどうやら「ステージが見にくいからハットを取ってくれないか」と言っているようである。
ヘッローは”hat off”だったのだ。

”Would you mind if I ask you to take your hat off?“とかなんとか言っていたのだろう。
僕は素直にハットを頭からとったが、いま考えると、カウボーイに対して「ハットを取れ」などとよく言ったものである。
こちらも観光客なら、向こうもお上りさんだったのだろうが、エチケットとしてはたしかに、男性は屋内では帽子を脱ぐことになっている。しかし、カウボーイは例外なのである。
だから、映画の中で、サルーンのバーカウンターでウィスキーを飲むカウボーイたちはハットをかぶったままだ。
さらに言うと、ひとのカウボーイハットに断りもなく手を触れることはご法度だ。
これは本当なので覚えておいてほしい。

しかし、当時の僕はそんなこと知らないし、英語よくわかんねーし、アメリカ人でけーし、こえーし、なにも言わずに従ったのだった。
まぁ、いまでも「おいおい、きみはカウボーイに対してハットを脱げと言っているのか? このハットをか?」などと僕が言うかと言えば、言わないと思うけど。言ったとしても冗談とわかるように言うだろうし、前が見えにくいなら帽子くらい取りますけど……。
僕もライブハウスで、背の高い男が自分の前に立つとイヤだもん。

数日間のナッシュビル滞在をたのしんだあと、僕は両親と空港で別れることになった。
僕はそこからバージニア州ノーフォーク空港へ飛び、彼らは日本へ向かう。
僕が飛行機の通路へと歩き去る際、母親はカメラを構えていたが、なんだか照れくさいし、これからはなにがあってもひとりでなんとかしなくてはならない恐怖もあったし、僕はすぐに背を向けて背中越しに手だけ振った。
後年、母は「写真にうしろ姿しか写ってないじゃない」と文句を言ったが、それはそれでいい写真だったのではないだろうか。

田中泰延さんと上田豪さんとのトーク配信で語ったことがあるが、「いまでももう一度してみたい体験」は、このあとノーフォーク空港に降り立ってからの逸話だった。

『僕たちはむつかしいことはわからない』(1時間37分50秒あたり)

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バージニア州の南隣りのノースキャロライナ州の小さな大学から迎えが来ているはずだったのに、誰もいない。15分待って、30分くらい待っただろうか。
さすがに不安に耐えきれなくなった僕は大学の留学生担当者に電話をしようと公衆電話を探した。番号が書いたメモ帳を探して、コインを出して、えーと英語でなんて言えばいいんだろう……と考えていたところで、ちょうど肩をつんつんとされた。
迎えの人らしき黒人のおじさんがそこにいて、「きみがショータか?」と訊かれた。
「そ、そうです。そうです。ジャパンから来ました」
「日本人なんて滅多にいないからすぐわかったよ、ハハハ」

ということで、大学名が横腹にプリントされた白いヴァンに乗せられて、1時間半ほど揺られる。
そのときに「オレ、これからどういう場所に連れて行かれるんだろう……」という、これまで感じたことのない不安な気持ちで車窓から眺めた、広い広いコーン畑の茫漠。
傾きはじめた太陽の光が、コーンの穂先を淡く縁取る寂寞。
なにかができるから来たわけではなく、なにもできないのに来てしまった、息苦しいような当惑。

カウボーイがラッパーになってライム(韻)をキメちゃうくらい、とにかく不安の重たさがすごかったのだ。
それなのに、いま46才で振り返ると「あんな感情はもう持ちえないのだろうか」と、もう一度味わってみたい気持ちがこみ上げて来もするのである。

だからこそ、その縮小再生産でもいいから、あの心がキュッとするような鋭敏な感覚を求めて、旅を繰り返すのだと思う。

二年後、僕の弟もアメリカで進学することになり、僕はなにも手を貸していないのだが、彼も自分で学校を決めたようだった。新学期がはじまる九月まで英語学校に行く予定で、夏休み中にまた両親と渡米してきた。
休暇に入ったばかりで一時帰国前の僕がテキサス州ダラスで合流して、ジョンFケネディー博物館などを訪ね、ダラスの街を観光した。

そして、二年前にナッシュビル空港でそうしたように、今度は弟だけがカンザスへ飛び、僕と両親は日本へ帰ることになった。
弟が、たぶんあのときの僕と同じような表情を浮かべて機内に消えると、母は人目も憚らずに泣いた。父に抱きついて泣きじゃくった。
僕はあんなに泣いた母を見るのははじめてだった。そして、同時に気づいた。
きっと僕を見送ったときにも同じように泣いたのだろう、と。

それを確かめたことはないけど、「いや、あんたのときは、空港でホットドッグ食べて、日本に帰ったわよ」とか言われたらメンボクない。

いま当時の母親くらいの年齢になって、僕が思うに、自分の身の一部が引き剥がされるような辛さがあったのではないだろうか。
僕には子供がいないからわからないけど、もしも寅ちゃんが旅に出ると言ったら「気をつけてな」と送るだろう。

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「気をつけてな、寅ちゃん」

でも、ジョージくんだったら「ダメ絶対!」と離さないだろう。

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「ジョージくん、なにかまちがってるよね」

僕はノースキャロライナで、さんざん恥をかきながらアメリカ生活になんとか順応していった。

授業で「なにか宿題が出た」ということは理解できても、なにが宿題かよくわからないので、毎回授業のあとに教授のところに行っては、「あのー、宿題はなんでした?」と尋ねたものだ。
社会参加意識の高い友達に誘われてはじめて献血をしたときは「取られる血液の量はたったの1パイントだから大丈夫だ」なんて言われたが、パイントという単位がどれくらいかわからなかった。
それが473mlと、わりとたっぷりなことをあとになって知った。
僕は午後の授業で貧血になって机に突っ伏した。

いつものように教授のところに宿題の内容を訊きに行くと、「寝てるからだ!」なんて小言を言われたが、「いえ、ちがうんです。献血をしたもので……」としどろもどろに拙い英語で言い訳をして、小さな屈辱を飲み込んだ。

とにかくあの頃はわからないこと、言えないことが悔しかった。ふつうのことができないということに無力感を覚えた。アジア人の男がモテないことに劣等感を味わった。
英語の壁は途方もなく高かった。

「青春というのは、なにもかもが恥ずかしい時代だ」と、たしか中島らもが書いていた。
三島由紀夫は『金閣寺』の中で、「そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在していないと言う贅沢な不満から生まれるものではないのか」と主人公に述べさせている。

僕は十分かどうかは定かではないけど、一応ちゃんと存在はしてるし、恥ずかしい思いもするけれど、少なくとも46才のいまなら、わからないことは堂々と「わかりません」と言える。英語なんか、いまでも6、7割しかわからないし。
わからないことは恥ずかしくないし、スベるのも恐れずに、あの手この手でまわりの人をもっと笑わせることもできるだろう。

小学校も中学校も高校も、会社員時代も、それなりにたのしかったけど、戻りたいとは思わない。
しかし、アメリカの大学には、現在の厚かましいおっさんのままで、恥知らずな鈍感さのままで、このヒゲを生やしたままで、このウィスキーを飲める量のまま(当時は一切飲まなかった)で、戻ってみたいとは思うことがある。

もちろん、戻ることはできないから、せめて先に進みたい。新たな旅がしたい。
振り返れば、僕のスゴロクの駒がこれまでに止まってきた、ここやあそこに、旅があったように思う。

 

(了)

 

先月トバしましたが、”寅ちゃん本”が発売になっております。Thanks.

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そういえば、これだって旅の話です。

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