月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「なんだか泣けた夜の話」

45才になりました。信じられません。

成人して四半世紀、25才で会社に入ったから、社会人20年ということになる。
人生50年ならもう晩年を迎えているのに、大したことはしていない。

同じ45才で亡くなった著名人たちを挙げると、
クイーンのフレディー・マーキュリー
ジャズピアニスト、歌手のナット・キング・コール
イリュージョニストの初代引田天功
そして、作家の三島由紀夫がいる。

近しい年齢では、『スローカーブをもう一球』のスポーツライター山際淳司(46才)、ジョンFケネディー35代米国大統領(46才)、写真家・探検家の星野道夫(44才)などがいて驚く(敬称略)。

ちなみに世を去った年齢は、享年で表記すると年を越えた時点で1才足されるので、ややこしい。今回は、死没した時点での年齢で表わした。

数日前の11月25日が、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地において三島由紀夫が割腹自殺をした日から50年だったので、新聞やテレビをはじめとしたメディアで三島が次々と取り上げられ、書店には三島関連本が多く並んでいる。

三島由紀夫についてはあまりに多くが語られているため、僕が思うことなどここでは割愛するが、
「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう」
という、三島がサンケイ新聞(現・産経新聞)に寄稿した随筆の有名な一節を、現代に読んでなにかを思わない人はいないであろう。

かと言って、自分を顧みて、自らの腹を掻っ捌いてまで訴えたいような、激烈ななにかを僕は持っていない。

それは哀しいことのようにも思えるのだが、ないからこそ45年目も元気に生きられそうな気がして、今夜は凡人に生まれた僥倖を静かに祝おうか。

上記の偉人たちに比べたら、そりゃなにもしていないに等しいのだけど、小さい人生には小さいなりにいろんなことが起こり、まずまずがんばってきたし、「いつ死んでもいいや」と思えなくもない。

しかし、僕はある大阪の名士(仮に井上さんとしよう)に説教された日を忘れない。

僕が書いたコラムを田中泰延さんフェイスブックでシェアして、それを読んだ井上氏が僕たち二人を呼び出した。

曰く「きみたちに酒を奢りたいのだが、一席設けさせてくれないか」。

僕は氏とは初対面だった。

靴を脱いでお座敷に上がるような料亭に案内されて、料理をごちそうになったあと、三人は彼が行きつけにしているバーに入った。
高い竹鶴を用意してくれていて、それを飲ることになっていた。
何杯目かのウィスキーののち、僕はなにかの拍子に「いつ死んでもいいと思っている」旨を述べたのである。
僕は14年勤めた電通を辞め、カナダでカウボーイをして帰国し、本(原稿)も書き終えたころだったと思う。ちょっとした虚脱感と、先への不安を抱えていたのだった。

そのとき、井上氏は言った。
「僕はな、四肢のない水泳選手が、プールで泳ぐのを見たことがある。溺れているのか泳いでいるのかわからないモゾモゾした動きで、観客ははじめぎょっとして見ていた。しかし、彼は沈みそうになりながらも着実に進み、ゴール間近になると、観客はみんな立ち上がって、もう大声援や。僕は心を揺さぶられてもうてな。
……だから、五体満足なきみは、そんなこと言うたらあかん」

彼は僕を指ささんばかりにつづけた。
「能力を、使い尽くせよ。やれることはぜんぶ、やれよ」

僕は不覚にも初対面の男の言葉にシビれて、涙してしまったのだった。

 

あれからまた何年か過ぎ去り、僕はまた誕生日を迎えてしまったのだが、45才にもなれば自分の能力はわかっているつもりだし、見えてしまいそうなその限界に抗いながら、どうしたらそれを使い尽くすことができるのか、考える毎日である。
ウィスキーを飲みながら、命を浪費しながら、サボりながら、考えている。

教えてよ、寅ちゃん……。

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「知らんわ」