映画カフェバー「ワイルドバンチ」(大阪市北区長柄中1丁目4−7)で毎月開催されているトークイベント『食っていく、という話をしよう』の第7回に呼ばれて、90分お話ししてきた。コロナウィルス騒動にもめげずに来てくださった皆さん、ありがとうございました。
そこでお話しした内容を掻い摘んで、そして、その場で話せなかったことも加筆して、書いておこうと思う。
この『月刊ショータ』では、僕自身のことは「誰が興味あるねん」と考えて、なるべく書かないようにしているのだけど、今回はご容赦ください。
ある男の青春記としてお読みいただければと思います。
■アメリカの大学へ
都立高校卒業後に、ノースキャロライナ州の小さなカレッジで一般教養課程を2年半で終えて、州立のウェスタンケンタッキー大学に三年生として編入し、社会学とマスコミュニケーション専攻で卒業した。
そもそもアメリカの大学に行こうと思ったのは、カントリーミュージック・ファンで、つまりアメリカかぶれだった父親の影響である。
高校一年の春休みに家族旅行ではじめての海外に連れて行ってもらったのが、フロリダ州オランドだった。ディズニーワールドやユニバーサルスタジオがある観光地だ。
フロリダの空の大きなこと、青いこと、芝生が輝くような緑だったことは、16才の目には「こういう国に住んでる人もいるんだ!」と衝撃的だった。
自由で個人の考えを重んじる家庭教育方針の父親だったので、はやくから「大学をアメリカで行くという手もあるんだぞ」と言われていた。だから、「じゃあ、そうしてみる」と決断するのは自然なことでもあった。
しかし、手続きのすべてを自分でしなくてはならなかったから、インターネットも世間一般にはない90年代に、僕は本を買ってきて、間違いだらけの英語で大学に手紙を書いて、入学の方法を問い合わせた。
そのころは、将来の夢を訊かれたら「映画監督」と答えていた、と今回自分の来し方を振り返って思い出した。池袋の文芸坐にせっせと通う高校生だったから、文学としての、エンターテインメントとしての、総合芸術としての映画に心酔していたのだ。
だけど、スピルバーグが出た南カリフォルニア大学の映画学科に行こうと思ったら、学費が年間200万円を超える。これはいくら父親が「教育にはカネに糸目はつけん」と言ってくれていて、1ドル=88円くらいの超円高の時代とはいえ負担が大きすぎるので、せめて日本の私大と同じくらいの学費をメドに学校を選んだ。
そして、そのころには僕も父親と同じくらい熱心なカントリーミュージック・ファンになっていたから、地域的にカントリーが聴ける南部の田舎に行きたかった。
そこでノースキャロライナであり、ケンタッキーだったのだ。
本当は、カントリー音楽業界の中心地として、レコード会社やスタジオやミュージック・バーが集まるナッシュビルが州都のテネシー州に行きたかった。
しかし、学費の面や人種構成の面で適した大学が見つからなくて、北へ70マイル(約110キロ)離れたケンタッキー州ボウリング・グリーンを留学生活のメインの場所にしたのである。
面と向かってそう言われたことはないが、父親は僕がやがてはナッシュビルでカントリー音楽関連の仕事に就くことを期待していたようだ。
学生生活を送るうちに、映画監督の夢はなんとなく立ち消えて、僕の興味はものを書くことに移っていった。雑誌ライターとか、今はもう死語と言ってもいいかと思うけどルポライターになりたかった。なんだか得体の知れない、いかがわしいけど、独立していて自由な仕事に憧れた。
言葉も不自由な外国で、よくわからないけどなんとかしていくことの連続である留学生活と、社会学のフィールドワークを通じて、知らない人に問い合わせてお話を聞いたり、密着取材をさせてもらったりするようなことは、自分にとって得意なことなのではないだろうか、とおぼろげに感じたのだ。
文章に関しては、中学のときに、夏休みの宿題として出ていたわけでもないのに、勝手に映画の感想文をしたためて国語の先生に提出したら、「おもしろいから、コンクールに出しとくわ」と言われたことがあった。
高校時代には、クラスに「誰が書いてもいい交換日記帳」のようなノートが一冊あって、あるとき僕が「オタク論」みたいなことを書いたら、みんなが「おもしろい」「そうだそうだ」「もっと書け」と言ってきたことがあり、”伝説の新聞記者(笑)”の孫として、これも得意なこととかなり早い段階で認識していた。
ケンタッキーの大学で社会学とマスコミュニケーションを専攻した際、マスコム(英語ではマスコミではなく、こう発音する)の中には、広告、パブリック・リレーションズ、ジャーナリズムの3つの授業があった。
ひと通りすべて単位をとったときに、「ジャーナリズムは文体に独特の制約があるから僕には向かない。やるなら、広告コピーの方がいい」と思った。それで、サラリーマンをやるなら広告会社がたのしそうだ、と考えた。
アメリカの大学は5月と12月の学期の終わりごとに卒業のタイミングがあり、僕は98年の12月に卒業した。しかし、そこから帰国して就職活動をすると、いわゆる新卒扱いにならない。フリーターになってしまうのだ。
だから、日本のスケジュールにアジャストする目的と、もうちょっと社会学をやりたいという理由で、法政大学の大学院に行った。あわよくばそのまま大学教授になって、「小難しい話をわかりやすく書く」ことを仕事にできるかもしれないとも思った。
ところが、大学院というところはその正反対の場所で、「かんたんな話でも小難しく書く」ことがヨシとされているような感じだった。もっと言えば、「小難しく書く芸」を競うかのような雰囲気があり、アメリカの大学で触れた社会学とはだいぶ様子がちがい、僕はうまくなじむことができなかった。
であるなら、「ややこしいことをわかりやすく伝える」コピーライターの方がやりたいと考えた。
就職活動では、電通とADKの2社だけ受験して、落ちたらどこかの編集プロダクションに潜り込んでライター稼業にありつこうと目論んだ。そしたら、電通に受かってしまったので、大学院を中退して、コピーライター志望として入社することになった。
■電通でのこと
電通に入社するとまず、新入社員研修が当時は2か月間あり、最後に配属が発表される。
僕は実家が東京の練馬にあり、当時新社屋だった汐留まで大江戸線で一本だから、当然東京配属になると思っていたら、関西支社と言われた。しかも、部署も(コピーライターやアートディレクターが所属する)クリエーティブではなく、プロモーションという、なにをするところなのかよくわからない局に行くことになった。
プロモーションというのはセールスプロモーション(SP)分野の業務をするところで、内容は幅広い。展示会ブース、街角でのPRイベント、店頭販促物、懸賞キャンペーンなどなど、あらゆる「手間がかかるわりに予算が少ない」仕事を担当した。
関西支社の売上など、電通全体の1/5くらいで、さらにプロモーションは関西支社の中の1/10くらいの規模だったから、気楽なサラリーマンとしては非常にたのしい部署だった。
それでも、初心はコピーライターになるために就職した会社なので、それをしないからには「オレはなんのために入ったんだ」という気はしていた。
だから、クリエーティブ局員でもないのに、クリエーティブの人たちとの会議には勝手に「CM案」を絵コンテにして提案していた。
CD(クリエーティブの部長)には「お前、またなんか書いてきたんか」みたいに半分煙たがられ、半分かわいげのあるやつじゃと思われていたのではないだろうか。
クリエーティブの人は総じてプライドが高いものだから、他部署の若手が出す案など採用されるわけはなく、いつもなにか書いて見せては「お前このCM案、30秒に入らんやろw」と一笑に付されたり、およそ歯牙にもかけられなかったりするのだが、営業さんの中には、あとになって「前田の案、あれよかったよな……」と苦笑まじりに言ってくれる人もいた。
もちろん今から思えば、広告クリエーティブの訓練を受けていない人間の出す案など、たわいなさすぎるものだったことは確かだったはずだ。たまにクライアントが出してくるしょーもなさすぎる広告案に毛が生えたようなものだったろう。
(当時)クリエーティブ局に転籍するには、社内の試験があり、入社3年目から10年目までで、所属長の許可を得た社員に受験資格があった。
僕はその試験に3年目で落ち、5年目で受かった。
CDが無記名の答案用紙(ただの白い紙にペンで課題への企画を書いたもの)に採点をして上位が一次通過して、二次は役員面接がある。僕が一次を通過したときに、採点担当だったCDが、前出の「お前、またなんか書いてきたんかw」とおもしろがってくれていた方で、
「高得点だった企画のフタを開けてみたら、前田やないか」
と、そういう縁にも救われた。
僕は、それ以来およそ10年間コピーライターをした。
名刺の肩書がコピーライターになったからといって、いきなり仕事があるわけではなく、先輩のうしろをウロウロするくらいなのだが、はじめて仕事らしい仕事に呼んでくれたのは、あのCDだった。彼が引退するまで、大変お世話になった……。
世話になったといえば、コピーライターになって1年目に父親がこの世を去った。行きたかった部署に5年目で移って、がんばらなくてはいけない時期だったが、末期ガンの父親に会いに行くために毎週のように東京へ帰っていて、ちゃんと企画できる精神状態ではなくて困った。
実家のベッドに、書いたコピー案の紙をズラズラ並べて、携帯電話で先輩と何事か話す。そんな姿を見て、僕の家族は「こいつはなんちゅう仕事をしてるんだ」と思ったかもしれない。
アメリカに住んでいる弟も一時帰国してきていた。
病床の父親は「俺が早く死なないと、あいつがアメリカに帰れないな……」と、顔半分で笑って、ハードボイルドなセリフを遺した。
その後も、後述するように僕の人生には大きな転機がいくつか訪れるのだが、そのたびにふと、僕は父に相談したいと思うし、なにか作ったら父に見せたかったと思うことはある。
あ、母親がここには登場しなかったけど、口うるさいおばはんとして、東京でネコ2匹と元気にしておりますよ。
(後篇につづく)