月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「キ、キミらはおもしろいのか?」  

ちょっと思い出話を。
一九九〇年代と二〇〇〇年代の間の頃のことである。僕はアメリカで大学を卒業したあと、帰国して法政大学の大学院に進学した。日本の大学生活というものを知らなかったし、それらしいことを体験してみたいと思って、「そうだ、サークル活動だ!」と思い立った。
アメリカには(少なくとも 僕がいた二つの大学には)サークルというものはないのである。スポーツをしたい場合は、大学のチームに入ってやる他はない。映画研究会とか落語研究会のような文化系のサークルは皆無であった。
ちなみに、ゼミというものもないので、僕はいまでもゼミというのが何をするところなのか知らない。

大学院には単位互換制度という便利な仕組みがあって、別の学校の講義を履修しても、それが認められたクラスであれば、自分の単位として数えられるのである。日本のキャンパスライフを満喫したかった僕は、家から近かった立教大学のクラスをひとつ取ることにした。
池袋の立教大のことは「なんか黒い服着たおしゃれなやつらが多い」ということくらいしか覚えていないのだが、そこで、壁に貼られたチラシを目にした。
「お笑い工房LUDO 立ち上げメンバー募集」

そう、僕はお笑いサークルを探していたのだ。
それは早稲田のサークルだった。法政で院生をしながら、立教で早稲田のサークルを見つけたわけだ。さっそくその頃はじめて手にした携帯電話で連絡をして、メンバーに会いに行った。

福井くんという子(僕は大学に入学したての人たちより、すでにだいぶ年上だった)が、高校に進まず一緒に上京してきた弟と住んでいる、早稲田近くの部屋に会いに行った。ほかに、沼田くんという幹事長の男と、江藤くん(仮名)とか、佐藤くん(仮名)とか、奥山くん(仮名)とか、当時は7、8人のメンバーがいただろうか。

どんな楽しげな元気のよい若者に会えるのかと思って行ってみたら、お笑いをやりたい人たちのほとんどは学生生活の敗者みたいな人が多いことを知った。
「え? 君たちは学校で、クラスで、一番おもしろかったのか?」
初対面なのに、思わずそんなふうに訊いてしまった僕はその場の空気を悪くした。
早稲田にいるくらいだから勉強は苦手ではないのだろうが、スポーツに秀でているわけでもなく、リーダーシップがとれるわけでもなく、当然モテないし、カネもない。僕もモテないしカネはないのは同じだったのだが、快活でもなければ、活動の展望もそんなになさそうな面々を前に、今後がやや不安になったのだ。

特に福井兄弟は、親元を離れて大阪から出てきたはいいが、自分の生活をまともに構築することすらままならないような感じであった。とにかく、みんなの集合場所として使っていた彼らの部屋が汚かった。気付けば、ベランダに布団が何ヶ月も干したまま、というか雨ざらしだったし、風呂は泥の中に棲む生物を飼っている水槽みたいになっていた。
「僕は本当はきれい好きなんです。だからこそ、もうあれらを触ることもできないんです」
と言っていた福井くんの兄の方はちょっとおかしなやつで、しょっちゅう手を洗っていた。一度始めると、何分でも洗い続けていた。
彼が洗面所でシャカシャカ始めると、僕たちは「またかよ」と放置していたのだが、当時は強迫性障害という言葉も知らなかった。なにか潔癖症のひどいやつだとは思っていたが、「医者に行け」とは誰も言わなかった。

ある時、兄弟となにかの用事のため電車で出かけた時も、彼は駅の便所で「ちょっと待ってください」と、手を洗いはじめた。僕はしばらく待っていたのだが、約束の時間に遅れそうだったためしびれを切らし、まだ洗い続ける彼の横から腕を伸ばし、キュッと蛇口を閉じた。
「ああああぁぁぁ……」というこの世の終わりのような彼の声を今でもよく覚えている。

奥山くんは普通に見れば見た目も悪くないし、早稲田の学生としてもっとありきたりな楽しい学生生活を送れそうなものなのに、異様に風呂が嫌いだった。「もう一週間入っていません」などと、なにかの記録を伸ばすかのように平然と言った。
「今日は電車で座ってたら、隣りの女性が席を立っていきました。へへへ」
時は、もう二十一世紀になるやならんやの頃である。

佐藤くんはとても理想の高い人物で、その理想と自分の能力との乖離にいつも苦しんでいるようなところがあった。ギョーカイ人でもないのに、尊敬するダウンタウンの松っちゃんのことを話す時には「松本さん」と言った。僕らはそれに慣れたが、他のサークルの人と交わる時にも「松本さんは」と話すので失笑を買っていた。「知り合いか」と。

江藤くんは、当時においてもすでに古めだった田原俊彦、トシちゃんがなぜか大好きで、コントを書かせても、最後はトシちゃんのダンスを完コピして悦に入りたがった。
「それいるか?」

沼田くんは一番おもしろくなかったのだが(笑)、そんなダメ人間の集まりの中、最もコミュニケーション能力が高かったので幹事長(リーダー)を務め、友人の何人かをライブの際の照明や音響係として引っ張ってきたりして、よく運営したと思う。

定期的にライブを開いて、チマチマと、それでいてそれなりに熱心に活動を続けた二年目、ある大手芸能事務所がお笑い部門の創設を目論んでいて、お笑い志望学生の青田買いを目的に、東京の大学のお笑いサークルに声をかけて「学生お笑い選手権」のような大会を開いた。十数の大学から、二十近い団体が参加したトーナメント方式だった。
早稲田からは僕らを含めて三団体が出場していて、今でいう「かもめんたる」の二人や小島よしおさんもいたWAGEと、寄席演芸研究会だったかと思う。

学生のやることだから、今観たらきっと恥ずかしいし稚拙なんだろうと思うけど、僕ら「お笑い工房LUDO」は、真剣に取り組んだ甲斐あって、二回勝って、別の日に定められた決勝大会に駒を進めた。
決勝の会場は渋谷のクラブ貸切りで、お客さんはギッシリ。司会はアンジャッシュだった。アンジャッシュは当時からおもしろかったなぁ。
審査委員が五人くらいいて、中にどこかの大学のミスキャンパスの女の子がいた。
アンジャッシュの渡部さんがコメントを求めると、
「コントっていうのはー、脚本の構成と演技力の勝負だと思うのですがー……」
「お前になにがわかる!!」
この、会場すべての声を代弁した児嶋さんのキレ芸が、その日一番大きな笑いだった。

僕たちは完全に会場の雰囲気に飲まれたのだった。僕たちだけでなく学生演者の誰もがそうであったと思う。結果は惨憺たるものだった……。

その芸能事務所の担当者は、よしもとから移籍してきた敏腕マネージャーと言われていた方で、僕ら学生から敬われていたし、怖れられてもいた。
僕はある日、彼から「前田、うちで一緒にやらんか?」と誘われた。
僕はその時すでに翌年電通に入社することが内定していたので、丁重にお断りした。
彼は「そっか」とそっけなく受け入れたあと、こう言った。
「この仕事は『人買い』みたいなもんだ。だから、俺は人を見る目だけはあると思っている。がんばれよな」

ご本人はこの言葉も、僕のことも覚えてはいないだろうけど、僕はなんとなくこの時かけられた言葉を励みにしている。彼の誘いに乗って、芸能事務所に行っていたら、きっと売れないまま芸人か放送作家をしていたかもしれない。今、売れない物書きをやっているのだからそれは確信に近い思いがある。

 

あんまり人に話したことのない、自分の黒歴史みたいな二十年近くも昔のことを書いたが、あれはあれで、僕にとっては狂奔の青春の一部で、楽しかった記憶しかない。

ふと思い立って「お笑い工房LUDO」を検索してみたら、今でも早稲田にあるし、当時は非公認団体みたいなもんだったのに、ウェブサイトには公式サークルとして一五〇名が所属していると記載がある。冗談だろ? よしもと主催の学生お笑い団体の大会で、LUDOのコンビが優勝もしている。マジか。
今のメンバーは、設立当初のことなど知らないだろうから、これが誰かの目に触れるとうれしい。

 

福井兄弟は、松竹芸能所属のお笑いコンビとして今でも売れないまま活動している。
江藤くん(仮名)は「シエ藤」というふざけたペンネームでライターをしている。肩書は「田原俊彦研究家、生島ヒロシ研究家、松木安太郎研究家、プロ野球選手名鑑研究家」だ。インタビュアーとして、何度も田原俊彦さんに会っているらしい。
沼田くんはお酒関係の会社で働き、世界を飛び回っている。
他の彼らも元気にしているといい。

おもしろくない毎日を無理矢理おもしろくしようとしていた、あの得体の知れないエネルギーが費えるのを怖れる、青春も後期にさしかかった四二才の年の瀬である。

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