カリフォルニア州には「ジョン・ミューア・トレイル(JMT)」という有名なハイキング・コースがある。ハイキングと書くと、サンドウィッチでも携えてテクテクと歩く牧歌的なイメージだが、ここはウィルダネス(原生自然)の中を一本伸びるトレイルを歩くかなり過酷なものだ。JMTは全長およそ三四〇キロ。全部歩こうと思ったらひと月くらいかかる。
僕はもう何年も前に故加藤則芳さんというアウトドア作家がものした『ジョン・ミューア・トレイルを行く バックパッキング340キロ』(平凡社から一九九九年初版発行)という本を読んで、憧れを募らせてきた。
一度、仲間たちとその一部を歩こうと計画したのだが、ここは厳格なルールによって入山者を制限しているため、希望の時期に許可が取れず、代わりに同じヨセミテ国立公園内のヘッチヘッチーというエリアにあるスミス・ピークという山を登った。面倒な手続きの話は、月刊ショータ二〇一四年七月号で触れた。
あれから三年。あの時、僕と大谷さん(仮名)がはじめて山に引き込んだ後輩の滝下(仮名)が、「やっぱりJMTに行きたい」と言う。最近会社を辞めて、僕と同じく貧しくも自由になった岳ちゃん(仮名)も仲間に加えて、男四人がその計画に乗り出した。
ヨセミテへの入園申請や情報収集は、言い出しっぺの滝下が、英語もよくわからないはずなのに異常な情熱をもって積極的に進めてくれた。JMTのすべてを歩く気力も体力もないので、その一部を歩くにあたり、彼は「デビルズ・ポストパイルから入り、テントで三泊しながら北へ六〇キロほど進み、トゥオルミー・メドウへ下りる」というセクション・ハイクを構想した。
「マンモス・レイクスという町からバスでトレイルヘッド(入口)へ行き、四日目にトゥオルミー・メドウから巡回バスを捕まえて町へ戻ります。だいたい一日に一八キロくらい歩くことになりますが、詳しい人に訊いたところ『余裕』だそうです」
「おぉ、カンペキやないか。よし、マンモス・レイクスまでのレンタカーとかホテルとかは任せとけ!」
計画は楽しかった。なんでも四人で割れるから費用は割安になるし、「あれを持って行こう」「これは現地で手配しよう」などといった装備の相談にも話が弾んだ。
僕は出発の前月に『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』(旅と思索社)という著作を刊行していたから、この旅の前に取材先であったカナダの牧場に本を届けに行くという仕事をくっ付けて、彼らよりも十日前に日本を出た。
それぞれが別の飛行機でサンフランシスコ空港にやって来て、そこで落ち合うことにした。当日は、僕が朝の九時半にSF空港に着き、国際便ゲートの前で、十一時半、一時、二時半と次々にやって来る仲間たちを待った。
空港内の電車に乗ってレンタルカー・センター駅まで行って、借りたのはトヨタ・シエナという三五〇〇ccのミニバン。もっと大きいクルマを想像していたけれど、デカいバックパックと四人の男たちが旅をするに充分なサイズだった。
さて、ここからは楽しいショッピングだ。サンフランシスコのREIというアウトドア用品の生協に行って、必要な物品を揃える。飛行機に持ち込めないため現地調達の必要がある燃料缶、川の水を飲むためのフィルター、そしてベア・キャニスターなど。ベア・キャニスターは、ヨセミテ公園内では熊が出る怖れがあるため、携行が義務付けられている。食糧はすべてその中に入れて、テントから離れた場所に置くことになっているのだ。四人で二つ用意することにした。
滝下は一つを通販で入手していて、もう一つは注文だけして、ここで引き取る段取りをしていた。強化プラスチックでできたこれが、デカいんだ……。直径約三〇センチ×高さ四〇センチほどの円筒。大谷さんと私(ショータ)は四〇代、滝下と岳ちゃんは三〇代なので、ここは先輩風を吹かせて、若いモンに持ってもらうことなっていた。
REIは僕たちにとっては、一日いても飽きない店なので、Tシャツとかフリーズ・ドライの食糧とか、あれこれ買い込んでから西へ出発した。少し街を回ってから出たので、その頃には夕方六時半頃になっていた。
九二号線(サン・マテオ・ブリッジ)で海を渡って、暮れていくアメリカの乾ききった大地を走る。夕陽に照らされて、元々赤味のある土地が、なおさら赤く焼けたような印象になっていた。
途中のリバーモアという町のショッピング・モールで晩飯を食べて、とにかく今日中に行けるところまで行くつもりだ。なにしろ、マンモス・レイクスまでは五〇〇キロほども離れている。東京・大阪間と同じくらいなのだ。カリフォルニア州というのは、実はそれだけで日本と同じくらい広いのである。
「次の町を過ぎると、マンモス・レイクスまでずっと町はありませんね」
スマホで地図を見ていた岳ちゃんが言うので、オークデイルという小さな町で今夜はモーテルを探すことにした。二軒目に訪ねたホリデイ・モーテルのドアを開けた頃には夜十一時になっていた。受付のおばちゃんはネグリジェ姿だ。
「部屋はあるけど、あなたどこから来たの?」
「日本です」
おばちゃんの声のトーンが上がった。
「ジャパンですって!? うちの息子と娘がね、日本が大好きで、日本語の授業を取ったり、日本のポップミュージックを夢中になって聴いているわ!」
僕はそれを聞いて、少しだけ自分のことを話したくなった。カリフォルニアの田舎町で日本にハマっているなど、彼らはもしかしたらちょっと変わり者扱いをされているかもしれない。学生時代の僕がそうだった。
「僕はカントリーミュージックが好きで、二十年前にケンタッキー州で大学を出て、この度、カウボーイの本を日本で出版したんです」
「あらステキ! タイトルを教えて! 息子に渡すから紙にサインして!」
息子さんが日本語の長編を読めるとは思えなかったが、僕は題名を日本語と英語で書いて、サインをした。
『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』
https://www.amazon.co.jp/dp/4908309051
“Cowboy up! Chase your dreams!” と、そこに書き添えた。好きなことは、人が何を言おうと、追い続けた方がいい。それによってどこで何と巡り合うかわからないし、幸せに生きることは、「好き」を追い続けることとほぼ重なり合うのではないかと、最近とみに思う。
そして、「いつかやろうね」と言っていたことは、いつか必ずやるべきなのだ。
翌朝、モーテル近くのレストランでアメリカらしい巨大な朝食を食べて、僕らはすこぶる上機嫌で車を走らせた。
ヨセミテ公園の入り口ゲートで、一台二十五ドルの料金を払い、湖の碧い水面に感嘆したり、岩山に貼りついた芥子粒のように見えるクライマーを指さしたり、道路のすぐそばまで迫る崖に息を呑んだりしながら公園を横断した。そして、その東側に位置するマンモス・レイクスの町に入って行った。
(つづく)