月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「18才のオレがいた(佐渡旅 前篇)」

私はこれまで読んだ本に導かれて旅をしてきた。

はじめてのひとり旅は、東京で生まれ育った少年が、日本海を見ようと富山県の朝日町を訪ねた。そこは映画『少年時代』(篠田正浩監督/1990年公開)のロケ地になっていて、十八才の私は目の前が海岸の民宿に泊まって、小学校や駅や農道の写真を撮りながら特に観光地でもない田舎をウロウロした。

私のアルバムによると、1994年7月の12日から16日の四泊の旅だった。

そのときの話を5000字のエッセイにして、先般、ZINE『本と旅する』に寄稿した。

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私にとっては思い出深い旅で、昨年、仲間たちと新潟県上越市の高田でひと晩飲んだとき、帰りに朝日町のあたりに寄ってみたかったのだが、時間がなくて叶わなかった。

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コロナ禍も下火になった今年、可能ならまたアメリカに行きたかった。しかし、円安、インフレ、原油高のトリプルパンチで手が出ない。
これまで私は「アメリカで十日くらい遊ぶなら、三〇万円あればビンボー旅行ができる。四〇万ならふつうに遊べる。五〇万あれば、買いたいモノを買って、値段を見ずにメシを食べて豪遊できる」と、これくらいの感覚でいた。
ところが、いまは最低五〇万円からスタートみたいになっている。

だから、今年はせめて国内旅行に行くことにした。

2021年に刊行された藤沢周さんの『世阿弥最後の花』(河出書房新社)は、私が近年読んだ小説の中では白眉と言える大傑作で、いつか佐渡島で能を観たいと思うようになった。

佐渡には能の文化がいまでも根づいていて、夏の間あちこちで演能されている。

今年は6月15日に草苅神社、翌16日には正法寺で開催される、とウェブサイトで知り、「正法寺はまさに世阿弥が滞在していた寺じゃん。ここで観たい! せっかくだから二日連続で観よう」
と、すぐに日程を決めた。主催者に電話してチケットの取り方などを相談すると、いたく喜んでくださり、たくさんの佐渡観光のパンフとともにチケットを送ってくれた。

さて、フェリーも予約しなくては。佐渡島へのフェリーは、新潟港と直江津港から出ている。

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関西からなら直江津のほうが近いし、そこは昨年行った高田が隣町だ。
しかし、直江津港から佐渡島南部の小木港への便は、朝六時出発である。

「これは、モーターサイクルで初日に、大阪から直江津まで五〇〇キロを走り切る途中で、富山県の朝日町を再訪して、直江津に着いたら高田へ出て、ひとり酒をやるしかあるまい。フェリーは翌朝だな」と腹をくくった。

ライダー以外のひとにはわかりづらいだろうけど、私のこれまた旅の経験上、モーターサイクルで快適に走れる距離は350キロくらいだ。
距離500キロ、マシーンは250cc、季節は梅雨。これはかなりキツイ。

 

そんなわけで移動時間を、休憩含めて十時間を見て、朝六時に出発した。天気は雨だ。

名神高速から北陸自動車道で、京都府滋賀県福井県→石川県→富山県、そして新潟県と先は長い。まずは滋賀県の黒丸SAでさっそく休憩だ。
……と思ったら、いきなりトラブル発生。

後部座席にネットで括りつけていた防水バッグが落ちかけていて、マフラーの上に乗っているではないか。運転していると背後は見えないからぜんぜん気づかなかったし、こんなミスをするのは免許取りたての20年前以来だ。

バッグはマフラーの熱で溶けて酷い有様だった。ショルダーストラップは焼けて使用不能になり、バッグの中に入れていたお気に入りの上着も焼けて、溶けたプラスチックがベッタリ付着してダメになった。

「あ~ぁ……」

幸先悪すぎる。意気消沈である。

その後も、給油に、昼食に、休憩にと、頻繁に停まった。
北陸道は、クルマも少なくて走りやすいのだが、平坦な道がのっぺりとつづくので退屈してしまう。だんだん疲労も感じはじめて、富山に入ったあたりのSAでマシーンを停め、柱に凭れて20分くらい午睡さえとった。

雨はバシバシ降っていたが、やがて最初の目的地である富山県の朝日町で高速道路を降りたころには小雨になった。
泊(とまり)という駅を探す。ここは29年前に、私が歩いたあたりだ。様子はだいぶ変わっていて、なかなか記憶が蘇らない。
「このあたりかなぁ」と、古い写真と同じと思しき場所で写真を撮ってみたが、たぶんちょっとちがったかもしれない。

藤子不二雄A著『愛蔵版 少年時代』(中央公論社)より

July, 1994

June, 2023

その後、モーターサイクルで、映画『少年時代』の撮影に使われた木造の小学校舎を探してあちこち走ってみたが、見つからなかった。おそらくもうないのだろう。

地元のひとに訊いたらわかるのだろうが、まずひとが歩いていないし、ご老人がいたとしても、ヘルメットをかぶってモーターサイクルに乗った男が、小学校について尋ねるというのは、現代にハードルが高い。この30年で時代がかなり変わってしまったことは私も理解している。

泊から海沿いの道を走って、隣町の宮崎へ移動。
ここに、私が泊まった旅館があるはずなのだ。

……あった。

「まつや」

建物はあったが、こちらももう営業はしていないようだ。
当時はおばあちゃんと、五〇代と思しきおっちゃんが営んでいた。でも、十八才からすれば、おじさんの年齢なんかよくわからないから、もしかしたらいまの私の年齢(47才)とそう変わらなかったのかもしれない(あ、五〇代ならすでにそう変わらんか)。

1994年にすでにおばあちゃんだった方が、いま生きているはずはないけど、おっちゃんのほうももういないのかもしれない。

私の写真アルバムにはメモが書いてあって、「次は何年後になるかわからないけどきっとまた朝日町を訪れたい。美しい景色があのままでありますように」とある。

29年かかってしまったが、また来たぞ。

ショータ 1994

ショータ 2023

18才の私がこんなところでなにやってたかって、好きな映画のロケ地を歩いてたんだけど、いま47才の私は好きな小説の舞台を訪ねようとしている。変わらずおんなじことやってんだよ。

小学校も旅館もなくなってしまったが、私が感動した富山の自然の景色だけはほぼあのままだった。

火野正平さんがBS NHKでやっている『にっぽん縦断 こころ旅』のセルフ版のようなひと時となった。

もう70キロ、海沿いの国道を北へ走って、新潟県直江津へ。

雨は止まないが、この旅のために新調したレインウェアとレイングローブのおかげでさほど気にならない。

もう陽も暮れてしまった。結局、直江津の宿に着いたのは七時ごろで、朝日町でのウロウロも含めて13時間かかったのである。

明日のフェリーは朝六時に出港するから、五時すぎにはチェックインしなくてはならない。

が、今夜ひとりで高田の町を再訪することはどうしてもしたい。というわけで、畳敷きの部屋で重たくなりそうな腰を上げた。
タクシーに乗って直江津駅で降ろしてもらって、高田駅まで行くつもりだったが、運転手さんは「田舎なもので、電車は一時間に一本くらいですよ」と言う。

「高田までこのまま行ってもらったら二千円くらいでしょうか?」
「いや、9キロほどあるので、三千円くらいかと」

迷った末、タクシーで行ってもらった。ふた言目には「田舎なもので……」と卑下する運転手さんだったが、都会が善で、田舎が悪とは、私はまったく思わない。

せっかく来た田舎で、せめてお金を使うのだ。

高田の居酒屋では、魚を一匹焼いてもらって、中華そばまで食べて、日本酒も飲んで、いつも二名で支払うくらいの金額を払ってきた。このあたりはお通しが二品出るので、トータルでだいぶ食べた。満足じゃ。

翌朝はアラームが鳴る前の四時に目が覚めた。

 

(つづく)

アメリカンなミュージック

浅生鴨さんが主宰するネコノスから『異人と同人4 推し本』という同人誌が出まして、これは60人の参加者各人が「自分の”推し”を書き綴る」ものである。

私はかねてより「カントリーミュージックの普及」をライフワークとしているので、当然カントリーについて2000字書いた。
その中で〈「現代カントリーならこの人!」というならモーガン・ウォレン(Morgan Wallen)を挙げる〉と紹介させてもらった。

この月刊ショータでもたまにカントリーソングの邦訳を手がけてきているが、今回もそのシリーズである。モーガン・ウォレンの曲については過去にも”7 Summers”を取り上げていて、この度ご紹介する”Sand in My Boots”も同じアルバム”Dangerous”に収録されている。

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これはCDで買えば2枚組で30曲が収められていて、驚くほど捨て曲がない。全米チャートで#1にもなっている、大変すばらしい作品。

さらに驚くことに30曲中7曲を除いてすべてが、酒にまつわる歌か、もしくは酒が登場する歌なのだ。

彼は今年の四月にコンサートを直前になってキャンセルし問題になったが、おそらくアルコホルの問題を抱えているのではなかろうか。

カントリー業界ではアルコホル依存症のアーティストは(どの業界とも同じく)少なくないが、50年代にはハンク・ウィリアムズが、80年代にはキース・ホイットリーが、それが原因で亡くなっている。
モーガン・ウォレンもまさか……、と私は密かに心配しているので、くれぐれも酒はほどほどにしてください。

語りだすとキリがないから控えるが、私は彼の音楽は、草のにおい、ウィスキーのにおい、水辺のにおい、淡い恋のにおいなど、とにかくアメリカのにおいが感じられて、大好きだ。

『推し本』を読んで、これを読んで、彼の歌を聴くと、何倍もたのしめるはずだと思って、以下訳しました。

 

“Sand in My Boots” Written by Michael Hardy, Josh Osborne and Ashley Gorley

She asked me where I was from
I said: Somewhere you never been to
Little town outside of Knoxville
Hidden by some dogwood trees

彼女は俺の出身地を訊いてきた
俺はきみが行ったことないところ
ノックスビル郊外の ハナミズキの林に隠れたような小さな町さと言った

She tried talkin' with my accent
We held hands and waded into that blue water
She left her flip-flops by my Red Wings on the beach

彼女は俺の訛りをマネして話そうとした
俺たちは手をつないで碧い海に入った
彼女は砂浜で 俺のレッドウィングブーツのとなりにサンダルをおいた

Yeah, but now I'm dodging potholes in my sunburnt Silverado
Like a heart-broke Desperado, headed right back to my roots
Somethin' bout the way she kissed me
Tells me she'd love Eastern Tennessee
Yeah, but all I brought back with me was some sand in my boots

それなのに俺はいま 道路のくぼみを避けながら
日に灼けたシルバラードを運転している
心破れたならず者が故郷に向かうみたいに
彼女がキスしたとき
きっと彼女はテネシー東部が気に入ると思った
そう それなのに俺が連れて帰ったのは ブーツの中の砂だけさ

I said: Let's go shoot tequila
So we walked back to that beach bar
She said: Don't cowboy's drink whiskey? Huh
So we drank bottom shelf
She said: Damn, that sky looks perfect
I said: Girl you've never seen stars like the ones back home
And she said: Maybe I should see them for myself

俺は「テキーラ飲みに行こう」と言った
そして俺たちはビーチのバーに戻った
彼女は「ふーん カウボーイはウィスキーじゃないの?」と言った
だから俺たちは下の棚のやつをぜんぶ飲んでやった
彼女は「クソ 空がサイコーよ」と言った
俺は言った 「俺の地元みたいな星空は きみは見たことないはずだよ」
そしたら彼女は「自分の目で見に行かなくちゃ」と言った

Yeah but, now I'm dodging potholes in my sunburnt Silverado
Like a heart-broke Desperado, headed right back to my roots
Somethin' bout the way she kissed me
Tells me she'd love Eastern Tennessee
Yeah, but all I brought back with me was some sand in my boots

それなのに俺はいま 道路のくぼみを避けながら
日に灼けたシルバラードを運転している
心破れたならず者が故郷に向かうみたいに
彼女がキスしたとき
きっと彼女はテネシー東部が気に入ると思った
そう それなのに俺が連れて帰ったのは ブーツの中の砂だけさ

I said: Meet me in the mornin
And she told me I was crazy
Yeah, but I still thought that maybe she'd show up
Ah, but now I'm dodging potholes in my sunburnt Silverado
Like a heart-broke Desperado, headed right back to my roots
Somethin' bout the way she kissed me
Tells me she'd love Eastern Tennessee
Yeah, but all I brought back with me was some sand in my boots
Yeah, but all I brought back with me was some sand in my boots

俺は「朝ここで会おう」と言った
彼女は「あなたはどうかしてる」と言った
そうだね それでも俺は彼女が現れるかもしれないと思っていた
俺はいま 道路のくぼみを避けながら
日に灼けたシルバラードを運転している
心破れたならず者が故郷に向かうみたいに
彼女がキスしたとき
きっと彼女はテネシー東部が気に入ると思った
そう それなのに俺が連れて帰ったのは ブーツの中の砂だけさ
そう それなのに俺が連れて帰ったのは ブーツの中の砂だけさ

(対訳:前田将多)

youtu.be

『推し本』は、さすがそれぞれが好きなものについて書いたものなので、愛が溢れていていい本です。ぜひ読んでほしいです。

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「20年書いた」

実は、この「月刊ショータ」は20周年なのである。
書いている本人が、2023年も三分の一が過ぎてから気がついた。

2003年の1月に書きはじめたようだ。今回は20周年特別号として、この20年を振り返ってみよう。
これは自分のために振り返るだけなので、読んだひとになんら意味をもたらすものではないので悪しからず。

そもそも月刊ショータを書きはじめたのは、当時私は東京で生まれ育ってアメリカで大学を出たのに、会社に入ったら関西支社に配属されて、友達もいないし、ヒマだったのである。
さみしいから東京の同級生らにメールを書いて、「こちらで元気にしている」ことを伝えたかったのだ。それで、こんなことがあったとか、こんなことを思った、と一方的に送りつけていたのである。

そうしたら、彼らが「おもしろいから毎月送ってこい」と言う。
だから、「月刊ショータ」という名前なのだ。

私は実際に毎月送った。その頃はメール本文にしてはかなり長いものを送りつけていた。
そのうち会社の同僚や社外の友人にも、「読みたい」という人たちが現れて、メーリングリストは100人を越えた。
2010年くらいに、仕事を通じて知り合ったウェブ会社の社長さんが「ウェブサイトつくったるわ」と言ってくださり、ウェブで公開するようになった。

それは、今はもう閉鎖したけど、私のオリジナルのウェブサイトで、読んでる人(PV)もたぶん500人くらいだったのではないか。その後、ブログサービスに書いたほうがいいんじゃないの? ということになって、(当時noteは開始したばかりで、なんとなくイキってる感じがしてスルーした)、はてなブログに書くようになった(ちなみに、いまも大した人数の方が読んでるわけではないので、気楽なものだ)。

このはてなブログには20年分すべてを載せているが、初期のころのコラムが読みにくいことになっているのは、オリジナルサイトのテキストデータをはてなに移行したのだけど、改行とか一行空けが反映されなかったのと、画像を移行できなかったことが理由だ。
厳密にはできるみたいなのだけど、私はそういうのが苦手なのでやり方がわからないし、画像データももう手元にはない。紙焼きの写真を(会社の機器を使ってw)スキャンしていたから、写真を探してもう一度やればあるのだが、それはさすがに面倒くさくてムリ。

この20年で私も変わった。
書きはじめたころは電通の独身寮で、週末の一日をつぶして部屋にこもって書いていた。
まだ労務管理もいい加減な時代だったので、わざわざ日曜日に会社に行って書いていたこともある。
カノジョがいたころも「その日は月ショーを書くから」などと言って予定を開けていたはずだ。「なんだこの男は」と思われていたかもしれない。だからフラれたのだろう。

そこまでして書いても、ここが私の最も愚かなところなのだが、「ブログをカネにする術」を知らなかった。まったく知らなかった。

広告会社にいたくせに、広告を貼るとか、アフィリエイトとかぜんぜん知識がなかったのである。だから、2017年までは月刊ショータで一銭ももらったことがない。アホである。

2016年に書いた「広告業界という無法地帯へ」というコラムが反響を呼んで、翌年に書籍になり、印税としていくらかもらったのがはじめて手にしたお金である。

そのうちnoteという画期的なサービスが勃興して、いまは有料記事や投げ銭サポートもふつうになりつつあり、やはり世の中はちょっとずつよくなるものだ。

なのに、オレはいまでもはてなブログに書いている。アホである。
去年やっと友人のタイラーさんにcodocというアプリケーションを導入してもらって、投げ銭を受け取れるようになった。たまにサポートいただくことがあって、感謝しております。

なんでカネにもならんコラムを20年も書いているかというと、はじめのころは「文字でいかにひとを笑わせられるか」という挑戦だった。
書きはじめたのが27才で、現在私は47才である。恐ろしかろう。

いま、昔のコラムを読んでおもしろいかと訊かれれば、そんなことはどうでもいいくらい恥ずかしいわ!

……でも、たまにいまでもおもしろいのあるよ、うん。

やがて、私もおっさんになってなんだかマジメな話も書くようになった。笑えるだけが「おもしろい」ではないと学習したのだろう。

私は訊かれてもいないのにひとにモノを教えるのが嫌いなので、文章術みたいなことには口を慎んできた。それほどのモノを書いていないし、私は大作家ではない。

ただ、20年も書いて、本も何冊か出していれば、いろんなことがわかる。だから、今日に限っては、ちょっと特別サービスしよう。

まずは……、
と思ったけど、やっぱりやめます。というか、ないわ。
特になにも書けることがなかった。

この20年を振り返ってみても、思い浮かんだのは、ワタシのカラダを通り過ぎていった数々の女たちくらいだわ……。

文章術を知りたいひとは、私の先輩である田中泰延さんの『読みたいことを、書けばいい。』ダイヤモンド社)を読めばいい、と思う。ホントに。

この本の中に「文字がここへ連れてきた」というくだりがある。
ちょっと長くなるが引用する。

〈好きではじめたことなのに、長い文章を書くのはほんとに苦しい。腰は痛いし、とにかく眠い。途中で必ず「なぜこんなことをしているのかわからない」という気持ちが湧き上がる。自分が読んで喜ぶのは勝手だが、おれがなにを書いても読むやつなどだれもいないだろう。

だが、しかし、それを何度も積み重ねていくうちに、わたしは思いもしなかった場所に立つことになる。書いたものを読んだだれかが、予想もしなかったどこかへ、わたしを呼び寄せてくれるようになったのだ〉

まったくその通りだ。

見知らぬあなたがこれを読んでくれているのも、そういえばあいつと友達になったのも、あの人が私に会いに来てくれたのも、私が20年書いていたからなのだと思う。

 

 

「存在を抱きしめたか」

2022年のFIFAワールドカップを観ていて「これまでとなにかちがう」と感じたのは、世界中の美女たちをカメラが抜く映像や報道がなかったことだ。
ルッキズムとの批判を恐れたのだろう。
正直に言うと、私はちょっと残念であった。美女がだめなら、美男も、マッチョも、おもしろコスチュームのバカも写したらいいじゃん、と思うのだ。お祭なんだから。

人種差別や性的マイノリティーに関する議論に比べて、ルッキズムは地味かつ根深いが、問題点を列挙するなら、以下のようになるだろう。
醜形恐怖症や摂食障害の誘発
若年での、そして、過度な美容整形への執着
顔にアザがあるなど身体的特徴に基づいた就職差別
外見を嘲るいじめ
もっとあるだろうけど、いったんこのへんで。

制度としての差別をひとつひとつ廃絶していくのが人間社会の、歴史を通じた使命であるとするなら、私はそれに賛同する者である。
しかし、人間というのは差別して判断し決定する生き物であるから、ルッキズムというのは除去できない。

差別にまつわる活動家や言論人(とまで呼ばなくても、いわゆる意識高そうなインフルエンサー)をどうも信用できないのは、「私は無罪であるが、きみら社会はまちがっている」という立ち位置からものを申してくるからだ。

私には差別感情は、ある。

申し訳ない(字義通り、申すべき言い訳がない)が、たとえば、今後とくになんのかかわりがあるわけでもないが、ウェイトレスがかわいかったらうれしい。
インスタグラムで美女が素敵な感じで写っていたら「いいね」押しちゃう。
電車に美女がいたら見ちゃう。女のみならず、いい男がいたら服装とか髪型とかちょっとマネしたくなる。
それと同じように、どんなに走りが軽快で燃費がいいクルマがあっても、見た目がカッコよくなかったら乗らない。
醜いネコが道端に落ちてても拾わないけど、かわいいネコが死にかけていたら助けちゃう。実際うちの寅ちゃんはそうして義妹に拾われた。

いま、世の職場では「その髪型かわいいね」とかも言えないらしい。とにかく外見に言及してはいけないという。いけない、というか、しないほうがいいらしい。
だったら人間はもう化粧もおしゃれもしないで、全員スウェットでウロウロしたらいいのだ。私はおしゃれなので苦痛を感じるからイヤだけど。

外見に基づく差別というのは必ずある。

ではなぜテレビでニュースを読む女性アナウンサーは飛びきりの美人揃いで、それが疑問視されていないのだろう。私は疑問視しているぞ。
人前に出る仕事だから? いや、人前に出る仕事などこの世にたくさんあって、理由にならない。ニュースを正確に伝える目的のためなら、声が聞きやすいとか発音がきれいなことは重視されても容姿は関係ないはずなのだ。

結局のところ、「そのほうが視聴率を取れる」というビジネスに基づいて、ルッキズムは連綿とつづく。

ちなみにもっと言えば、美人アナウンサーのとなりにいる男性アナウンサーは年配で容姿はとくに問題にされないのは、性差別と年齢差別が関係するが、所詮テレビはその程度の倫理観であり、人様や社会にモノ申せるような機関ではないはずだ。低俗の権化であることに自覚的であってもらいたいものだ。

広告にしても、「きれいになる」「若返る」「白くなる」は溢れかえらんばかりで、人間の欲望の深い深いところに、外見至上主義は根付いていることがよくわかる。
美人の被告は懲役が軽いという統計データまである(出典は忘れたが不思議はないはずだ)。

 

美男美女は得することが多いのは否定できない。これは事実だ。
人生のある局面においては人間も商品にならざるを得ないのだ。恋愛もそう。就職もそう。人気投票に晒される職業は特にそうだ。

私は2000年代初頭に電通に入社したときビビった。同期の男たちの中に、ビビるくらい男前がそこここにいるのだ。美女のほうは(少なくとも当時はいわゆるコネ入社も多かったからなんとも言わん。縁故入社については拙著『広告業界という無法地帯へ』に書いた気がするのでここでは措く)まぁ、一般社会の比率と同じくらいかな。

私は私で若いころは「マエダさんてモテるでしょ」と言われてきたが、実際はモテなかったので、心の中で「うるさいわ。なんやその質問は。抱いてくれるとでも言うのか!?」と思っていた程度の男前である。そんなレベルちゃうねん。

面接官も人の子だから、同じくらい優秀な人間が来たら、見た目のいいほうを採ってしまうのだろう。
履歴書に顔写真を貼らせないでほしい、という要請や時代の流れもあるようだが、名前からもわかることは多いし、どこまで伏せるべきなのだろう。私の弟はアメリカに住んでいるが、ユウシ・マエダという名前では書類審査も通らず、勝手に「マイケル・マエダ」という名前で送ったら採用されたこともあった。

学歴差別だから校名も書かせない、という会社もあるが、そうなったら誰をどう選ぶのだろう。AIが書いた模範回答が並ぶ中、社員が抽選や順番で送られてくるようなら、人間は人間性を求めて、むしろマシーンに近いなにかになる。

社用車みたいな没個性の、しかし一定の基準はクリアする性能を持つ、無味無臭の人間を求めるのならそれでもよいが、おもしろい会社および社会にはならないだろう。

さっきからよくヒトをクルマに喩えるが、私は20年前の古くて重たいクルマに乗っている。だからスタートが悪く、走り出しはスピードが出ない。
だからタイミングが重要で、青信号になったら即座に動き出すように心がけている。

横にいた小さくて白いトヨタは加速がよく、シューッと先を行くがさほど高速は出ない。その後ろにはトラックがいて、ゴー、ゴッと咳込むような音を立てギアを上げて懸命に前進する。イキッたスポーツカーは猛スピードで追いついてくるが、結局トラックのうしろでブレーキを踏む。

私はこれを見て、人間社会の縮図であると思った。
速いひと、遅いひと、白いひと、赤いひと、大きいひと、小さいひと、カッコいいひと、ダサいひとなど、それぞれがいて、同じルールの下、それぞれの目的地へ進もうとしている。これが多様性の姿だ。

日本人がやりがちな、みんなを同じクルマにすることの正反対なのだ。

おのおのの特徴を抱えて、性能を活かして、追い越したり追いついたりしながらも必要なときには譲り合って、煽ることなく、事故ることなく、いきたいものである。
それを若い子たちに教えなくてはいけない。ほかの誰かのようでなくていいのだ。

だから、他人を指さして差別だと非難するのもいいが、まずは各人が自分の在り方(ブスであること、バカであること、チビであること)を認めて、受け容れて、しかし向上心を持って、幸せを感じられる社会づくりのほうがいま必要なことなのだ。


あなたは、最近、子供を抱きしめたか。成績とか点数じゃない。存在を抱きしめたか。
愛していると伝える方法を考えたか。妻にきれいだねと、夫に素敵ねと、言ったか。できる友人に敬意を表したか。できない友人を「いいんだぜ」と慰めたか。

バカな友人と肩を組んで笑ったか。ブスな部下をほかと等しく成果のみで評価したか。チビな店員に威圧的な態度をとらなかったか。杖ついたじいさんに席を譲ったか。おばあちゃんを背負って横断歩道を渡ったか。

社会を大変革させるアイデアなど私にあるわけはなく、それくらいしか思いつかんが、そういうことからではないのか。

 

youtu.be

僕たちのフィルダースチョイス(小説)

今月はこちらでもどうぞ。一日二日はたのしめるかと思います。

 

〈高校の野球部から20年の付き合いである田辺(ジュン)、宇賀神(マガジン)、権藤(ゴンドーフ)、藤原(クゲ)という男たち四人は、中年になりそれぞれ仕事と家庭を持ち、各々の悩みを抱いて生きている。
当時四人が好きだった早希子は東京に出て活躍し、いまはシングルマザーとなっているという。
彼女のひとり息子であり、コミュニケーションに問題のある塁が、ジュンが塾長を務める塾に入ってきた。

塁をなんとか一人前の男にしようと、平凡な男たちが立ち上がり、少ない得意分野を活かして奮闘する〉

noteに1~17回まであります:

note.com

「虫のように必死に、人間のように恋を」

ひろのぶと株式会社から初の書籍である、稲田万里著『全部を賭けない恋がはじまれば』が刊行された。

この新興出版社は、「初版印税20%」、「累進印税™」を旗印にして、田中泰延さんが立ち上げた会社である。日本では通常、本の作家への印税というのは10%に設定されていて、なぜかここに疑問をはさむ余地はなかった。「そういうもの」だったのである。
著者がしんどい思いして泣きながら書いた一冊の対価が、税務署が黙って持っていく消費税と同額なのだ。

これをなんとか変えたい、本を書いて生活できる社会を創り出したい、という思いで設立されたのが、ひろのぶと株式会社なのである。

hironobu.co


田中泰延氏は、私の前職の先輩であり、上下関係を越えた盟友であり、私は同社の一口株主でもある。

であるからこそ、私がこの本を紹介するにあたり、この「月刊ショータ」の方針に反することなく、本当のことを書かなくてはならない、と少々緊張しながらこれを書いている。
稲田万里さんが「コスモ・オナン」名義でnoteに書いていた『日曜興奮更新』というマガジンがめっぽうおもしろくて、下品で、それでいて不潔感がなくて、サイコーだったのだ。

本書にも、このマガジンの中からいくつかの短編が加筆修正されて収録されている。

コスモ・オナンこと稲田氏の書く短編小説に、私がはじめに抱いた印象は「ブコウスキーみてえだな」であった。
チャールズ・ブコウスキーというアメリカ作家・詩人がいて、彼の『町でいちばんの美女』(新潮文庫)を読むと、だいたい仕事もせずに酒を飲んで、女を殴って、オナニーして寝るハナシがいくつもいくつも書いてあり、読み終えると、たったいま、いったいなにを読まされたのかよくわからないのだ。

『全恋』の舞台はカリフォルニアではなくて、東京の高円寺とか錦糸町で、主人公の女の子がしょーもない男としょーもないセックスをする連作短編だ。そこには著者の東京観であるとか、高円寺観が反映されていて、彼女の目にはこの町は紗をかけられたようにある種、朧で、乾いていて、あらゆる関係が薄弱な場所のように受け取れた。

東京に生まれた私にとっては、高円寺というのはおばあちゃんが住んでいたところだ。
小学生のころに、母親に頼まれたものを自転車で届けに行くと、おばあちゃんがポチ袋に入れた五百円玉を用意して待っていてくれて、私にはそれがたのしみだった。
電車に乗ってかよった塾の帰りには、母親がクルマで迎えに来てくれて、同じ塾に通う同級生といっしょに駅の南口で拾ってもらうことになっていた。
大人になってからは、古着屋を巡ったり、家族で食事会をしたり、つまりは生まれ育った町に近いのである。

はっきり書いておくと、私は私の故郷に地方からやって来て、路上において集団で缶ビールを飲んでそのまま捨てていったり、犬のようなセックスをしたり、ビルの屋上で立ちバックして性病をうつされるような連中が大嫌いだったのである(過去形ね)。
彼らにとっては、誰の町でもなくて、自分の町ですらなくて、旅の恥はかき捨てのように、東京の男/女はヤリ捨てのように振る舞うことが当たり前であっても、私にとってはそうではなかったのだ。

東京という街に対する認識は決定的にちがう。そこに幻想がない。憧れもない。
だから、私は本作を読んで、自分が不快感を覚えないか不安があったことは認めざるをえない。

それでも、『全恋』を読み終えて思うのは、どこに生まれても、生きていくことはむつかしい世の中で、ひとりの女が、得体の知れない町やセックスの相手と対峙していく姿に、まるで卑しさも不潔感も感じられないのである。必死に生きているだけなのだ。

この女には「自分の存在価値を認めてほしいがために、男に媚びて股をひらく」ようなところがない。「こんなスケベなことを堂々と書けるワタシってかわいいでしょ」というあざとさも感じられない。
清々しいほど純粋に、ただ「セックスがしたい」のだ。

人間はセックスをするために生きていると言っても過言ではない。
遺伝子というのは種の保存のためのプログラムによって突き動かされているからである。正確には、個の保存のために、我先に、やつを蹴落としてでも、カネを払ってでもセックスがしたいのだ。

そういう一種哀しいようで、実に明快なエンジンによって、人間はドライブされている。

「センセーに言うたろー」、「文春に売ったろー」といった幼児性を脱ぎ去ることができない日本人は、それを認めなくてはならない。無関係の人間のセックスに立ち入ってアクセスや視聴率や購読部数を稼ごうとする連中よりも、この主人公はよほど正直で真っ当な生き方をしているではないか。

稲田氏の切れ味の鋭い文章には、ありきたりな表現をするなら粗削りなところがあり、そこここにキンタマくらい光を放つものがある。
さらに研鑽を積んで賢くなったらいいのか、このままのバカで突破するのがいいのか、私は判ずる立場にない。

おもしろくて、滑稽で、すこしかなしくて、帯にある通り赤裸々な性と生なのにぜんぜん悪辣さがなくて、いま本を閉じた私の心の中には、歩み去ろうとする小さな女性の後ろ姿だけが、なぜか浮かんでいる。

また、一冊の書籍としても、特色印刷、UV厚盛印刷、フィルム貼り加工などなど様々な技巧が凝らされていて、中身と一体となった芸術作品としてよくできている。
無名作家の処女文芸作品に注いだ労力と投資を心配した私に、
「初版が売切れたって赤字や。でも一発目の本で、しょーもないもん作られへんからな」と語った田中社長の言葉に嘘はなかった。ひとまず発売前重版、おめでとうございます。
稲田万里とひろのぶと株式会社の、鮮烈なデビューを目にすることができた。

エピローグに登場する新宿のキャッチの男の台詞に、私から著者にそのまんま伝えたいひと言があった。

「お前、どんだけ大変な目にあってんだよ。最高だと思うよ」

優れた小説家のデビュー作を読むと、たまに不安になることがある。自分のことを棚に上げて、大きなお世話ながら、「この人は次を書けるのだろうか……」と。

稲田氏には、元気でスケベでくだらない話を、我々にもっと読ませてほしい。
と、思っていたら、ちゃんと本の中で答えてくれていた。

〈まだこれからも書けそうだ〉

 

心に浮かんだ、歩み去る女性は、小説家として出発をした稲田万里の姿だったのだろう。