月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「ボンクラなりに、宗教を考える」

僕が十代のころは、結婚式は「チカイマスカ?」という神父の前でやって、正月は神社で柏手を打って、葬式はお坊さんのお経を聞く、日本人のええ加減さが嫌いであった。特に、クリスマスになぜか、あわよくばセックスをしようとする連中は大嫌いなのだった。

自分は無神論者なのだと考えていた。
大学教育はアメリカで受けて、はじめに行った学校はメソディスト系のカレッジだったが、僕はメソディストが何なのかも知らなかったし、興味がなかった。
しかし、とにかくそこでは旧約聖書新約聖書の授業は必修だった。困り果てて、キリスト者家系のおかんに助けを求めたところ、阿刀田高の『旧約聖書を知っていますか?』と『新約聖書を知っていますか?』(新潮社)を送ってくれた。

クラスには牧師のおじさん学生がいて、僕を見かねた教授が「彼に教えてもらいなさい」と紹介してくれ、僕は彼からの特別補講を受けて、なんとか「D」とか「C」の成績でパスしたのではなかったか。
あるとき、学食で食事していると、黒人の友人が「ここに座っていいか?」と同じテーブルにやって来た。
「いいよ」と応じた僕がなにか話しかけたら、彼は食べる前にしばらくお祈りをしていた。
「しまった!」と思った。

そんなわけで会話は宗教についてになり、彼はアジア人の僕に「きみの宗教はなんだい?」と尋ねてきた。
僕は”I don’t believe in God.”(神は信じていない)と答えた。
そのころは”Atheist”(無神論者)というむつかしい単語は知らなかった。
彼は「どうしてだ?」と、はじめて見る不思議な生き物に出くわしたような顔で、身を乗り出した。
僕はこのように言った。
「現実の世界に、神様のように善い人間もいれば、悪魔のように悪い人間もいる。だから、すべては人間の比喩なのだと思う」
彼は、壊れたヒンジをセロテープで補強したメガネを拭いてから、僕を見て、
「……ということは、きみは神を信じているじゃないか」
と、とても断定的な口調で言った。

そのときは彼の言葉の意味がよくわからなかったので、どういうことだったのかのちのちもたまに考えた。「神様のように」と喩えている時点で、神の存在を認めていることになるのかな、とか。

2008年に僕が富士山頂から撮った画像です

アメリカにいると、社会の在り方、文化の創られ方が、キリスト教と切っても切れない関係にあることは否応なしにわかる。そもそも、英国教会から逃れたくてメイフラワー号に乗ってやって来た、建国の主流派が清教徒ピューリタン)で、彼らが彼らの信教に基づいて理想の国をつくろうとしたのがアメリカ合衆国である。
開拓史の中で原住民族を酷い扱いしたのも、「野蛮な原始人を、クライストの教えに導いて文明化してやろう」という、マニフェスト・デスティニー(明白な運命)という考え方によって容易く正当化された。

アメリカの歌の歌詞に、”The Good Book”とあれば、それは聖書を指す。
大統領は聖書の上に手を置いて宣誓することはよく知られている。正確には、「自分の信じる宗教の経典に手を置いて」ということなのだろうが、キリスト教徒以外が大統領に選出されることは、今のところまずありえない。

7はなぜラッキーな数字なのか。それも聖書の随所に7が出てきて(7日間、7つの霊、7つの鉢を持った7人の天使、映画でおなじみの7つの大罪など)、神聖な数字とされているからだ。

もちろん、アメリカばかりではなく、ヨーロッパ社会こそキリスト教が岩盤のように固く根底にあるから、キリスト教を信じていないとヒトデナシ扱いを受けると言っても過言ではないはずである。

僕の母親はキリスト者で、その両親もそうであった。
僕はキリスト教にはまだよく理解できないところがあって、信者ではない。
新約聖書旧約聖書の記述を踏まえた上で成立しているものである。旧約と新約は二巻本の上下のような関係になっている〉と、前掲の書『新約聖書を知っていますか?』にある。
旧約聖書は、古代イスラエル民族のヤハウェという神の教えを伝えるもので、アダムとイヴやモーセなど、よく知られた物語が書いてある(僕はもちろん通読したことはないが、先述の通り、一応単位はもらった)。

ヤハウェ唯一神で、全知全能で、これ以外に神はない、という。
「みだりに名前を唱えてはいけない」、「偶像を崇拝してはいけない」とされている。
新約聖書ジーザス・クライストは神の子で、神の教えに自分の解釈を加えて説いたが、クライスト自身が神になってしまい、アメリカ人なんかは毎日なんとも気軽に
「オー! ジーザス!」
などとファーストネームで呼んでいる。
なんなら「ジーズ」などと勝手に縮めて愛称で呼んでいる。
もちろん、磔にされたクライスト像などの偶像もバンバン拝んでいる。

ちなみに「Gスポット」のGの由来には諸説あり、そのひとつは「そこをいじると女が『オー、ジーズ!♡』と悶えるから、ジースポットと云われる」らしい。不敬か!

閑話休題
この、ヤハウェとクライストは親子じゃないの? 別々の神なの? 神は唯一じゃないの? という当たり前の疑問に「三位一体」という概念で答えが用意してあって、つまり、神と神の子とそれをつなぐ聖霊は一体である、という。
「そ、その説はだいぶ苦しくねえか?」というのが、僕のようなボンクラの率直な感想である。

教皇とか枢機卿、司祭などの「人間」がエラソーにしているのもよくわからない。重んじられている、敬われているのはよいことだが、結局、人間自身が神様扱いされているようで、それはジーザス然り、イスラム教のムハンマド然りなのではないか、と感じる。

聖書では、近親相姦はしているのに、男色の街は焼き払ったりしていて、現代の基準からするとヤバい。
アメリカの急進左派は、南北戦争で連合国(南軍)を率いた将軍の銅像を引き倒すような歴史修正をするくらいなら、このあたりはどうオトシマエつけるのだろうか。

いま、安倍元首相暗殺事件に端を発し、ふたたび新興宗教の問題に注目が集まっている。
しかし、聖書にも〈神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける〉という記述があり(ルカによる福音書 第十八章)、宗教の根本や信教の自由にかかわる問題であり、なかなか解決しがたい。
過去の例で考えると、マスメディアがひとしきり騒ぐだけ騒いで、ウヤムヤになってしまうだろう。
僕自身には新興宗教(そして暗殺犯も)を擁護する気はまったくないので、法の下での賢明な対処を願う。

なによりもわからないのは、ちがう宗教が対立してしまうどころか、同じキリスト教の中でも、カトリックプロテスタントと大きく分かれ、後者の中でもメソディスト、バプティストペンテコステなどなどなど無数に宗派が分かれ、わけがわからなくなっていることだ。もちろん、わけがわからないの主語は僕である。彼らがわけわかっているならいいんだけど。

しかし、「宗教は人類をひとつにはしない」という見解を、現時点で否定できるひとはいないだろう。
現実はどうだ。

かつて「神は信じていない」と言った僕だが、やがて考えは遷移し、僕は神を信じている。
このものすごく美しくて、とてつもなくしんどい人間世界を想うと、やはり人間以上のなにかの存在を信じずにいられないのだ。

とはいえ、それはジーザス・クライストとか仏陀とか具体的な姿がある崇拝の対象ではなくて、姿のない、漠然とした神様である。きっと多くの日本人の宗教観はそれに近いものであるはずだ。
天皇陛下を心から尊敬しているが、神様とは思っていない。天皇の仕事は神に祈ること。祈ってくださっていることに深く感謝している。

神様はやはり唯一で、しかしどこにでもいる。名前はなく、拝むべき姿もない。

宗教、宗派にかかわらず、神を説く者ではなく、神そのものを尊崇することが肝要なのではないだろうか(個人の意見です。おのおのが信じるものを信じてください)。

あぁ、むつかしい。答えはない。答えなんかあれば、オレが教祖になってるわな。

 

阿刀田高著『旧約聖書を知っていますか?』(新潮社 1991年)
阿刀田高著『新約聖書を知っていますか?』(新潮社 1993年
司馬遼太郎著『アメリカ素描』(読売新聞社 1986年)
井上順孝著『人はなぜ新宗教に魅かれるのか?』(三笠書房 2009年)