月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「思惑交差点に立つ男と女」

とあるファッション雑誌編集長がフライデーされた。記事によると、こうだ。

二十三才のモデルA子さんは、若者に大人気のファッションショウへの出演を夢見ていた。有名編集長であるK氏を紹介してもらう機会を得て、会食をした。食事のあとにバーへと誘われ、強引にホテルに連れ込まれた。「このまま帰るとショウには出さないよ」と脅され、怖くて従うしかなかった。 二ヶ月後、知人宅でのパーティに誘われ、自宅に送ると言われたのに、再びホテルに連れて行かれた。翌月、またもや食事をしたが、そのあとのホテルは意を決して拒否した。
その後の誘いは全て断っていたら、ショウの五日前になって「あの件はなくなった」と連絡された。A子さんはショックで体調を崩し、事務所を辞め、故郷に帰ることにした。その後、両者示談交渉中にK氏の方が「恐喝されている」と別の写真週刊誌に訴え出たため、A子さんはフライデー誌での逆襲を決意し、訴訟を検討中ということだ。
よくある話ですね。ここまでベタな展開というのは最近珍しいくらいだろう。僕は、イキったファッション関係者は大嫌いなので、K氏を擁護する気はない。率直に「キモいやつや」と思う。しかし、フライデー誌と一緒になって彼を糾弾する気にもなれないので、その理由を述べてみる。
これはお互いの思惑の問題なのだ。女は「コネを作って仕事を得たい」という思惑があり、男には「あわよくば女を抱きたい」という思惑があった。そして、この場合、女のそれは叶わず、男のそれは満たされた。その不公平が女の告発の根源にある。では、別の状況を考えてみよう。まずは、「女の希望も実現せず、男の欲望も満足させられなかった」、つまり、ショウにも出られず、抱かれもせずという場合。 もちろん、それだったら何も起こらなかった。

「あーぁ、ショウに出たかったなぁ」

「くそー、あの女を一発イテコマシたかったぜ」
で終了だ。

次に、「ショウにも出られたし、抱かれた」という時。 その場合、女は編集長を訴えただろうか。

「ショウに出してくれた代わりに、ワタシの体を散々貪ったんです!」

そんな理屈が通用するだろうか。おそらく、「お前カラダで払って仕事買うとるやないか」との批判を怖れて、女は沈黙を守るのではないだろうか。ということは、抱かれたことが問題なのではなく、ショウに出してもらえなかったことが問題ということになろう。

普通に考えたら(フライデーが読者に期待するように受け取るなら)、「立ち場を利用して、弱い者を搾取した」ということになるのだろう。しかし、上記を考慮に入れるなら、ちょっと様相は違って見えないか。

お互いに得るものを得たのだから、いいんでないの? と思うのは人権軽視だろうか。古今や洋の東西を問わずそうなのだから、これは男女の性(さが)であり、今後もおそらく改善はされることはない。銀座や北新地もそういう思惑交差点の上に成り立っている。週刊文春が正しいなら(きっと正しいんだけど)、大手レコード会社もそういうコトらしいし。ハリウッドもそうだって北野武監督が言ってたし。広告業界は違うけどね。広告会社に決定権ないから。

では、「ショウには出してもらったが、抱かれるのは断った」時にはどうなる? 編集長は、涙ながらに告白するだろう。

「あの女、私の口利きでショウに出ておいて、ヤラせてくれなかったんです!」と。 「私の職業と地位を弄ばれたんです!」

なぜこれが通用しないのだろうか。ショウに出たいという希望を「夢」などと呼ぶなら、ヤリたいという、この透き通るようなピュアな気持ちはどうしてくれる。「売れたい」も「ヤリたい」も、個人的な欲望という意味においては同等ではないか。それによって一票の格差が是正されるわけでも、食糧危機が解決するわけでもない。

そのファッションショウの主催者はそもそも「K氏にキャスティングの権利なんてありません」と一笑に付している。たとえあったとして、K氏がA子をショウに出演させる義務も理由もない。特に出したくもない。出すメリットはないのだ。

世の中には、三種類の人間がいる。善悪を基準に行動する人。正誤で動く人。そして、損得で判断する人。 善悪と正誤は区別がつきにくいかもしれないが、前者はたとえば、規則には背いているけどその方が(倫理的や合理的な意味合いで)善いと考えるから行なう人である。 K氏は損得で動いたのだ。仕事に関わることにおいては、大概の大人は損得で動くと思って間違いない。

繰り返すが、K氏にA子をショウに出すことのメリットはないのだ。K氏くらいになれば、仕事を得たいモデルや事務所からのアプローチなど毎日のようにあるだろう。それをいちいち善悪で判断して厚意を遣っていたら、ショウなど客千人に対して、モデル五千人とかになってしまう。 逆にA子の方は何を思ってK氏にアプローチしたのだろうか。K氏が進んで推すのは、「お客のためになる、もしくは集客に貢献するモデル」だけだろう。自分がそうでないとするなら、何を求めてK氏に近付いたのか。

思惑があった。両者に思惑があり、片方はそれを提供したのに、返してもらえなかった。それだけのことなのだ。何かを期待していたのだ。それに応えてもらえなかったから裏切られた気持ちになっただけのこと。

淋しい話だ。 今後は考え方を改めなくてはいけない。

「ヤラせたのに、仕事はもらえなかった」。こういう受け身の考え方でいるから、仕事も得られないし、人のせいにする体質のままなのだ。 こういう時は「仕事はもらえなかったけど、とりあえずヤッたった」だ。 そして、「次いこ! 次!」と前を向けば、いつか仕事にも恵まれるだろう。

「仕事をもらうために、ヤラせるハメになった」は違う。 「ち〇ちんイワしたった上に、仕事までゲットした!」 これぞ一石二鳥。ダブルでハッピーだ。編集長はシングルハッピーだから、君の勝ちだ。

そんなのは受け容れがたいとおっしゃる向きのために、言っておこう。

A子さんが過ちを犯したとするなら、「初めての食事とバーのあとにホテルについて行った」ことだ。この時点で断るべきだったのだ。 お金も払われてないのにうどん出しちゃうから食い逃げされるのだ。こういう時はキャッシュオンデリバリーだろう。 ギャングだって 「カネは持ってきたか!」 「ブツを確認してからだ!」 とやるでしょう。

怖くて言い出せなかったとかいうのは、申し訳ないけど通用しない。大事なことをはっきり言わないと、命だって失うこともあるよ。それが厳しいこの世の中だ。 真珠湾攻撃だって、宣戦布告の声明は出来上がっていた。それなのに大使館員がモタモタしていたがために、歴史に奇襲ということで記録され、我々日本人は卑怯者呼ばわりされる結果となったのだ(ちなみに、その後のどの戦争でも、宣戦布告してからおっぱじめた事例はない)。

言下に断って仕事を得ないか、こう言って仕事を得ないか、しかない。

「私は仕事を得るために男の人と寝ることはしません。今夜のことは忘れてください。私はいつか最高のモデルになって、今度はKさんの方から仕事を依頼していただけるようにがんばります。それでいいでしょうか」

フツーの男なら、こうまで言われてしまっては、あとは 「わかった。これからもがんばりなさい」 とカッコつけて、タクシー代でも握らせて別れるしかないのだ。

粘り強い男なら 「わかった。仕事は忘れよう。……仕事抜きで、一発ヤラせてくれ」 と純粋な瞳でウィンウィンな提案を持ちかけてくるだろう。 こういう人が結局はのし上がるから、世の中こういう男ばかりですみません。なんで、オレが謝らなあかんねん。

オレだったらそんな際「うわ、てことは月曜になったら、プロデューサーのあいつと、イベンターのあいつに電話して、このコをなんとか押し込まなあかん!」というプレッシャーに押し潰されて、全然心がのびのびできなくて、アレがのびのびしないもん。律儀か。

そして、可能性としては、彼女はいつか、故郷へ帰ることになる。 哀しいかなそういうことだ。

それではあんまりだ、どうすればショウに出られるかって? 知るかい。運だろ、運。 知ってたら、オレが出てるわ。三十九才のおっさんだけど、それをモノともせずにオレが出てるわ。

「彼女は、死んだのだ」

こんな駅貼りポスターを目にした。人材派遣会社だったか、転職情報会社の広告で、こんなコピーが書かれていたかと思う。

  • 「大人のあなたを変えるのは、恋と仕事です」
僕はこれを見て直感的に疑問を感じたのである。「そうかな……?」と。
いや、正直に申せば、心の中では「なにを甘っちょろいことをヌカしとんねん!」と毒づいたのである。
ハッキリ言おう。大人を変えちまうのは、「死」なんだよ。
仕事については異論はない。あの純真だった私を、薄汚れた大人に変えてしまったのは、仕事である。これを書いている本日、私は三十九才になった。一般には働き盛り、つまり薄汚れ盛りである。ハッハッハ。カネよこせ。
恋で変わるのなんかは大人ではない。恋で変わっていいのは、思春期の人間である。初めて手をつないだ、初めてキスをした、初めて人の肌の温度を知った。こういう一つひとつのステップを経て、人は成長するとするならば、恋によって確かに人は変わるのかもしれない。
しかしだ、我々大人は、一旦の完成品として(恋愛)市場に製品として陳列されているべき存在である(あ、結婚とかしてるのに、「我々」などと今、ちゃっかり自分も入れた)。
もちろんマイナーチェンジされることはあっても、完成品として販売されている限り、完成品として市場の過酷な審判を受けるべきなのである。「恋すると変わりますから、ボクを選んでチョ」なんていうポンコツを受け容れることができるだろうか。オトトイ来やがれ、だろう。
僕が「大人を変えるのは『死』である」と気付いたのは、父親が死んだ時だ。そこでまず、「人は本当に死ぬ」ということを知った。それまでは、死を身近に感じたことはなくて、ドラマや映画の中で死んだ役者が、また別の作品に出てくるような、漠然とした再生可能な感覚があったような気がする。それが、オヤジがいなくなって、もう話すことができないと悟った時、「うわ、本当に死んだんだ。死ぬってこういうことなんだ」ということを徐々に受け入れざるを得なかった。
それから、自分が三十五才になった時、今度は「うわ、オレの人生もう半分終わったんだ」と知った。僕の家系はあまり長命ではない傾向があるので、七十まで生きれば万々歳だ。だから、普通に考えて半分来てしまったと考えたのだ。
それ以来僕は「我慢メーターの目盛り」を、「弱」の方向に動かした。「若いうちは我慢だ。勉強だ。謙虚さだ」と思って働いてきたのだが、ふと気付いたら若くもなくなっていた。いつまでも我慢していたら、このまま人生が終わってしまうと思ったのである。
とはいえ、「辛抱できないオッサン」こそが、切れる若者よりもずっと社会の害悪だということを僕はわかっているので、我慢しないことを自己中心的であることと履き違えないようには注意している(つもり)。
喩えるなら、「最後に残った唐揚げを放置しない人間」になろうと決めたのだ。衝突を怖れて、一つ残った唐揚げを見て見ぬふりするのではなく、自分で食べるか、誰かにあげることを心がけているのだ。つまらん喩えだったな……。ちっさい人間は喩えも小さい。
まぁ、とにかく少なくとも「死」によって、大人としての僕は変わったのである。言いたかったのはそういうことだ。
そして、壊れかけのワタシから、「思春期に少年から大人に変わる」のに不可欠なのが、「失恋」なのであるということも付け加えておきたい。前回、「恋愛と失恋はセットである」と述べたように、哀しいかな、失恋によって少年は大人になっていく。オレは失恋もしたことない人間を、大人の人間とは認めていないぞ。
失恋に関しては評論家になれるくらいの経験がある私でも、簡単で、素早くて、お得な別れ方というのは未だに指南できない。しかし、これからまだまだ失恋していくであろう前途ある若者に言えることはいくつかある。
  • ■「他に好きな人ができた」
これは最悪の部類なのでやめておきましょう。「捨てられる」という拒絶感と、「人に取られる」という敗北感をダブルで浴びせる必要はないのだ。
  • ■「友達に戻りましょう」
戻れたためしはないので、やめておきましょう。「過去に友達だったことなんかねえよ! オレはいつだって、そういうイヤラシイ目で君を見てきたよ!」と、僕なら思うかな。失恋は語れるほど知っていても、恋愛の方は、全然経験したパターンが少なくて申し訳ない。
  • ■「あなたのことが以前ほど好きではなくなったの」
このあたりが及第点かもしれないな。そう本音を言われると、ちょっとは反省する気になれるかもな(今僕は、過去のあれこれを反省している神妙な顔をしている)。
  • 「そんなこと言わずに、以前のようにボクを好きになってよ!」とか言っても仕方ないしな。前号からの繰り返しになるが、人の心はコントロールできないのだから。
  • ■「お互いのために別れましょう」
アメリカ人か。
あいつらはそんなことを言いつつ簡単に離婚して、週末になると子供を迎えに来ては、別れた女房とハグしているから意味がわからん。「お互いのためとか、オレを勝手に含めるなよ。オレを捨てるのは、オレのためにはならん。なぜなら、嫌だから」だ。
なお、アメリカ人夫婦が結婚二十周年を迎える確率は、半分とちょっとだそうだ(女性で五二%、男性で五六%:National Health Statistics Reports 2012)。
あ、そうだ。僕は別れる専門家なのではなくて、フラれる専門家なのだった。
失恋すると色々とウジウジ考える。この未曾有の、経験したことのない辛さに、世界の終わりが到来したかのような気分になる。大変な痛みを伴う、人生の構造改革だ。どう対処していいかわからないから、とりあえずテレビで見たことある「フラれた人が取る行動」をとってみると何か効果があるのではないかと、縋るような思いで考える。酒を飲んでみるとか、雨の中を走ってみるとか、部屋の隅っこで体育座りしてみるとか。
ハマショーを聴くとか。そりゃオレか。
残酷な真実を突きつけるようだが、失恋とは、「あなたは私の人生からいなくなってくれて構わない」という宣告である。商品だったあなたが、ついに不燃ゴミになったのである。この屈辱感とか喪失感とか絶望感とかは、なかなか若い心には処理しづらいものだ。
辱められたような気持ちになって、一部の男は「リベンジ・ポルノ」で仕返しをしようとしてしまう。男はこういう卑劣な反応をしては絶対にいけない。お前の人間としての価値を下げるからだ。しかも、「自分のチ〇ポも写っている」という恥ずかしい事実をわかっているのか、僕はとっても疑問なんだな。
さて、結論めいたことを言うぞ。女性のことは僕はまったくわからないし、「男性は恋愛の記憶を保存し、女性は上書きする」というからな、あいつら全然アドバイスとか必要としていないからな。主に男性諸君に言うぞ。
いいか、失恋とは「死」なのだ。
君ではない。死んだのは彼女の方だ。彼女は死んだのだ。
失恋も死も、その激痛がどこから来るかといえば、喪失からだ。「もう逢うことができない」という別離の難さ(かたさ)という意味で、本質的には同種だ。
よく、死んだ人がまだ「心の中で生きている」という表現がある。死に接したことのある人間なら、それが本当に起こり得ることだと理解できるだろう。
あれの逆バージョンを心の裡で創製するのだ。実際には死んだ人が心の中で生きているように、実際には生きているかもしれない彼女は、君の世界では死んだのだ。いや、実際に死んだものと思え。君の世界とは、君の生きる現実のすべてだ。そこでは、彼女は、死んだのだ。
敢えてそのように思い込み、自分を説得し、難しくても嚥下し、受諾するしかない。
それができた時、人の痛みが分かる大人の男が一人、そこにいるだろう。
そして、「死んだ彼女」が「心の中で生きていて」、「あの世で元気にしてるかな」と、あたかも死者を思うが如く、その幸せを祈れるようになった時、彼女は本当に、君の中で死んだのだ。いや、本当にじゃないんだけど、本当になんだ。この複雑な心理状態こそ、大人の心の複雑さなのだ。
大人を変えるのは「死」なのだ。
本当のこと過ぎてポスターには採用されないが、そうなのだ。

「十年念じよ」

僕は占いの類は信じないのだが、先日、勤め先の送別会で「ワタシ、手相が診られるんです」という女性と会話をしたので、せっかくだから僕の掌を診てもらうことにした。

彼女は僕の両手をグイッと引き寄せ、しばらく凝視したのち、いきなり、

「芸術家肌なタイプではないですね……」 と言った。

広告クリエーター(という言葉は大嫌いだが)という職業柄、それを言われて傷付く人もいるのではないか、という配慮は微塵も感じさせない、事実を事実としてだけ告げる口調であった。僕はわかっている。自分はおよそ芸術を解さない人間であることを。
だから、僕は平然と、そして平然と聞こえるように答えた。

「そうね、僕は全然アーティストなタイプではないよ」

彼女は僕の掌を再び矯めつ眇めつしながら、目を上げることもなく、今度はこう告げた。

「かといって、理論派でもないですね」

なんやねん! なんやっちゅうねん。オレがなんの取り柄もない人間であることを、外堀を埋めるようにして徐々に伝えてくる戦法か。オレはそのへんの勘はいいんだぞ。繊細だからな。
続けて彼女は言った。

「あ、勘はいい方みたいです」

あぁ、そうかい。知ってるわ。
それにしても、「勘はいい」という漠然とした、掴みどころも証明のしようもない結論とは。良く解釈するならば、「センス(第六感、つまりシックスス・センスというくらいだから)は良い」とふうに受け取れる。普通に翻訳するなら、単に「なんか知らんが、なんとかなってる」ということか。
まぁまぁ、いいではないか。センスがいいというのは、何事にも役に立ちそうだしな。芸術家肌でセンス悪かったら、つまり才能ゼロと同義だからな。って、勝手に良く解釈した方をさらに拡大して採用しました。
最後に彼女が言ったのは、

「あとは、なにかをずーっと続けるのは得意ですね」 ということだ。なるほど。その時履いてたブーツも二十年近く履いてるものだった。

話は変わって、先週、ハタチの男子大学生と二人で飲んだ。彼は三年前の僕のカナダ一人旅の際に、行きの飛行機で隣り合わせた当時高校二年生の少年だった。三年が経って、彼は大学生になっていたのだ。
二〇一一年七月号に日影くんという名前で登場している。

http://goo.gl/QYK62s

僕はあの時、旅から帰って、テニスの青春小説を読んだ際に、機上で出会った、「テニスをやっている」「修学旅行でシアトルに行くところ」だった高校生のことを思い出して、なぜだか彼にもこの本を読んでほしいと思ったのだ。そして、高校名とテニス部と苗字しかわからない彼宛に、封筒にそれだけ書いて本を送ってみたのであった。
ちゃんと届いたのである。お礼の電話をもらった。きっとお母さんから「ちゃんとお礼を言いなさいよ」とか言われたのだろう。ちゃんとした教育を受けている少年の初々しいお礼の仕方だった。
その時に同封した僕の名刺を頼りに、彼から三年ぶりに連絡があったのだ。実は、今夏、錦織選手が全米オープン決勝に進んだ時に、僕の方もなぜかその日影くんのことを思い出していた。その直後の連絡だったから、僕はうれしかった。
もうすぐ三十九になろうとしているおっさんと、二十才の大学二年生がどんな会話をしたのか。いや、そんな隔たりを感じさせないほど、楽しい会話をしたものだ。だけど、訊いてみるとなんと母親は四十二才だという! 三つ上。「今度一緒に飲もう」と喉まで出かったぞ。
ちょっとクールで物怖じしない日影くんは、バイトのことや、大学のことや、海外への興味のことなどを聞かせてくれた。僕に就職の相談をするわけでもなく、なにかためになる話を求めるでなく、ホントに自然体の好青年なのだ。そして、なかなかのハンサムボーイなのに、カノジョはいないそうだ。

「コンパしたろか?」と再び喉まで出かかったが、彼は「……ぽいコならいるんですけど」と意味深なことを言う。 「なんやそれ、ええなぁ」 「いや、あの、付き合おうと思えば付き合えるのかもしれないけど、バイトの仲間なので、仲間同士が楽しいかなぁ、と」

やはり、クールなのだ。僕がハタチの時はそんなんなかったなぁ。付き合おうと思って付き合えるなら、付き合ってたわな。付き合えないから付き合わなかったな……。
思わず遠い目をした僕の口から出た次の言葉はこうだった。

「……失恋とか、してみてえなぁ」 「え、そうですか?」 と驚く日影くんに僕は補足した。失恋は散々してきたから、その辛さはよく知っているのだ。わざわざそれをしたいわけではなくて、恋と失恋は一対だということを僕は知っているだけだ。恋をすれば失恋はセットなのだ。恋が恋で終わるためには失恋がセットで付いてくるのである。恋から結婚に発展すると、恋は終わらなくもないが、変質するだろう。

私などは、うちの主人(=妻)に「愛してるー」とか言おうものなら、テレビのリモコンを持ったままで、

「うるさい。押し付けがましいねん」 と、一顧だにされない。だから、言わないようにしている。

恋を求めると失恋が帰結であるなら、人生を少なからず味わってきた我々大人は先回りして失恋に思い致すのである。
「恋してえなぁ」が「失恋してえなぁ」になるのは、「甲子園に出てみたいなぁ」が「砂とか持って帰りたいよね」になるのと同じことだ。優勝旗ではないのだ。そこはいつも砂なのだ。

「それって、さびしくないですか?」

日影くんは真っ当な問いを投げかける。

「もうな、想定しとくねん。どーせフラれるねん」 「フラれたら諦めるタイプですか?」 「去る者は追っても仕方ない。それより、相手がいなくなっても、自分が生きていけるように心の準備をしておくことだ」

日本女性の平均寿命がゆうに八十を越えるようになり、うちの母親なんかほぼ確実に、男性である僕よりも長生きするだろう。「いつまでもあると思うな」は、「親とカネ」ではなく「恋とカネ」なのだ。

「そうなんですかー……」

日影くんは納得できない様子だ。それでこそ若者だ。

「他者の心はコントロールできないからな。できるのは、自分のだけだ」

日影くんがよく納得できない様子だったことをもうひとつ話した。

「何かを十年思い続けるというのは、思ったより簡単なことだ」ということ。

十年を二回しか経験したことのない日影くんはまだ十年費やして何かを念じたことはないのだろう。
難しい話ではない。僕は十六の頃から「ヒゲ生やしたい」と思っていたら、二十六で生やせるようになった。本当である。家系的に特に濃いわけではなく、三兄弟でヒゲを生やせるのは僕だけだ。腹を六つに割りたい? 割れた(まぁ、鍛えたからなんだけど)。バイク乗りたい? 乗れた(うん、免許取ったからなんだけど)。
自分のことはなんとかなるのである。それが人の評価や判断に委ねなくてはならない類のものはそうはいかない。しかし世の中はそういうことだらけだから、念じてもモテないし、思い描くような成功はできない。
念じるのだ。十年念じよ。人のことではない。オノレのことをだ。
なかなかの理論だろう。そう、僕は理論派ではないのだ。
最後にひとつだけ忠告しておこう。自分の切実な念が通じない部分がひとつだけある。アレだ。あれはまったく言うことを聞かない(場合がある)のだ。いや、二十才の若者とは逆の意味でだ。
日影くん、君にも丹下段平の気持ちがよくわかる日が来るだろう。その喩えがすでにわからないか。そうか。
結局こんな話ですまん。僕は、アーティスティックでもないのだ。

「未来に届け、僕らの涙声」

アメリカを旅していた時のこと、オレゴン州ポートランドでとあるレザーショップに入ったところ、支払いカウンターにこのような表示、というか宣言が貼ってあった。 曰く、「私たちはどなたであってもサービスを拒絶する権利があります」。
  • 「どなたであっても満足を保証します」ではない。
僕はこの文句に目を疑い、写真に撮らせてもらいたかったのだが、こう高らかに宣言されていると「お断わりします。その権利があるからだ」とか言われそうでちょっとヒヤヒヤした。結果的には、「なんでこんなもん撮りたいねん」という、ちょっとポカンとした表情で女主人は許可してくれた。だからここに貼付することができたわけである。 すっかりアメリカのレザー製品に魅了されて帰国したのち、インターネットで別の家族経営のレザーブランドを見つけた。それはグレッグ(仮名)という四人の子持ちの厳めしい面構えの男が経営している。 ウェブサイトにて、グレッグはハッキリと書く。
  • 「我々は、従業員とその尊厳を、カバンを売ることよりも大切にしている。もし誰かがいかなる方法においてでも、彼らに大声で怒鳴り散らしたり、脅すようなことがあるならば、そいつは顧客としてクビだ」
  • 「我々は、九十九パーセントの方々は、正当なクレームである場合であっても、礼儀正しくて親切で我慢強く、そして丁寧であることを知っている。ただ、残りの一パーセントの連中がいる。彼らはつまらないことに対して大声を出し、脅しをかけてくる(たいていの場合、なにかをタダで得るか、値引きをさせるために)」
  • 「そういう連中には、我々のカバンを持ち歩く仲間になってもらわなくて結構だ」
  • 「我々にとって、我々の仕事と、我々の顧客は等しく大切なのである。ここまでお付き合いいただきありがとう」
僕は今度、グレッグのカバンを注文すると思う。 アメリカ人は主張が激しいというが、換言すれば、攻撃的であり、また、アメリカ人のグレッグは気持ちがいいくらい率直なのである。 「お客様は神様です」とか「未来の子供たちのために」とかのオタメゴカシは言わないのだ。すぐにバレる嘘だからだ。お互いに嘘と知っていながら、その嘘の上でビジネスを進めてお互いの利益を引っ張り合いするような面倒くさいプロレスは不要なのだ。 ところが、「お客様は神様」的プロトコルを疑わない人が日本企業には多いから、もしもその中の一人が取引先に対して「それは違うでしょう」と異議を唱えると、日本では何が起こるか。 その人は味方であるはずの同僚や上司から「キ、キミ、なんてことを」などと、「背後から撃たれる」のである。明らかに言われていることがおかしいから「おかしい」と言って、その発言の主から「いや、そうではない」と反撃されるなら議論の中で進歩は生まれるが、背中から撃たれると作戦中止をせざるを得ない。独りで戦おうとすると「大義なき戦」になりそうだから、自ら「撃ちかたやめ!」で一旦撤退することになる。 で、あとで味方であるはずの人間に「でも、やっぱりおかしいでしょう」と問い直すと、「おかしいのはわかっているが、言うとカドが立つからな……」などと、状況の改善を放棄する。だから、日本のビジネス界の悪癖は一向に好転しないままずっとそのままである。 そういうのを山ほど見てきたし、幾度も当事者になってきたからわかるのだが、「唐揚げの最後のひとつを残しちゃうほど平和を愛する民族性」も困ったものである。 日本のサラリーマンが駅でああまでアラレもなく泥酔してしまうのは、そうやってストレスフルな問題を解決してこなかったことと無関係ではあるまい。しかし、諍いを徹底的に回避してきたからこそ、世界最高水準の治安の中、駅でぐっすり眠れるという変なおまけもある。 メジャーリーグには新しく「チャレンジ」という制度が施行されるようになった。審判の判定に疑義がある場合、監督はチャレンジ、つまり挑戦できるのだ。「それはおかしい!」と挑戦の意思を申し出る。 そうすると、ニューヨークにある本部で映像を確認して、改めて裁定が下される。監督の異議が認められると、チャレンジの権利はもう一回残る。しかし、監督が誤っていた場合、その試合で再びチャレンジする権利は与えられない。テクノロジーの進展に伴い、テニスでも同様の制度がある(一セットにつき三回まで)。これがもっと昔からあれば、マッケンローはあれほど木製ラケットをブチ折らなくても済んだかもしれない。 ビジネス界、もしくは学校でも同じ制度を採用すればいいのにと思う。間違った発言がエライ人の口から出たものだから、みんなおかしいと思いつつもその場はスルーしてしまうことはよくあるだろう。 お客様だろうが、社長だろうが、先生であろうが、神様でないことは明らかなのだから、間違いも犯すし、不当な要求もする。 一日中チャレンジばっかりしてくるような、カバン屋のグレッグがブチ切れそうな鬱陶しい人間が出ないように、一日一回(成功すればもう一回)としよう。
  • 「社長、それは間違っています」と言うと、確かにカドが立つ。しかし、「まぁそういった方向で検討しつつ、今後の課題ということで共通の認識を持たせていただき、幅広い視野で状況に対応させていきたいと思います」などと、梅田から難波まで行くのに、JR大阪駅で環状線に乗って、鶴橋で千日前線に乗り換えて行くような回りくどい言い方をしてもなんの意味もないだろう(大阪の人にしかわからない比喩で失礼。いや、大阪の人もわからないかも)。
そういう時は、御堂筋線で一発で行くために、「チャレンジ!」すればいいのではないだろうか。「チャレンジ」という単語が直截すぎるというあくまでも平和主義者のためには「未来にチャレンジ!」とか「明日のためにもっとずっと!」とかなんとか誰も反対しないお口にやさしい言葉を企業ごとに考案したらいいだろう。オレは恥ずかしいからイヤだが。
  • 社長:「今後、経営の効率化のために、従業員は全員、首元にICチップを埋め込んでもらうことにします」
  • 社員:「未来にチャレンジ!」
これなら、社長に挑戦状を叩き付けたことにはならないだろう。あくまでも社の未来のために僭越ながら意見をひとつ申し上げます、程度のソフトランディングが期待できそうだ。それでも、なんとなくウヤムヤのうちに首元にICチップを埋め込まれることになりそうな予感はする……。
  • 社長:「今後、経営の骨太化のために、下請け業者どもをバール状のもので殴打するつもりでブッ叩くように」
  • 社員:「明日のためにもっとずっと!」
ダメだ、ダメだ! もっとずっとガンガンにブッ叩くようにしか聞こえん。 そうだ、意味を曖昧にする常套手段はアルファベット化だ。インポはED、家庭内暴力はDV、ハゲはHAGE、いや違った、AGAだ。 だから、チャレンジは、なんか……「Cコール」とかにしたらどうか。
  • 社長:「今後、経営の自分ゴト化のために、従業員は私以外を全員管理職とします。よって私にだけは残業代がつきますが、私は常に会社のことを考えていますから業務時間は毎日二十四時間とします」
  • 全員:「Cコール!!」
ひとまず、いいだろう。 ちゃんとした会社なら、社内のCコールを吸い上げるために「Cコール委員会」を立ち上げてその傾向をビッグデータ解析するだろう。偽って何度もCコールをブチかます不逞社員が現れないように、「Cコールをした者は、その経緯と結果と見込まれる利益を、規定の書式に従って作成しCコール委員会に提出すること」になるだろう。そして、その回数、頻度、内容の把握をより正確にするために、「Cコールをする者は三営業日前までに事前申請」する規則ができるだろう。 その事前申請は、事前の「ジ」から取って「Gコール」と呼ばれるようになるだろう。やがて、ひとりの役員が「事前はJじゃないのか」と言い出したのと同時期に、セクハラ委員会から「Gコールは『自慰行為』と語感が近すぎる」とクレームがついたダブルパンチを社も看過できず、「Jコール」に改められる。それでもなお、「Jコール、通称Gコール」もしくは「元Gコール」と社内一般には呼ばれるようになる。 どうでしょう。これがニッポンの組織というものです。 どこ委員会に文句を言いに行ったらいいのでしょうか。 今日も心の中で叫びましょう。いや、心の中だけに留めましょう。 せーの、
  • 「シーコール!!」(涙声)。

「二〇〇〇㍍と二〇〇〇㌔の旅(シェア篇)」

  • 4/4回

ポートランドに入ったのは、帰宅ラッシュの最中の午後五時半。高速道路は自動車で埋まっていた。 この町で、僕と旅の供である大谷さん(仮名)と滝下(仮名)は、バブル時代のOLも真っ青のショッピング三昧をすることに決めていた。それがなければ、ポートランドはスルーして、そのままシアトルに向かう手もあったのだ。 旅の計画段階では、オレゴン州ポートランドという名前から、僕もドが付くくらいの田舎を想像していたのだが、近頃ではすっかり街と自然が調和した最先端都市になっているらしい。ひと昔前のサンフランシスコが若者文化の発信地であったように、今やポートランドがその役目を果たしていると雑誌記事に書いてあった。

渋滞を避けるために早めにハイウェイを降りて、まず向かったのはダナーというブーツメイカーのファクトリーストアだった。家に六〇足を眠らせる(たぶん今はもっとある)ブーツマニアである大谷さんのリクエストだ。僕もブーツ愛好家を自認はするが、履くことが好きなのであって、コレクションする趣味はない。その点は僕は彼と志向を異にする。

彼によると、ダナー・ブランドは近年、その経営会社が日本のABCマートに買収され、日本のブーツマニアたちの間ではガッカリなニュースとして話題になったとのことだ。スニーカーの安売り店であるその会社がブランドを弄くることにより、せっかくのダナーがきっと安物ブランドに成り下がるか、変にプレミアム付きの実用重視ではないブーツにされてしまうかファンは危惧している……と、買ったブーツを全然実用しない大谷さんが言っていた。

そんなわけで、彼は日本市場に入ってくる前のダナーをポートランドで買えることを楽しみにしていた。空港に近いファクトリーストアは、工場の一端でアウトレット品をついでに売るといった場所ではなく、広さ、コントロールされた内装と商品陳列、品揃えなど全てレベルが高いのであった。

わからないことは店員ではなく、大谷さんに訊けば済んだ。

  • 「このモデルは××の後継として発売されて、ここの素材が〇〇になっていて、ソールがこうなっているのが特徴です」
  • 「これは日本では発売されていないカラーで、日本には黒と茶の二種類しか入ってきていませんね」
  • 「縫い目がズレていたり、革に少し傷がある、いわゆるB級商品は、ブーツのベロを捲ってみると小さなパンチ穴が開けてあるんですよ」

実際に捲ってみると、確かにそうなっていた。

大谷さんの商品知識に僕と滝下は舌を巻いた。というか、ちょっと畏怖すら抱くレベルだった。

  • 「君、いつでもここで働けるやん」

店ではコーヒーも置いてあり、自由に飲んでよい。寛大な心と、濶大な店舗面積だからこそできることである。 大谷さんと滝下はブーツを手に入れ、満足げであった。特に大谷さんは「ボク、ちょ、ちょっと感動すらしています」と語った。モノでここまで心が動かされる体験というのはそうそうないだろう。何千キロも走って、ここまで来てよかったよなぁ。

その晩は近くのホテルに泊まった。空港に近いのでビジネス客が多いのだろうが、なぜかベッドが三つあるこれまた広い部屋をあてがってもらえて狂喜した。僕と滝下はこの旅で初めて、一人に一つのベッドを得たのだ。

ブーツマニアの次は、カレーマニアのお世話だ。滝下はカレーにうるさい。アメリカに来て以来何日もカレーを食べていないので、事前にカレー屋があることを調べ上げていた。カレー屋と呼ぶには相応しくないオシャレなレストランだったのだが、アメリカにおいて、そんなオリエンタルな食べ物を受け容れる人たちというのは、先進的な考え方で、異文化に許容的な人間が多いからだろう。金曜の夜で込み合っていて、それでいてスーツを着た人など皆無だ。 刈上げ頭の明らかなレズビアンカップル、ヒゲモジャ男、学生なのかアート系職業なのかわからないがそれらしき黒ブチメガネの人、インド系のカップルなどなど。とにかくアメリカン・デブがいない。

カウンターで注文をして席で待つシステムだったが、僕が席で待っていても、大谷さんが戻ってこない。英語での注文に手間取っている様子だったので、見に行くと、彼は困り果て、なんと日本語で注文していた。

  • 「エート、コレト、コレガ、ホシイデス」

そりゃ通じねえよ! もうちょっとがんばろうや……。苦笑して助け舟を出す。 二十七になる滝下は、ビールを頼むとIDの提示を求められた。まぁそうだろうなぁ。若く見えるアジア人の中でも特に滝下は「小型版フォレスト・ガンプ」みたいな見た目だから。 カレーの後は、通りを隔てたバーの屋外席に座り一杯ずつだけ飲んだ。下戸の大谷さんはジンジャーエール

屋外にいるとまたアメリカ人が話しかけてくる。ホームレス支援のタウン紙みたいなものを売るおばあちゃん。「小銭ないか?」と問いかける黒人の若者。英語がわからないフリをして彼をあしらうと、しばらくしてまた戻ってきて今度は「タバコくれないか」と言う。 観念して僕が箱を差し出すと、「二本いいか」。 いいよ。持ってけよ……。なかなか図々しいのだが、それくらいで彼の金曜の晩が救われるのなら善しとすることにした。今さらダメとは言えんしね。

翌日は、街の中央部を切り裂いて流れる河を渡り、ダウンタウンに出てあちこち目当ての店を廻って歩いた。碁盤の目で道が交差する構造だが、西側は上り坂になっている。古い建物と、そこに入る新しい店たちが絶妙なバランスをしていて、小雨が降ったり止んだりの中を歩いても飽きることがない。角を曲がると知ってるアウトドア・ブランドの店が出現したりして、時間がいくらあっても足りないくらいだ。 男三人がキャーキャー言いながらショッピングする姿など書き残しても仕方ないので詳細は省く。

いや、滝下。彼だけはまるで女の子そのもののようなショッピングの仕方で、後半は多少焦れたくらいだ。 とある雑貨店の植物コーナーを、バッグを肘に掛けたスーパーの主婦スタイルで歩く滝下。検疫があって植物は持って帰れないから見ても仕方ないのだが、恨めしそうに飽くことなく見ている。その後、十五分もポストカードをディスプレイした棚の前で動かない。

  • 「お前、いつまでポストカード見とんねん」

すでに外でタバコ二本吸い終わって、さらに通りがかりのアメリカ人二名に一本ずつせびり取られた僕は痺れを切らして声をかけた。

  • 「あ、すんません。これ、すごくこだわってて、活版印刷なんですよ」

知らんがな。申し訳ないけど、知らんがな。 広告のアート・ディレクターとしては彼は見どころのある若者なのだ。ただし、僕の仕事をカバーしてくれるどころか、僕の旅について来た。

ダウンタウンで各人あれこれ買い込んで、町はずれにあるラングリッツ・レザースを訪ねた。老舗の革ジャンブランドで、今でも家族経営を堅持し、一日最大六着しか作らないそうだ。日本で買うと、新品なら平気で二、三〇万円もする。もちろんこれも、大谷さん情報。

  • 「そんな値段なんで、買うつもりはないです。ちょっと見られればそれでいいので」

大谷さんがそう言うので、シアトルへと発つ前に立ち寄ってみたのだ。 ブランド名が書かれていなければ雑貨屋か小さな食料品店にしか見えない白い壁の店舗兼工房の前に立つと、ドアを開けるのにちょっと勇気がいる。そんな頑固な会社だから、ひやかしのアジア人客など相手にもしてもらえないのではないだろうか。ヒゲ面のバイカーたちが集っていておっかなかったりするのではないだろうか。 果たして、中にはオールバックで腕中タトゥーだらけのショーン・ペンみたいな男性店員と、マネージャーか社長なのか、白髪の壮年男性がいた。 怖々挨拶を交わすと、ショーン・ペンが言う。

  • 「コーヒーかコーラいるか?」

僕たちはちょっと顔を見合わせてしまった。「ゆっくりしていけや」なのか、「すぐには帰さないぞ」なのか、どういうつもりなのか……。 コーヒーを頼むと、ラングリッツのロゴ入りのマグカップで出してくれて、店舗内を説明してくれた。

  • 「こっちが中古品で、こっちが女性モノ。あっちが新品だ」

中古品の陳列だけでかなり充実していて、正直、これだけで充分見応えがある。思い返せば、僕は新品の方は見もしなかった。 着てみると僕も大谷さんも、興奮を抑えられなかった。白髪の方が、革ジャンを試着する大谷さんに奥からあれこれ出してきてくれる。威厳すら放つ分厚い皮革の光沢と、シンプルで堅牢な造りが、そこらの凡百の革ジャンとは別格であることを主張している。 日本製の繊細さもなければ、ヨーロッパモノのデザイン性もない。アメリカ独特の全体に漂う「ダサさ」。「これがまたいいんですよねー」と、大谷さんと語り合う。

結局、サイズの丁度よい革ジャンに出合ってしまい、購入を決断するに至り冷や汗だか脂汗だかでビッショリしている大谷さんの興奮に呑まれ、僕もレザーヴェストを買った。支払いをしていると、ショーン・ペンが手入れ用のオイルローションとラングリッツのステッカーを付けてくれた。 大谷さんが僕に請う。

  • 「『僕は十八才の頃からラングリッツを知っていて、二十年間憧れていました。今日、ここで買えてとてもうれしいです』と伝えてください」

僕がそれを伝えると、ショーン・ペンも白髪も「おぉ、そうか! それはうれしいな」と、ステッカーをさらに束で出してきて僕らにくれた。こういう率直で心のこもった会話が日本のどれだけの店でできるだろう。バイトのコに言っても「はぁ……」で終わりそうではないか。こんななにげないやり取りだけでも、アメリカまで来てお金を落とす意味があろうというものだ。僕たちが払ったのは決して小さな金額ではない。しかし、それは革ジャンのみならず、こういった経験に払ったのであるから、全く惜しくはない。

ラングリッツ店舗のカウンターには、こういう文言がプレートで表示してあった。

  • "The bitterness of poor quality remains long after the sweetness of low price is forgotten."

つまりこうだ。「品質が悪かったことの苦い経験は、価格が安かったことの甘い思いが忘れ去られた後も、ずっと長く残るものだぜ」 良いモノは高いのが原理だ。モノだけを見ずに、それを作る人に思い致し、彼ら彼女らに対してお金と共に敬意を払うことを忘れずにいたいものだ。

充足感と虚脱感に襲われながら、予約していたシアトルのアパートメントに辿り着いた時には、夜九時になっていた。

メシにありつこうと、夜のダウンタウンでバーに入ると、フードはすでに終了したとのこと。仕方なく一杯だけ飲む。 シアトルも多分に洩れず、あらゆる建物が禁煙。しかも、「入口から(確か)十フィート(三〇メートル)離れて吸え」という。山の中でウンチするのと同様の厳しさだ。つまり、タバコはウンコ扱いなのだ。 仕方ないから道端で独り一服していると、またもやアメリカ人に話しかけられる。まずは黒人の大男。小銭を求められたが、コインも一ドル紙幣も本当になかったので断った。すると、次は、どう見ても浮浪者の黒人じいさんがやって来た。

  • 「シアトルの夜をお楽しみですか?」

なんだか拍子抜けするほど礼儀が正しい。

  • 「私の名前は、デイビッド・キングスレーといいます。あなたはどこから来たのですか? シアトルにはどれくらい滞在されるのですか?」
  • などと上機嫌に話しかけてきて、握手を求めてくる。正直に言わせてもらうと、これから食事するのに、浮浪者であろうじいさんの手は握りたくなかったのだが、礼儀としてそのカサついた手を握って、しばらく会話に付き合った。すると、
  • 「えー……、ところで、小銭はお持ちではないですか?」
  • ときた。やっぱりね。

僕がまた「悪いけど、本当にないんだ」と伝えると、「シーット」とつぶやいて立ち去っていった。あの手、この手である。

シアトルでの翌朝は、ゆっくりと荷物整理や洗濯をした。丸々遊べる最終日のこの日はまずフィルソンに向かった。僕にとっては三度目の訪問になるアメリカを代表する、歴史あるアウトドア・ブランドの本店だ。アウトドアといっても、昔で言う金鉱掘りや木こり、今で言えばキャンピング、フィッシング、ハンティングだから、店舗内も日本で想像されるようなカラフルさはない。しかし、鹿の頭が壁に掛けてあり、暖炉があり、ウッド調の落ち着いたアメリカン・ホームを思わせる上品な内装だ。

僕は実は、事前にここに自分のカバンを送ってあった。何年も愛用していたトートバッグが縫い目から避けて、外ポケットが使えなくなっていたのだ。だから、「修理してほしい」と手紙を添えて送ったのだ。メールが来て「あなたのバッグを検査しましたが、我々としては、修理よりも『交換』をおススメします。それでもよいですか?」と言ってきた。 僕はもちろん即答で「構いません」と返信したのだが、その後にオーダー記録用紙が価格も明記されて送信されてきたので、その「交換」が無償なのか、単に「もう一つ買った」ことになっているのか分からなかったのだ。

  • 「トートを引き取りに来た者ですけど……」
  • と尋ねると、男性店員がほどなくして奥から新品を出してきて、当然のように請求はしてこなかった。

どういうことなんだろうね。うれしいと同時に、考え込んでしまう。何年も使い込んだカバンを、新品に無償交換ですよ? これが、アメリカで「一生モノ」を標榜する企業の鷹揚さなのだなぁ。

夜はシアトルマリナーズの野球観戦をした。野球にほとんど、というか、全く興味のない大谷さんと滝下も、ボールパークの開放的な雰囲気を大いに楽しんだ様子だ。それぞれマリナーズの帽子を被り、巨大なホットドッグにかぶりついた。 夜九時半前に球場を後にし、日本酒バー「sakenomi」に向かった。二〇一一年に訪れ、再訪を約束して去った場所だ。(二〇一一年八月号ご参照)。

長くて濃密な旅の締めくくりとしては、これ以上求めようがない幸福感に満ち溢れた晩だった。店のジョニーさんともまた話せてうれしかった。それにしても、大ぶりの湯呑になみなみと注がれた日本酒二杯で、僕はわけがわからないほど酔ってしまった。

覚えているのは、最後に出合ったちょっと素敵な出来事だ。 帰り道に、お土産のためアメリカのビールを数本買おうと、コンビニに立ち寄った。すると六本セットしか売っていなくて、それだと十ドルと少しする。ふと見ると、僕たちの脇に同じように思案顔の黒人男性がいる。そこで、僕たちは彼と金を出し合って六本を分けることにしたのだ。 支払いをして、彼に二本渡すと、「二ドルしか出してないのに、いいのかい?」と言う。

  • 「いいんだよ。心配無用」

どうせ、バックパックにそんなに詰められないのだから。 しばしお喋りした後、彼は缶ビールを二本手にして、うれしそうに歩いていった。

コンビニに入る前に、やはりタバコをせびってきた白人男性は「いくら払えばいい?」と小銭を出した。

  • 「タダだよ」

ポートランドでの男性は、タバコ一本のために、僕にクウォーター硬貨を三枚も握らせた。七十五セントだ。僕はしばらく歩いた先にいた物乞いの老婆にそれを渡した。

アメリカには、かように困窮した人たちがたくさんいる。この国の根幹に深々と突き刺さって抜くことができない毒矢は、富そのものではなく、その分配の問題だ。もちろん、僕に何の助けなどできないのだが、小銭やタバコくらいならシェアしたらいい。 僕たちに一生モノの頑丈な製品と、一生モノの経験を与えてくれたアメリカに、多少なりとものお礼のつもりだ。

いい旅でした。熊に喰われることもなく二〇〇〇メートルの山にも登ったし、畑さん(仮名)という新しい友人ができたし、二〇〇〇キロ運転して買い物もたくさんしたし、野球も観て、三年ぶりにアメリカ西海岸で日本酒を味わうという粋な宵を過ごした。 僕個人としては、大谷さんや滝下に、僕が人生の一時期を暮らし、僕の一部分を置いてきてあるアメリカという国を見せることができたことが何よりよかった。二〇一一年にカナダをソロハイクした時に、あの絶景を僕がどんなに大谷さんとシェアしたかったか!(二〇一一年八月号ご参照) 「いつかやろうぜ」のうちのいくつかをいっぺんにクリアしました。でも、まだいくらでも思いつくよ。次は何する? どこ行く、兄弟?

「二〇〇〇㍍と二〇〇〇㌔の旅(ロード篇)」

  • 3/4回
前号の予告通り、山での「お花の摘み方」から始めよう。
僕はこれまで相当な数の山歩き関連の書物を読んできたはずである。しかし、「野ウンチの仕方」に関するちゃんとした描写は読んだことがないのであった。
いや、ウンチの仕方は想像できますわい。しかし、例えば我々がいるようなアメリカの自然公園の中のトレイルで「スイスから来た男女三人組と出会った」という記述があったとする。三人の男女ということは、それが男二女一であれ逆であれ、一人はカップルでないわけだから、「野ウンチとか恥ずかしくないのだろうか」というのが常々の疑問であった。一人の方の男にしたって「友達のカノジョがウンチしに行くところ」なんか知りたいだろうか。
正直に吐露すると、僕は少々恥ずかしかったのだ。
陽が暮れたのを見計らって、前号で紹介したように、トレイルから何メートル、水場から何メートル離れたポイントを探して、さきほど夕食を摂った大きな岩場の陰に向かった。僕と、友人の大谷さん(仮名)と後輩の滝下(仮名)がいたのは丘の上の荒れ地だったので、上記のいずれからも離れているから問題ない。
すると、僕は「お花摘みに……」と言っておいたにもかかわらず、滝下が岩場の上に立ちヘッドライトを点けているではないか。
  • 「こいつ、ふざけんなよ」と多少腹が立たないでもなかったが、僕はスゴスゴとさらに奥へと歩を進めた。もうそこは丘を下る斜面に近い。
適度に柔らかそうな地面に当たりをつけてシャベルで穴を掘る。規則では十五センチ以上の深さとあったので、がんばってかなり深くまで掘った。
ここで、大きな用事のための小さなコツを記しておこう。穴を掘る時は、前号の貼り紙の図にあったように、普通は指定がなければ丸い穴を掘りたくなるだろう。それはなぜか。その時人は、ウンチのことしか考えていなくて、オシッコを考慮に入れていないからだ。ところが、大は小を兼ねる。実際に使用してみると、穴は楕円形であるべきなのだ。和式便所が理に適っているのだ。楕円に掘ってそれを跨ぐかたちが、最も的を外さずに大も小も包摂する母なる大地としての役割を全うするのである。誰も教えてくれないことなので多少詳しめに書いたことをご容赦ください。
大谷さんと滝下がテントに入ってしまい、一人になった僕はゴソゴソと寝る準備に取り掛かった。食糧などを詰めたベアキャニスターを岩場の上に隠すように置くのが、最後に残った僕の仕事となった。
僕がそれを持って歩くと、
  • 「……誰ですかっ!?」
  • と滝下のテントの中から足音に怯えた声がする。
  • 「あぁ、ごめんごめん。オレだよ。ショータ」
普段の生活で、人が本当に怯えている声というのは耳にしないので、むしろ僕が怖くなったくらいだ。それくらい滝下は、往路で熊に遭遇したのがショックだったみたいだ。「オレ、死ぬ」と思ったそうだ。僕は「いる」とは想像していたし、この不毛の丘の上にわざわざ登ってこないような気がしていて割と楽観的だった。
朝五時半くらいに目覚めると、やはり食糧は無事だった。「この寝袋では薄い」という店員のアドバイスを僕が通訳せずに買わせた寝袋で、滝下は寒くて夜中に何度か目が覚めたらしいが、まぁ初めはそんなものだ。分厚い寝袋を持つよりも、服やシーツで調整した方が汎用性があるのだ。許せ。
僕たちはカメラと水ボトル以外の一切の荷物をそこに残したまま、朝八時にスミス・ピークの頂上に登った。昨日からの苦しかった登り道と土埃だらけの不快さを経て、ようやく褒美のような視界を得た。朝の澄んだ空気に浮かぶ山々の連なりと、カリフォルニアの空だけで、他に余計なもののない視界。ロッククライマーの聖地として知られるハーフドームという岩塊が遠くに、焙煎前のコーヒー豆のように生白く、小さく見える。確かにドームを半分に割ったような異形なのですぐにわかった。
テントを片付けて、行き道で見つけた水場で再び水を補給し、顔を洗って下山する。それはそれでしんどく、四時間ほどかかった。標高が下がると暑さばかりが感じられ、僕たちはヘッチーヘッチーのダム湖だけ見学して、熱気に追い出されるようにしてヨセミテ国立公園を去ることにした。ベアキャニスターを返却する際、レンジャーに「どうして林が広範囲に焼けているのか」訊いてみた。どうやら、去年の夏に大規模な山火事があったらしい。
僕は大谷さんに言った。
  • 「そっか、残念だな。きれいな景色を見せたかったのに悪かったね」
  • 「いえ、燃え跡の山を歩くなんてないと思うのでいい経験でしたよ」
うん、またどっか行こうぜ。
公園を後にした我々は七十マイル(約一一二キロ)ほど走って、マリポサという町でモーテルを見つけた。途中にも本当に小さな町はあって、MOTELと書いた建物は見かけたのだが、営業しているのかどうかも判然としないうら寂しく不穏な雰囲気であった。そんな町に一泊の宿を求めてアジア人たちが飛び込んだら、夜中に村人中がクワやスキを持って僕たちを取り囲み、悪徳保安官に後ろ手に捻じり上げられ、黒くてぶっとい棍棒で殴りつけられそうだったので敬遠した。どんな偏見やねん。
マリポサのマイナーズ・インというモーテルは、レストランやラウンジも併設されていて、渇き、そして飢えた我々は肉にありつき、シャワーを浴びて、人間界に復帰した。
翌日は、僕の友人の友人の畑さん(仮名)という、在米歴三十年の方に初めてお会いするべく、パソロブレスという海に近い町まで、灼熱のカリフォルニアを一八〇マイル(約二八八キロ)突き進んだ。ここから陽炎に揺れる端まで行くことだけを用途として敷かれた、定規で引いたような真っ直ぐなアスファルト、草を食んで項垂れる牛たちのいる牧場、昔はそういう牛たちを東へ運んだであろう鉄道の線路、乾いてひと気のない町、砂丘を越える国道、ヨーロッパを模した屋敷が構えるワイナリー。カリフォルニアは干ばつに襲われているようで、ハイウェイ沿いの農場には「水がないと仕事もない!」「水不足の解決を!」といった悲痛な叫びを印刷した横断幕がいくつも掲げてあった。
ジェームス・ディーンが自動車事故で亡くなった地点も通った。国道四一号に四六号が合流する箇所だ。そこにはJack Ranchという牧場があり、少し先のJack Ranch CafeにはJDの記念碑が設置されている。日本のファンクラブの方が建てたという。
スタバで待ち合わせた畑さんとは話が弾んでしまい、日本食レストランで夕食までご馳走になってしまった。翌日には八二〇マイル(約一三〇〇キロ!)北にあるオレゴン州ポートランドに着くために、その日のうちにいくらかでも走っておきたかったのだが、せっかくの厚意なので甘えさせていただいた。
畑さんが言うには
  • 「君たちは若いんだから、交代で徹夜で走ればいいんだよ」
  • 「いえ、僕たち三十八ですのでそないに若くないんです……」
  • 「若い、若い! 地図見せてみ。ほら、四センチくらいだぞ!」
畑さん、むちゃくちゃ言うなぁ。
その勢いに感化されて、夜十時に北へ向けて出発したものの、僕はすぐに眠気に襲われてしまい一時間で大谷さんと交代。ペーパードライバーの滝下は運転はしないので戦力にならない。三人でションベンしながら見上げた夜空の中央にブチまけられた無数の光の粒。日本ではなかなか見られない天の川だ。
結局、僕と大谷さんで数回ずつ運転して、深夜三時半から二時間だけレストエリアで仮眠。山から余ったフリーズドライ食品を朝食にして、過酷なロングドライブの続きに立ち向かった。
カリフォルニアは長かった。縦に長い形状なので、行けども行けどもオレゴンが見えてこなかった。そりゃそうだ、カリフォルニア州だけで日本全土と同等の面積があるのだから……。
しかし、着実に北へ向かっていることを、僕たちに教えてくれたのは空気中の湿度だった。それまで唇がガサガサに乾燥してひび割れてしまったのは山での紫外線のせいだと考えていたが、北に行くにつれてそれが自然と治ったのである。
オレゴン州に入ると、いとも簡単に雨が降った。カリフォルニアの農家の恨めしい声が聞こえてきそうだ。植物も広葉樹が増えた。岩の露出した荒々しい山肌が、青丹色の草に覆われるようになった。
単調な運転の中で、レストエリアでの休憩は楽しみのひとつだ。日本ではまずありえないことだが、アメリカ人は実によく話しかけてくる。海兵隊にいて沖縄で暮らしたことがあるという男性。「家に帰るガソリン代がないので小銭を分けてくれないか」という若者。ギターを抱えているので、「その代りに一曲」と歌い出すのかと思ったら、「もうこいつも売ろうかと思ってるくらい困ってるんだ」とアピールする。数ドルカンパした。
  • 「よく運転し、よく恵め」と書いたボードを置いて座るクシャクシャのカウボーイハットを被った老人。こちらにも数ドル渡した上で、一緒に写真を撮らせてもらった。実際に昔は牛追いの仕事をしていたそうだが、今は老いてこの有様だと陽気に言う。
  • 「日本から来たんか。いいとこなんだろ? いい女がいてさ。わはは。行ってみたいが、わしゃ年を取りすぎたなぁ」と、顔の方もクシャクシャにして笑う。堂々としていて、なんとも素敵な物乞いであった。
富める者と貧しき者。人工国家と大自然。その保護の魁であり、過剰なまでの大量消費社会。フレンドリーさと、制度化した人種差別の歴史。あらゆる側面に相反する顔を持つアメリカ。
僕にとっては大学教育を授かった国であり、過去に何年も住んだはずなのに、何度、何処を訪れても掴みきれない不可解な国だ。いや、不可解なのはお互いさまだろう。無尽蔵の魅力が詰まった国であると、悔しいが認めざるを得ない。
十九時間分の長い長いハイウェイの先、灰色の曇り空の下にポートランドの街並が姿を現した。

「二〇〇〇㍍と二〇〇〇㌔の旅(トレイル篇)」

  • 2/4回
カリフォルニア山岳地で、朝の涼やかな空気を吸って、コーヒーでも飲むとこれから冒険に臨む気分が高まる。二三六三メートルのスミス・ピークは標高だけを見れば大した山ではないかもしれない。しかし、ウェブサイトでは、「あまり使われないトレイルを六・七マイル行く」と書いてあった。マイナーなコースなのだ。人がいないのだ。ということは、トレイルが草に埋もれて分かりにくいかもしれないし、熊が出るかもしれない。
モーテルの駐車場に停めたシェビー・タホーに、僕、友人の大谷さん(仮名)、後輩の滝下(仮名)の三人分の荷物を詰め込み、出発。
ヘッチーヘッチーからヨセミテ公園に入るための道を探して走る。細かい道なので、僕が持ってきていた地図にはそこまで載っていなかった。代わりにWi-Fiルータ関空でレンタルしてきていたのだが、山奥に入るに従いその電波もなくなる。たまにアイフォンが受信しても、なぜかGPSが不正確で現在地を示すことができない。
  • 「日本の道だったら、標識がもっと親切だよねぇ」などとこぼしながら、なんとか森の奥にヨセミテ公園のゲートを発見した。そこでレンジャーと入園の手続きをするのだ。
オリーブグリーンの制服が凛々しい髪もヒゲも赤いレンジャーが、ゴミや熊に関する注意点、スミス・ピークへのトレイル上でのわかりにくいポイント、そして、森でのウンチの仕方などを丁寧に説明してくれた。
  • 「原生自然でのウンチの仕方」という貼り紙までしてある。要点はこうだ:
  • トレイルやキャンプ地からは一〇〇フィート(約三〇メートル)、水場からは三〇〇フィート(約九〇メートル)離れた地点でする。
  • 六インチ(約一五センチ)以上の穴を掘り、そこでする。
  • 土を元通りに埋め直す。
生まれて初めての野ウンチができるかも、とウレシ恥ずかしワクワクな気分で心が高鳴る。
そこでは、熊から食べ物を守るベア・キャニスターという高さ三〇センチ、直径二〇センチくらいの強化プラスティック製の筒を借りた。これの携行は義務づけられているのだ。テントで寝る際には食べ物や汗拭きシートなど匂いのするものは全てこの中に入れ、テントから離して置いておく。
僕は訊いた。
  • 「えーと、『離す』と言っても、どれくらい離して置けばいいのですか?」
レンジャーは即答だった。
  • 「それは君が、熊にどれくらい近付かれても平気かによる」
おいおい! どれだけ遠くても基本的には平気じゃねえよ!
まぁ、こういう場所なのだ、とお分かりいただきたい。
自然環境と自分の身を守るための厳格なルールがあり、その責任を負える者だけが入園を許されるのだ。もちろん日帰り観光ならその限りではない。
僕のバックパックが一番容量が大きかったので、ベアキャニスターは僕が担当した。水が三リットルに、テント、寝袋、マット、食糧、食器、バーナー、防寒具、雨具などなどですでに大きく膨らんだバックパックに、さらにベアキャニスターを捻じ込み、背負ってみると呻き声が漏れる。
車をトレイルヘッドに駐車し、歩き出すと、すぐに急登だった。九十九折の山道を登るに従い視界が上がり、右手後方の彼方にヘッチーヘッチーのダム湖が見える。空の青さと、ダム湖の水の碧さに歓声を上げていられたのも束の間、我々三人はすぐに汗に塗れた。
暑いのだ。太陽が肌を灼くのだ。予想していたよりもずっと暑くて、乾いていて、頻繁に休憩を取らざるを得ない。
乾き切った土を踏みしめ、土埃にブーツを汚しながら、脚全体の筋肉を意識して一歩一歩往く。消耗も怖いが、怪我も怖い。
それでも、前半戦は草花が目を楽しませてくれた。長さ三〇センチはあろうかという松ぼっくりの巨塊。テニスボールサイズのタンポポの綿毛。鼻孔をくすぐるラベンダーの花の群れ。
色鮮やかな花畑の中央にうっすらと識別できるトレイルを進む滝下(仮名)の後姿を眺めていると、
  • 「あいつ死んだんちゃうか。ここは死後の世界か」
  • 「そっちに行ってはダメだ! 戻って来い!」
  • などという不謹慎な冗談が思い浮かぶ。イメージとしては、白いコットンのざっくりとした衣服を着た金髪の美女たちが、滝下を取り囲んで「あははは」「あははは」とスキップしている感じ。
  • 「滝下! お前には見えていないのか! ダメだ、惑わされるな!」
まぁ、そんなのが僕が想像する「楽園」なのだから仕方ない。
しかし、楽園は一瞬だ。ずっと気になっていたのだが、周りの杉林がやたらと黒焦げなのだ。炭化した木々の残骸が、死してなおその場で屹立していたり、横倒しになって無残な骸を晒している。真っ黒の林に足を踏み入れると、古の戦場跡のようで不気味だ。一度など、焦げて横たわる幹と枝のかたちが、虚空を掴みながら焼死している巨大なトカゲように見えてゾッとした。
これは新しく植林でもするための焼畑のようなものなのか、木々を侵した疫病をそれ以上蔓延させないための処置なのか、その時点ではよくわからなかった。
その後も焼けた杉の木はずっと続き、パサパサに乾いた土と石と草の道を、三人は荒い息をついて進んだのだった。
途中、何か土木作業をしている一団のそばを抜けた。大谷さんが怖がって、「ちょっと先行ってください」などと僕に道を譲る。ガイジンをビビりすぎだって。そういえば、サンフランシスコで僕が運転中に、ノロい車にクラクションを鳴らしたら「や、やめてくださいよ!」と制止していたっけ……。作業者たちに僕が手を振ると、向こうもにこやかに手を振り返してきた。
僕たちが車を停めた場所にもう二台あったのが彼らのものなのだろう。女性も何人か見えたが、大変な仕事である。現場まで何時間も徒歩で登るしかなく、肉体労働をしてまた同じ道を戻るのだろう。
散々歩いて、トレイルが小川にぶち当たった地点で地図を開く。するとまだ半分と少ししか来ていないことがわかり愕然とする。いや、本当は半分にも達していなかったかもしれない。僕は、山歩き初心者の滝下を絶望させないために、小さな嘘をついたのかもしれない。
その日の予定では、僕たちはスミス・ピーク手前の、スミス・メドウ(草地)で一泊テントを張り、翌日に頂上を攻略して下山するはずだった。しかし、メドウまでまだまだありそうだ。
しばらく川を右手に見下ろしながら崖道を往く。川といっても草叢の中を流れていたり、淀んで溜まっていたりで、ちょっとわざわざ降りて行ってまで水を汲もうという気にはなれない。そのあたりの途中で休憩中に、唯一のハイカーとすれ違った。滝下が言うには「カメラマンですね」ということだ。本格的な三脚を持っていたし、森林の中で目立ちにくい色の服で身体を覆っていたからだ。
呼び止めて、メドウまでの遠さを尋ねてみた。彼はサングラスの向こうで表情も変えずに答えてくれた。
つまり、「About an hour? (一時間ってとこじゃないかな?)」ということだ。そして、彼は物凄い速度でトレイルに消えて行った。
先頭の滝下が引き攣った表情で僕らを振り向いたのは、そのしばらく先でのことだ。
  • 「く、熊がいます……」
斜面の前方二十数メートル先を、熊が上手から下手へ移動している。仔熊なのだろうが、僕らよりも明らかに大きな茶色い塊だ。そして、速度が速い! 斜面を横移動しているとはいえ、岩もあれば倒木もあるだろう。それをものともせずグングン前進している。
熊をやり過ごす間、三人はフリーズして「こっちに気付くな、気付くな」と念じた。
物音を立てないようにカメラを起動させてズームしてみたが、結局、木立の間に姿を朧げに捉えられたのは大谷さんだけだった。その画像だって、言われなければどこに熊が写っているのか判別できないくらいのものだ。
安堵の溜息をついた我々は先を急いだ。この先確かにスミス・メドウまでもう少しだったと思うのだが、僕のある勘違いが隊に予定の変更を強いてしまった。
トレイルが別のトレイルと交差するちょっとした広場に出たところで、道案内の標識があった。そこには「Smith Peak 1.5」とあり、ピークまで一マイル半ということだったのだが、僕はそれを「スミス・メドウまで一マイル半」と思い込んでしまったのだ。
つまり、そこがスミス・メドウだったのに、「うわー、まだかよー」と落胆しつつ、さらに奥へと進むことにしてしまったのだ。
地図によればメドウの直前はこんなに登っているはずはないので、「おかしい、おかしいぞ」と思いながらも、実際に目の前のトレイルは上っているのでとにかく登った。
幸運なことにきれいな水が流れる川を見つけ、今夜分の水を得た。持参したフィルターで濾過して、ボトルや水用バッグに保管した。
大谷さんの指摘で、メドウを過ぎてしまったことには気付いたが、メドウにはまともになかった水場に出合えたし、むしろ良かった。
その晩は、頂上へ達する体力がなく、それを見上げる隣の丘の上でテントを張って寝ることにした。行動時間は七時間。
ぐったりと疲れ果てていたが、テントは張らなくてはいけない。それを終えると、近くの岩場の上でバーナーでお湯を沸かして、フリーズドライの夕食を摂った。コーヒーを飲んで一服する頃には、遠い山並みが夕陽に灼け始め、それに炙られたかのように、すでに焦げ朽ちた木々の姿が漆黒の影絵になり再び命を失う。
荒涼とした丘の上で、足元は火山灰のような乾き切った細かい土。歩くたびに土埃が立ち昇り閉口したが、僕たち以外は誰もいない僻地での静かな夕闇の訪れはそれはそれで悪くなかった。
それでは、僕はお花でも摘みに行こうか……。「お花を摘みに行く」は「排泄をしに行く」の隠語だ。
以降は次号で。って、そんなん誰が楽しみに待つねん!