月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「アホである。誇りである。」

「もうあかん やめます!」という大きな垂れ幕を店先に掲げている靴屋がある。看板には「店じまい 売りつくし」とある。ただし、ここ十数年、掲げているらしい。いい加減、垂れ幕も排ガスで煤けて年季が入っている。
高速道路の脇にあるマンション。一見普通の住宅で、昼間には洗濯物が干してあったりする。しかし、これまた巨大な懸垂幕に「当マンションB1 ヨーロピアンストリップショー」とある。
このサインを取り外すだけで、このマンションの不動産価値が上がると思うのだが……。
国道沿いに、黄色い屋根の「韓国エステ レモン」という建物がある。店名の下には太々とした文字で「裏の入り口からもお入りになれます」とある。
別に暦としたエステなら、裏口から入らなくたっていいじゃないか。「はい、怪しい者ですが、なにか?」という、その開き直り方。
僕にはマネできない。
以上は全て、大阪に実在するものである(当時)。
僕はこういう街で、人生のうちのかなり長い期間を暮らしている。偏見と退廃とエネルギーに満ちたこの街について、少々語ろうと思う。
僕は生まれが大阪なわけではないので客観的な立場でものが言えるのではないかと思う反面、結構難しい作業でもあると認識している。出身地というものは、人のアイデンティティの大きな部分を占めるため、少なからず優越感や劣等感が反映されるものであるからだ。
初めに断っておくが、誤解を生むような表現があっても、大阪人の方々はご容赦願いたい。
こちらが何の気なしに言っていることでも、受け手側がどう歪曲して理解するかは測れないのである。たとえば、生まれを訊かれて「東京」と答えただけで、「すげえー」などと言われたりする。何がすごいのか。ただ生まれただけだ。この世に産み落とされて、気が付いたらそこにいただけなのに。
そして、ごく普通に「東京ではこうだった」という話をしただけで、「ケッ」と思われたりもする。それが「栃木では」だったら、「ふーん」で済むはずだ。
あ、栃木の人に怒られる。……と、こうなる。おわかりになります? 土地を語るというのは、非常にデリケートなことなのだ。
僕は、高校生まではほとんど東京を出たこともなく、東京どころか練馬と新宿と池袋を結ぶ魔の三角地帯すら滅多に出ることもなく、そこに棲んでいた。
東京にいることが当たり前で、そこ以外を知らず、東京以外の場所で人はどうやって生活しているのだろうか、と思っていた。東京よりも住みやすい街が日本にたくさんあることも知らずに、同時に、初めて上京した人の感激や緊張を想像する術もなく、そこに生きていたのだ。
高校を卒業してから、富山県まで初めての一人旅に出た。そこで、夕方のニュースを見ていたら、東京キー局のキャスターが「いやぁ、今、すごい雷でしたね」と言ったのを聞いて、違和感を覚えた。
「ん? 全然」
東京に住んでいると、全国を対象にしている自覚とか、他所にいる人を考慮しない傲慢さが自然になってしまう。もしくは、そういう無神経さが、他所の人には傲慢に映るのだ。
僕の父親は関西出身だから、僕にとって全く所縁がないというわけではなかったが、僕は関西が嫌いだった。大概の関東人は関西人に偏見を持っている。同時に、関西人も関東人に偏見と劣等感を持っていることは言及しておかなくてはフェアであるまい。
関東には、平気で娘に「関西人を連れて来たりしやがったら、結婚させねえぞ」とのたまう親もいるらしい。その理由となるステレオタイプについては、周知でしょうから割愛するが、僕個人としては関西人のプライドが鼻についていたのだ。
笑いに対する変なプライド。
なにかおもしろくもないことを言うから放っておくと、「ツッコめよ」などと強いてくる。「全く、東京モンはツッコミができへん」とか言われると、本当に頭に来ていた。
「ツッコミというのは、敗戦処理か!? 違うだろ!」と。
ボケ+ツッコミ=笑いという方程式でしか、笑いを評価しない関西の一部の人間に反感を持っていたのである。しかし、もちろん、おもしろい人もたくさんいる。僕の知る限り、東京より割合が高いことは認めざるを得ない。
大阪に来てしばらくして気付いたことは、いろんなヤツがいる、という、ごくごく当たり前のこと。ただし、いろんなという意味は、「幅が広い」ということ。アメリカのように、平均値が意味を成さない。たとえば、金持ちと貧乏人、おもしろい人とおもしろくない人、ナイスガイとキ○ガイ、その幅が広い。人間が濃い。
東京に比べて、まだこの国が都市化していなかった頃の面影が窺えるというか、アジアらしい混沌が残っている。電車に乗ると、毎日一人はいるのではないかというくらいの割合で、心に混沌を抱えたキ○ガイにも出くわす。
先日も、特急電車に座っていたら隣に「コメントおやじ」と僕が名付けたおっさんがきた。思ったことを延々口に出して喋るのだ。
「あ〜ぁ、喫煙席空いてなかったな。空いてないかな」
その電車は全席禁煙で、連結部の一部に喫煙所があることに気付いてない。
阪神、どやってんやろな。あかんかったんやろな。……さっぱりわややで」
「わや」というのは「ダメ」という意味である。
「そや、カルピス飲もっと」
お前は桂小枝か。
挙句の果てに、
「あ、こぼしてもうた」
笑ってやろうか、殴ってやろうか、非常に迷った。
全て独り言である。およそ三〇分の乗車時間の間、ずっと喋られたらたまらんなぁと笑いを噛み殺しつつ思っていたら、「あ〜ぁ、タバコ吸うて来よ」と言って違う車両に移っていき、そのまま帰って来なかった。喫煙所は無事見つけられたようだ。よかったね、コメントおやじ。
毎日のニュースをよく見ていると、人口比率に対して関西のニュースが多い。それは僕が関西にいるからでは決してないと思う。まぁ、そのほとんどが悪いニュースだが、酒鬼薔薇事件、池田小学校事件、奈良の幼女誘拐殺人事件、騒音おばさん、和歌山まで入れるならカレー事件などなど……。
その他、追突した車のトランクから死体が出てきたり、真夏の立体駐車場の車から死体が出てきたり、砂浜から葬式代がない息子が埋めた老婆の死体が出てきたり、ターミナル駅の前の植え込みから浮浪者のミイラ死体が出てきたり……。
おいおい、そこら中死体だらけじゃないか。
関西を歩く時は、死体を踏まないように気を付けていただきたい。
あんまり、あっちこっちに穴を掘ることも、草木をむやみに掻き分けることも、お勧めしない。
地球の歩き方【大阪篇】』にも、きっとそう書いてある。
反面、手塚治虫司馬遼太郎筒井康隆開高健宮本輝高村薫東野圭吾、そして中島らも(敬称略)などの立派な作家も関西が輩出している。どの人も、人間の本質を剔抉するような濃い作品を書く人たちだ。
まぁ、人間の本質をグサッとやるのが作家の仕事なんだけどね。
辻仁成とか島田雅彦(敬称略)とか、キザなのは東京出身だ。
僕もなんだか関西人のような物言いになってきた。
濃い人たちが、濃い人たちと、濃い人間関係を築いている。だからこそ、好ましくない帰結として、人を殺すような事件が起こりやすく、逆に、好ましい産物として、素晴らしい文学や音楽を生む人材を創る素地がある。
と、いうのが、僕の大阪という土地に対する理解の仕方だ。
それにしても、関西人には独特の図々しさというか、明け透けさというか、悪趣味なセンスがあって、「どーせワタシはくだらない」という開き直った態度に圧倒されることがある。その好例が、冒頭に挙げたような、堂々たるアホな垂れ幕や店舗だ。
なんか、僕がこの土地は合っていると感じてしまっているのは、僕自身どうしようもなくくだらない人間で、また、それを誇りにしているからだろう。
(了)