月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「三年ぶり(二十七度目)の思考停止」

東日本大震災から三年。テレビや新聞では特集が組まれていたけど、一瞬の盛り上がりを見せてまた静かになった。まるで十二月二十五日が過ぎたらクリスマスツリーを大急ぎで片付け、クリスマスのことは一切話さない日本特有の変わり身の早さを見るようだ。ちなみに他の国では、ツリーもしばらく出しっぱなしだ。
被災者の人たちはあれからずっと続きを生きているし、被災地も復興したとは言い難い。根気よく支援活動を継続している各方面の人々もいる中で、なにもしていない私が何事かを言うのはおこがましいが、自分なりに振り返っておこうと思う。
僕は震災直後の二〇一一年四月に、ここのコラムで「首都機能の分散」と「脱原発」について、その両方ともに悲観的な見方を示した。
  • 【月刊ショータ11年4月号 「願うが、きっとそうはならない」】
  • http://goo.gl/kNZmD9
ここで振り返ってみてどうだろう。予想は当たったと言わざるを得ない。「ほら言ったろ」などとしたり顔するつもりはない。悲しい気持ちだけがある。
自ら上記のコラムを再読してみた。
これらの主張の中で、なにかしらの動きがあったものと言えば、大阪証券取引所の東京への統合くらいだろうか。二〇一三年七月に株式取引が東証に統一され、大阪は今月、デリバティブ金融派生商品)などを扱う大阪取引所として名称を改めた。
しかしこれは、効率化や合理化の論理で進められた施策であって、機能の分散どころか、それとは逆方向のものである。
そうこうしている間にオリンピックの東京開催も決まった。これから益々東京への一極集中が進むと思うと、この社会の今後を憂う気持ちになってしまう。
首都機能の分散、まったくのないがしろである。
一方、脱原発の方はといえば、日本の世論を二分してしまった。もっと言えば、国民を二分してしまった。さらに言うなら、原発存置派と反原発勢力の間にいる(たとえば僕のような)人たちを黙らせてしまった。これはどちらかと言えば、いわゆる「放射脳」と揶揄されるヒステリックな人たち、パニックを起こしている人たち、脱原発を利用して反社会的なプロパガンダを広めたい人たちによって、圧力をかけられたり、そうされるのではないかという恐怖を与えることで沈黙を余儀なくされたと言っていいと思う。SNSで顕著だ。
自然エネルギーが全然頼りにならないことは明らかになっていて、正直、再生可能エネルギーの現在の雄である太陽光パネルを何百万枚並べても、原発の代わりにはならない。風力発電は日本の国土に向かない。その他の新技術によるエネルギーも、希望はあるけど現段階では実用性はない。
現時点で、日本において稼働している原発はないが、代わりに火力発電をフル稼働しているから、莫大な国富が油になって燃やされている。だから電気料金は上がる一方。これをもって「日本は原発なしでも大丈夫」と結論付けるのはなにかを歪めているように思えて仕方ない。
原発事故に関連した放射線問題に関して、一番ややこしくしているのは「何が本当かわからない」点に尽きる。ある言説があると、必ずそれを反証する論が表出して、そしてまたそれをも覆す説が提出される。ナントカ大教授とかナンタラ研究所主任などという、頭のいい人たちがやり合っているのだから、わしら凡人にわかるわきゃあねえ、と僕などは三年ぶりの思考停止だ。
それでも、素人にも除染などというものがやり切れるわけがないということくらいはわかる。同時に、もうひとつ言えることは、原発と無関係の震災ガレキや、東日本の農産物に異常としか言えない反応を示した者たちが、後世にどのように記憶されるかだ。
現在世界には原発を製造できるメーカーは八社。うち三社が日本企業だ。日本が脱原発できたらメデタイことだが、スッキリはしない。それをしたところで、世界中の国々は引き続き原発を造り続けるからだ。だから安全保障的にはあんまり機能していないのではないか。日本の技術は維持、研鑽しないとメイド・イン・チャイナの原発が溢れて、どこかでもっともっと悲惨な大事故を起こさないとも限らない。というか、それは想像に容易いだろう。その時にまだ人類が残っているなら、事故の経験のある日本が力になれることはあろうし、求められる国でありたいと思う。
永久に解決はできないことを知るべきではないのだろうか。白黒つけられるような問題ではないのだ。だから「続けるも地獄、やめるも地獄」の悪魔の技術なのだ。
これまた予測するが、日本は脱原発はできない。原発、火力発電、あらゆる再生可能エネルギーの全張りでいくしかないのだ。新エネルギーの革新で全てワッショイにならない限り、ちまちまと誤魔化してやっていくしかないのだが、その日よりも人類滅亡の日の方が早いのかどうか競争だ。
どうしてもスッキリしたいなら死ぬしかないのだろう。ドゥームズデイの予言にビビッて集団自殺するカルト団体のように。生きている限りはドロドロの汚泥の中に胸まで浸かって、いつ死んでもいいと心のどこかで決意を握りしめつつも、今日の晩メシなに食べようか考えるような人生を送るしかないのだ。
私は明日も張り切って、クソの中で生きようと思う。