月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「自分以上に信じたい人はいますか?」

ケニー・ロジャースが2020年3月20日に、81才で老衰のため亡くなった。

日本では知っている人は少ないかもしれないが、アメリカの国民的スターと呼んでも差し支えないカントリー歌手であった。
わかりやすい例を挙げると、1985年に”U.S.A. for Africa”というアフリカの飢餓と貧困救済のキャンペーンのために、ビッグアーティストたちが歌った”We are the World”の歌。
超有名な歌手たちが集ったから、だいたいどれが誰かわかると思うけど、ケニー・ロジャースはおわかりになるだろうか。

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前半に、ポール・サイモンのあとに出てくるのが彼である。
ケニー・ロジャースの歌声は、大人っぽい深みがあって、カントリーらしい鼻にかかったところがあり、セクシーな割れがあり、なんとも言えないやさしさがあるのだ。

僕自身はケニー・ロジャースよりも新しい世代のカントリーを愛好してきたのだが、僕の父親が大変好きだった歌手なので、ケニー・ロジャースといえば亡父を連想する。
アメリカに住む弟からも「ケニー・ロジャースが亡くなったな」と、一言だけメッセージが来た。僕の家族にとっては、それだけでわかるのだ。
「親父が好きだったよな。なつかしいね」という含意が。

そんなわけで、恒例のカントリーソングの邦訳です。

ケニー・ロジャースの絶品のバラード、“She Believes in Me”は、売れないカントリー歌手が主人公のラブソングである。
駆け出しのカントリー歌手というのは、夜な夜な全米各地のナイトクラブ(日本でいうライブバー)でドサまわりをするのが通例だ。
だから、家を空けることが多いし、夜遅くまで帰宅しない。

おそらくこの歌の彼も、日々酔っ払い相手に歌声を披露しては、もっと大きなハコから声がかかることや、レコード会社からスカウトされることを望んでいるのだろう。
奥様(または彼女かな)は、そんな彼がきっといつか売れることを信じて、ベッドで待っている。
彼は、辛抱を強いている彼女に申し訳ないと心を痛めつつ、深夜にやはり自分が信じる曲を作り、歌を歌い、彼女を想うのである。

夢を追ったことがある人ならきっと理解できる、胸がしめつけられるような一曲のはずだ。
「そんなふうに誰かを信じて、なにかを願ったことはあるか?」と問われるようで、自分のことで手一杯の下卑た人生に、恥じ入る思いがする……。

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“She Believes in Me”

 While she lays sleeping, I stay out late at night and play my songs
And sometimes all the nights can be so long
And it's good when I finally make it home, all alone
While she lays dreaming, I try to get undressed without the light
And quietly she says how was your night?
And I come to her and say, it was all right, and I hold her tight

彼女が寝ているあいだ
僕は夜おそくまで帰らずに僕の歌を歌う
ときどきそんな夜がとても長く感じられる
ひとり家に帰り着いてほっとする
彼女が横になって夢を見ているあいだ
僕は灯りをつけずに服を脱ごうとする
今夜はどうだった? と彼女は静かに言う
僕は彼女の枕元でよかったよと答え ぎゅっと抱きしめる

And she believes in me
I'll never know just what she sees in me
I told her someday if she was my girl, I could change the world
With my little songs, I was wrong
But she has faith in me, and so I go on trying faithfully
And who knows maybe on some special night, if my song is right
I will find a way, find a way

彼女は僕を信じてくれている
彼女にとって僕のなにがいいのか 僕にはわかることはないだろう
僕はあるとき言った
もしも彼女を僕のものにできるなら
僕の歌で世界を変えてみせるって
僕はまちがっていたみたいだ
それでも彼女は僕を確信してくれている
だから僕は信念をもって挑戦をつづけるんだ
誰にわかるってんだ もしかしたらある特別な夜にさ
僕の歌がちゃんと届くことがあれば
僕にも道がひらけるだろう 道はひらけるさ


While she lays waiting, I stumble to the kitchen for a bite
Then I see my old guitar in the night
Just waiting for me like a secret friend, and there's no end
While she lays crying, I fumble with a melody or two
And I'm torn between the things that I should do
And she says to wake her up when I am through
God her love is true

彼女が横になって待つあいだ
僕はよろよろとキッチンへ行ってなにか口にする
そして夜の闇の中に ひみつの友達のように僕を待つ古いギターを目にする 
またはじまるよ
彼女が横になって泣くあいだ
僕はひとつふたつのメロディーをもてあそぶ
僕が本当にすべき事どものあいだで 僕の心は引き裂かれる
彼女はおわったら起こしてねと言う
神様 彼女の愛は本物だ

And she believes in me
I'll never know just what she sees in me
I told her someday if she was my girl, I could change the world
With my little songs, I was wrong
But she has faith in me, and so I go on trying faithfully
And who knows maybe on some special night, if my song is right
I will find a way, while she waits while she waits for me

彼女は僕を信じてくれている
彼女にとって僕のなにがいいのか 僕にはわかることはないだろう
僕はあるとき言った
もしも彼女を僕のものにできるなら
僕の歌で世界を変えてみせるって
僕はまちがっていたみたいだ
それでも彼女は僕を確信してくれている
だから僕は信念をもって挑戦をつづけるんだ
誰にわかるってんだ もしかしたらある特別な夜にさ 
僕の歌がちゃんと届くことがあれば
僕にも道がひらけるだろう
彼女が待つあいだ 彼女が僕を待つあいだ

 

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ライオネル・リッチーとは本当に仲がよかったみたいで、微笑ましいデュエットのバージョンもあります。

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ケニー・ロジャース氏に、数々の素敵な歌への感謝を捧げるとともに、冥福を祈りたいと思います。

「食っていく、という話をしてきた」(後篇)

映画カフェバー「ワイルドバンチ」(大阪市北区長柄中1丁目4−7)で毎月開催されているトークイベント『食っていく、という話をしよう』の第7回に呼ばれて、90分お話ししてきた。

当日お話ししたことをベースに、青春記のようなかたちでまとめたのが本稿です(後篇)。
前篇と合わせてご笑覧ください。いよいよ本題である「食っていくこと」にも話は及びます。 

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友人が贈ってくれた「いいとも」ふうの花w

電通を辞めたこと

その2年前くらいから予兆はあって、長い時間をかけて考えて計画的に、かつ最後は「エイヤ!」と思い切って会社を辞めた。きっかけは友人の小谷さんから、ひとりでレザーブランドをやっているm.rippleの村上氏を紹介されたこと。

彼は優れたレザー製品を自分で考案し、デザインし、製作し、販売している。
それは立派なことだが、売れれば売れるほど作る時間や考える時間が取れなくなり、ジレンマに陥ることにならないのだろうか、と僕は考えたのだ。
それからいくつかのそういったレザーブランドと知り合ったが、いずれも「すばらしいモノを作っているのに、伝え方を知らない」という同じ課題があるように感じた。

そもそも日本人は、自分が作ったものを自信満々で人におすすめすることが苦手なのだ。
アメリカ人みたいに、「俺が作ったコレ、どうよ? サイコーだろ? お前もそう思うだろ、マイフレンド? 〇〇ドルなら譲ってやってもいいぜ。ただし、来週になったら××ドルに上がるからな」などと上から目線でグイグイきたら、僕なんかは
「わかったから、クスリ抜いて出直してこいや」
と思ってしまうのだが、ビジネスの世界ではそうではないようだ。

「伝え方」なんて僕にもわからないものの、コピーライターだし、少なくとも、尊敬できるクラフツマンが手がけた製品なら、僕は大きな声でおすすめできる、と思った。それが、僕のレザー専門ストア「スナワチ」のはじまりで、「これって、すなわち、こうじゃん!」と、良さをわかりやすく伝える役割が当社だから、社名が「スナワチ」なのだ。

そういう仕事が作れたらなぁと構想しているときに、電通が「早期退職制度」をはじめた。退職金にドーンと上乗せをするから、100名ほど出ていってほしい、という募集だ。
これまでも何年かに一度、恒例のように行なわれていたのだが、これは天啓かと思った。

応募の条件が「勤続10年以上、かつ50才以上の社員」ということだったので、入社14年になっていた僕はデスクの下で拳を握った。「おぉ、神よ……」

しかし、待て。僕の年齢は39才(当時)なのだが、この「かつ」というのをどう解釈したものか。
「and」なのか「or」なのか。

ふつうに考えたら「and」なのだろう。しかし、新卒入社が圧倒的に多い中で、入社10年なら、まだ30代前半。それをわざわざ50才以上と限定するということは、40代で中途入社してきて10年だけ働いたら、そんないい条件で早期退職できるの? そんな人そうそういないだろ。

この疑問を人事局に電話でもして訊こうものなら、「はい、そうです。あなたは応募条件を満たしていません」と言われて話がすぐに終わりそうだったので、僕は知らんふりしてメールを書いて、早期退職に応募した。なんかスルッと通ってしまわないかな、と期待して。

翌日、担当者から返信があり、
「あなたは応募条件を満たしておりません」
とのことだった。なんやねん。

このとき僕はあることに気がついた。早期退職は9年前にも募集があり、「40歳以上」だったと思う。4年前にもあり、そのときは「45歳以上」だったように記憶する。
つまり、いつも同じ世代の人たちがターゲットなのだ。いわゆるバブル世代のことだ。
いつまで待っていても、このとき40手前の僕には巡ってこないのだ……。

これであきらめもついて、むしろ会社を辞める後押しになった。

 

■カウボーイのこと

こうして僕はフツーに退職金をもらって電通を辞めた。退職金はそのままスナワチ社の資本金になった。

僕にはもうひとつやりたいことがあって、それをできる時期はここしかなかった。

「カウボーイってなんなの?」という長年の疑問を体験的に解決したかったのだ。

先述の通り、僕は亡父の影響でカントリー音楽が大好きで、ケンタッキー州で大学を出ている。カウボーイの姿形は知っている。カントリー歌手同様に、ハットをかぶって、ブーツを履いている。
そして、アメリカでは「カウボーイは男の中の男」と考えられているようだ。

「なんで?」、「なにをする人たちなの?」、「今でもいるの?」という、日本人なら誰でも思うような疑問が、僕の心の中では大きくなっていて、いつか自分で知りたかった。

「カウボーイの牧場でひと夏働いてさ、その仕事と生活を本にしたらおもしろいと思うんだよね」
そんな話を与太話のように、飲みの席で友人たちにして、実のところは「それをしないと死ねないじゃん」というくらいに心の中では、はち切れんばかりに大きくふくらんでいたのだ。

でも、どこに問い合わせたらいいのかわからなくて放置していたのだけど、あるとき偶然ラングラー・ジャパンのウェブサイトを見ていたら、芝原仁一郎さんという方が「ロデオ」に関するブログをそこに書いていた。

彼はロデオ選手(ブルライダー)としてアメリカで転戦しているようだった。僕は、そこに記載されていたアドレスに宛てたメールを書いて、事情を説明した。

すると、「カリフォルニアにウェスリー畠山という人がいるから、彼なら牧場の知り合いがいるだろう」と教えてもらった。
翌月に(まだ電通時代だから)有給休暇を取ってアメリカ旅行の予定があったので、僕はさっそくウェスリー氏にコンタクトをとって会いに行った。

ウェスリーさんは「カウボーイやりたいの? 紹介できるよ」と話は早かった。
僕は「お! 一発で解決したじゃん」と夢への扉が開いたような気持ちだった。

芝原さんが帰国して、その年の暮れに連絡があった。
「前田さん、正月に大阪の友達の家に遊びに行くんだけど、来ませんか?」

僕はまだお会いしたこともない芝原さんに会うために、ジェリー杉原という見ず知らずの人の邸宅に伺った。
そこには日本に帰るのは7年ぶりという、ジェイク糸川氏もいた。彼はカナダの牧場でカウボーイをしていて、僕はあるテレビ番組でその存在は知っていた。

「うわ、ジェイクさんだ! テレビで見たことがあります」
「ジェイクでええよ~」
彼はフレンドリーな態度だったが、その眼光にはこれまで会ったどの男にもない特別な光があり、僕ははじめちょっと怖かった。

ここまで読んだ皆さんは、「なんやねん、ウェスリーとかジェリーとかジェイクとかw」とお思いになるだろう。僕も思ったよ。

春が過ぎたころ、いよいよ電通を退職する日が迫り、カリフォルニアのウェスリー氏に連絡をとった。

「ウェスリーさん、例の話、この夏にやりたいんですけど、牧場を紹介してください」
「え! 夏にやりたいの? それは無理だよ」

聞けばこうだ。
「カリフォルニアからテキサスまで、ここ数年は干ばつで雨が降らず、牧場はやむをえず夏前に牛を売ってしまう。だから、夏は仕事にならない。そもそも日本人がいきなりカリフォルニアの夏にカウボーイのハードな仕事は、とても耐えられないと思うぞ」

電通は6月末に辞めてしまうことが決まっていた僕は、はたと困った。
「おいおい、どうしよう……」

そうだ! ジェイクがいた。
僕は、慌てて正月に一度だけ会ったジェイクにメールを送って、牧場を紹介してほしいと頼んだ。慣用句でいうと「泣きついた」というやつだ。
ここで失敗したら一巻の終わりだから、僕は文面には細心の注意を払った、と思う。

「ええよ~」
ジェイクは僕の恩人なのだ。ここからの続きは拙著『カウボーイ・サマー』に譲ろう。

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■食っていくこと

ここまで44才の「青春記」にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
最終項になったので「食っていくこと」について、僕の知っていることを少しだけ。

僕はこれまでに本を2冊書いて、自分のストアを持って、たまに広告系の仕事もやっている。それでも食っていくことの秘訣なんてわからなくて、僕自身が食っていくために日々あれこれ思索して模索している最中である。

電通での仕事は、クライアントから予算をいただいて制作物やキャンペーンを作ることだったから、「納品することで終わり」「やりました、という事実で完結」なのだが、自分の仕事はそうはいかない。
作った(仕入れた)けど売れないモノもあるし、やったけどうまくいかなかったことも多々ある。

売上がよくなくて「どうしよ」と思っていると、知り合いからコピーライティングの仕事を頼まれて助かったり、店をやっていると、思わぬ人が思わぬ日にやって来てくれたり、本当に自分ではどうしようもないタイミングでその都度救われて生きている。

本当にわからないことばかり起きる。

ただ言えることは、会社員を辞めて、自分自身の仕事をやっていると、
「継続は力なり」とか
「できることから少しずつ」とか
「(売り手、買い手、世間の)三方よし
といった、これまで何度も耳にしてきた、先人たちの当たり前の言葉たちが、まったくちがった鮮やかな色彩を帯びて僕に迫ってくる。

「ぜんぶ本当だったんだ!」
と、今まで「ハイハイ」と聞き流していたような気がして、僕は自分の不明を恥じる。

イベント当日には、主催のワイルドバンチ森田さんからこのような質問をいただいた。
「最近は副業に寛容な会社も増え、様々な働き方がある社会になりつつあります。ストア、執筆、広告の仕事など、いろんな仕事を組み合わせて生きていくことに関して、前田さんが思うことを教えてください」

僕はこのようにお答えした。
「僕は自分がなにをしようと、会社も個人もなく、『前田将多という仕事』をしていると考えています。だから、なにをしてもいいし、できることはなんでもやろう、と思っています」

僕ができることを増やすために、宿題でもない感想文を提出し、求められてもいないCM案を見せ、呼ばれてない早期退職に応募し(笑)、はじめての人に会うために知らない人の家を訪ね、やらなくてもいいカウボーイをやり、1円にもならないこの『月刊ショータ』を書き続ける。

最後にもうひとつ。
「カウボーイをしていると、生とは、死のすぐ近くにあることを感じました。コヨーテがいたらライフルで撃ち殺すし、育てた牛は殺されて肉になるし、土地は広いけど人間社会は狭いから、『あそこの誰が死んだ』とか『誰々が心臓を患った』とかいう話がしょっちゅう聞こえてくる。都会に住んでると、皆さん、永遠に生きる気でいるでしょ。でも、そうじゃない。
生きてる間に、やりたいことをひとつでも多く、やっていきたいですよね……」

以上、「食っていく」という話を、しました。

 

(了)

「食っていく、という話をしてきた」(前篇)

映画カフェバー「ワイルドバンチ」(大阪市北区長柄中1丁目4−7)で毎月開催されているトークイベント『食っていく、という話をしよう』の第7回に呼ばれて、90分お話ししてきた。コロナウィルス騒動にもめげずに来てくださった皆さん、ありがとうございました。

そこでお話しした内容を掻い摘んで、そして、その場で話せなかったことも加筆して、書いておこうと思う。
この『月刊ショータ』では、僕自身のことは「誰が興味あるねん」と考えて、なるべく書かないようにしているのだけど、今回はご容赦ください。

ある男の青春記としてお読みいただければと思います。

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アメリカの大学へ

都立高校卒業後に、ノースキャロライナ州の小さなカレッジで一般教養課程を2年半で終えて、州立のウェスタンケンタッキー大学に三年生として編入し、社会学マスコミュニケーション専攻で卒業した。

そもそもアメリカの大学に行こうと思ったのは、カントリーミュージック・ファンで、つまりアメリカかぶれだった父親の影響である。

高校一年の春休みに家族旅行ではじめての海外に連れて行ってもらったのが、フロリダ州オランドだった。ディズニーワールドやユニバーサルスタジオがある観光地だ。
フロリダの空の大きなこと、青いこと、芝生が輝くような緑だったことは、16才の目には「こういう国に住んでる人もいるんだ!」と衝撃的だった。

自由で個人の考えを重んじる家庭教育方針の父親だったので、はやくから「大学をアメリカで行くという手もあるんだぞ」と言われていた。だから、「じゃあ、そうしてみる」と決断するのは自然なことでもあった。

しかし、手続きのすべてを自分でしなくてはならなかったから、インターネットも世間一般にはない90年代に、僕は本を買ってきて、間違いだらけの英語で大学に手紙を書いて、入学の方法を問い合わせた。

そのころは、将来の夢を訊かれたら「映画監督」と答えていた、と今回自分の来し方を振り返って思い出した。池袋の文芸坐にせっせと通う高校生だったから、文学としての、エンターテインメントとしての、総合芸術としての映画に心酔していたのだ。

だけど、スピルバーグが出た南カリフォルニア大学の映画学科に行こうと思ったら、学費が年間200万円を超える。これはいくら父親が「教育にはカネに糸目はつけん」と言ってくれていて、1ドル=88円くらいの超円高の時代とはいえ負担が大きすぎるので、せめて日本の私大と同じくらいの学費をメドに学校を選んだ。

そして、そのころには僕も父親と同じくらい熱心なカントリーミュージック・ファンになっていたから、地域的にカントリーが聴ける南部の田舎に行きたかった。
そこでノースキャロライナであり、ケンタッキーだったのだ。

本当は、カントリー音楽業界の中心地として、レコード会社やスタジオやミュージック・バーが集まるナッシュビルが州都のテネシー州に行きたかった。
しかし、学費の面や人種構成の面で適した大学が見つからなくて、北へ70マイル(約110キロ)離れたケンタッキー州ボウリング・グリーンを留学生活のメインの場所にしたのである。

面と向かってそう言われたことはないが、父親は僕がやがてはナッシュビルでカントリー音楽関連の仕事に就くことを期待していたようだ。

学生生活を送るうちに、映画監督の夢はなんとなく立ち消えて、僕の興味はものを書くことに移っていった。雑誌ライターとか、今はもう死語と言ってもいいかと思うけどルポライターになりたかった。なんだか得体の知れない、いかがわしいけど、独立していて自由な仕事に憧れた。
言葉も不自由な外国で、よくわからないけどなんとかしていくことの連続である留学生活と、社会学のフィールドワークを通じて、知らない人に問い合わせてお話を聞いたり、密着取材をさせてもらったりするようなことは、自分にとって得意なことなのではないだろうか、とおぼろげに感じたのだ。

文章に関しては、中学のときに、夏休みの宿題として出ていたわけでもないのに、勝手に映画の感想文をしたためて国語の先生に提出したら、「おもしろいから、コンクールに出しとくわ」と言われたことがあった。
高校時代には、クラスに「誰が書いてもいい交換日記帳」のようなノートが一冊あって、あるとき僕が「オタク論」みたいなことを書いたら、みんなが「おもしろい」「そうだそうだ」「もっと書け」と言ってきたことがあり、”伝説の新聞記者(笑)”の孫として、これも得意なこととかなり早い段階で認識していた。

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ケンタッキーの大学で社会学マスコミュニケーションを専攻した際、マスコム(英語ではマスコミではなく、こう発音する)の中には、広告、パブリック・リレーションズ、ジャーナリズムの3つの授業があった。
ひと通りすべて単位をとったときに、「ジャーナリズムは文体に独特の制約があるから僕には向かない。やるなら、広告コピーの方がいい」と思った。それで、サラリーマンをやるなら広告会社がたのしそうだ、と考えた。

アメリカの大学は5月と12月の学期の終わりごとに卒業のタイミングがあり、僕は98年の12月に卒業した。しかし、そこから帰国して就職活動をすると、いわゆる新卒扱いにならない。フリーターになってしまうのだ。

だから、日本のスケジュールにアジャストする目的と、もうちょっと社会学をやりたいという理由で、法政大学の大学院に行った。あわよくばそのまま大学教授になって、「小難しい話をわかりやすく書く」ことを仕事にできるかもしれないとも思った。

ところが、大学院というところはその正反対の場所で、「かんたんな話でも小難しく書く」ことがヨシとされているような感じだった。もっと言えば、「小難しく書く芸」を競うかのような雰囲気があり、アメリカの大学で触れた社会学とはだいぶ様子がちがい、僕はうまくなじむことができなかった。

であるなら、「ややこしいことをわかりやすく伝える」コピーライターの方がやりたいと考えた。

就職活動では、電通ADKの2社だけ受験して、落ちたらどこかの編集プロダクションに潜り込んでライター稼業にありつこうと目論んだ。そしたら、電通に受かってしまったので、大学院を中退して、コピーライター志望として入社することになった。

 

電通でのこと

電通に入社するとまず、新入社員研修が当時は2か月間あり、最後に配属が発表される。
僕は実家が東京の練馬にあり、当時新社屋だった汐留まで大江戸線で一本だから、当然東京配属になると思っていたら、関西支社と言われた。しかも、部署も(コピーライターやアートディレクターが所属する)クリエーティブではなく、プロモーションという、なにをするところなのかよくわからない局に行くことになった。

プロモーションというのはセールスプロモーション(SP)分野の業務をするところで、内容は幅広い。展示会ブース、街角でのPRイベント、店頭販促物、懸賞キャンペーンなどなど、あらゆる「手間がかかるわりに予算が少ない」仕事を担当した。
関西支社の売上など、電通全体の1/5くらいで、さらにプロモーションは関西支社の中の1/10くらいの規模だったから、気楽なサラリーマンとしては非常にたのしい部署だった。

それでも、初心はコピーライターになるために就職した会社なので、それをしないからには「オレはなんのために入ったんだ」という気はしていた。
だから、クリエーティブ局員でもないのに、クリエーティブの人たちとの会議には勝手に「CM案」を絵コンテにして提案していた。

CD(クリエーティブの部長)には「お前、またなんか書いてきたんか」みたいに半分煙たがられ、半分かわいげのあるやつじゃと思われていたのではないだろうか。

クリエーティブの人は総じてプライドが高いものだから、他部署の若手が出す案など採用されるわけはなく、いつもなにか書いて見せては「お前このCM案、30秒に入らんやろw」と一笑に付されたり、およそ歯牙にもかけられなかったりするのだが、営業さんの中には、あとになって「前田の案、あれよかったよな……」と苦笑まじりに言ってくれる人もいた。

もちろん今から思えば、広告クリエーティブの訓練を受けていない人間の出す案など、たわいなさすぎるものだったことは確かだったはずだ。たまにクライアントが出してくるしょーもなさすぎる広告案に毛が生えたようなものだったろう。

(当時)クリエーティブ局に転籍するには、社内の試験があり、入社3年目から10年目までで、所属長の許可を得た社員に受験資格があった。
僕はその試験に3年目で落ち、5年目で受かった。

CDが無記名の答案用紙(ただの白い紙にペンで課題への企画を書いたもの)に採点をして上位が一次通過して、二次は役員面接がある。僕が一次を通過したときに、採点担当だったCDが、前出の「お前、またなんか書いてきたんかw」とおもしろがってくれていた方で、
「高得点だった企画のフタを開けてみたら、前田やないか」
と、そういう縁にも救われた。

僕は、それ以来およそ10年間コピーライターをした。

名刺の肩書がコピーライターになったからといって、いきなり仕事があるわけではなく、先輩のうしろをウロウロするくらいなのだが、はじめて仕事らしい仕事に呼んでくれたのは、あのCDだった。彼が引退するまで、大変お世話になった……。

世話になったといえば、コピーライターになって1年目に父親がこの世を去った。行きたかった部署に5年目で移って、がんばらなくてはいけない時期だったが、末期ガンの父親に会いに行くために毎週のように東京へ帰っていて、ちゃんと企画できる精神状態ではなくて困った。

実家のベッドに、書いたコピー案の紙をズラズラ並べて、携帯電話で先輩と何事か話す。そんな姿を見て、僕の家族は「こいつはなんちゅう仕事をしてるんだ」と思ったかもしれない。

アメリカに住んでいる弟も一時帰国してきていた。
病床の父親は「俺が早く死なないと、あいつがアメリカに帰れないな……」と、顔半分で笑って、ハードボイルドなセリフを遺した。

その後も、後述するように僕の人生には大きな転機がいくつか訪れるのだが、そのたびにふと、僕は父に相談したいと思うし、なにか作ったら父に見せたかったと思うことはある。

あ、母親がここには登場しなかったけど、口うるさいおばはんとして、東京でネコ2匹と元気にしておりますよ。

(後篇につづく)

「権威に抗うことを生き甲斐にしているやつら」

「泣く子と地頭には勝てない」ということわざがあるが、僕が反論したり言い争いをしたりしないように心がけている人間が二種類いて、そのひとつは警察官である。
人並みに交通違反で警官に止められたことはあるが、そういう時も言い逃れや言い訳を試みないことにしている。無駄だからである。

もちろん、こちらに非がないのにあらぬ嫌疑をかけられたりなんかしたら、全力で抵抗すると思うけど、今のところそういう経験はない。警官に止められる時はいつも僕が速度を超過しているか、後部座席の人がシートベルトをしていないか、などなにかしらの違反をしているのである。

さっさと終わらせてほしいから無抵抗でいる。

しかも、日本の警察官はやさしいのである。
「ごめんなさいね~。速度どれくらい出てたかわかりますかー?」
などとクイズ形式で攻めてきたりする。

「急いでるところ申し訳ないです~。ちょっと今の車線変更はダメでした。ワタシ、見ちゃったから、これはもう、すみません!」
などと警官の方が謝りながら迫ってくることもある。

やさしすぎる。これがアメリカだったら、ポリスマンは非常にキビシイ口調で、有無を言わせないのである。

ちょっとでも抵抗しようものなら、「貴様、クルマを降りてそこに手をつけ。そして脚を開け!」である。もしかしたらすぐに銃口を向けられてしまうかもしれない。

僕の弟はアメリカでプルオーバー(車を止めること)された際、英語を話せないフリをして、「芝居してんじゃねえぞ、コラ」と余計にトラブルになったし、僕はモンタナのハイウェイで速度超過したときに、挙動を慎重にコントロールし、紳士的にふるまって見逃してもらったこともある。釈明は一切していないのである。ただ質問にまっすぐに答えただけだ。
詳細は以前に書いた。

tabistory.jp

 

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日本ではテレビ番組や、街中でも、警官はやたらに低姿勢で、ごちゃごちゃぬかすチンピラに対しても粘り強く何事かを説得していて、応援の警官があっという間に五人も十人も取り囲んで、いつまでも押し問答をつづけているシーンを見かけることがあるだろう。

あんなもん、柔道技で組み伏せるか、警棒でぶっ叩いてしょっぴいてもいいのではないかと思うことさえある。

交通違反程度の軽犯罪に対して、シタ手に出てやさしく接するのは、任務を迅速に終わらせる警察なりの知恵なのだろう。渋谷の「DJポリス」は当時、一般市民への接し方としては世界でも稀にみるクレバーなやり方だったと思うし。

しかし、明らかに失礼な態度で、罪を逃れようとする輩についても同じ手が通用するわけはないのだから、ここはひとつ実力行使してくれた方が、周りの善良な市民としては、さっさとコトが済んで助かるのではないだろうか。

チャイナは武漢発の新型コロナウィルスの感染拡大を受け、国のチャーター機第一便で帰国した206人のうち2名が検査を拒否したため政府が苦慮する一幕があった。拒絶した人は動画撮影してまで激しく抵抗したという。

法的な拘束力がないから国としても苦しい(やり方が甘い)ところだったが、その2人は思慮が浅すぎるのではないか。
このネット社会では身元はあっという間に暴かれ、ウィルス蔓延の恐怖に駆られた大衆から、社会的に抹殺されてしまうことが想像できないのだろうか。最終的には、検査を受けることを申し出たということで、その2人を含めた国民の健康と生命を守るための措置を実施しようとした人たちの時間と労力を無駄にした格好だ。

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我が国は、争いごとを好まず、何事も穏便に済ませたい国民性が美徳である一方、市民のしゃらくさい権利意識が肥大しすぎて、物事が遅々として進まない一面がある。

他国であったなら、係官は“Greater Good”(社会全体の善)のために、より毅然と厳然と対応したのではないかと想像する。
さすがに棍棒で殴って検査室に連行することはできないだろうが、巧妙に恫喝したり、恐ろしい取引条件を提示したりくらいならしたかもしれない。

 

警察官と航空機の機長が似たような制服を着ているのは権威を表わすもので、警備員はその権威にあやかるために同じような制服を着る。

機長は航空法により(第七十三条の三と四)言うことを聞かない乗客を降機させることができる。全体の利益のために当然のことだ。
アメリカでは暴力的に引きずりおろす場面がネットに流れて問題になったが、やり方はともあれ、誰でも目にしたことはあるはずの、乗務員に悪態をつく乗客を考えれば、それに反駁できる者などいるのだろうか。
駅員にだってそれくらいの権威を持たせたいくらいだ。

僕は、自分の持ち場を守る人の、そこにおける権威というものには一定のリスペクトを払うことにしている。それは、厳めしい制服を着た人たちだけではなく、飲み屋の大将、スナックのママ、お店の店主、そういったふつうの人たちに対してもである。

権威というものにアレルギーでもあるのか、逆らうこと、難癖をつけること、あわよくば引きずりおろすことを生き甲斐にしているような人間が、ゴロツキにもいれば、ジャーナリストにもいれば、弁護士にもいる。そういう人間に限って、自分は権威を誰よりも欲しているものだ。ひと言でいうと、ダセえ……。
共産主義国家を見ればわかるではないか。

 

僕が、反論したり言い争いをしたりしないように心がけている人間が二種類いる、と書いたのに、もうひとつを挙げるのを忘れていた。

ええ感じの熟女である。

オレを棍棒で殴ってほしい……。

「誰もつくっていないのに、誰かがつくったかのようなルール」

長いこと日本社会を眺めていると、多くの人が感じているであろう息苦しさの一因はこういうところにあるのではないか、と考える。
それは、日本特有の「ただの慣習が、あたかもルールであるかのように固定化する現象」である。サラリーマン文化に顕著だ。

たとえばリクルートスーツ。
「面接にはこういう服装で行く人が多いみたいだよ」という定番が、いつの間にか「こういうスーツで行かなくてはいけない」というルールのようになる。

この意味をちょっと拡大すると、たとえば駅でキレるおっさんである。
あくまでも「こういう予定です」という時刻表から、電車が少しでも遅れると、それが犯罪であるかの如くギャーギャー騒ぐ。

さらに拡げると、たとえば浮気である。
婚外セックスをしてはいけないのではない。婚外セックスをしてはいけない夫婦関係がある、というだけのことだ。中には「自分の妻が他の男に抱かれているのを見ると興奮する」という変わった趣味の持ち主もいるのだ。
つまり、浮気してはいけないというのは法律ではなく、当事者(夫婦)間のみの問題なのである。文春砲に代表される週刊誌ジャーナリズムが、飽きもせずつまらん下半身の醜聞を書き立てているが、結局みんな人のセックスが気になって仕方ないのだ。そんなことより、僕は自分のセックスをなんとかしたいが。

先にサラリーマン文化に顕著と書いたが、
「先輩より先に帰ってはいけない」とか
「シャツは白しか着てはいけない」とか
(今どきナイとは思うが)「女性社員がお酌をしなくてはいけない」とか
「高級な時計はしてはいけない」とか
「黒以外のカバンは持ってはいけない」とか
「ヒゲは生やしてはいけない」とか
「クライアントの前でコートを着ていてはいけない」とか
「会議室では、エラい人より先に座ってはいけない」とか
「転職は30までにしなくてはいけない」とか

今年だけでも、パンプスの話、忘年会の話など、いろいろしょーもない話題があった。

ため息が出る。

 「そんなの好きにしたらいいじゃん」

「そんなことを人に強制しても、お前の人生に関係ないじゃん」

「そんなので仕事がなくなったりしないじゃん」
としか思えないのである。

先日、古巣の電通に呼ばれて1時間講演をさせてもらったのだが、先方からの「こういう内容を話してください」という要望の中に、「自分が電通に戻ったらなにをしたいか」というものがあった。
それは「現実的に戻ることはないが」という英語の仮定法のような前提であったように感じる。いや、戻りたい人がいて、会社側もそれを受け容れるなら戻ればいいのではないかと思う(僕自身はそういう希望はないので、それについてはお話ししなかった)。
現に、僕が知る電通インドネシアでは出戻り社員は珍しいことではなかったし、それを会社が歓迎する雰囲気があった。
現地の拠点長も「一度うちにいて、欧米系の代理店に転職したけど、家族的空気がある電通をやっぱり選んで帰ってきてくれるというのはうれしいことだ」と言っていた。

日本の電通では特殊な例になると思うが、なにも「電通たるもの、一度去った人間を再び迎え入れることはない」などと決めつけることはない。そういう社則もないはずだ。

 

もっと自由にやったらいいのではないか、と僕は最近の日本に対して思う。
どうしてありもしないルールに自らがんじがらめになろうとするのかなぁ、と。

会社辞めるのも、転職するのも、独立するのも、まったくちがう仕事をはじめるのも、海外行くのも、好きな服着るのも、髪伸ばすのもヒゲ生やすのも、誰とどういう付き合いをするのも、好きにしたらええんちゃうん。

ダイバーシティという言葉が昨今よく使われるけど、それはLGBTQに代表されるセクシュアルマイノリティーの性的志向や外国人の宗教や国籍だけにかかわることではなくて、それは「ひとりびとりの多様な生き方」を認めることである。

つまり、少数の誰かのハナシではなく、あなたや僕、全員にかかわることなのだ。

もう一度言う。「ダイバーシティとは、個人のいろんな『生き方』を個性と認めること」である。

そして、人間の社会とは歴史を通じて少しずつ自由を獲得してきたのだから、これはちゃんとした使い方を知った方がいい。
つくづく、日本人というのは自由の扱い方に慣れていない。
もちろん、ここで言う多様な生き方とは「川にゴミを捨てる自由な生き方」とか「上下関係を利用して、女の体を自由に弄ぶ生き方」ではない。本当のことを言えば、「人込みの中でもスマホから目を離さずのろのろのろのろ歩く自由な生き方」であってほしくもない(自由なのだろうけど、僕はそういう人間を「救いがたい愚か者」として僕の意識する世界から出て行ってもらう自由を行使する)。

自由でいようとすると、(親や家族を含む)つまらん連中から横槍が入ったり、陰でなに言われるかわからなかったり、人間社会というのは面倒くさいものだ。

その都度、説明責任を果たし、いちいちたたかわなくてはいけなくなるのだが、自由は勝手にはやって来ない。勝ち得なくてはならないものだ。
ヒゲを生やして働くために法廷で二審までたたかった人もいる。

大阪メトロ職員のひげ禁止訴訟、2審も違法性を認定 - SankeiBiz(サンケイビズ):自分を磨く経済情報サイト

〈楽しく生きるためにはエネルギーがいる。戦いである〉
これは村上龍『69』の、著者によるあとがきの言葉である。

自由で楽しく生きるというのはぜんぜんラクではない。まぁなんという救いのない真実であることか……。

 

なんでこんなことをつらつらと考えたくなったかと言うと、今年一年を振り返って、僕自身は、自由にだらしなく生きてしまって、「こうありたい」のに「ラクしたい」自分が勝ってしまうことが多く、精神的にはキツかったのである。ちょっと自己嫌悪で年末を迎えているのだ。
それと、それぞれ仕事や生き方に悩む友人たちを見ていて「もっと自由にやろうぜ」と無責任にハッパをかけたい気持ちがあったのである。

新年がよりよい一年であらんことを祈りつつ、今日がっつり筋トレしたのに、晩にビッグマック食べちゃったワタシは、3歩進んで2歩下がる感じで漸進したいと思います……。

 

令和元年の大晦日
自分の店の書斎にて
前田将多

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「日本を救うでっかいハナシ」

先月、シアトル・マリナーズの球場でメジャーリーグの野球を観戦した際、ホットドッグとフレンチフライズ(ポテト)とビールを買ったら、27ドル50セントした。1ドル=110円として計算すると、3025円である。
それだけで3千円を超えているのである。

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もちろん球場価格であることは承知しているが、僕はそれが高いとは思わなかったのだ。
なぜなら、最後は「もうええわ」と思うくらいサイズが大きく、おいしかったし、マリナーズの勝利も含めて、トータルの満足度が高かったから。

ブラジリアン・ステーキ店では、串刺しになった様々な部位の肉塊を、店員が次々に席まで持ってきてくれて、ほしい人はそれをスライスしてもらうシステムだった。
腹いっぱい食べて、ティップ込みで1人80ドル近く払った。それもよかった。

それにしても、アメリカというのは、ティップについても「15%ならいくら、20%ならいくら、25%ならいくらです」と、勘定書きに印字してある図々しさというのはなんなのだろう……。税金ですでに10%取られているのに、一体トータル何十%取るつもりなんだ。

僕は帰国してから「日本の経済は平成の30年間でほとんど伸びておらず、他の先進諸国に差をあけられっぱなし」という記事を読んでいろいろと思うことがあった。

海外からの旅行者が日本に大勢来ているのはもちろん「日本文化が好き」という以前に「安いから」である。
昨今、食品メイカーやお菓子メイカーが、次々と食べ物を小さくしている。値上げせずにコストを削減するために、実質値上げのサイズ縮小をしているわけである。
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4087/

www.nhk.or.jp

 ほんとうに、誰も幸せにしない愚策だと思う。

食品のサイズを小さくしたり、個数を少なくしたりするのは、単に原料を減らすだけではない。
製造機器を更新する場合もあるだろうし、パッケージを新規製作する場合もあるだろう。製品やウェブサイトや販促グッズすべての表示を変更するし、取引先への説明・通達など、裏では社員があれこれ動くために残業しなくてはならないだろう。
その結果、売上が伸びる要素はないのだ。ちっさくなるだけなのだから。よくて横ばいだ。

社員は「いったいなんのために働いているのだろう……」と徒労感に見舞われないのだろうか。

「生産性」という言葉を耳にしたことはあると思う。
「日本は生産性をもっと上げないと経済がヤバい」といった言説に新聞やネットで触れたこともあることだろう。

「生産性を上げる」という表現は、一見「もっと効率よく働いて、もっとモノを作らないといけない」というように捉えられがちだが、ここで一度、言葉の意味を振り返ってみよう。

公益財団法人「日本生産性本部」によると、「生産性とは、あるモノをつくるにあたり、生産諸要素がどれだけ効果的に使われたかということ」とある。ここで「やっぱそうなんだー」と思ってしまうものだ。

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(公益財団法人 日本生産性本部ウェブサイトより)

「日本人は朝から晩までこれだけ働いているのに、もっと働かなくてはいけないのか」とゲンナリさせられる。満員電車に乗って職場に向かい、嫌な上司とか意地悪な取引先に耐え、残業して安酒飲んでクタクタになって、帰宅して寝るだけ。
限りある人生の時間と、人間としての心を売り渡す引き換えに、家族を養う給金をもらう。これが労働というもので、それをさらに効率よく、すなわちもっと仕事をぎゅうぎゅうに詰め込んで、人間業とは思えないようなスピードでしなくてはいけないのか、と。

だが、もう少しこの、クソまじめでおもしろくもないサイトを読んでみると、生産性には「物的生産性」と「付加価値生産性」があると書いてある。
物的生産性を上げるというのは、要するに前述のような「同じ時間・労力でもっと作ること」である。

一方、付加価値生産性をというのは「企業が新しく生み出した金額ベースの価値、つまり付加価値を単位とする」とあるが、それを上げるという所為とは「ちゃんと利益を上げること」を指す。

企業というのはたいてい、次のようなことをしている。
100円で仕入れた材料や設備で、独自のものやサービスを作り、それを150円で売る。それによって50円の利益を上げている。その利益を、ちゃんと60円、70円にする努力が「付加価値生産性」を上げるということになる。

いま日本の多くの企業がやっていることは、売価の150円を死守するために、100円の中に含まれる材料費や人件費をカットしようとばかりしていることになる。

ちがう。

100円を500円、1000円にすることが企業の手腕であり、「生産性を上げろ」というのはそれをやれという意味なのである。

「付加価値は人件費として労働に分配され、利益や配当などとして資本にも分配されます。生産性向上の成果をどう分配するかという問題を考えるにあたっても、付加価値労働生産性が重要な指標のひとつと考えられています」(再び、日本生産性本部ウェブサイトより)。

それにより、GNPが上がって、給料が上がる。
現代の問題は(経営層と労働者層の)分配の不平等であり、企業努力のベクトルの誤謬である。

日本人は概して、目に見えないものに価値を見出すことが苦手なので、たとえばデザイン、たとえば言葉、たとえばブランドというものを軽視してきた。
反面、目でわかり手で触れられる機能や、サイズ÷価格といういわゆる「コスパ」ばかりが追求されてきた。

また、一部の企業はブランドというものを心底は理解もしていないし、信じてもいないから「まやかし」のように扱い、ぼったくりで儲けてきた。また、「間違って払っちゃった小銭」、「知らんうちに乗っけられてた費用」みたいなおカネをかき集める技術にばかり磨きをかけてきた。

「付加価値」という見えないものの価値こそ、ちゃんと理解しなくてはいけないことの本質なのだと思う。

もちろん簡単なことではない。
「とは言っても、人は安い方を買う」だろうし、「日本人は結局フツーのものを買う」だろうから。それは会社を経営している僕個人は痛切にわかっているつもりである。
ファンを増やすというのは、一時のお客を得ることよりも難しいことだ。

僕の先輩の田中ひろのぶさんは以前こう言った。

「日本人というのは、無味無臭のものをつくる天才やな。アサヒ・スーパードライトヨタ・カローラ、マイルド・セブン、ユニクロ、これぜんぶ無味無臭や。つまらんかもしれん。せやけどいいもんな」

別の先輩コピーライターである中尾孝年さんはこう書いた。
「言葉だって、削れば尖る」

だから僕はいま、こう思う。
「会社だって、尖れば刺さる」

これまで日本企業は「好かれる努力」よりも、「嫌われない努力」ばかりしてきたように思える。その産物が無味無臭の良品たちだ。

だけどこれからは、刺さってくれる人だけを対象に尖った企業が増えていくのではないか、というのが僕の希望的観測である。
どーでもいいモノを大量につくる時代はとうに終わったのではないか。
どーでもいいモノをどーでもいい人たちに売る仕事に就きたい人は減っていくのではないか。

心が刺されるほど感銘を受けた企業の製品やサービスなら、他より高くてもそれがほしいし、ずっと付き合いたいはず。少なくとも、消費者としての僕はそう思う。

世の中には高すぎるものもあるし、安すぎるものもあるけど、安すぎる最たるものが人の給料になっている日本を救う道は、安売りをやめて、利益をフェアに分配することである。それは格差社会アメリカがいまだ実現できていないことでもある。

タイトルにウソがないくらいにだんだん話がでっかくなってきたところで、最後にもっとでっかい話をして終わります。

奇しくも、天皇陛下が即位を宣明され、「国民の幸せと世界の平和」を願う誓いのお言葉を述べられた。

国民の幸せという意味では、国民は「安かった」に幸せを感じている場合ではないのである。そうしないと、月末に給料も「安かった」となるだけなのだから。

もっと「おいしかった」「カッコよかった」「たのしかった」「よかった」に幸せを感じたいものである。

(了)

もっと深く知りたい方はご参考にどうぞ:
https://diamond.jp/articles/-/19820

diamond.jp

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note.mu

「なかなかしんどいワンダーランドへの旅③」

トレイルに入って3日目の朝、岳ちゃんは残りの三人よりも1時間ほど早く、8時半にキャンプ地を出て行った。
「トレイルから逸れたところにクレセント・レイクという湖があって、そこが絶景らしいんです。そこで竿を振るのが、僕の今回の一番の希望なんです」
と、釣り好きな岳ちゃんは話していた。そのためだけにわざわざフライフィッシングの竿を、バックパックにくっ付けて持ってきていたのだ。

「それは、トレイルからどれくらい離れてるの?」
「地図で見た感じ、片道30分て感じですね。行ってみますか?」
「……行ってきて」
ということで、僕は美しい湖には惹かれはしたものの、往復1時間を余計にかけて歩けるほど余力があるとは思えなかったのである。

 

【ハイク3日目】イエローストーン・クリフス → ファイア・クリーク

イエローストーン・クリフスは朝日に輝いていた。今日は、やっと雨や霧から解放されたみたいだ。

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小一時間歩くと、小さな湖というか、大きな池に出た。岳ちゃんがデポしたベアキャニスターが目印となって、そこからトレイルを離れたことがわかった。
池の向こうは丘になっていて、クレセント・レイクはそれを越えたところにあるのだろう。
滝下がバックパックをその場で下ろして置いたまま、身軽になって彼を迎えに行った。大谷さんと僕は、池の近くに残って、おやつを食べたり、おしゃべりをしたり、まぁ、完全にサボリを決め込むつもりだった。

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やや風が冷たかったが、ここ2日間の天気に比べたら快適そのものだった。

「そうだ! 濡れたテントをここで干しておきましょうよ」
「いいね!」
大谷さんの発案で、草の上にそれぞれのテントを広げた。

1時間が経過しようとしていた。池は僕たちが待つ場所の右手下方にあり、左手は針葉樹の上り斜面になっている。なにげなくそちらに目をやると……、
「おいおい、熊がいるぞ」
「え!」

斜面の中腹あたりに熊が姿を現していて、木の実でも探しているのか地面に鼻を近づけてウロウロしているではないか。
緊張が走る。

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中央の黒いのがクマ

「やばいな。どうしよ」
「こっちに気づくなよっ」
僕らは小声で相談した。距離は50メートルくらいあるが、熊が全速力で向かってきたら数秒でここまで来る。
「荷物を持って、とりあえずゆっくりと池の方に逃げましょう」
「オ、オッケー」
「滝下くんの荷物に気づかれたら終わりですわ。取られたらもうどうすることもできません」
「うーむ……」

滝下の荷物よりも、まずは自分たちの身の安全だ。大谷さんと僕は、なるべく物音を立てないように、静かに池の方へ下りて行った。しばらく観察していると、熊は斜面を水平に左方向へゆっくりと動いていき、やがて林の中へ消えていった。よし!

「それにしても、あいつら遅いな」
「ちょっと僕、見てきますわ」
大谷さんが池から丘を上がって、様子見に行った。が、彼はすぐに帰ってきた。

「ダメです。丘を越えたら湖があるのかと思ったら、まだまだ続いてて見えません。だいぶ奥っぽいですわ」

もうしばらく待っていると、滝下が一人で戻ってきた。ちょっと顔が引きつっている。
「どうした?」
「岳さんには会えたんですが、帰り道を別々のルートで行ったらはぐれてしまいました」

どうやら湖へは一本きれいな道があるのではなく、不明瞭なルートが何本もあるらしい。
「ちょっと、僕、もう一回行ってきます」
滝下は焦りを顔に浮かべて、また丘を上がっていった。大谷さんと僕のおっさんチームはできることがなくて、ただ岳ちゃんの無事を祈って再び待つしかなかった。情けないが、四人がバラバラになったら余計に大変だ。

「滝くーん!」と呼ぶ、岳ちゃんの声だけが丘の向こうから聞こえてきた。
こちらからも呼び返すが返事はない。呼んでいるということは助けが要るのだろうか……。

結局、はじめに滝下と別れたときから2時間半後に、二人は帰還した。
「すみません、一緒の道で戻ればよかったんですが、それぞれ来た道で帰ろうとして、ちがう道を行ったんです。どうせどこかで合流するだろうと思っていたら、しなかったんです……」
と滝下。
「いや、俺も、『あれ? 合流しない』とわかった時にそのまま一度ここまで来ればよかったのに、湖まで戻ってしまって……」
と岳ちゃん。

二人の思い込みと、咄嗟の判断が食い違ってしまったようだ。
しかも、滝下は湖ではしゃいで一眼レフカメラを水没させ、岳ちゃんはもっとはしゃいで湖底の岩で足の裏をケガしたという。君らなぁ……。

僕と大谷さんは見ていないクレセント湖

「こっちはこっちで、熊が出たんだよ!」
「ええ! マジですか」

なんだかもう、両チームともちょっとしたドッキリに遭った気分であった。

気を取り直して、再出発である。
「じゃー、大谷さん先に行ってください」

滝下は、僕と大谷さんとはじめて行ったカリフォルニアの山で、先頭を歩いている時に熊を見て以来、熊をとても怖がっている。
「なんでやねん、滝くん行きーよ」
滝下は、熊除けの鈴の代わりに、時折口笛を鳴らしながら先を行った。

道は下って下って、ひと山下りて、丸い石の川原に出た。
登りは息が苦しくてツラいが、下りは下りで膝関節と脚の筋肉全体に負担がかかる。

近くの滝で岳ちゃんが飲み水を汲みに行った間、僕はストレッチをして脚のあちこちを伸ばした。そして、大腿筋を揺すって回復を促した。テニス選手の足が攣った際に、トレーナーが脚を揺する。揉むよりも揺すった方がいいと、滝下に教わったのだ。

今日のルートは、距離はさほどない(地図上では10キロ強)ものの、またここから登りがはじまる。脚も疲労がたまっているし、下半身だけではなく、バックパックを背負う肩も腰も痛む。たまに首も痛むことがあって、ほぼ全身が悲鳴を上げはじめている。

森の中の上り坂を今日は2時間。昨日ほどのしんどさではないが、それでもキツいものはキツい。
クレセント・レイクの一件のために、時間をだいぶ食っていたので、日没も迫っていた。

木々に囲まれた薄暗いところにファイア・クリーク・キャンプの表示を発見したが、キャンプ場へは、そこからトレイルをはずれてさらに0.6マイル(1キロ)道を下らなくてはいけなかった。

そこはテーブルとして使える切株がある快適そうなテント場だったが、水場が不便だった。倒木が何本も、行く手を遮るようにあって、川へ行きづらいし、水がチョロチョロとしか流れていなかった。
いまからのメシに必要なので、水をコップに取って、2リットル入るポリウレタンのボトルに何杯も入れる、それからフィルターで濾して、飲み水や料理に使う。面倒くさいのだ。

ちなみに、トイレは快適(笑)

パカッ

その日の、山の中での最後の晩餐は、ヘッドライトを灯しながら暗闇の中で食べた。しかし、みんなで輪になって、ワイワイおしゃべりしながら楽しい時間だった。
岳ちゃんと滝下はまだ持っていたビールを、僕も少しもらった。


【ハイク4日目】ファイア・クリーク → サンライズ(元の場所)

キャンプ場をあとにして、しばらく山道を登ると展望のよい場所に出た。
やっと、最終日にしてはじめて、マウント・レーニアを拝んだ。快晴である。
そうだった、オレたちはマウント・レーニアの周囲を歩いてたんだよ。まったく見えないから、もう少しで忘れるところだったわ!

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孤峰Mt. レーニア

この日はなんの苦もなかった。最高であった。ご褒美のような一日、最後に相応しい絶景、山の神様の抜群の演出、疲れを癒すハイライトの連続であった。

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川のほとりがあまりに美しいので、岩の上でコンロでコーヒー沸かして休憩までした。

丘の上からどこまでもつづく北の山々の連なりを眺めた。
近くにいた男性に、
「カナダまで見えてますかね?」
と尋ねてみると、
「いや、カナダはもっと先だよ」

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僕たちはこの広すぎる国の、ほんの一部を4日間かけてたったの60キロほど歩いただけなのだが、しんどさにもよろこびにもヒイヒイいわされた。マウント・レーニアを一周するワンダーランド・トレイルは全体で150キロある。

トヨタシエナを停めてあったサンライズ・ビジターセンターへの最後の坂道を下り、ゴール。

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街にいると「自然はいいな」「山はいいな」と思い、山に入ると「人間界はいいな」「ビールほしいな」「ハンバーガー最高だな」「ふとんあったかいな」と思う。

だったらなんでこんなことするんだろ。シアトルに戻ってその後4日間ほどあちこち観光した折、岳ちゃんに訊いてみた。
「そうですねぇ。やっぱりすごい景色を見たいですね。そして、そこまで自分で歩いて行って、やっと見られるというのが好きですね……」

そう、大した答えはないよね。人が「へえぇ!」って驚嘆するような意外な言葉はないわ。
自分が生きる世界の「すごい景色が見たい」以外ないのだ。

岳ちゃんはもうひとつ付け加えた。
「山にいると、嫌な人間に会わないですね」

そもそも人に会わないんだからそりゃ当然なんだけど、すれちがう人、キャンプ地で会う人、レンジャー、どの人も言葉を交わすと穏やかでにこやかで親切で、いい顔してる。

僕たちもいい顔してただろうか。きっとしてたな、うん。

そういういい顔でいるために、たまに山を、森を、歩かなくちゃな。

(了)

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今回行ったルート図