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月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。2003年より書いていた月イチコラム「月刊ショータ http://monthly-shota.jp 」をhatenaに転載しました。そのため、一部お見苦しい点があることをご容赦ください。

「弟A」

今回は、我が家のパンドラの箱を開けようと思う。箱の中には、我が弟が入っている。僕とは二つ違い。

彼はかれこれ十年くらいアメリカに住んでいるが、その人生は、軽々しく「いいなー」なんて言えないくらい、波乱がとても万丈しているのだ。心してお読みいただきたい。 ここからの話は全て弟から一次情報として聞いたものであるから、事実に基づいているが、実弟の実名を伏せて語らざるを得ないことをご容赦いただきたい。

少年Aは、東京で大学付属の高校に通っていた。当時は髪の毛はスパイク、制服は安全ピンだらけで、足元は安全ブーツという、非常に安全な服装で登校していた。しかし、周囲の生徒からは、かなり浮いた存在であったことは間違いない。 ほとんどの生徒は、無事に大学までエスカレーター進学することが第一で、納得のいかない校則や先生に盾突く気などなかった。Aにとっては、そういう学校と従順な生徒たちの雰囲気がダブルでフラストレーションだった。高校での友達の話は、これまで聞いたことがない。

結局、わざわざ付属校に行っておきながら、その大学には進まず、アメリカへ渡った。アメリカの田舎町の大学でも、やはり珍しがられたようだが、そこでシャディーという男と知り合った。後述するが、彼は、後々まで、Aとは親友として付き合い続けることになる。

Aの専攻はアート。そこで、変に才能を発揮して、四年制大学は名誉生徒の称号を得て卒業する。そして、アートの大学院に進む。 その時の合格通知には、「あなたは今年の志望者の中で最も優秀であった」と書かれていた。

ところが、上層中流階級以上の白人文化に浸かっているアートアカデミーの世界では、彼の作品はメッセージがキツ過ぎた。 「十字架には星条旗のトランクスとガスマスクを装着した、肥満体のキリストがいて、その足元には餓死寸前のアフリカの子供が横たわっている」油絵だとか、九一一の直後に「FEEL THE BLAST, KNOW THE PAIN(爆風を感じて、痛みを知れ)」という刺激的な題名の作品(詳細不明)を制作して、教授にたいそう不評を買ったりした。

ある黒人教授がいて、学生全員の作品展示会の日に、ちゃっかり自分の個展も同時開催していた。「個展を開いたばかりか、ウン十人の学生のグループ展もプロデュースしてございます」というわけだ。Aは「こんなんありか? あのオレオよー」と憤慨した。 米俗語で、中身は白人を気取った黒人のことを「オレオ」と呼ぶ。外は黒くて、中が白い、あのクッキーである。 そんなこんなで、Aは芸術に幻滅。アートから引退する。つまり自主退学。

留学生は退学した時点で、学生ビザを失効し、合法的にアメリカに滞在する術を失う。こうして、彼は不法滞在者となった。 その後は、アパートのペンキ塗りをしたり、電話会社の請求書を封筒に詰める工場で働いたりして、生活費を稼いだ。アメリカでは、そういう社会の下層で生活する人々には、アジア系を含め、アフリカ系やヒスパニック系など有色人種が圧倒的に多い。彼はその工場で、そういう人たちと共に働いていた。

ドイツ製の機械から吐き出される封筒に、電話代の請求書を次々に詰めていくのが仕事だが、頻繁に紙詰まりを起こし、いっぺんスイッチ切りに歩いていかなくてはならない。そして、また戻って封筒に詰める作業を延々繰り返す。「早く日本製を入れろー!」と文句を言っていた。

「しかも、せっかく詰めて送っても、送られた人間は『またクソ野郎が請求書を送ってきた』としか思わないんだから嫌になる」という不毛な仕事だった。

初めは「二週間だけだぞ」と言われて入ったその工場も、彼は手先が器用で異常に細かく仕事をするので、「もう少しいてくれ」、「もうちょっと頼む」と、結局半年間いた。

経済的にはその頃が最も困窮していたそうで、ギターをはじめ物は片っ端から売り払った。そして、アメリカ北部の真冬にガスヒーターもない部屋で、日中は日向でうずくまって過ごし、夜はダウンジャケットに靴下を二重に履いて寝るような生活を送った。合法的に国に残る道を探して、移民センターに何度も通い、シャディーの伝手で「偽装結婚」してくれる女性まで本気で探した。地元の教会がホームレスのためにやる炊き出しの列に並ぶこともした。

イケナイ植物を栽培して売ろうかとも考えた。ところが、計画の途中でシャディーが運転中に警察に捕まった。このシャディーというアラブとブラジルの血が混じった男は、二〇代にして、肥満、糖尿病、弱視、偏平足、若ハゲ、虫歯、Aによると、おそらく水虫も患っている。急場は嘘八百で切り抜けるが、その頃はアメリカ中がアラブ系に対し極度に敏感になっていて、単なる職務質問がややこしいことになった。

シャディーは普段はシャディー・オスマンと名乗っているが、他にも多くの名前を持っていて、本名はAさえ知らない。 ある時はシャディー・ムスタファであり、ある時はシャディー・オスマン・ムスタファ、さらに、シャディー・ムスタファ・バッセンだったり、シャディー・バッセンだったり……。 Aは「分かりにくいから『フセイン』にしとけ」と言っているが、これでは、警察に対し「ワタシは怪しい者です、はい」と言っているようなものだ。

シャディーは警察に「テロリスト容疑」で引っ張られた。 一晩拘留され、結果的には、翌日、無罪放免。

そんな、社会の底辺でウロウロしている毎日だったが、一発形勢逆転の出来事がAの身に起こった。グリーンカードの抽選に当選したのだ。

アメリカという国は、外国人に対し、毎年抽選で永住権を与えている。確率は知らないが、とにかく彼はこうして永住権を得たのである。

現在(当時)は、ニューヨークのクイーンズに住み、貿易会社で倉庫番をしている。これまた肉体労働で、本人は辞めたがっていたが、上司に辞表を出そうとしていたところ、先にその上司が辞めてしまい、今では後輩まで抱えて倉庫を任されるハメになっている。

音楽を作る趣味を続けていて、デモCDを制作した。シャディーが、ロンドン経由でパレスチナの親戚を訪ねる際に、「ロンドンで配ってくれ」と、そのデモCDを託した。シャディーが、親戚の元に着くと、その地ではヨーロッパからの音楽やショボいラップがラジオから流れていた。だから、彼はそれをパレスチナのあるラジオ局にも手渡しに行った。すると、実際にオンエアされたという。

そして、リクエストが集まり、翌週、その局のリクエスト曲トップ10入りまでしてしまった。

にわかには信じられない話であるが、Aがシャディーを「テメー、またテキトーぶっこいてるんだろ」と追及しても、本人は「本当だ」の一点張りだから、そうなのかもしれない。

いろんなことがあるものだ。いろんな人生があるものだ。

それにしても、シャディー。Aとはろくなことで関わっていないように見える。僕がニューヨークでAに会った際には、「夜九時にAの家で会おう」という約束になっていた。しかし、Aと一緒に待っていても、ヤツは現れない。痺れを切らしたAが携帯電話にかけてみると、なんと映画を見に行っていた。

「おー、今行くからよー」 と言われて、さらに待つこと二〇分。再度かけてみると、 「おー、今出るからよー」 とのこと。ホントにテキトーなのである。

僕は会えずに帰った。

Aは「シャディーは健康の問題で、きっと六〇まで生きない」と言っている。それでも、二人で寄り添うように、ゲトーで一緒に生きている。シャディー、弟を頼むぞ。

(了)