月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「日本を救うでっかいハナシ」

先月、シアトル・マリナーズの球場でメジャーリーグの野球を観戦した際、ホットドッグとフレンチフライズ(ポテト)とビールを買ったら、27ドル50セントした。1ドル=110円として計算すると、3025円である。
それだけで3千円を超えているのである。

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もちろん球場価格であることは承知しているが、僕はそれが高いとは思わなかったのだ。
なぜなら、最後は「もうええわ」と思うくらいサイズが大きく、おいしかったし、マリナーズの勝利も含めて、トータルの満足度が高かったから。

ブラジリアン・ステーキ店では、串刺しになった様々な部位の肉塊を、店員が次々に席まで持ってきてくれて、ほしい人はそれをスライスしてもらうシステムだった。
腹いっぱい食べて、ティップ込みで1人80ドル近く払った。それもよかった。

それにしても、アメリカというのは、ティップについても「15%ならいくら、20%ならいくら、25%ならいくらです」と、勘定書きに印字してある図々しさというのはなんなのだろう……。税金ですでに10%取られているのに、一体トータル何十%取るつもりなんだ。

僕は帰国してから「日本の経済は平成の30年間でほとんど伸びておらず、他の先進諸国に差をあけられっぱなし」という記事を読んでいろいろと思うことがあった。

海外からの旅行者が日本に大勢来ているのはもちろん「日本文化が好き」という以前に「安いから」である。
昨今、食品メイカーやお菓子メイカーが、次々と食べ物を小さくしている。値上げせずにコストを削減するために、実質値上げのサイズ縮小をしているわけである。
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4087/

www.nhk.or.jp

 ほんとうに、誰も幸せにしない愚策だと思う。

食品のサイズを小さくしたり、個数を少なくしたりするのは、単に原料を減らすだけではない。
製造機器を更新する場合もあるだろうし、パッケージを新規製作する場合もあるだろう。製品やウェブサイトや販促グッズすべての表示を変更するし、取引先への説明・通達など、裏では社員があれこれ動くために残業しなくてはならないだろう。
その結果、売上が伸びる要素はないのだ。ちっさくなるだけなのだから。よくて横ばいだ。

社員は「いったいなんのために働いているのだろう……」と徒労感に見舞われないのだろうか。

「生産性」という言葉を耳にしたことはあると思う。
「日本は生産性をもっと上げないと経済がヤバい」といった言説に新聞やネットで触れたこともあることだろう。

「生産性を上げる」という表現は、一見「もっと効率よく働いて、もっとモノを作らないといけない」というように捉えられがちだが、ここで一度、言葉の意味を振り返ってみよう。

公益財団法人「日本生産性本部」によると、「生産性とは、あるモノをつくるにあたり、生産諸要素がどれだけ効果的に使われたかということ」とある。ここで「やっぱそうなんだー」と思ってしまうものだ。

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(公益財団法人 日本生産性本部ウェブサイトより)

「日本人は朝から晩までこれだけ働いているのに、もっと働かなくてはいけないのか」とゲンナリさせられる。満員電車に乗って職場に向かい、嫌な上司とか意地悪な取引先に耐え、残業して安酒飲んでクタクタになって、帰宅して寝るだけ。
限りある人生の時間と、人間としての心を売り渡す引き換えに、家族を養う給金をもらう。これが労働というもので、それをさらに効率よく、すなわちもっと仕事をぎゅうぎゅうに詰め込んで、人間業とは思えないようなスピードでしなくてはいけないのか、と。

だが、もう少しこの、クソまじめでおもしろくもないサイトを読んでみると、生産性には「物的生産性」と「付加価値生産性」があると書いてある。
物的生産性を上げるというのは、要するに前述のような「同じ時間・労力でもっと作ること」である。

一方、付加価値生産性をというのは「企業が新しく生み出した金額ベースの価値、つまり付加価値を単位とする」とあるが、それを上げるという所為とは「ちゃんと利益を上げること」を指す。

企業というのはたいてい、次のようなことをしている。
100円で仕入れた材料や設備で、独自のものやサービスを作り、それを150円で売る。それによって50円の利益を上げている。その利益を、ちゃんと60円、70円にする努力が「付加価値生産性」を上げるということになる。

いま日本の多くの企業がやっていることは、売価の150円を死守するために、100円の中に含まれる材料費や人件費をカットしようとばかりしていることになる。

ちがう。

100円を500円、1000円にすることが企業の手腕であり、「生産性を上げろ」というのはそれをやれという意味なのである。

「付加価値は人件費として労働に分配され、利益や配当などとして資本にも分配されます。生産性向上の成果をどう分配するかという問題を考えるにあたっても、付加価値労働生産性が重要な指標のひとつと考えられています」(再び、日本生産性本部ウェブサイトより)。

それにより、GNPが上がって、給料が上がる。
現代の問題は(経営層と労働者層の)分配の不平等であり、企業努力のベクトルの誤謬である。

日本人は概して、目に見えないものに価値を見出すことが苦手なので、たとえばデザイン、たとえば言葉、たとえばブランドというものを軽視してきた。
反面、目でわかり手で触れられる機能や、サイズ÷価格といういわゆる「コスパ」ばかりが追求されてきた。

また、一部の企業はブランドというものを心底は理解もしていないし、信じてもいないから「まやかし」のように扱い、ぼったくりで儲けてきた。また、「間違って払っちゃった小銭」、「知らんうちに乗っけられてた費用」みたいなおカネをかき集める技術にばかり磨きをかけてきた。

「付加価値」という見えないものの価値こそ、ちゃんと理解しなくてはいけないことの本質なのだと思う。

もちろん簡単なことではない。
「とは言っても、人は安い方を買う」だろうし、「日本人は結局フツーのものを買う」だろうから。それは会社を経営している僕個人は痛切にわかっているつもりである。
ファンを増やすというのは、一時のお客を得ることよりも難しいことだ。

僕の先輩の田中ひろのぶさんは以前こう言った。

「日本人というのは、無味無臭のものをつくる天才やな。アサヒ・スーパードライトヨタ・カローラ、マイルド・セブン、ユニクロ、これぜんぶ無味無臭や。つまらんかもしれん。せやけどいいもんな」

別の先輩コピーライターである中尾孝年さんはこう書いた。
「言葉だって、削れば尖る」

だから僕はいま、こう思う。
「会社だって、尖れば刺さる」

これまで日本企業は「好かれる努力」よりも、「嫌われない努力」ばかりしてきたように思える。その産物が無味無臭の良品たちだ。

だけどこれからは、刺さってくれる人だけを対象に尖った企業が増えていくのではないか、というのが僕の希望的観測である。
どーでもいいモノを大量につくる時代はとうに終わったのではないか。
どーでもいいモノをどーでもいい人たちに売る仕事に就きたい人は減っていくのではないか。

心が刺されるほど感銘を受けた企業の製品やサービスなら、他より高くてもそれがほしいし、ずっと付き合いたいはず。少なくとも、消費者としての僕はそう思う。

世の中には高すぎるものもあるし、安すぎるものもあるけど、安すぎる最たるものが人の給料になっている日本を救う道は、安売りをやめて、利益をフェアに分配することである。それは格差社会アメリカがいまだ実現できていないことでもある。

タイトルにウソがないくらいにだんだん話がでっかくなってきたところで、最後にもっとでっかい話をして終わります。

奇しくも、天皇陛下が即位を宣明され、「国民の幸せと世界の平和」を願う誓いのお言葉を述べられた。

国民の幸せという意味では、国民は「安かった」に幸せを感じている場合ではないのである。そうしないと、月末に給料も「安かった」となるだけなのだから。

もっと「おいしかった」「カッコよかった」「たのしかった」「よかった」に幸せを感じたいものである。

(了)

もっと深く知りたい方はご参考にどうぞ:
https://diamond.jp/articles/-/19820

diamond.jp

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