月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「ワタシは差別をしない」という人間こそ、私は軽蔑する

今季からドジャースに移籍した大谷翔平選手はスーパースターである。ここに疑問の余地はない。彼がどれだけスゴイ野球選手なのか、いまさら説明する必要もないだろう。

シーズン開幕前のいま、日本では、彼のキャンプでの姿やコメントのひとつひとつが報じられ、結婚発表のときには大騒ぎとなった。

だから、我々は大谷サンが世界的に有名であると思い込んでしまうが、そうではない。

ここにモーガン・ウォレンというカントリー歌手がいる。
彼の3rdアルバム”One Thing at a Time”が全米のオールジャンルのビルボードチャートで19週連続1位となり、ガース・ブロックスが1991年に名盤”Ropin’ the Wind”で打ち立てた記録を抜いたと、ニューヨークタイムズ紙ですら報じている。

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ガース・ブルックスを知らないアメリカ白人はいないし、私からすれば「あの『ローピン・ザ・ウィンド』を抜いた」と耳にすれば、モーガン・ウォレンの『ワン・シング・アト・ア・タイム』がいかに好評なのか驚きとともに得心する。

でも、みなさんからしたら、なんのこっちゃわからないでしょ?

大谷サンもそうなのだ。北米においても野球に興味がない層からしたら知らないひとであるはずだ。

 

先般、アカデミー賞の授賞式において、助演男優賞を受賞したロバート・ダウニーJr.が、トロフィーを手渡す役割だったキー・ホイ・クアンを無視して、奪うようにそれを手にし、直後にティム・ロビンスとは握手をし、サム・ロックウェルとはフィストバンプをした。受賞者名が書かれた紙を渡そうとするクアンを二度も無視する様子すら映し出されている。

主演女優賞を受賞したエマ・ストーンも、ミシェル・ヨーからは受け取らず、わざわざジェニファー・ローレンスのところまで掴んだ像を引っぱってきて、彼女から受け取ったように見てとれる。

このふたりの白人俳優が、同業のアジア人をまるで眼中にないかのように振る舞ったことが、「アジア人差別」であるとして話題になった。

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ここから「なにを思ったらいいのだろう」と私は考えた。

ロバート・ダウニーJr.とエマ・ストーンを指さして「人種差別主義者!」と批判すればいいのだろうか。
彼らの出演する作品を今後ボイコットするべきなのだろうか。

まぁ、これがいまふうの、最も簡単かつ、浅はかな人間がやることだ。

そうじゃない。

私がまず思ったのは「ひとは差別をしてしまうものであることを知る」ということである。

ここで言う、「ひと」はひと事の「ひと」ではない。私であり、あなたであり、誰しものことだ。

毎度言う喩えだが、道の向こうから浅黒い肌の東南アジア系の女性三人が歩いてきたとしても、私は怖くない。しかし、黒人の男三人であったなら、恐怖を感じる。

いきなり掴まれて殴られないだろうか。カネを脅し取られないだろうか、と警戒する。

さっと距離を空けて歩くかもしれないが、実際にアメリカの街でそういう状況になったときには、私はなおさら意地を張って、彼らを避けずに堂々と歩いた。

怖かったからだ。怖かったからこそ、「ナメんじゃねえぞ」と意地を張って、避けずに歩いたのだ。

ちなみに、ブラジルのサルバドールという街で、同じようにして、黒人三人に取っ捕まって血塗れになるまで殴られた上、財布を盗られた赤城さん(仮名)という友人もいるので、ふつうに回避したほうがいい。

黒人はアメリカ全体の人口比率でいえば14%しかいないのに、ネットで流れてくる衝撃映像で、店を略奪したり罪のない誰かを殴ったりしているのはほとんど黒人だ。
だから、悪いけど、私は見知らぬ黒人は暴力的である、なにされるかわからないと、知らず知らずのうちに感じてしまう。そう、恐怖心であり、差別心だ。
私にはそれがあることを認める。

同様に、アメリカで暮らしたことがあるならわかるはずだが、アジア人(の、特に男性)は大人しくて小さくておどおどして見え、そりゃあナメられる。誰かの使用人というイメージが強いようだ。

ダウニーJr.とストーンのあの振る舞いには、悪いけど弁護の余地はない。

自身を大いに恥じてほしいと思うが、残念ながらハリウッドで生き残るようなひとらは歯牙にもかけないはずだ。
二日経ったいまもなんら謝罪のコメントはない。

それでも、私自身が万が一アカデミー賞を獲って、満場の客の前で立ち上がり、ステージへ上がったときに、トロフィーを差し出されて、視界のその先には親友のコタニさんが手を叩いて祝福してくれていたら……。
もしかしたら、ベトナム系だかスロバキア系だかわからないが、目の前のひとの手からトロフィーだけを引っ掴んで、まっすぐコタニさんのところへ歩いて抱擁を交わしてしまうかもしれない。

そういう可能性はなきにしもあらずだな、と思った。

なぜなら、繰り返すが、「オレもあんたも、思わず差別をしてしまう人間だから」だ。

そして、「ガース・ブルックスは知らないくせに、大谷サンは世界的に有名だと思い込むくらい、ひとは自己中心的」なものだからだ。

だって、日本社会を見れば明らかで、「外国人タレント」というひとたちも、ほとんどは白人か黒人で、ヒスパニック系や中東系、東南アジア系はほぼ見たことがない。白人はインテリという立場で扱われるし、黒人タレントはおもしろキャラとして仕事がくる。

差別とは言わないまでも、予断と偏見の上に成り立っているのである。
それに対して、あなたは違和感を持ったことはあるだろうか。

「ワタシは差別をしない」という人間こそ、私は軽蔑する。

「差別は反対」だし、「それが是正される世界を望む」けれど、「差別してしまう習性から自分だけは無関係である」と主張する浅はかな人間は信用できん。
神でもなければ、そんな無謬に生きられることはない。

私には差別心はある。あるからこそ、ひとりの人間が目の前にいたときに、人種や出身や容姿にかかわらず、意識して「そのひと」として扱おうと心掛けている。
そうしたいと望むけれど、常にうまくいくわけではない。

あなただってそうだろう。
ただ、そんなとき、相手の目を見て謝れる人間でありたい、とは思っている。

私が著名人だったら、すぐに週刊誌に抹殺されるような人物だ。

デカい黒人が来たら怖いし、かわいコちゃんから「抱いて」と言われれば抱いてしまうだろうし、「足のつかねえカネだから、お前にやるよ」と差し出されれば懐に入れちゃうし、酔っ払ってるときに「よお、コカインあるけど、やるか?」と誘われたらやっちゃうかもしれないし、船が沈みそうならコタニさんよりも先に見知らぬ子供を先に救命ボートに乗せるだろう。

私はそういう弱くて愚かでデタラメな人間だ。コタニさん、いっしょに死のう。

「メディア関係者に”書く力”を」

はじめまして。前田将多と申します。

最近はなぜかまとまった文章を書くことができなくて、書いては消して、書いては没にしての繰り返しなのだが、ここへきてまた困った本を読んでしまった。

直塚大成・田中泰延共著『「書く力」の教室』(SBクリエイティブ)という。

なお、タイトルの前には「1冊でゼロから達人になる」という、出版社らしいインチキくさい惹句がくっつけてあるが、ひとまずそれは措いて「書く力」とはなんぞやということを、私も改めて考えようと思った。

田中泰延さんとしては大ベストセラーとなった『読みたいことを、書けばいい。』(ダイヤモンド社)につづく、「書く」ことに関する本の第2弾ということになる。

そもそも、私はこの『読みたいことを……』を読んだあとに自分のブログすら書けなくなって苦しんだ。
「だれかがもう書いていないか」、「自分の内面を語っていないか」、「一次資料に当たったか」、「巨人の肩に乗れているか」、「感動が中心にあるか」などなど、この本に書いてある問いを自分に投げかけだすと、「こんなもんオレが書いても仕方ない」という気持ちになってしまうのだ。
それでもやっぱり自分のために「自分が読みたいことを書く」ことが、書くという行為が畢竟辿り着くところなのだけど、さて、新作『「書く力」の教室』は、私にも書く力を与えてはくれないだろうか。それとも、また苦しむのだろうか……。

結論から言うと、たくさんのページを折りながら読んだ。

390ページの厚みがあるが、短い時間でスッと読め、スッキリ理解できる本であった。

この本は、田中泰延さんを先生として、生徒となるライターもしくはライター志望者を選抜するプロジェクトからはじまった。

北条政子について書きなさい」というお題に対して、67名からの応募があり、選ばれたのが大学院生の直塚大成さんだったのである。

いまは私自身も直塚さんと知り合い、その人物像も把握しているから、ここでは言いにくいが、彼が選考を勝ち抜いて選ばれたこの北条政子コラムを読んだときは、なにがおもしろいのかイマイチわからなかった。ごめんね、直塚さん。
きっと直塚さん自身も、いまこれをこんなふうに紹介されるのは、とても恥ずかしいとは思うんだけど、載せざるを得ないから載せますね。

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私も大学院に行っていた(中退)し、通ってきた道だから、と上から目線みたいに感じられたら申し訳ないのだけど、いかにも小賢しい大学院生がチョケて書いた感じが見えたのである。
でも、だいたいちょっと筆に自信のある若者って、こういう感じなんですよ。

斜に構えがちだし、独りよがりだし、つまらないことをおもしろがって延々書くし、結論に困ったら、はじめに言ったギャグに立ち返るんですよ。オレがそうだもん。愚かな若者から成長できないまま50手前になったオレが。

だけど、きっと田中泰延さんおよび編集チームの方々は、彼の書いたものに「調べる力はある」し、「強引だけどひとまとまりの文章を書き切ることはできる」と踏んで、評価したのだと推察する。

これから生徒になるのだから、いきなり完璧なものを書かれても「お前に教えることはなにもない」で本にならないからね……。

まだ『「書く力」の教室』をお読みになっていない方に向けて言うと、第一章「なにを書くか」は、前述の『読みたいことを、書けばいい。』と併せて読むといいと思う。「感動のへそ」「一次資料に当たる」など重複する部分はあるが、そこはひろのぶさんが繰り返し述べたい点でもあるのだろう。

「静かな文章を心がける」というのは、私も文章術の本はたくさん読んできたはずだが、はじめて触れた警句で、そうか、そうしようと素直に思えた。

そして、第二章以降の「準備する」「調べる」「依頼する・会って話を聞く」は、「書く」だけでなく、書いて仕事をする上で大切なことを示唆してくれる。

それはなにもいわゆるライターのみでなく、テレビや新聞、ウェブメディアの記者、制作スタッフ、コピーライター、広報マンなども知っておくべき作法や心得がたくさん出てくる。

「書く力」というのは必ずしもライターの専売特許ではなく、コミュニケーションの基本であり極意であり、仕事をする上で必ずあなた自身を助ける能力なのだ。

よくSNSで「XXテレビの取材がきて、こんなに酷かった!」とか「XXの記者がこんなに失礼だった!」などと炎上しているが、この本をちゃんと読んで実践していれば起こるはずのない事例だ。

〈まだ実際に話も聞いていないうちから、「こんな風にまとめよう」という考えで臨んではいけません〉
〈相手を決めつけるような聞き方はNG〉
〈質問のフリをした「自己アピール」は禁物〉
〈「〇〇さんにとって、××とは何ですか?」は失礼〉

いくつか例を挙げただけで、新聞社やテレビの記者、インタビュアーのみなさん、メディア関係者全員! 思い当たるフシがあるはずである。
ぜひ、この本を読んでください。

本書の中で「素直に書くこと」が強調してある。

一年にわたり田中さんの教えを素直に聞いて、懸命に調べて、素直に書いた直塚さんの「納豆と豆腐」についての終盤のコラムは、拍手モノである。

ひとがなにかを学んで成長する過程がまざまざと記してあり、これは『ベスト・キッド』を観るようであった。
もともと力のある直塚さんが、よい師に出会って、はっきりと実力を伸ばす姿は、ただの読者である私の目にも爽快である。

それが一番カンタンなようであり、実はかなりむつかしい、「静かな文章を」「素直に書く」こと。私も大変勉強になった……。

文章については毒を好んで、「コブラ会」みたいな私であっても、ここは素直に敬服した次第である。

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「たくさん聴いたなぁ、トビー・キース」

最近は亡くなったひとのことばかり書いているようで気が滅入るが、それでも書いておこう。
Toby Keithというカントリー歌手が2024年2月5日(アメリカ時間)に胃がんとのたたいかいを終えてこの世を去った。

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日本では知っているひとはあまり多くないと思うんだけど、いいカントリー歌手であり、ソングライターだったんだ。

アメリカでは数々の大御所たちが追悼の言葉を述べていた。

 ジ・オークリッジ・ボーイズ

シュナイヤ・トゥウェイン

クリント・イーストウッド

マシュー・マコノヒー 

ドリー・パートン

ルーク・コムズ

ティム・マグロウ

 

昨日、トビー・キースというカントリー歌手が胃がんのため62才で亡くなりました。
90年代から男らしいバリトンヴォイスで活躍しまして、私にも好きな曲がいくつもあります。知らなかったんだけど、テイラー・スウィフトを見出した(自分のレーベルに最初に契約を与えた)人でもあるそうな。
しかし、彼は00年代に入って以降(911からアフガン戦争)極右な発言と”Red, White and Blue”という曲に代表される愛国的なメッセージの歌を発表し、軍の慰問にも出かけたり、左派であるディクシー・チックス(現チックス)のナタリー・メインズとひと悶着あったり、一部のひとたちからは疎まれます。

スウィフトともおそらく政治的主張の齟齬から疎遠になっていると思われます。米国の主流セレブ界は左翼的なものですから。

人に対して追悼の言葉を期待/強制するほど野暮でありたくありませんが、思想のちがいも恩讐も超えて、彼の功績を讃えてほしいとは思います。

私が好きだったトビー・キースの歌は、

“Should’ve Been a Cowboy”
“A Little Less Talk and a Lot More Action”
“Wish I Didn’t Know”
“My List”
“Does That Blue Moon Ever Shine On You”
などたくさんあるのだけど、ひとつ選ばなくてはならないなら、”Me Too”である。

そんなわけで、恒例の歌詞の翻訳です。
カントリーはいいよ。トビー・キースにも長い年月、いい歌をたくさん聴かせてもらって、お世話になりました。

ありがとう。

“Me Too”  Written by Toby Keith and Chuck Cannon

If I send you roses for no reason at all
If out of the blue, I stop and give you a call
Once in a while, it’s breakfast in bed
And then pull the covers back up over our head

もし僕が理由もなく きみにバラの花を贈ったり
もし突然クルマを停めて きみに電話したり
たまにベッドで朝食をとって
それから毛布を引っぱって またふたりの頭にかぶせたり

If I call in sick, just to stay home with you
I want you to know why I do what I do
It’s my way of saying what I can’t express
But I want you to know, girl, I’m doing my best

もし僕が具合が悪いと言って きみといっしょに家にいる口実にしたら
なぜそんなことするのかわかってほしい
これは表現できないことの 僕なりの伝え方なんだ
でも僕が一生懸命やろうとしていることはわかってほしい

Oh I’m just a man. That’s the way I was made.
I’m not too good at saying what you need me to say.
But It’s always right there on the tip of my tongue.
It might go unsaid, but it won’t go undone.
So when those three little words come so easy to you,
I hope you know what I mean, when I say… Me too.

僕はただの男で そう生まれてしまったんだ
僕はきみが必要としている言葉を うまく言えないんだ
でもそれはいつもすぐそこまで出てる 舌の先まで
言わないままにすることはあっても しないままってわけじゃないんだ
だからあの短い三語(I Love You)がきみにとって自然に出るとき
僕はこう言うから 意味をわかってほしい

「僕もだよ」

If you should wake up and catch me watching you sleep,
And I break the silence by kissing your cheek.
If I whisper something that you don’t understand,
Don’t make me repeat it. I don’t know if I can.

もしきみが目覚めて きみを見つめる僕に気づいて
それから僕がきみの頬にキスをして 静けさを壊すなら
もし僕がよくわからないことを きみにささやくなら
僕にそれを繰り返させないで それはできるかわからないよ

Oh I’m just a man. That’s the way I was made.
I’m not too good at saying what you need me to say.

But It’s always right there on the tip of my tongue.
It might go unsaid, but it won’t go undone.
So when those three little words come so easy to you,
I hope you know what I mean, when I say… Me too.

僕はただの男で そう生まれてしまったんだ
僕はきみが必要としている言葉を うまく言えないんだ
でもそれはいつもすぐそこまで出てる 舌の先まで
言わないままにすることはあっても しないままってわけじゃないんだ
だからきみにとってあの短い三語(I Love You)が自然に出るとき
僕はこう言うから 意味をわかってほしい

「僕もだよ」

(対訳:前田将多)

 

 

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「おかんの白子のり」

私の母親はいくつか病気をしたあとに認知症が進んでひとりで暮らすことがままならなくなり、この春以来グループホームに入っている。

認知症というのは(人にもよるのだろうが)ゆっくり進んでいくようで、はじめは私たち家族にもわからなかった。
ここ何年も「なーんか最近、おかんが素直じゃない」、「しゃべってると腹が立つ」ということが増えてきていた。

七年前に弟が妻と幼い娘を連れてアメリカから帰国したときに
「あの子(娘)は天然パーマで野生児みたいでかわいくない」
などと言ったらしい。

天然パーマの遺伝子がどこから来たのかも考えずによく言うわ! あんたや!

おかんが自動車を運転していてもやたら速度が遅くて、まわりのクルマにも迷惑だし、私もイライラして
「もうちょっとさっさと行ってよ」
と急かすと、
「うるさいわね! 私のペースで行ってるの!」
などと怒るので、瞬間湯沸かし器の私はなお怒って怒鳴る。

そんなこんながよく起きて、私はおかんとはなるべく話したくないと思っていた。
東京への出張があっても、おかんと会いたくないためわざわざホテルに泊まったこともある。

いまから思えば、あれは認知症がすでにはじまっていたのだ。認知症の初期段階は、発言や行動に他者への気遣いが希薄になっていくのだと思う。

そういえば、生前のおばあちゃん(母の母)がアルツハイマーになったときも、おかんがやたらとおばあちゃんに腹を立てて厳しい言葉をぶつけるので、当時十代だった私は「あんなにおばあちゃんを叱ることないのに」とおかんに指摘したことがあった。
同じことを、いま私が繰り返してしまったのだ。

そのうちに言動が正常ではないことが誰の目にも明らかになって、料理ができなくなるとか、オレオレ詐欺に騙されるとか、階段から落ちるとかとかの経緯があって、兄がグループホームを迅速に手配してくれた。

入居して半年以上になるが、いつ訪ねて行っても、誰が会いに行っても
「ごはんがおいしくて、ここは気に入っている。でも量が少ないのでお腹がすいちゃうのよね」
と話す。
基本的には機嫌よくやっているようだし、体の調子もよくなった。

とにかく食欲だけは旺盛だ。入居前にも家族が「これはお昼ごはん。こっちは晩ごはん」とお弁当を用意しても、昼間にふたつとも食べてしまうことがあったし、食べても食べても「ごはんまだ?」という典型的なボケ老人みたいな要求をしていた。

 

先日、私は東京に行った。ヒマナイヌスタジオ高円寺からのトーク配信のためだ。

いただいたご相談の中には、老いた親の介護に関するものが複数あった。

ゲストの立川談笑師匠ともひとしきりそんな話をして、私は「明日、施設にいる母親に会いに行くのですけど、せめて機嫌よく行ってきますわ」というようなことを言った。

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その晩はおかんのいない実家に泊まって、翌朝、仲良しの隣家の方とお話ししたところ、信用金庫からおかん宛にお歳暮が届いたそうで、それを預かってくれていた。
私はそれを受け取った。
箱には「白子のり」と書いてある。

いまから私はおかんのグループホームを訪問するのだが、そこは食べ物の持ち込みが不可なので、白子のりは私がもらうことにした。
その二日前がおかんの74回目の誕生日だった(考えてみたらヤザワと同い年。彼我の差に愕然とする……)から、花束を用意して、私はおかんに会いに行った。

おかんは、会うなりまた同じことを言う。
「ここはごはんはおいしいんだけど、量が少なくてお腹が減っちゃうの」

またメシの話かw と思いながら、私は話を聞く。

「あたし、ケーキが食べたいから喫茶店に連れて行って」
「いいよ。あとで行こう」

おかんはしゃべり方も言うことも子供みたいになってしまって、私は親戚の子供を外に連れ出すような気分になる。

「そうそう、信用金庫から白子のりが届いてたんだけど、おかんは食べられないだろうから、僕がもらっていくね?」

当然、「ああ、そうして」という答えを予期しつつ、なにげなく私は伝えた。

すると、おかんは
「なんで勝手に持って行くのよ! ひとのものを!」
と、昂然と抵抗した。

「いや、白子のりをもらっても家にいないんだから食べられないでしょ」
「今度xx日に往診で帰るんだからそのときに家にいるの!」
「往診の間に、白子のり一缶をまるまる食べるわけないだろう!」

しかも、あとで兄に確認したところ、往診はグループホームで実施されるので、わざわざ家には帰らない。

おかんがここまで執着するとは思わなかったので、私は困った。おかんはさらに言い募る。

「ひとのものを黙って持って行ったらだめでしょう! 私に届いたものじゃないの」
「黙って持ってってねえよw だから、こうして『もらうね』って言ってるだろ」
「ダメよ。あんた、それは泥棒よ」

おかんはあくまでも白子のりをあきらめなかった。

「わかった、わかった。じゃあ、言います。いま言います。『白子のりを僕にください』。これでいい?」

おかんは一瞬口ごもった。

「……じゃあ、……いいわよ。あげるわよ」

私はようやく白子のりをゲットした。

おかんと散歩に出て、喫茶店を探す。グーグルすると徒歩5分のところに一軒あったので、そこを目指すことにした。
着いてみるとそこはカフェはカフェなのだが、老人たちの憩いの場として区の補助を受けて運営されている場所だった。

「ごめんください。ごめんくださ~い!」と何度か呼ぶと、体の不自由なおじいさんがゆっくりゆっくり出てきた。

「ここはケーキとか、お菓子はありますか?」と私が尋ねると、おじいさんはもじもじと照れくさそうに、「あるにはあるけど、いつか誰かにもらったものを冷凍したケーキなので、おいしいかどうかはわからない。そんなことなのでお代には含めませんが、それでよければどうぞ」という意味合いのことを口にした。

それでいいっす。食べるのはオレじゃないけどw

民家の名残というか、民家のままカフェ使いされている食卓に座ると、おかんは紅茶を頼んだ。おじいさんにあれこれ作らせるのは申し訳ない感じだったので、僕も同じものにした。

15分くらい待った。

たまにキッチンのほうを覗くと、腰の曲がったおじいさんが、腰を曲げたまま微動だにしていなくて不安になるのだが、よく見ているとわずかに動いている。

さすがのおかんも「遅いわね」とか言い出すので、私はおじいさんに向かって「なにかお手伝いしましょうか?」と問いかけてみる。しかし、彼は「いえ、大丈夫です」と固辞する。

でも、なにかにせっせと取り組んでいる様子はない。
あとで思ったことだが、おじいさんはおそらく、ケーキが解凍するのを待っていたのだろう。

そうこうして、キッチンの台にティーカップがふたつ並んだので、私はおじいさんに「私が運びますよ」と声をかけて、お盆を運んだ。
ケーキは半分凍っていた感じだが、おかんは「うんうん」と言って食べた。

おじいさんが、かりんとうとゆで卵を2セット持ってきた。
「これは紅茶についていますので……。ケーキはお代には含みませんから」と、また同じことを言った。

おかんはさっそく殻を割って、ゆで卵を食べた。私はここに来る前に大きなランチを食べたので、卵はいらない。
おじいさんに「僕はいりません」と返そうとすると、おかんが
「あたしが食べるわよ」
とそれを奪った。

さっきの白子のりの一件はなんだったのだ。

「ケーキ食べてから、ゆで卵2個も食べるの!?」と、私が驚くと、おかんは「あとで食べる」と言って卵をフリースのポケットにしまった。
「塩は? 部屋にあるの?」
「塩はなくてもいい」

私だったら、あんなモソモソするものを塩なしには食べられない。

 

茶店からホームへの帰り道に、おかんが「ハンドクリームがほしい。寒くなって、手がカサカサするの」と言うからコンビニに寄って、ハンドクリームを選ばせた。
「ほかには?」と訊くと、「飴もほしい。どれにしようかしら……」ということで一袋買った。ほんと、子供のようなのだ。

部屋に戻って、洗面台を見ると、ハンドクリームがあった。しかもちがう銘柄が2つ。

「ハンドクリーム、あるじゃん!」
「これはちがうからいいの」

おかんがいいなら、いい。

おかんは、私が買った飴の袋を開けると、
「あんた、一個あげるわ」
と私に手渡してきた。

白子のりもそれくらい気前よくほしかった。いや、べつにほしいわけではなかったんだ。

 

後日、兄経由で、施設から「食べ物を持ち込むな」とお叱りの連絡を受けた。
ゆで卵がバレたのだろう。知らんがな。

「追悼 チバユウスケさん」

チバユウスケ氏が亡くなって、かなしい。

2023年はロクなことがなかった一年だが、年末にこれか、とガックリ膝から崩れ落ちるような喪失感だ。訃報から十数日が経つが、しばしばチバユウスケのことを考えてしまう。

私はただの一ファンで、もちろん個人的な面識はない。
The Birthdayが好きだったし、チバユウスケを尊敬していた。
Thee Michelle Gun Elephant(以下TMGE)も悪くないが、彼らがデビューしてミュージックシーンを衝撃的に駆け抜けた90年代後半、私はアメリカにいた。だから、聴きはじめたのはTMGEの後期からだった。正確にいうと「GT400」(2000年リリース)という曲だと思う。

私は音楽的なことはほとんどなにもわからないが、チバユウスケの書く詞と、その割れた声に心酔していた。

TMGEの楽曲は「ただただカッコよくてメッセージは希薄」という印象がある。

「バードメン」
「スモーキン・ビリー」
リボルバー・ジャンキーズ」
「ロデオ タンデム ビート スペクター」(「暴かれた世界」)
「ミッドナイト・クラクション・ベイビー」
「デッドマンズ・ギャラクシー・ナイト」
などなど、カッコいいが意味は不明という言葉の組み合わせが頻出する。
おそらく、カッコいいことのみを追い求めたバンドだったのだと思う。これは批判ではなく、賛辞としてそう思う。

そして、TMGE解散後、チバユウスケはROSSOなどのユニットを経て、The Birthdayとして再始動。

その1stアルバムから度肝を抜かれた。
TMGEの頃はやや甲高さのあったチバの声はより太く、深くなり、グラインダーで削られた鉄から飛び散る火花の束のように、スピーカーから、ステージから、熱く降り注いだ。そして散弾銃のように無数の穴を空間のそこら中にぶち抜いた。

若い衝動で疾走したのがTMGEなら、The Birthdayは成熟した大人のロックだった。大人と言っても、落ち着いたとか、スロウでメロウなとかではない。
ロックンロールの真ん中にがっしりと軸足を置いて、現代最高のロックを聴かせつづける、ブレないバンドだった。

私見だが、日本のロックミュージシャンと呼ばれるひとの多くがロックな声を持っていない。
ギターはロック、格好はロック、振る舞いはロック。しかし、声がそうではないのだ。

チバユウスケの声は唯一無二で、誰にもマネできないし、天性のロックシンガーのものだった。

声だけでなく、あの狼のような眼、あの悪魔のようなやや尖った鼻と顎(私の女友達は加えて「齧りつきたい首筋」と表現した)、あの神々しい立ち姿は、後天的に修得することは不可能で、持って生まれたものがないとなれない、ロックの権化といえる存在だった。

昨今は、ひとつのバンドを聴いていると「これもおすすめ」とコンピューターが提案してくるが、そのいずれもが到底適わなかった。私を満足させることはできなかった。

The Birthdayになった詩人チバユウスケの世界は、どこか「中二病」的な青臭さがあったTMGEのころから、一段階も二段階も円熟した。
相変わらずの、彼にしか書けない、わけのわからなさが、私は大好きだった。

お気に入りのフレーズは数え切れない。

カサブランカ・タンゴバー お気に入りのアイスピックで 太もも刺されたぜ 痛てえのなんの 酔いもさめた〉(MEXICO EAGLE MUSTARD)

〈ねえ ストリッパー あのヘリコプターを 撃ち落としたら 迎えに行くから〉(STRIPPER)

〈鳥の頭を持っている メシアは簡単に言った 今ある風船をぜんぶ 落とせば済むことだろって〉(ROKA)

〈ミミズばれのハートひとつ いつ死んでも構わないけど ベッドの下 一万回履いたジーパンまだ履くつもり〉(The Outlaw’s Greendays)

〈超人的なヴァイオリニストがいて 書けもしない五線譜の前で 疑問符だらけの 魅惑のメロディー〉(ディグゼロ)

〈壊れそうな夜 ロータリーに倒れてた 血と鉄混じった どこか少し懐かしい味〉(涙がこぼれそう)

〈生まれかわったら なんになりたい? たまにあの娘は聞く 俺はでまかせに 人間と魚にはなりたくはないね〉(マディ・キャット・ブルース)

こんな歌詞はキャフェインとアルコホルとニコティンのほかにもいろんな成分を摂取しないと書けないのではないかと、私なんかは思っていた。

しかしそれらよりもなによりも、チバがこの世界をどう見ているか、どんなふうに見えてほしいと願っているかが、その詞から垣間見える作品が稀にあり、私にはそれが格別にうれしかった。

荒々しくて、不愛想で、河童が嫌いで(笑)、暗くて乾いた、冷然とした世界ばかりを描いてきたように見えるチバユウスケが、ごくたまにぽっとあたたかいものをこちらに投げてよこす。

5曲だけ紹介しよう。

〈彼女は言うのさ この美しい世界が 汚れる前に
どこかちがう星さがして 引っ越したいって 
そこではふたりの子供を育てて いっしょに花を植えるの
きれいさ すべてが 輝いてる 
そんな日には 争いも黙るだろう 太陽が横切る前に〉(SHINE)

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「SHINE」はThe Birthdayがはじめて披露したバラードで、残念ながらミュージックビデオはないし、ライブでもそんな多く演奏されたわけではないと思う。しかし、私はあのチバの声で、こんなにやさしい歌が歌えるのかと心を打たれた15年前のことをよく覚えている。

 

〈とんでもない歌が鳴り響く予感がする そんな朝が来て俺
世界中に叫べよ I LOVE YOUは最強 愛し合う姿はキレイ〉(くそったれの世界)

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The Birthdayには珍しく、愛を高らかに謳った一曲。
チバユウスケは「かきくけこ」を「きゃききゅけきょ」と発音するので、「I LOVE YOUは最高」と言ってるのかと思ったら「最強」だった。そうだな、最高ではアホみたいだが、最強ならわかる。
愛は世界に向けて、堤防にも砲台にも松明にもなる。

 

〈あのレモンかじってた 真夜中青かった 世界中がブルーに染まってた
きれいだと思った このまま全てが 真っ青に沈んで海になる〉(レモン)

youtu.be

ここでは、レモンを素直に解釈するなら、彼らが駆け抜けた青春、すなわちTMGEのころの記憶ではないかと思う。悔恨とか挫折とか、あったと思う。やりたくてもできないこともあったはずだ。
私はどこかのライブ会場で、新曲だったこの歌を聴いて、涙が出たことがあった。

いま聴くと、〈愛してる今でもまだ お前が生まれてよかった〉というのは、いつかの女を指すのではなく、早逝した盟友のアベフトシTMGEのギタリスト)のことではないかと思えてきて、また泣ける。

 

〈明日はきっと青空だって お前の未来はきっと青空だって 言ってやるよ〉

〉(青空)

youtu.be

淡々と哀しさが押し寄せるような導入部から、希望あふれるサビへの転換が爽快である。これをライブで聴いたらどんな感情が胸に去来するかと、想像しながら聴いてほしい。

 

〈誰かが泣いてたら 抱きしめよう それだけでいい
誰かが笑ってたら 肩を組もう それだけでいい
誰かが倒れたら 起こせばいい それだけでいい
誰かが立ったなら ささえればいい それだけでいい〉(誰かが)

youtu.be

元々はパフィーのためにチバが書いた歌を、The Birthdayが後年にセルフカバーしたものだ。当初他人のために書いたからこそ、チバユウスケの人間としてのやさしさが、まっすぐに表わされたもののように思える。

TMGEが1998年のフジロックフェスティバルに出演した際、すし詰めの観客が前へ前へと押し寄せ、失神者が続出した有名な事案があった。そのときに演奏を中断させられ、すこし不機嫌な素振りを見せたチバがひと息ついてから
「倒れてるやつは起こしてやろうぜ」
と呼びかけた一幕があった。それを彷彿させる。

上記のサビの歌詞は、ほんとうに「それだけでいい」と思う。

〈見えたね 行くべきとこ ほんとは最初から わかってた
迷うのは あたりまえさ〉

この一節には、おそらくこれを40才前後で書いたであろうチバユウスケ自身の、人生への人知れぬ迷いや決意がにじむ。人間ひとりの弱さや寄る辺なさを知る者にしか書けないはずだ。

 

かくして、チバユウスケはロックスターを演じきった。

その早すぎる去り方も含めて鮮烈で強烈で、ファンの心を激しく揺さぶって、いつまでも切なく残るやさしさを置いていってくれた。

ありがとうございました。ボタンを押せば、またチバユウスケの声が聴けるのが唯一の救いだけど、またチケットを持って、あなたの音楽を全身で浴びたかった。

Rest in peace in Sabrina Heaven.

「海軍の町・呉にて、オレは猛省した」

僕は仲間たちと「JR環状線一周飲み会」というのをここ何年もつづけている。
一周19駅ある大阪の環状線を毎月ひと駅飲み歩くという遊びだ。

ルールは「ネット検索をせずに、足と勘で店を探す」、「チェーン店には入らず、地元のひとが来るような小さな店を選ぶ」ということだけ。

去年、吉岡さんが買った車を新潟まで引き取りに行くという用事にかこつけて、上越市高田まで四人で行って、ひと晩飲み歩いたのが(我々に)好評だったので、今年もどこかへスピンオフしようということになった。

monthly-shota.hatenablog.com

候補地は、淡路島とか高知県とかいくつか挙がったが、「大和ミュージアムに行こうよ」ということで広島県呉市に決まった。

そんなわけで、おっさん四人の呉旅です。

今回は二泊になる。
金曜の晩に大阪を吉岡さんのトヨタ・ランドクルーザーで出発して、深夜になって呉に到着。

呉の宿はなんだか込んでいて、僕だけほかの三人とは別のホテルを予約してあった。結局、六時間くらいかかったので、チェックインしたときには深夜〇時を越えていた。

それなのに、男たちは「一杯だけでも飲みに行きたい」という。
いま、ひとのせいにしたけど、行けるなら僕も行きたい。

ここは(前夜祭であり、無駄にする時間はなかったので)検索したけど、一軒オーセンティックなBARに目星をつけた。

「オーナーがいれば入れてくれるだろう。雇われの店長なら断られる」と予想して扉を開けたが、その通りだった。若いバーテンダーは「もう閉店なので」と言った。

つぎにビルの二階のロックBARを訪ねて階段を上がった。着いてみるとなんだか音楽がガンガンかかっていてうるさそうだ。
これは僕らのタイプではないな、と判断して振り返るとその向かいにいい感じのおしゃれなカフェバーがある。その名も「CALM BAR」という。
「ここだ」
我々の嗅覚が反応した。オーナーらしき中年の男性が快く迎えてくれた。

いいBARだった。

もう夜も深いので、我々は大騒ぎすることなく静かに飲んで、初日を気持ちよく締めくくった。

 

翌日は大和ミュージアムへ。ここから二日間、一向は海軍浸けとなった。

呉は映画『この世界の片隅に』の舞台であった通り、海軍の町である。
軍港があって、三菱重工IHI(旧石川島播磨重工業)など軍需産業の工場がある。

そのほか映画作品でいうと『孤狼の血』のロケ地であったり、『仁義なき戦い』のモデル地であったりするのでヤクザもかつては多かったのだろう(僕たちがその晩、夜の町をほっつき歩いた限りにおいては怖いひとはいなかった)。

大和ミュージアムは常設展と企画展「日本海軍と航空母艦」ともに内容盛りだくさんで、大変満足した。

yamato-museum.com

 

その通り向かいに通称「てつのくじら」と呼ばれる海上自衛隊呉史料館があり、そこでは潜水艦に関する展示をめぐったあと、実際の潜水艦の内部の見学ができる。

高田帽子店にも立ち寄った。この店はなかなかのものだった。

大正二年(1913年)創業。海軍御用達の軍帽を製造販売している。

士官がかぶるような帽子は、僕が買ってもかぶるところがないので、作業帽(略帽)みたいなのがあれば……と思ったが、海軍(海上自衛隊)の帽子は正式なものなので、隊員が身分証明書を提示しないと買えないそうだ。

山本五十六元帥(当時中将)の帽子も製造したということで、元帥からの令状の絵葉書が店に飾ってあった。

非常に入りづらい感じの小さな店なのだが、店主の奥様がお話しの上手な方で、いろいろ聞かせてもらってたのしい時間を過ごした。そして、いろいろ買った。

その晩は、我々は県内から合流してくれた唐木さんを迎えてスピンオフ飲み会を開始した。

以降は、関さんのツイートをご参照ください。

この一連のスレッドをご覧になれば、我々のしょーもなくもたのしい町歩きの様子はだいたいおわかりいただける。

 

唐木さんと別れて翌日、僕たちは午前中だけ遊んで、大阪へ帰るつもりだった。

近くの港に、砕氷船「しらせ」が南極から寄港していて一般公開されているという情報をもとに、クルマでそこへ向かってみた。ところが、何キロも手前から大渋滞で動かない。

それほどの人気だとはまったく知らなかった。

埒が明かないので、僕たちは急遽予定変更して、橋を渡って江田島へ渡った。それも決めたわけではなくて、ただ橋が出てきて、標識にそう書いてあるから「行ってみる?」くらいの軽い気持ちでハンドルを切ったのだ。

海上自衛隊士官候補生学校(旧海軍兵学校)があるというので、様子を見に行った。すると門のあたりに「校内見学」の案内看板があった。

守衛の若い隊員に、見学できるのか尋ねてみると、
「はい、『ひとさんまるまる』にこちらに来ていただければ」
と言うではないか。

午後一時を「ひとさんまるまる」と呼ぶその言い方に我々はハートを撃ち抜かれ、時計を見ると現在正午過ぎ。よし、ぜひ参加しようということになった。

ここで少しだけ、日本の海軍の歩みについて予備知識を。

江戸末期にいきなり黒船が来て開国を迫られたと思っている方もいるだろうけど、ちがう。

それ以前に十年間くらい、オランダ、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアは船を送ってきて開国を迫っていた。ペリー艦隊の威圧についに屈して開国となった。

が、そこから長きに亘る、国を護る闘いがはじまるのである。欧米の植民地になるのか、独立を死守するのか。当時は切実な国家的危機にあった。

幕府はオランダの助けを借りて長崎に海軍伝習所を創設する。航海術、造船術、砲術、測量術、算術、機関学を学ぶ学校だ。
そこには勝海舟や、のちに最後まで新政府に抵抗して北海道の五稜郭に立て籠る榎本武揚もいた。

財政難などの理由で長崎の伝習所が閉鎖され、築地に移るが大政奉還により消滅。紆余曲折を経て、1869年、新政府が築地に海軍操練所を創った。明治三年(1870年)、海軍兵学校と改称され、イギリス流の海軍教育が行われた。

1888年に、誘惑も多い東京を離れ、勉学と訓練に集中できるよう江田島に移設された。

江田島海軍兵学校は、英国のダートマス、米国のアナポリスと並ぶ、世界三大兵学校と称されたのである。
庁舎の赤レンガは一個一個油紙に包まれてイギリスから輸入されたものだそうで、1893年に竣工された。

 

とにかく、そんな由緒ある、エリートのための学校なのだ。
ちなみに「えだじま」ではなく「えたじま」だそうだ。

見学ツアーは案内役のおばさまについて歩くが、途中で白い制服に身を包んだ幹部候補生が引き継ぐ場面があり、彼のお話を拝聴した。

おそらく四〇代後半か五〇過ぎくらいのその候補生(つまり僕とそう変わらない)の存在感に、僕は圧倒された。

基本的には若い候補生が来る学校だが、彼のように「おじさん候補生」もいる。

「おじさん候補生はなんでここに来るのですか」
と、社会科見学に来た小学生みたいな質問をしてみたところ、
「ある程度昇進すると上官から『試験を受けてみろ』と言われます。それは断れませんので(笑)、受験して受かるとここに四カ月ですが(新入隊員は一年間)入学することになります」
と教えてもらった。

その受け答えがものすごく堂々としていて、上官への敬意と自身の誇りが、諧謔の中にも滲み出ていて、カッコよかったのだ。

ただの体育会系バカでも、頭でっかちでもなく、知力も体力も備わっていないと務まらないはずだ。

エリートが入る学校だけに、訓育はかなり厳しいもののようだ。登山、遠泳、ボート漕ぎなどの大会がつぎつぎにあって、常に競争させられ、順位が示される。たった一年とはいえ、卒業式のあとそのまま艦船に乗って遠洋航海に出て、半年から八カ月ほどかけて各友好国の海軍を表敬訪問するという。だから、実質二年弱の期間となる。

ふと目を転じれば、猛暑の中、作業服を着た生徒たちが砂利敷きの広場の小石の下にある雑草を丁寧に探して抜いている。それを白い制服の教官が真っすぐに立って見守る。そうやって、この広大な敷地はチリひとつ落ちていない美しさを保っている。

正直、僕はこれまでの自分の生き方を反省した。

僕は、権威をバカにし、団体行動を拒絶し、ルールを軽視して生きてきた。そういういい加減な不良がカッコいいと思ってきたフシがある。

目上の人間の言うことに従わず、一丁前に文句だけは言ってきた。
結果、組織からドロップアウトしたが、いまでも内心どこかで、荒野の用心棒を気取っている部分がある。

オレは間違っていた。こんなやつはなんの役にも立たない。自己満足に生きているだけだ。

小さな不満を飲み下して、大きな義務に従う人間のうつくしさに適うはずがない。

五〇手前になって、僕という人間が治るわけもないが、僕は本当に打ちのめされた気分になったのである。猛省である。

ここが海軍兵学校であったときの最後の生徒であった徳川宗英氏がものした『江田島海軍兵学校 世界最高の教育機関』(角川新書 2015年)に、以下のような一文があった。

〈真に権威に服従できる人になってこそ、はじめて部下を統率することもできるのである〉

きっとその通りなのだろう。僕にはもはやわからない世界だが、そうなのだろう。

 

見学コースの最後に、教育参考館という資料館があった。ここは東郷平八郎司令長官の遺髪が納められているような神聖な場所でもあるので、一礼して建物の中に入る。
江戸後期から日清日露戦争、そして太平洋戦争を戦った海軍時代のお歴々の記録や、兵士の遺品や遺書などが展示されている。

僕はその中のひとりの軍人に注目した。佐久間勉大尉という。

短く刈った頭髪に切れ長の目で、凛々しく微笑む写真があった。僕の目にも惚れ惚れするような男っぷりなのである。

佐久間大尉は1879年福井県の生まれだ。中学生のときに、小浜港に入港した巡洋艦「橋立」の片岡八郎艦長の講演を聞いて、影響を受け、海軍兵学校に入学した。

卒業して少尉となり、日露戦争にも参加している。中尉に昇進し、主に機雷の除去に従事した。

その後、潜水艇乗りになる(当時は潜水艦とは呼ばず、艇だった)が、潜水艇というのは1900年にアメリカ海軍で正式採用されたばかりの、まだ新しい技術だった。日露戦争では、日本軍は「ロシアは潜水艇を持っているかもしれない」と疑心暗鬼になったが、ロシアでは実用化されていなかったことが戦後になってわかる。

佐久間大尉は国産第一号の第六潜水艇の艇長となるが、海軍に九隻あった中でも第六は耐波性が弱く、小型で、操縦が難しかった。

 

1910年4月15日、訓練中にその事故は起きた。

13名の乗組員とともに、母艦である歴山丸を離れて沖へ向かった佐久間艇長の第六潜水艇は、潜航したまま再び海面に上がってくることはなかった。

事故の原因は通風筒から海水が入った際に、開閉弁を閉めるために引いたチェーンが切れ、大量の海水が流入し、浮力を得られなくなったことだ。

ガソリンを噴出して浮き上がろうと試みるも管に裂孔が生じて艇内にガスが発生した。

沈没した艇内にて佐久間艇長は絶命する前に、薄れゆく酸素の中、遺書を残した。

事故を起こしたことを謝罪するとともに、この事故に萎縮することなく海軍が今後も潜水艦研究に励むことを望んでいる。

一部を抜粋する。

〈佐久間艇長遺言

小官ノ不注意ニヨリ 陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス、誠ニ申訳無シ、
サレド艇員一同、死ニ至ルマデ 皆ヨクソノ職ヲ守リ 沈着ニ事ヲ処セリ、
我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃レシト雖モ 唯々遺憾トスル所ハ 天下ノ士ハ 之ヲ誤リ以テ
将来潜水艇ノ発展ニ 打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ 憂フルニアリ、
希クハ 諸君益々ニ 勉励以テ此ノ誤解ナク 
将来潜水艇ノ発展研究ニ 全力ヲ尽クサレン事ヲ
サスレバ我レ等一同モ 遺憾トスル所ナシ〉

 

この文につづいて佐久間大尉は、事故の原因について詳細に説明し、状況を報告している。

そして〈呼吸非常ニクルシイ〉中、部下たちの働きを称え、その遺族が生活に困らないよう天皇や上官たちに願った。

 

潜水艇員士卒ハ 抜群中ノ抜群者ヨリ採用スルヲ要ス、
カカルトキニ困ル故、幸ニ本艇員ハ皆ヨク其職ヲ盡クセリ、満足ニ思フ〉

 

〈謹ンデ 陛下ニ曰ス、
我部下ノ遺族ヲシテ 窮スルモノ無カラシメ給ワラン事ヲ、
我ガ念頭ニ懸ルモノ之アルノミ〉

 

佐久間勉大尉、32才である。

隊員は各自の持ち場についたまま死亡していた。最後まで事態改善に努めたことが明瞭にわかる姿だった。

外国でも潜水艇の事故はあったが、酸素を求めて全員がハッチ付近に積み重なるようにして絶命していたり、殴り合って争った形跡があったりしたという。

第六潜水艇の事故と、佐久間大尉の遺書は、国内外で大きなニュースとなり、英米独仏といった諸外国から弔電が届けられ、わずか五年前に敵国だったロシアからも称賛の言葉が贈られた。

夏目漱石は東京朝日新聞に佐久間艇長に関するエッセイを書き、与謝野晶子はこの事故を十を超える歌に詠んだ。
それくらい世の中に大きな衝撃を残した出来事だったようだ。

いま、百年以上が経って、僕もこの件についてはじめて知ったし、多くの日本人が軍隊にまつわることはすべて悪のように教育されて育ってしまったことは大きな損失であるように思う。軍人というのは、日本以外のどの先進国でも尊敬の対象だ。

佐久間大尉のような生き方と死に方をした人物を育てた海軍の偉大さに畏れ入るばかりである。

「我ハ常ニ家ヲ出ズレバ 死ヲ期ス」と遺した佐久間大尉とおなじ覚悟を持って自分は生きているか、永遠に生きるような勘違いをしていないか、甚だ恥じ入る思いで己を顧みた次第だ。

我々が生きるここは、甘っちょろいゼロリスク社会どころか、本当は生存率ゼロ世界なのだ。

 

さっき、僕の友人の中でも、最もなんにも考えていないと評判のタイラーさんがやってきて、「ヤフーニュースがジャニーズ一色なんですけど」と言って、帰っていった。

いままさに安全保障の危機が迫っているというのに、念仏のように平和を唱えて悦に入るひとたちは正気なのか、沖縄のデニーはなにを考えているのか、ウクライナ支援削減を主張する米国の共和党保守強硬派はまたもや孤立主義に陥るつもりなのか、さまざまな憤りが湧いちゃったポリティカルショータは、ひとまず缶ビールを開けて、ちょっと長くなってしまったこのコラムを終えます。

 

これを読んだ有為の若者には、江田島海上自衛隊幹部候補生学校も、ぜひ進路選択の視野に入れていただければと思う。

 

(了)

 

参考資料:
徳川宗英著『江田島海軍兵学校 世界最高の教育機関』(角川新書)
足立倫行著『死生天命 佐久間艇長の遺書』(ウェッジ)

「夢への往来(佐渡旅 後篇)」

新潟県直江津港から、佐渡島小木港までは、フェリーで2時間40分かかる。

私はフェリーでの旅は過去にもしていて、大阪港から大分県の別府までは何度も乗っているし、愛媛県八幡浜から大分県臼杵までや、福岡県の新門司港から大阪港までなど、船旅はいつでも旅情にあふれ、よいものだ。

兵庫県の明石から淡路島への船は、たったの14分で着いてしまう。

佐渡に渡る前は、なんとなく、関西人には馴染みのある淡路島みたいなところを想像していたが、本土との離れ具合はだいぶちがう。

佐渡の陸影が見えてきた

今回携えてきた小説、『世阿弥最後の花』にも、〈神の鉾の滴りから、南は淡路の国が生まれ、北となればこの佐渡の国。胎金両部、すなわち、伊弉諾である金剛界が淡路であり、伊弉冊である胎蔵界佐渡となり、南北に浮かんで四涯を守っているのである〉という記述がある(P245)。

やや表現が難解だけど、要するに神話の国ニッポンにとって、淡路と佐渡は対をなす存在である、ということ。

二等船室(一番安い)は絨毯敷きの広間で、乗客は思い思いの場所で、ゆっくり過ごす。私も、乗船の間は、その『世阿弥最後の花』を再読したり、すでに旅の疲れが出てごろりと横になったり、海を眺めながら煙草を吸いつつ佐渡に流された世阿弥の気持ちを想像したりした。

フェリーで2時間40分かかる距離は、手漕ぎボートでも脱走できそうな淡路島と比べたら大変なもので、ものすごい隔絶感がある。ゼッタイに自力では帰ってこられない。

ただ、上陸してみると、いきなりこの島の豊かさに気圧される感じすらある。
とにかく、「島」という言葉から連想される狭い陸地でホソボソと暮らす態様ではなく、どかーんと田んぼが広がり、わんさと海産物が獲れ、さらに金や銀まで掘れたというのだから、ある時期には佐渡はドリームアイランドであったはずだ。

小木港からモーターサイクルで西へ15分ほどの宿根木は、かつて北前船の商売で栄えた港町だという。
ここは確かに海と丘に挟まれた狭い地域に民家がぎっしり詰まって、お互いに肩を寄せ合うようにしているのだが、公開されている清九郎という屋号のお屋敷に入ってみると、建材は当時の一級品、広々とした二階建て、屋敷の背後にそそり立つ岩山を刳り貫いて鉄の扉をつけて野菜や海産物の貯蔵庫にしていたという。

受付のおばあちゃんによると、北前船が日本のあちこちに寄港しながら物品の売買を繰り返し、何ヶ月もかけて帰ってくると、いまで言う7、8千万円ほどの売上になったそうだ。清九郎さんとこは船を二艘所有していたから、つまり売上高1億5千万円くらいだったのだろう。そりゃあ立派な家屋も造れるわ。

宿根木の家並み

清九郎

さて、この旅には現地待ち合せの友人夫婦がいて、写真家の森善之さんご夫妻だ。
ゴールデンウィークに森さんと会った際、私が「今度、佐渡に行くんです。能を観てみようと思って」と話すと、森さんは興味を示して「ええなぁ。俺も行くわ」となった。ただし、奥様を伴って飛行機とフェリーを使って、別ルートでやって来た。

彼らと、島の中央部やや西寄りの泉という地域にある宿で落ち合う。今夜は草苅神社で薪能があるので、森さんのレンタカーでまた島南部へ戻るかたちで向かう。

順徳天皇御火葬塚にも手を合わせてきた

森さんは『Japangraph』という写真集を自社でつくっていて、これは日本の各都道府県の自然の風景や、風土に根づいた暮らしをしているひとたちをフィルムに焼きつけたものだ。

彼は何年もかけて日本全国をまわるつもりだが、60代のいま、きっと「死ぬまでに終わるかなw」と思っているはずだ。そういう長いプロジェクトである。

japangraph.net

今夜の薪能は地元の若者や能愛好家による、いわば素人芸である。日頃の稽古の成果を発表する場になっている。
明日の正法寺でのろうそく能はプロによる本格的なものだから撮影は禁止。森さんはこの草苅神社の能を、8×10インチの大判フィルムで撮らせてもらおうと、主催者の神主さんと交渉をはじめた。

粘り強く話し合った末、結局、終演後に舞台上で集合写真を撮らせてもらうことになった。

フィルムはいま大変高価らしく、森さんは数枚しか持参していない。ここでは一枚だけ使い、一発撮りである。
大きな三脚を立てて、昔の結婚式の記念撮影みたいに撮影者が黒い布をかぶって撮るやつだ。

能の内容は、私にここで解説できるような知識もないので割愛する。なにせ初体験だ。

いろんな見方ができると思う。
「なに言ってるのかわからない」、「うしろの『イヨーッ! ポン!』の掛け声と小鼓がシテ(主人公)の台詞とかぶって、余計にわかりづらい」とか、現代人の理解を超えた部分もある。
しかしながら、なぜ六百年も昔から変わらぬ様式で愛好されているのか、当時のひとたちはなにを想ってこれを書き、演じ、観ていたのかなど、私の足りない頭で想像しながら味わうと、日本人という不思議な存在の細やかな感性に指の先くらいでかすかに触れられたような気になる。

娯楽や情報が溢れかえった現代に生きる我々よりも、昔のひとは、ひとつ出会いや、ひとつの祈りに、ひとつの物語を描けるくらい、万物を深く深く慈しんで生きていたのだと思う。

そうでなければ、和歌も俳句も生まれない。

どっちがおもしろいかと訊かれれば、正直、能よりも吉本新喜劇のほうがおもしろいよ?
だけど、何事も「やばいw」「ウケるw」で済ませてしまいがちな我々が、かつて生きていた彼らの心のひだに触れて、敬意と弔意に胸が熱くなるような経験をするのも悪くない。
そんなことを私は思った。

草苅神社の能舞台

一夜明けて、佐渡島二日目。

森さんご夫妻は写真を撮りに自動車で出かけた。私はモータサイクルで、佐渡スカイラインという標高900mまで上る山越えの道を走った。霧で視界は悪かったが、山を下りるとちょうど佐渡金山のあたりに出た。

いま世界遺産に申請中の佐渡観光の要となる一帯だ。せっかくなのでマシーンを降りて明治期の金鉱を見学してきた。江戸期のほうもあるが時間がかかるので今回はパス。

島の西側の海に出てから、佐渡の北半分(大佐渡という)を一周するために海沿いを北上した。それ以降は天気に恵まれた。

佐渡は荒々しい岩や崖と、それらとせめぎ合うような波の、雄々しい自然のパワーに包まれている。海の深いブルーと、初夏の水を湛えた田んぼのグリーンが眩しい。

信号もない国道を右に左にカーブしながら、単気筒のエンジンでトコトコトコトコ進んでいくのは最高に気持ちがよかった。
北端の二ツ亀を望む場所で休憩した。ここにはリゾートホテルがあり、期待したような地の果て独特の寂寥感はなかったが、それでも、半ば遠い異国に来たような達成感はあった。
「あぁ、オレはここに来たことをいつまでも覚えているだろうな」という予感である。

二ツ亀

夕方までに一度宿に戻り、この旅のメインイベントである正法寺のろうそく能へ徒歩で向かう。

森さんご夫妻が道に迷ったそうで時間ギリギリになっても来なくて少々慌てたが、指定席とはいえ、会場となる本堂は立錐の余地もない満席だ。

正法寺

荘厳な雰囲気の中、まずはこの日の能を奉納するための住職たちの読経からはじまった。
つづいて『世阿弥最後の花』の作者である藤沢周さんの講演。藤沢さんはツイッターを通じて知り合い、私は尊敬する大先輩のように私淑しているが、対面するのははじめてであった。

新潟出身の藤沢さんの郷土愛と熱のこもったお話により、今日の演目である「経正」の主人公である平経正への理解ができて、観能の助けになる。

www.the-noh.com

先述の通り、昨夜の薪能は地域の愛好家による演能で、今夜のろうそく能はバチバチのプロによる有料イベントである。

ド素人の私は当然存じ上げなかったが、シテは重要無形文化財総合指定保持者の松木千俊師という方が演じる。

昨夜の草苅神社は、それはそれでよかった。「能ってこういう感じなのね」という雰囲気はつかめた。しかし、正法寺の能は、総合的な迫力がちがった。魂がジーンと痺れるような得体の知れない、経験したことのない、充足感に満たされた。

観能のあと、地酒バーを見つけて、森さんとしみじみ飲んだ。いや、結局しこたま飲んだ。
「言葉がちゃんと届くねん。謡と鼓と笛も完璧に調和していて、すごかった。いやぁ、よかった」
と、彼も喜んでいた。

森さんは、いまは30代の息子たちが幼いころには佐渡を度々訪れていて、キャンプしたり、写真を撮ったりしてきた。
しかし、今回はじめて能を観て、「僕にとっても今までとはまったくちがう佐渡を見た旅でした。ますます佐渡が好きになりました。前田さんのおかげです」と言ってくださった。

 

能には死者が登場する。

私をこの島まで連れてきた『世阿弥最後の花』にも、主人公の世阿弥の前に、早逝した息子の元雅や、世阿弥より200年も前にこの地に流されて狂死した順徳院(天皇)が、夢なのか現なのか判然としないかたちで現れる。

私は個人的には霊を信じない。しかし、霊という、人間の思考が生み出した概念は、祈りとか誰かに思いを馳せる行為から湧き出た、想像による創造だ。いわば、夢だ。

眠りの間に見る不条理な挿話も夢なら、ひとの望みや理想や祈りも夢と呼ばれる。現世ではないどこかに在る世界が夢なのである。

そして、そことの往来を疑似体験できるのが能を観ることなのではないか。

私はこの旅で、歴史の一部に触れ、私なりに死者を悼み、海や山や道を愛で、心を潤すような酒を飲んだ。
時間と空間を超えて、佐渡の波間に浮かんで消えた世阿弥や順徳院の夢を想った。

先に私は「ある時期には佐渡はドリームアイランドであったはずだ」と書いた。

いや、訂正する。

佐渡はドリームアイランドだ。

 

(了)