月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「お前らになにがわかるっ!」

他業界の人には全く関係のないことなのだが、広告の世界には賞というものがある。それも、国内の地域のものもあれば、国際的なものまで多種ある。広告主に贈られるものもあるが、大抵は広告制作者、企画者に対して贈られるのである。
これが、なんともうまいことできているのだが、一歩引いて見てみると、単なる業界のマスターベイションであり、業界保全のための機能を果たしている。
業界外の人にはおよそ膾炙していなくて、業界が業界の人に与えて一喜一憂しているという構図が、マスターベイションなのである。
次に、業界保全について。
「いい広告」というのは、一義的には、その商品やサービス、事業を世に知らしめ、購買や利用を喚起する役割として効果を発揮するものでなくてはならない。
その観点からも、賞に応募するためだけの、誰も見たことのない広告など受賞の意味がわからない(※注釈)。
広告の効果というものは、出稿量(フリークエンシーという)や出稿範囲(リーチという)といった数字で表すことができる部分もあれば、表現という数値化できない要素もある。おもしろい広告、記憶に残る広告、きれいな広告、ジーンとさせる広告などなど、そういう表現に係わる部分というのはなかなかその広告効果を正確に捉えることはできないのである。
広告効果については、国内外で色々な研究がなされているが、そんなもん無理なのである。身も蓋もないが、なんでも数値で説明しようとしたり、インポからハゲまで錠剤で解決しようとするアメリカ人に騙されてはいけないのだ。
Aという広告が、Bという広告より、表現として「いい」かどうかは、受け手によって違うだろうし、たとえ明らかにAの方が好評だとしても、その差はどれくらいなのか。さらに、AもBもいい場合、どう判断すればいいのか。
そこが(業界からすれば)広告のいいところであり、(広告主からすれば)もどかしいところであり、(制作者からすれば)難しいところなのである。
そこで、「賞」が効力を発揮する。賞は権威メイカーである。
「○○賞を受賞したワタシが考えたのだから、この広告はいいはずである」、「××賞受賞の彼がそういうのだから、たぶんいいのであろう」という風に、すがるべき権威を生む。いいか悪いかなんて誰にも判断できないのだから、センセイの言うことに従おうという機運をつくる。それは、広告制作というものが、常に広告主と広告会社の間の、交渉や駆け引きや説得に晒される運命にあるために、制作者の側に優位にはたらくことになる。
結局、小説や映画や音楽や、さらにはワインや化粧品やラーメンまで、人は、他者(審査員)がいいとハンコを捺すものしか評価できないのである。
先日、ある国際広告賞の受賞作品集を見たのだが、正直、僕には全くおもしろくなかった。まず、僕にはその商品の知識がないし、全体に企画がベタだし、こんな国際賞って意味あるのか、と思ってしまった。上記の広告の目的に照らし合わせれば、その商品も知らない外国人が、その広告表現に対して、いいの悪いのあーだこーだと言う資格などないのである。
広告には、マーケットがあり、ターゲットがいるわけだから、その国や地域の、ある層の人々に届き、受け止められ、理解されればいいわけで、その外の人にどう思われようが関係ないはずなのだ。
だからこそ、たとえ世界中で売られている商品であっても、その国々で違うCMが作られて、流され、それでよしとされているのだ。
日米欧共通で流されている、たとえばナイキのCMにしたって、それは、昨今の日本人が地上波テレビや衛星放送で、世界のアスリートを観られるようになったからのことで、今でも裸足で走るアフリカのランナーにナイキを履かせようと思ったら、そこに合った違う手を考えなくてはならないのだ。
広告が映画や音楽と違うのは、広告は経済活動で、映画や音楽は芸術活動である点である。つまり、芸術なら世界中の人々が共感できるユニバーサルなテーマを追求しようとそれは自由だが、広告はあくまで、誰かに何かをさせたくて存在しているから、メッセージはその誰かに向けられなくてはならない。なにも世界中の人に理解、共感される必要などないのである。おわかりいただけるだろうか。
日本人の僕らにはあれほどおもしろいキンチョーのCMも、ホットペッパーのCMも、絶対に外国人にはわからないし、わかってたまるもんですか。
たとえ、外国のCMを見て、日本の人が「いい広告だ」と思ったとしても、それは、日本人に「も」おもしろいだけで、それが世界中の人にとっておもしろいわけではない。そこを勘違いして、「日本人にもわかるなら世界中がわかる」などと思うのは傲慢なのだ。
人間誰しも権威や名誉には弱いから、国際賞とかほしくなる。もらったらもらったで嬉しいに決まっている。それでも、広告制作者は、何某かの芸術表現に携わっているかのような思い違いをしてはいけないのである。
怖いのは、そういう受賞作品集に疑問を抱くこともなく、目を輝かせて見ている若手制作者だ。そんなもん疑わなあかんで。
ここでアメリカンジョークをひとつ(前にも書いたっけ?)。
  • ある大学のキャンパスの壁に落書きがしてあった。
  • 「諸君、全てを疑え!」
  • 次の日、そこに落書きが書き加えられていた。
  • 「なんで?」
コピーライターとしてのルーキーイヤーをやっと終えようとしている僕は、もちろん国際賞などもらったことはない。これからももらうつもりはないかというと、そうではなくて、単なる負け惜しみで済まさないためにも、いつか国際賞のひとつももらって、再び同じことを言ってやりたいものである。
授賞式の壇上で、こう言えたら気持ちいいだろうな。
「お前らになにがわかるっ!」
そのためにも、仕事がんばろっと……。
(了)
※注釈:広告賞に応募するためだけに、たとえばどっかの地方局の深夜に一回だけ放送するとか、どっかの田舎鉄道の単線に数日だけ掲載するとか、たまにあるわけですよ。アリバイ工作ですな。