月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「カッコつけろよ(続 ルールブック、読んだか?)」

およそ一年前のコラム、「ルールブック、読んだか?」の中で、僕は同僚のユウちゃん(仮名)という女性の、恋の話について書いたのだった。

その後、ユウちゃんとナオトくん(知らんけど)の恋の行方はどうなったのか。私は追跡調査を実施した。一年前のランチと同じメンバーであるユウちゃんと先輩を、同じ料理屋に呼び出した。

後輩の滝下(仮名)もなぜか同席していたような気がするが、揃って唐揚げ定食を注文する我々に対して、「カレーうどん定食には唐揚げも四つ付いてくる」と得意げに発言した以外は、まったく存在を消していたように思う。恋愛に関して口を挟む術が一切なかったのだ。

さて、あの時三〇才目前だったユウちゃんは、三十路となった。彼氏との最近の関係自体は煮え切らないというか、燃え上がらないというか、大きな変化もないまま続いているようだ。

それでも、先月は一緒に海外旅行に行っていた。彼氏の勤め先の旅行に「フィアンセ」として同行をしたらしい。いや、これはあくまでも僕の想像であって、彼氏が勤め先に対して、ユウちゃんをちゃんとフィアンセとして申請でもしたのかどうかは知る由もない。しかし、企業としては万が一の事故の場合などを考慮して、真っ当な関係の人にしか許可を出さないだろう。

うちの会社でそんなものがあったら北新地のおネエちゃんとか平気で連れてくる人も出てきかねない。

だから僕にはわかった。そうか、そういうことか。

彼氏はその、南方の温暖な気候と開放的な空気と燦燦たる太陽の助けを借りて、ユウちゃんにプロポーズをするつもりだったのだろう。 「そういうことやろ?」

僕はユウちゃんに尋ねた。

 

彼女は旅行の思い出をひと通り語ってくれた。そのハイライトはこうだった。

旅行中は会社の行事などで割りと忙しかったらしいのだが、一日だけ暇を見つけて、二人きりで海沿いをドライブに出かけたという。その帰路では、目を奪われるような美しいビーチがあった。

彼氏が「ちょっと止まろう」というので、車から降り、ひと気のないビーチを歩いたのだ。時刻はちょうどサンセットの頃。波の音だけが聞こえる。砂浜のせいか、眩暈のするような美しい情景のせいなのか、ユウちゃんは足元がフワフワする感覚を覚えた(オレの想像)。

「しばらく休んでいっていい?」 彼氏はそう言って、腰を降ろせる手近な場所を探して歩を進めた。その後ろ姿を眺めて、ユウちゃんは小さな予感を感じた。その胸は、幸福感で締めつけられる準備すら始めていた(これも想像)。

二人は並んで砂浜のベンチに座り、しばらく二人だけのための静寂を共有した。

ユウちゃんは沈黙に耐えた。ナオトが口火を切るのを待ったのだ。

何ヶ月か前に、デート中の車内で沈黙が降りてきた時に、ユウちゃんはそれまでの会話と脈絡のない話を振って、沈黙を払いのけたことがあったという。しかし、あとで考えると、「あ、ナオトくんは何か言いたいことがあったのかもしれない……」と、少しだけ自己嫌悪を感じたのだ。

だから、その時の彼女は沈黙を怖れることなく受け容れた。

夕空が、その色彩をワントーン落とした。波は、世界でなにが起きようと一切の関心の示さずに筆を行ったり来たりさせる画家のように、自分の仕事を続けた。

  「それが、本当に休憩しただけだったんですよ!」

僕はユウちゃんの声で、我に返った。

唐揚げが多い。割りとお腹一杯になってきた。

ユウちゃんは目を見開いた。 「なんにもなかったんですよ!」 一同で爆笑した。

僕は心の奥底では「なにもないいうんは、手も繋がない平和な状態をいうのであって、ベッドの上でのチチクリ小競り合いや、盧溝橋事件の如く突発的な衝突を契機とした肉弾戦はあったくせに」と思ったが黙っていた。

彼氏は、彼女を海外にまで連れ出しておいて、帰国した現在に至るまで、ユウちゃんに正式なプロポーズをしていないのだ。すでにお互いの両親にまで会っているのにもかかわらずだ。

そこから僕と先輩は愚にもつかない方策をあれこれ話し合ったり、提案したりした。ノーアイデアの滝下は黙々と食べていた。

まぁ、結婚なんて無理矢理しても仕方ないものだからね。

しかし、最低でも、ルールブックには書いてある。 「堂々と旅行に行っていいのは、婚約者・許婚だけだ」

僕のことも少し書くと(以前にも書いたけど)、若い頃に付き合っていた女性から、「え? 私、結婚するつもりのない人と付き合うことはないよ」と言われて、軽くショックを受けた。自分の無自覚を恥じたものだ。当時、僕は二〇代半ば。そんなことは全然考えていなかったのだ。

結局、結婚することはなかったそのコのことを思うと、人生を無駄に遣わせてしまったようで申し訳ない。……いや、フラれたのはオレの方だった。申し訳なくない。

ルールブックの記述を読み違えてはいけない。だからといって「旅行に行ったら結婚しなくてはいけない」という解釈は拡大がすぎるだろう。

そんな意味のことを僕は言ったか言わなかったか、ユウちゃんはこうも述べた。

僕は不覚にも、その言葉に少なからず感動してしまったのだ。 「自分の年齢を考えて結婚したいとかじゃないんです。『彼と』結婚したいんです。彼の爪のかたちですらかわいいと思ってるんです」

あのなぁ、ユウちゃんは本当にかわいい女性なんだよ。オレみたいな流れ者の用心棒にはもったいない女なんだ。いや、オレ関係なかったわ。

あのなぁ、そんなユウちゃんに、流れ者の用心棒にまでこんなことを言わせる君はどうなんだい、ナオトよ。

あのなぁ、会うたこともないナオトよ。もしも、ユウちゃんは結婚相手としてはなんか違うと思っているなら、それは仕方ない。その場合でも、わざわざ女性を傷つけるような言葉を置いて去ることはない。

「どんな女性にも、彼女の幸せを願う六人の人たちがいる」と聞いたことがある。両親と、母方の祖父母、父方の祖父母だ。確か、その趣旨は「だから女性を悲しませることは七人の人間を悲しませることだ。どうしてもするなら、それくらいの覚悟でしろ」ということだったか。

ユウちゃんが愛想を尽かして去るまでダラダラと付き合いを続けるのもひとつの手だろう。

しかし、そうでないなら。カッコつけろよ。カッコつけるというのは、自分のためにすることではなく、彼女のためになにかをすることだ。

なにか柄にもないことをするとするだろ。 「一体、どうしたの?」と、相手が狼狽することもあるだろう。思ったほど喜んでくれなくてさ。

そんな時便利だから、コレ遣えよな。 「うん。カッコつけさせてよ」

オレは流れ者の用心棒だから、古いカントリーソングの一節を残して、そろそろ馬に乗って次の町に行くわ。

"If Tomorrow Never Comes" by Garth Brooks https://youtu.be/z6le1AlPaU4

〈もしも明日が来なかったら 彼女は僕がどれだけ愛していたかわかってくれるのだろうか 僕はあらゆる手を尽くしただろうか 彼女に毎日 君だけなんだって伝えることに〉

でも最後に、本当に余計なんだけど、それでも知っておいて損はないウンチクを垂れておくと、ガース・ブルックス本人は、このPVに出演もしている奥様のサンディとはのちに離婚して、女性歌手のトリシャ・イヤーウッドと再婚してるからな。

そんなこともあるからな。

「ラブホテル村に行きたくはないのか」

以下は、信じられないような実話である。

僕の取引先に〇村さん(あえて伏せます)という方がいる。その方からのメールを携帯電話で確認すると、必ずお名前が[ラブホテル]村と表示されるのだ。その〇に入る漢字はちょっと珍しいのだが、文字化けというか、変換というのか、その原因は僕にはわからない。

急いでいる時は携帯から返信を打つこともある。その際、ふと疑念がよぎる。
僕の携帯に[ラブホテル]村と表示されてるということは、ここから送った返信は、変換されたままの文面で届いてるのではないかとヒヤヒヤするのだ。

「[ラブホテル]村様 いつも大変お世話になっております。お問合せの件ですが……」

「誰がラブホテル村様やねん! なめとんのか!」と。

 LoveHotel
しかも、そのメールにはccで関係者が多いから、〇村さんの勤め先でのあだ名が「ラブホテル村」になりはしないかと心配すらしてしまうのだ。 「ラブホテル村」はさすがに長いので、「ラブホ村」になって、最後はなぜか女性職員にまで「ラブちゃん」とか呼ばれるようになる。片岡愛之助か。

ちなみに私の先輩には「なんでも下ネタで喩えるムラタさん(仮名)」というのがいて、電話すると、

「もしもし? もしもしピエロ?」 と出てくる。
  • http://www.piero.co.jp/
  • 関西の人にしかわからんからまぁいいや。ラブホテル村に戻ろう。

    懸念を抱いた僕は、同じ仕事に携わる後輩の河口くん(仮名)にメールを送り、事情を説明の上、尋ねてみたのだ。

    「君のPCでは[ラブホテル]村になってるか?」
    僕は河口くんにこういう模範解答を期待した。
    「ははは、めっちゃおもろいですね、[ラブホテル]村! いえ、僕の方ではちゃんと表示されています。が、いっぺん見たいものです」

    しかし、彼からの返信はこうだった。

    「下記ご連絡頂いた件、 私のメールボックスの受信メールを確認しますと、きちんと表示されています。 以上、ご報告まで」

    マジメか! ふざけんな! いやどっちやねん。 なにが「下記ご連絡いただいた件」じゃ。ラブホテル村の話やないか。こっちの方が字数少ないわ。 なにが「ご報告まで」じゃ。無表情か、お前は。ラブホテル村にいっぺん行ってみたくはないのか。

    人それぞれ社風とか暗黙の了解があって、文体も制限があるのかもしれないけど、僕が勤める会社にはそんなものはなく、個人の裁量・技量である。 技量というのは、僕の仕事はもはや、メールの往復で交渉したり、依頼したり、問題解決する機会も多いので、そこには技量と呼べるような個人差が表れるのである。 未だに「小生」とか書いてくる人もいるしな。あなたの人生が大きいか小さいか、知らんちゅうのに。

    それにしても、Eメールというのはここ二十年で急速に普及したから、実に様々な個人差がある。

    ■堅苦しくて読みにくい人:

    こういう人に限って、改行や一行空けがないから、読みだすのにすでにちょっと気合いがいる。丁寧なフリして、まったく読み手のことに配慮されていない文面である。だから大概、慇懃無礼な物言いになりがちだ。

    ■一行メールの人:

    「あの資料ある?」 などと、宛名もなく、一行で指図してくる、おっさんに多いタイプだ。これが最低。
    「どの資料ですか?」
    「プリントでお渡しすればいいですか?」
    「明日なら送れますけどいいですか?」
    など、結局こちらから問い合わせてメールを何往復もさせなくてはいけないから、余計に時間も労力もかかるのだ。

    なんの挨拶も説明もなく、転送メール送りつけてくるのもこの一派だ。

    ■文法・語法が間違っている人:

    「各位様」
    「〇〇部長様」
    (目上の人に対して)「了解です」
    (わしゃなんにも受け取ったわけではない、ただの連絡メールなのに)「ご査収ください」
    などなど、一見慇懃なつもりで、実際はあまり何も考えていないことがバレちゃうタイプ。

    良いか悪いか知らないが、僕は個人的にあえてやっていることがいくつかある。

    ■(所々に)余計な話や冗談を入れる

    「この前おっしゃってた本読みました/映画観ました/場所に行ってみました。〇〇と感じました」とか
    「では、よい週末を」とか。
    週末も深夜もなく働くことが善いことでも正しいことでもなく、休むことに罪悪感を持つ必要もありませんからね。
    「なんとかなるんちゃいますか」、「そ、そりゃちょいとキツイかも……」など、わざと砕けた口語・方言を用いるのも、これに近い。たまに、こうやって本音を紛れ込ませることで人との距離を縮められることがある。

    僕の上司なんかは、お得意先へのメールで、なにか延々とご説明さしあげた最後に

    「知らんけど」
    と書いていて、かなりの高等技術であった。

    ■しばらく前に受け取ったメールに返信する時は、ちゃんと下に元のメールが付いているものに打つ。

    これ、たまにしない人が多いので困るのだ。以前のリファレンスがないと話が食い違ったり、わざわざ元を探して読み返すハメになってしまう。

    ■箇条書きを多用する。

    時間・場所・条件などの他に、論旨にも箇条書きを積極的に遣う。

    ■してもらったことに対し、まずお礼を言う。

    外国人からのメールなんかよく、「Thank you for...」で始められているのを見るから、それを取り入れてみたまでなんだけど。

    他の仕事は知らないけど、僕の仕事は本当にメールの山を捌くことから始まることが多いので、これが仕事のクオリティの一部のような感慨もある。

    まぁ、一番意識的にやるのは最初に挙げた「余計な話を入れる」ことかな……。

    個人的な考え方なんだけど、僕は仕事もプライベートも態度を変えずに生きるのが正しいと考えている。正確に言うと、「そのように生きられることが望ましい」。日常生活の中で演じなくてはいけない役割や、期待される応対はそりゃ様々あるけど、なるべくその幅を小さくするのが人間的な心を保つ秘訣なのではないか。ちょっとアメリカ人みたいで申し訳ないけど。

    願わくば、エライ人にも、年下の人にも同じような態度で臨みたいと思っている。これを続けると、目上の人からは生意気な鼻持ちならない人間だと誤解もされるけど、取引先の前でだけニコニコしてる人や、相手によって態度を変える人をどうにも信用できないのだ。

    だったら、無愛想な人の方がむしろマシ。常に無愛想だったら、逆に安心するもんな。その人を笑わせることができたりしたら、ちょっといいことした気分にすらなるからな。

    みんな、酒飲んだらアホ話、エロ話、マジ話するでしょう。いや、たとえ飲まなくても。 わかってまっせ。

    仕事場でものすごい有能な感じでプレゼンしてた人を、後日電車で見かけた時に、スマホで必死にゲームしてたら軽くショック受けるでしょ。 そういうことです。みんな人間なんです。フツウにいこうや。

    後輩の河口(仮名)よ、楽しい人生を生きろよ。

    「シンドいのお前のせいやないか」
    と、タメ口で返されそうや。

    心に火を。尻にも火を

    広告企画制作の仕事をしていると、初対面の人などにこのように言われることがある。

    「クリエイターって、ゼロから何かを生み出すんだから大変な仕事ですね」

    僕は毎度こう答える。

    「ゼロからじゃないですよ。商品があって、クライアントの指示があるんだから」

    実際はゼロどころか、制約と条件だらけの世界だ。 大変な仕事であることは認めるが、クリエイターだなんて呼ばれるほどのものではない。

    クリエイターを英語で「The Creator」と表記すれば、それは創造主、つまりユダヤ教キリスト教において七日間で天地を創造したとされるヤハウェのことである。 だから、僕は自分をクリエイターだなんておこがましいことを言える人間を信用できない。

    クリエイターと言える人間は、子供を産む女性だけではないだろうか。だって、人間をクリエイトできるのだから。人から人が出てくるなんて、我々男からすれば想像もできないクリエイションなのである。

    そのクリエイターが減って久しいことはよく知られている。少子化である。 それに関しては、子を持たない僕自身も責任を感じないではない。 しかし、自分を含めた多くの共働き夫婦の生活を顧みると、そりゃそうだろという諦念も感じざるを得ないのだ。

    散々働いて、「今晩はゴハンいらない」で、外で飲み食いして夜十時とか十一時に帰宅する。

    とりあえずテレビニュースをつける。 お風呂沸かすと十二時。明日も七時起き お互いこうだったらそりゃね、セックスなんてする元気も時間もないわけですよ。

    僕の先輩に仲尾さん(仮名)というヤンキーみたいな先輩がいる。この人はとにかく、チームを遅くまで仕事させることで知られ、ご自身も夜昼関係なく猛烈に企画をすることで数々の実績を築いてきている。

    それなのに、男の子が三人もいる。奥様はハーフかと思えるような美人だ。にもかかわらず、子供は何人生まれても仲尾さんそっくりで、奥様の要素はどこにあるのかわからない。だから僕は、仲尾さんが自分でピッコロみたいに口からヒリ出していて、奥様はその傍らで応援しているだけなのではないかと疑っているくらいだ。どういう強い遺伝子をしてるのだ。

    このくらいの何かを残し、遺すというDNAへの強いプログラミングがないと、仕事も子供もできないのかもしれない、と何事にも執着の少ない僕なんかは仲尾さんを見ていて思うのだ。

    奇しくも週刊新潮四月三〇日号で「『人口激減社会』の利点検証」という特集記事があった。

    我が国では、少子化による人口減少に加え、出生率が全国最低の一・一三である東京への一極集中が加速していて、消滅可能性都市が地方のあちこちに生まれているという。

    しかし、記事は: ・産業構造の転換により、経済規模が変わらないまま人口が減れば、各人はより豊かな生活が送れるようになる。 ・空き家が増える問題の反面、家を二つ持つことも夢ではなくなるかもしれない。 ・悪名高い日本の満員電車から解放される。 ・人手不足になることで、終身雇用や年功序列に代表される、人を大切にする日本型経営を取り戻せる。 といったような利点を指摘している。

    いくつかは首肯できる点があると思ったが、イマイチおもしろくねえな、と僕は雑誌を閉じた。 騙されてはいけない。少子化は問題ではない。

    僕は率直に言うと、少子化なんて人口の適正化としか思っていない。それとセットになる高齢化の方がよほど深刻なんだけど、深刻なのは「今、生きている世代にとって大変」、というだけで、我々団塊ジュニアあたりの世代までが死に絶えたあとの若い世代は、もっと幸せになれると希望を持っていいよ。

    まず、余計な仕事をしなくて済むだろう。人が少ないから、アレコレ言ってくる外野が減る。製造業で言うなら、製品に無駄な機能をくっ付けるのをやめられる。

    多すぎる全員に何がしかの仕事をさせなくてはいけないから、「至れり尽くせりのつもりの余計なお世話」の機能がいっぱい付けられて、あーだこーだ口を挟んでくるエライ人の意見も取り入れなくてはいけなくて、その分費用が価格に乗せられて高くなっているのが現在の日本の状況だ。

    電化製品一般は、それで世界で勝てなくなっているのではないのか。先日ツイッターで、某カメラメイカーの製品パッケージを開けたら、分厚い説明書やらディスクやら、そのインストールの手順書やら、なんたら登録の方法とか、余計な紙モノや付属品がワラワラ出てきて幻滅した旨の投稿を見た。「ワクワク感が一気になくなった。だから、箱やその中身まで美しいアップルに勝てないんだよ!」と、その人は嘆いていた。 便利にしていくのはいい。しかし、どこかで「いや、それはいらん」と、本質でないものはストップさせないと。自動車が全自動運転に近付けば近付くほど、買いたい人いなくなるよ(作ってるのはグーグルかもしれないけど、それは措いて……)。

    今ですら、雨が降れば自動でワイパーが動き出し、暗くなれば勝手にライトが点灯するらしいではないか。いるか、それ?

    運転しているのはヒトなわけで、速度や進行方向はもちろん、天候やら路面状況やらの条件を見つつ、自分でコントロールするところに運転の楽しさがあるのではないのだろうか。ということは、自動車って自動ではなかったのだね。自ら動かす車か。なんかしんどそうやな。

    生きている人生がコントロールができないことばかりだからこそ、自分の操縦によって人間以上の力を享受することができるのがクルマの魅力ではないのか。判断すべき要素と遣う体の部位が多いから、モーターサイクルはより楽しいのではないのだろうか。

    ああ、オレは古い人間さ。

    結局、傑作は個人からしか生まれないのだ。桑田佳祐の才能の五分の一ずつを持った人が五人集まってもサザンオールスターズは生まれないのだ。強い個人と、それを支えるメンバー。

    山田洋二監督は、寅さんという傑作キャラクターを、原案・脚本・監督を担当して、一人で作った。それでも、脚本は常に他の誰かとの共同執筆でクレジットされている。個人の力と、巧みな補助。

    こういうことだ。

    人が少ないなら少ないで、個人の裁量を大きくして、物事の決定を早くして、重要な部分にお金と時間とサポートを充てる。

    結果、ソリッドでいて目の行き届いた良品を作っていく。ジャパンの生き残る道はこれだと、僕は思っている。 そして、これこそが効率化である。

    日本の産業界は他の先進各国に比べて、その生産率や効率が悪いと指摘されている。そりゃそうだよ、人が多すぎるんだから。 それをもってして、世の大企業の中では効率化の名のもとに、総務系部署の肥大化が進んでいて、「効率を上げる目的で、それを測定・精査するための不必要な作業」が増え続けている。それで現場が余計に仕事が増えて苦しんでいるという、本末転倒が起きている。

    本当はそういうことじゃないでしょう。

    若い人が「死ね、クソ」と思っているおっさん世代は実際にじきに死ぬから。だから、あとの世代は、働くの、もっと楽しいよ。せめて自分たちがゆくゆくそういうおっさんにならないように気を引き締めて生きていこうではないか。

    さっき、全自動運転の自動車は誰も買いたがらない、という話をしたが、男性の所謂草食化・絶食化だって、エロスがインターネットでいつでもタダで見られるようになったのと軌を一にするだろう。止められはしないけど、便利すぎるのはダメなのだ。疑似体験はできても本物じゃない。

    人が多すぎて、オンナなんかいくらでもいるから、「家帰って、Xvideos観ればいいや」と思っているのかもしれないが、これがもっと少なくなってみなさい。極端なこというと、日本人が三十八人くらいになってみなさいさ。ひとクラス分ですわ。

    そうなれば、DNAが勝手に種の保存に対して危機感を持って、何か緊急事態宣言的なものを発動させるかもしれない。

    「このオンナは、他の誰でもない、オレが抱かなくてはいけない!」

    「このコだ。このコなんだ! このコでなければ一生愛なんていらない!」

    「このヒトにはオレしかいないんだ!(残り男子たった十七人だけどっ)」 というある種の集団催眠のような狂奔。殺し合ってでもクラスのマドンナちゃんを抱くと思うけどね。マドンナちゃんでなくてもそれなりに抱いちゃうと思うけどね。

    これくらいの切実感に溢れた勘違いをしないと恋愛もセックスもできませんからね。僕なんかそれくらいの切実感持ってたけど、大した恋愛もセックスもしてきてないからな。ナメんなよ。

    そうでもしないと、仲尾さん(仮名)みたいなただでさえ遺伝子まで筋肉でできているような人にみんな持って行かれてしまいますから(※仲尾さんはあちこちでそっくりな子供を作っているわけではありません)。

    まぁ、これから産業転換の過渡期に入って、もう少し「ジャパン大丈夫か?」という危機感が共有されれば、なおさら日本が自滅することはないのではないかなぁ。

    江戸期にも飢饉による人口減によって、農業の改善に拍車がかかって効率が上がり、余暇ができたことにより、むしろ文化が発展したというし。

    締切のある仕事をしてきた「似非クリエイター」、月末にならないとこれを書かない「自称コラムニスト」として、僕にはそこのあたりはよーくわかります。

    「ヒジがね、当たってますねん」

    二年半ぶりのタイ王国アジア太平洋地域の広告祭に参加するためだったのだが、費用は自腹で行ってきた。今回は若いデザイナー二名が同行した。二人ともアジアの外国は初めてで、うち一人は三十才にして初海外。それどころか初飛行機だったらしい。

    三十まで一体なにを楽しみに生きてきたのかと、僕なんかは思ってしまうのだが、まぁ今回こういう機会があって、おそらく独りでは行かなかったであろう彼に外国の空気を吸ってもらうことができてよかった。 まぁほとんどドブみたいなニオイだったけどな。

    三月の日本から着いたスワンナプーム空港の夜は、一歩外に出るともの凄い湿気だ。上着を脱いで、とにかくタクシーを探す。広告祭の会場はパタヤのリゾートホテルなので、バンコクから二時間ほど走らなくてはならない。 「パッタヤ~」と、それとなくタイっぽい感じの緩~いイントネーションで目的地伝えると、運転手のおっちゃんは猛スピードで高速道路を飛ばす飛ばす。ふと横顔を見ると、牛乳瓶の底どころではない、占いの水晶玉をスライスしたような、見たこともない凸レンズをハメ込んだメガネをしていて、乗員全ては不安になった。 一直線に目的地に向かっているように見えたが、結局何度ホテル名を言っても、地図を見せても道を知らず、途中でパタヤ観光局に電話をし始め、携帯電話を受け取った僕がまたホテル名を伝え、係の人が運転手に道順を教えるという面倒な手続きをして二時間半かかった。あの猛スピードは一体なんだったのだ。

    あとで知ったことだが、タイの運転手に地図を見せてもムダなのだそうだ。地図の見方なんか教育されていないから余計混乱するだけなのだそうだ。そういう常識からして全然違うのだ。 そして、記憶だけでとにかく知ってる道を行こうとするから、都市の昼間の幹線道路はやたらと渋滞する。

    譲り合わないために渋滞が余計に酷くなる現象などは、タイ、インドネシアベトナムなど東南アジアに共通だ。

    広告祭自体はとてもいい体験だった。世界中の広告アイデアを一望できるし、メシは三食食べられるし(参加料約十万円するんだけど)、二年前の冬(日本で言うところの冬という時期)を過ごしたインドネシア時代の同僚に会えたし、パーティー会場では日本でお世話になっている会社社長にも遭遇した。 パーティーのあと、同宿の三人で連れだって少しパタヤの街を歩いてみたのだけど、地獄だったな……。ありゃ地獄やで。ゴーゴーバーとマッサージパーラーが深夜でもギラギラしていて、女たちやオカマたちが袖を掴んでくる。ケバケバしいネオンと、毒々しい化粧と、不潔な路地から漂うドブのニオイと、ボトルを傾ける、世を捨てたリタイヤ白人の虚ろな眼。「ちょっと一杯飲んでいくかー」という気分には到底ならないんだな。

    それでも、微笑みの国タイの人々はやさしい。日中であれば、手を合わせてお辞儀する挨拶や、柔らかい物腰で発する独特のイントネーションにこちらも自然に笑みを返せる。文字通り清濁併せ呑む寛濶さというか放埓さに思い浮かぶ言葉が「やさしさ」なのだ。それが世界中から旅行者を惹きつけるのだろう。

    また、そこが日本人と特にウマが合う理由なような気がしないでもない。 政治デモでの衝突やクーデターという手段の激しさでもわかるように、普段穏やかな人が怒ると怖いのだが、それは日本国も同様で、アジアにおいて、欧米の植民地にされなかった国は、タイとジャパンだけだ。まぁ、敗けはしたけどよ。

    僕はまだタイを深くは知らないので、ステレオタイプを通した目で見ていることは承知している。がしかし、「すべてのステレオタイプは真実である」という言説がある。 悔しいかな、そうなのである。 人はポジティブなステレオタイプには首肯して、ネガティブなものには口角泡を飛ばして「偏見だ!」などと抗議しがちなのだが、いやいや、ステレオタイプというのは経験の積み重ねから形成されているため、ほぼ真実なのだ。

    余談だが、もうひとつ付け加えると、「外国語がどのように聞こえるかが、その文化自体をどう受け止めているか」を表す。米語(英語)を話す人を聞いて「カッコいいー」と思うのは、アメリカ文化をカッコいいと知覚していることで、〇〇語を聞いて「声がデカくて鬱陶しい」と感じるのは、その国をそのように感じているわけだ。 はい、好むと好まざるにかかわらず、〇〇には何が入るか、みんなわかったでしょう?

    だから、我々は、勤勉で猫背ですぐに名刺を出して、シャイなくせにスケベで、争いごとをとことん回避しがちな割に小金は持っていて、世界トップの技術があって、腹立つほど細かい人間、であっていいのだ。心もアレもそない大きくないが、口とアレはメチャ固い。 これは性(さが)だから直るものでもない。

    チ◯コ界のコントレックスでいこうではないか。 https://www.contrex.co.jp/docs/what/index2.html

    ちなみに、インド人のステレオタイプも色々あるのだろうけど、習性として、「人との距離が異様に近い」と聞いたことがある。物理的な距離だ。話し相手にとても近付いて喋るらしい。

    だから、インド人と話すと、外国人はその距離感が快適でなく、一歩下がる。すると、インド人はまた一歩踏み出す。それを繰り返して最後はコーナーに追い詰められてしまうのだ。

    十数億人にそれをされ、周辺国の人々が下がりに下がった歴史の帰結として、出来上がったのがヒマラヤ山脈だと言われているとかいないとか。

    タイからの帰りの飛行機で、搭乗券をもぎられたあと、通路に並んでいたら、僕の肘に背後のおっさんの出っ腹が当たっている。 「おいおい、えらい近いなぁ」と思って振り向いたらインド人だった。 席に着くと、隣りがそのデブのおっさんの連れのこれまたインド人だった。平気で肘掛を両方使って、僕のテリトリーまで腕が入っている。それどころか、僕の腕におっさんの肘がまた触れているのだ。先方はそれでも全く平気なのだ。

    よほど「あのね、触れられるのは不快なんですけど」と言おうと思ったけど、先述のステレオタイプを思い出して納得した。というか、寛恕してしんぜる気分になった。諍いを好まない日本人だからね。

    通路の向こうの方で、チャイナ人二名はやや迷惑そうな他人の白人を挟んで、ワーワー話していた。

    「名前を付けよう」

    景気が緩やかに回復していると言われているけど、テレビや新聞が「アベノミクスの効果を感じるか」などと街頭調査をすると「感じない」が大半を占めたりする。それをメディアはうれしそうに報じる。「恩恵は富裕層だけ」とか「大企業だけ」とか、批判する声もある。

    僕はマクロ経済に明るいわけではないので、アベノミクスの功罪を論じる資格はないのだけど、ひとつ言えることは、「恩恵を感じる術を持っていなければ、感じるものも感じられない」ということだ。
    僕を含めて一般生活者の収入は主に労働からの給与と投資からなる。中には「あとギャンブルもある」という人もいるんだろうけど、これは景気に無関係だから措く。
    少し考えればわかる通り、景気が上向いたくらいで給料が急に上がるはずはないのだ。企業経営は、今月の売上がよかったからって来月からの給料が上がるような仕組みではないはずなのだ。
    一方、投資に関しては低迷していた株価の回復などによって、恩恵は感じられやすい。期待値がすぐに反映されるからだ。銀行預金の利子もゼロな中で、給与を預金するだけですぐに恩恵に浴せるわけはないのだ。すると、「投資なんかできるのは富裕層だけ」と言われるのだろうが、ミニ株(売買単位の十分の一の価格で取引できる制度のこと)だってあるし、NISA(運用益や配当に一定額免税になる制度)だって始まったし、決して富裕層にしかできないことではないのである。
    カネのことを言うなら、カネのことを学ばなくてはいけない。
    僕個人で言えば、そりゃ投資額がちょぼちょぼだから、何千万も資産価値が増えたりはしていないけど、小遣い程度の金額なら確かに恩恵を受けていると言える。
    二〇一五年一月現在では円安だし、「海外旅行に格安で行ける」などのメリットはないので、生活者としての恩恵はそれくらいなのかもしれない。
    だけど、景気は「気」だから、いついかなる時も僻み根性と被害者意識の人間には、豊かな時代など訪れはしないだろう。「経済効果は全く感じない」と言う人に、次にこう訊いてみてほしいものだ。
    • 「では、どうなれば経済施策の恩恵を感じますか?」と。
    • 「バブルの再来」とか「政府が一千万円振り込んでくれる」をはじめとした、およそ現実的ではない酒池肉林が述べられることは想像に難くない。心配せずとも、バブルはもうジャパンには来ないから。
    フロスティEVという、電動バイクが発売されたそうだ。作っているのは熊本県ベンチャー企業なのだろうか、株式会社吉角というらしい。充電だけで走るから排ガスが一切出ない。価格は三六八〇〇〇円。
    この情報にフェイスブックで触れたところ、コメント欄には、「高い」、「価格が……」、「十万円なら」との声が連なっていた。
    えぇーっ、高いかな。ウェブサイトによると、一回の充電が約四円で、六〇キロ走れる。月に二〇回充電しても月に一〇〇円以下。日本製で、車体は一年保証とのこと。
    僕のように週末しか乗らない人なら、月に一二〇〇キロも乗れませんからね。というか、年にだって乗らないくらいだ。タンク満タンに入れたら千円は越える。
    ちょっと計算すれば、ガソリン車のバイクに比べたら断然安いし、熊本の社長の心意気にその値段で一役買えるんだよ。わざわざ社長の見てるフェイスブックに書き込みをしなくてはいけないくらい高いはずはない。
    まぁ、その社長は社長で、フェイスブックのトップに「熊本で年収一億稼ぐ」ってわざわざ書くこともないし、どっちかと言えば、応援する気を削ぐ一言だと思うんだけど、溢れる気合いが漏れ出ちゃった愛嬌としよう。地方にありながらこういう挑戦をする人がいるというのは、僕自身も地方に住む一人として励みである。
    二〇〇八年のリーマンショック以降の新聞紙面の暗かったこと、暗かったこと。「〇〇社が今期下方修正」、「再び下方修正」、「××社が人員整理」、「△△社が会社再生法適用へ」などなど。僕はあの先行きの見えない抑鬱的な見出しが並ぶ毎日を忘れてはいない。
    あれに比べれば、こんな、景気などという自分でどうしようもないものが「なんかええ感じらしいで」と耳にできるだけでも恩恵だと思える。
    みんなで取り組んで、景気を良くする手がひとつある。「値引きしないこと」だ。値引きを売り手に強要しないし、値引きに簡単に応じない。
    クールジャパン機構の太田信之社長が著書の中で〈すぐに電卓を叩くクセをやめる〉ことを説いている。ファッションブランドでも、機械部品メーカーでも、世界にモノを売ってきた日本人は、つまるところ人がいいから、「値を下げろ」という要求にすぐに応じてきた。すると、何が起こるか。結局、海外で売られる製品の価格は下がらず、売り主が儲けて、作り手である日本人が儲けてこなかったという。
    もちろん業界によって、事はそう単純でもないんだろうけど、ある意味での真理を突いていると思う。だって、値引きしてきたから、働けども働けども暮らし楽にならないのだから。日本人はどの国の人よりも働いてきたし、我々はいつの時代の日本人よりも働いているでしょう。だから、何かがおかしいと思えるでしょう。
    ここなのだ。値引きをするからいけないのではないか。
    現代社会のいわゆる格差問題が配分の問題であるとして、値引きを請負企業から請負企業へと強いてきた結果であろう。だから、「大企業だけ業績がいい」という批判につながる。
    広い視野で見れば、というか、恥ずかしいくらいロマンチックな見方をすれば、うちだけでなく、あの会社も、その会社も、そして社会全体の売上が上がれば、景気がよくなるんちゃいますのん?
    共産主義かって? ちがいます。まだこれに名前は付いていません。ここには「値引きを拒絶できるほどスペシャルな仕事をする」という自由競争があるのだ。ジャパンがとっても得意な感じの競争でしょう。
    それに、資本主義は敗北しました。あの二〇〇八年の秋に死んだはずだ。アメリカ合衆国と言う自由主義信奉国家がメガバンクなどの民間企業の救済に手を入れた瞬間に。
    だから、日本はこれに名前を付けられるようにがんばればいいと思うのだ。
    一月なので、まぁ、そんな夢みたいなことを書きながら、大企業に勤める私は昨年も取引先にたくさん値引きをお願いしたことは正直に吐露しなくてはなるまい。本当に申し訳なかった。断腸の思いだ。
    私の会社も仕事を受注する立場である体質と、あとは、私の保身だと思ってほしい。
    人様に加えて自社にも損害を出した。そろそろクビやな。今日の出来事だ。
    • 僕「すみません、やってしまいました」
    • ボス「わざとか?」
    • 僕「……いいえ」
    • ボス「ほなええわ」
    今年も一年、みなさまにとってよい年でありますように。
    というか、なんとかかんとかやっていきましょう。やれやれ。

    「思惑交差点に立つ男と女」

    とあるファッション雑誌編集長がフライデーされた。記事によると、こうだ。

    二十三才のモデルA子さんは、若者に大人気のファッションショウへの出演を夢見ていた。有名編集長であるK氏を紹介してもらう機会を得て、会食をした。食事のあとにバーへと誘われ、強引にホテルに連れ込まれた。「このまま帰るとショウには出さないよ」と脅され、怖くて従うしかなかった。 二ヶ月後、知人宅でのパーティに誘われ、自宅に送ると言われたのに、再びホテルに連れて行かれた。翌月、またもや食事をしたが、そのあとのホテルは意を決して拒否した。
    その後の誘いは全て断っていたら、ショウの五日前になって「あの件はなくなった」と連絡された。A子さんはショックで体調を崩し、事務所を辞め、故郷に帰ることにした。その後、両者示談交渉中にK氏の方が「恐喝されている」と別の写真週刊誌に訴え出たため、A子さんはフライデー誌での逆襲を決意し、訴訟を検討中ということだ。
    よくある話ですね。ここまでベタな展開というのは最近珍しいくらいだろう。僕は、イキったファッション関係者は大嫌いなので、K氏を擁護する気はない。率直に「キモいやつや」と思う。しかし、フライデー誌と一緒になって彼を糾弾する気にもなれないので、その理由を述べてみる。
    これはお互いの思惑の問題なのだ。女は「コネを作って仕事を得たい」という思惑があり、男には「あわよくば女を抱きたい」という思惑があった。そして、この場合、女のそれは叶わず、男のそれは満たされた。その不公平が女の告発の根源にある。では、別の状況を考えてみよう。まずは、「女の希望も実現せず、男の欲望も満足させられなかった」、つまり、ショウにも出られず、抱かれもせずという場合。 もちろん、それだったら何も起こらなかった。

    「あーぁ、ショウに出たかったなぁ」

    「くそー、あの女を一発イテコマシたかったぜ」
    で終了だ。

    次に、「ショウにも出られたし、抱かれた」という時。 その場合、女は編集長を訴えただろうか。

    「ショウに出してくれた代わりに、ワタシの体を散々貪ったんです!」

    そんな理屈が通用するだろうか。おそらく、「お前カラダで払って仕事買うとるやないか」との批判を怖れて、女は沈黙を守るのではないだろうか。ということは、抱かれたことが問題なのではなく、ショウに出してもらえなかったことが問題ということになろう。

    普通に考えたら(フライデーが読者に期待するように受け取るなら)、「立ち場を利用して、弱い者を搾取した」ということになるのだろう。しかし、上記を考慮に入れるなら、ちょっと様相は違って見えないか。

    お互いに得るものを得たのだから、いいんでないの? と思うのは人権軽視だろうか。古今や洋の東西を問わずそうなのだから、これは男女の性(さが)であり、今後もおそらく改善はされることはない。銀座や北新地もそういう思惑交差点の上に成り立っている。週刊文春が正しいなら(きっと正しいんだけど)、大手レコード会社もそういうコトらしいし。ハリウッドもそうだって北野武監督が言ってたし。広告業界は違うけどね。広告会社に決定権ないから。

    では、「ショウには出してもらったが、抱かれるのは断った」時にはどうなる? 編集長は、涙ながらに告白するだろう。

    「あの女、私の口利きでショウに出ておいて、ヤラせてくれなかったんです!」と。 「私の職業と地位を弄ばれたんです!」

    なぜこれが通用しないのだろうか。ショウに出たいという希望を「夢」などと呼ぶなら、ヤリたいという、この透き通るようなピュアな気持ちはどうしてくれる。「売れたい」も「ヤリたい」も、個人的な欲望という意味においては同等ではないか。それによって一票の格差が是正されるわけでも、食糧危機が解決するわけでもない。

    そのファッションショウの主催者はそもそも「K氏にキャスティングの権利なんてありません」と一笑に付している。たとえあったとして、K氏がA子をショウに出演させる義務も理由もない。特に出したくもない。出すメリットはないのだ。

    世の中には、三種類の人間がいる。善悪を基準に行動する人。正誤で動く人。そして、損得で判断する人。 善悪と正誤は区別がつきにくいかもしれないが、前者はたとえば、規則には背いているけどその方が(倫理的や合理的な意味合いで)善いと考えるから行なう人である。 K氏は損得で動いたのだ。仕事に関わることにおいては、大概の大人は損得で動くと思って間違いない。

    繰り返すが、K氏にA子をショウに出すことのメリットはないのだ。K氏くらいになれば、仕事を得たいモデルや事務所からのアプローチなど毎日のようにあるだろう。それをいちいち善悪で判断して厚意を遣っていたら、ショウなど客千人に対して、モデル五千人とかになってしまう。 逆にA子の方は何を思ってK氏にアプローチしたのだろうか。K氏が進んで推すのは、「お客のためになる、もしくは集客に貢献するモデル」だけだろう。自分がそうでないとするなら、何を求めてK氏に近付いたのか。

    思惑があった。両者に思惑があり、片方はそれを提供したのに、返してもらえなかった。それだけのことなのだ。何かを期待していたのだ。それに応えてもらえなかったから裏切られた気持ちになっただけのこと。

    淋しい話だ。 今後は考え方を改めなくてはいけない。

    「ヤラせたのに、仕事はもらえなかった」。こういう受け身の考え方でいるから、仕事も得られないし、人のせいにする体質のままなのだ。 こういう時は「仕事はもらえなかったけど、とりあえずヤッたった」だ。 そして、「次いこ! 次!」と前を向けば、いつか仕事にも恵まれるだろう。

    「仕事をもらうために、ヤラせるハメになった」は違う。 「ち〇ちんイワしたった上に、仕事までゲットした!」 これぞ一石二鳥。ダブルでハッピーだ。編集長はシングルハッピーだから、君の勝ちだ。

    そんなのは受け容れがたいとおっしゃる向きのために、言っておこう。

    A子さんが過ちを犯したとするなら、「初めての食事とバーのあとにホテルについて行った」ことだ。この時点で断るべきだったのだ。 お金も払われてないのにうどん出しちゃうから食い逃げされるのだ。こういう時はキャッシュオンデリバリーだろう。 ギャングだって 「カネは持ってきたか!」 「ブツを確認してからだ!」 とやるでしょう。

    怖くて言い出せなかったとかいうのは、申し訳ないけど通用しない。大事なことをはっきり言わないと、命だって失うこともあるよ。それが厳しいこの世の中だ。 真珠湾攻撃だって、宣戦布告の声明は出来上がっていた。それなのに大使館員がモタモタしていたがために、歴史に奇襲ということで記録され、我々日本人は卑怯者呼ばわりされる結果となったのだ(ちなみに、その後のどの戦争でも、宣戦布告してからおっぱじめた事例はない)。

    言下に断って仕事を得ないか、こう言って仕事を得ないか、しかない。

    「私は仕事を得るために男の人と寝ることはしません。今夜のことは忘れてください。私はいつか最高のモデルになって、今度はKさんの方から仕事を依頼していただけるようにがんばります。それでいいでしょうか」

    フツーの男なら、こうまで言われてしまっては、あとは 「わかった。これからもがんばりなさい」 とカッコつけて、タクシー代でも握らせて別れるしかないのだ。

    粘り強い男なら 「わかった。仕事は忘れよう。……仕事抜きで、一発ヤラせてくれ」 と純粋な瞳でウィンウィンな提案を持ちかけてくるだろう。 こういう人が結局はのし上がるから、世の中こういう男ばかりですみません。なんで、オレが謝らなあかんねん。

    オレだったらそんな際「うわ、てことは月曜になったら、プロデューサーのあいつと、イベンターのあいつに電話して、このコをなんとか押し込まなあかん!」というプレッシャーに押し潰されて、全然心がのびのびできなくて、アレがのびのびしないもん。律儀か。

    そして、可能性としては、彼女はいつか、故郷へ帰ることになる。 哀しいかなそういうことだ。

    それではあんまりだ、どうすればショウに出られるかって? 知るかい。運だろ、運。 知ってたら、オレが出てるわ。三十九才のおっさんだけど、それをモノともせずにオレが出てるわ。

    「彼女は、死んだのだ」

    こんな駅貼りポスターを目にした。人材派遣会社だったか、転職情報会社の広告で、こんなコピーが書かれていたかと思う。

    • 「大人のあなたを変えるのは、恋と仕事です」
    僕はこれを見て直感的に疑問を感じたのである。「そうかな……?」と。
    いや、正直に申せば、心の中では「なにを甘っちょろいことをヌカしとんねん!」と毒づいたのである。
    ハッキリ言おう。大人を変えちまうのは、「死」なんだよ。
    仕事については異論はない。あの純真だった私を、薄汚れた大人に変えてしまったのは、仕事である。これを書いている本日、私は三十九才になった。一般には働き盛り、つまり薄汚れ盛りである。ハッハッハ。カネよこせ。
    恋で変わるのなんかは大人ではない。恋で変わっていいのは、思春期の人間である。初めて手をつないだ、初めてキスをした、初めて人の肌の温度を知った。こういう一つひとつのステップを経て、人は成長するとするならば、恋によって確かに人は変わるのかもしれない。
    しかしだ、我々大人は、一旦の完成品として(恋愛)市場に製品として陳列されているべき存在である(あ、結婚とかしてるのに、「我々」などと今、ちゃっかり自分も入れた)。
    もちろんマイナーチェンジされることはあっても、完成品として販売されている限り、完成品として市場の過酷な審判を受けるべきなのである。「恋すると変わりますから、ボクを選んでチョ」なんていうポンコツを受け容れることができるだろうか。オトトイ来やがれ、だろう。
    僕が「大人を変えるのは『死』である」と気付いたのは、父親が死んだ時だ。そこでまず、「人は本当に死ぬ」ということを知った。それまでは、死を身近に感じたことはなくて、ドラマや映画の中で死んだ役者が、また別の作品に出てくるような、漠然とした再生可能な感覚があったような気がする。それが、オヤジがいなくなって、もう話すことができないと悟った時、「うわ、本当に死んだんだ。死ぬってこういうことなんだ」ということを徐々に受け入れざるを得なかった。
    それから、自分が三十五才になった時、今度は「うわ、オレの人生もう半分終わったんだ」と知った。僕の家系はあまり長命ではない傾向があるので、七十まで生きれば万々歳だ。だから、普通に考えて半分来てしまったと考えたのだ。
    それ以来僕は「我慢メーターの目盛り」を、「弱」の方向に動かした。「若いうちは我慢だ。勉強だ。謙虚さだ」と思って働いてきたのだが、ふと気付いたら若くもなくなっていた。いつまでも我慢していたら、このまま人生が終わってしまうと思ったのである。
    とはいえ、「辛抱できないオッサン」こそが、切れる若者よりもずっと社会の害悪だということを僕はわかっているので、我慢しないことを自己中心的であることと履き違えないようには注意している(つもり)。
    喩えるなら、「最後に残った唐揚げを放置しない人間」になろうと決めたのだ。衝突を怖れて、一つ残った唐揚げを見て見ぬふりするのではなく、自分で食べるか、誰かにあげることを心がけているのだ。つまらん喩えだったな……。ちっさい人間は喩えも小さい。
    まぁ、とにかく少なくとも「死」によって、大人としての僕は変わったのである。言いたかったのはそういうことだ。
    そして、壊れかけのワタシから、「思春期に少年から大人に変わる」のに不可欠なのが、「失恋」なのであるということも付け加えておきたい。前回、「恋愛と失恋はセットである」と述べたように、哀しいかな、失恋によって少年は大人になっていく。オレは失恋もしたことない人間を、大人の人間とは認めていないぞ。
    失恋に関しては評論家になれるくらいの経験がある私でも、簡単で、素早くて、お得な別れ方というのは未だに指南できない。しかし、これからまだまだ失恋していくであろう前途ある若者に言えることはいくつかある。
    • ■「他に好きな人ができた」
    これは最悪の部類なのでやめておきましょう。「捨てられる」という拒絶感と、「人に取られる」という敗北感をダブルで浴びせる必要はないのだ。
    • ■「友達に戻りましょう」
    戻れたためしはないので、やめておきましょう。「過去に友達だったことなんかねえよ! オレはいつだって、そういうイヤラシイ目で君を見てきたよ!」と、僕なら思うかな。失恋は語れるほど知っていても、恋愛の方は、全然経験したパターンが少なくて申し訳ない。
    • ■「あなたのことが以前ほど好きではなくなったの」
    このあたりが及第点かもしれないな。そう本音を言われると、ちょっとは反省する気になれるかもな(今僕は、過去のあれこれを反省している神妙な顔をしている)。
    • 「そんなこと言わずに、以前のようにボクを好きになってよ!」とか言っても仕方ないしな。前号からの繰り返しになるが、人の心はコントロールできないのだから。
    • ■「お互いのために別れましょう」
    アメリカ人か。
    あいつらはそんなことを言いつつ簡単に離婚して、週末になると子供を迎えに来ては、別れた女房とハグしているから意味がわからん。「お互いのためとか、オレを勝手に含めるなよ。オレを捨てるのは、オレのためにはならん。なぜなら、嫌だから」だ。
    なお、アメリカ人夫婦が結婚二十周年を迎える確率は、半分とちょっとだそうだ(女性で五二%、男性で五六%:National Health Statistics Reports 2012)。
    あ、そうだ。僕は別れる専門家なのではなくて、フラれる専門家なのだった。
    失恋すると色々とウジウジ考える。この未曾有の、経験したことのない辛さに、世界の終わりが到来したかのような気分になる。大変な痛みを伴う、人生の構造改革だ。どう対処していいかわからないから、とりあえずテレビで見たことある「フラれた人が取る行動」をとってみると何か効果があるのではないかと、縋るような思いで考える。酒を飲んでみるとか、雨の中を走ってみるとか、部屋の隅っこで体育座りしてみるとか。
    ハマショーを聴くとか。そりゃオレか。
    残酷な真実を突きつけるようだが、失恋とは、「あなたは私の人生からいなくなってくれて構わない」という宣告である。商品だったあなたが、ついに不燃ゴミになったのである。この屈辱感とか喪失感とか絶望感とかは、なかなか若い心には処理しづらいものだ。
    辱められたような気持ちになって、一部の男は「リベンジ・ポルノ」で仕返しをしようとしてしまう。男はこういう卑劣な反応をしては絶対にいけない。お前の人間としての価値を下げるからだ。しかも、「自分のチ〇ポも写っている」という恥ずかしい事実をわかっているのか、僕はとっても疑問なんだな。
    さて、結論めいたことを言うぞ。女性のことは僕はまったくわからないし、「男性は恋愛の記憶を保存し、女性は上書きする」というからな、あいつら全然アドバイスとか必要としていないからな。主に男性諸君に言うぞ。
    いいか、失恋とは「死」なのだ。
    君ではない。死んだのは彼女の方だ。彼女は死んだのだ。
    失恋も死も、その激痛がどこから来るかといえば、喪失からだ。「もう逢うことができない」という別離の難さ(かたさ)という意味で、本質的には同種だ。
    よく、死んだ人がまだ「心の中で生きている」という表現がある。死に接したことのある人間なら、それが本当に起こり得ることだと理解できるだろう。
    あれの逆バージョンを心の裡で創製するのだ。実際には死んだ人が心の中で生きているように、実際には生きているかもしれない彼女は、君の世界では死んだのだ。いや、実際に死んだものと思え。君の世界とは、君の生きる現実のすべてだ。そこでは、彼女は、死んだのだ。
    敢えてそのように思い込み、自分を説得し、難しくても嚥下し、受諾するしかない。
    それができた時、人の痛みが分かる大人の男が一人、そこにいるだろう。
    そして、「死んだ彼女」が「心の中で生きていて」、「あの世で元気にしてるかな」と、あたかも死者を思うが如く、その幸せを祈れるようになった時、彼女は本当に、君の中で死んだのだ。いや、本当にじゃないんだけど、本当になんだ。この複雑な心理状態こそ、大人の心の複雑さなのだ。
    大人を変えるのは「死」なのだ。
    本当のこと過ぎてポスターには採用されないが、そうなのだ。