月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「ではなんて言えばいいんだろう」

先日、東京の四ッ谷を訪れたところ、ロシアからプーチン首相が来日中のため街宣車と警察車両が出てワーワーやっていた。四ッ谷だけでなく東京の中心ではそこここに警官隊が陣を張り、なにやら厳戒態勢であった。
街宣車から大音量でシュプレヒコールが鳴り響く。
  • 「日本固有の領土である北方領土を直ちに奉還せよー!」
  • 「奉還せよー!」
  • 独裁国家ロシアのプーチンは帰れー!」
  • 「帰れー!」
うむ、正しいことを言っている。
しかし、誰も聞いていない。聞いていないどころか、交差点を行く人々は完全に無視、もしくは迷惑そうな表情を浮かべて道を急いでいる。せっかく正しいことを主張していても、言い方がマズいと聞いてもらえないという典型である。
挙げ句の果てに、なぜか最後は
プーチンコールと相成った。
おいおい、なんかそれは意味が違ってきてる気がするぞ。
まぁ、街宣車の場合は説得とか共感の獲得が狙いではなく、扇動、というか、ほとんど示威がその目的であるのだが、何かを糾したい場合に、人として大人として、どういう言い方をすればいいのか、僕は最近気になるのである。
前回、僕は電車内の迷惑行為について書いたが、メールをくれた先輩がこのように言っていた。
ヘッドフォンがシャカシャカうるさいヤツには肩をトントンしてから、「うるさいよ」と言ってしまう。横入りするオトナには体当たりを喰らわせた後メンチ切りに行く、と。
「うるさいよ」は(「うるせんだよ」ではない)正解だと思うのだが、先輩ほどの眼光と低音ヴォイスがない人には、これすらなかなか勇気がいる。
これが声が高かったりしたら何の効き目もない。
声が高くて、さらに身長が一五五センチ未満の方にもオススメできない。
声が高くて、身長が一五五センチ未満で、ヒゲがやたらと薄い、
もしくは濃過ぎて青々としている向きにもオススメはできない。
声が高くて、チビで、ヒゲ青々で、その上、やや舌足らずな喋り方をする人にも……、もういいか。
それ以外の人にだって、新聞でしばしば目にする注意してプスッとやられたみたいな記事がちょっと頭をよぎるだろう。
こちらは腹が立っているから、いきおい不快感をそのままぶつけた言葉が飛び出してきそうだが、これが果たして最も効果的なのかどうか。僕は疑わしいと思うのだ。
たとえば「てめーうるせえんだよ!」なんて言っちゃた場合、これはその行為をやめてほしいのではなく、ケンカを売っていると受け取られても仕方ない。相手への抑止や忠告ではなく、自分のための鬱憤解消行為だと考えていい。
これはやはり成熟した社会構成員のとるべき行動ではない。
まぁ今僕は冷静にパソコンに向かっているから言えることなのだが、何かをやめてほしいならそれなりの言い方を考えなくてはいけない。
しかし、「申し訳ないですが、やめていただけないでしょうか」などと市役所職員のようにお願い申し上げるのもなんだか癪じゃないか。
うちの近所では夏になると、こんもりとした植込みの植物に発泡酒の缶が置かれていることがある。誰だかわからないが、明らかに駅からの帰路を発泡酒飲みながら歩いて、毎回ちょうどそのあたりで飲み終えて捨てるのだろう。腹立たしい。誰だか知らんがやめさせたい。僕は今度見つけたら、デジカメで証拠写真を押さえて、チラシを作って電柱に貼りたいと思っている。
上記を踏まえて、その際のコピーはどのようにするべきなのだろう。大阪的には「ポイ捨て、あ缶」とか書いてしまうのだが、そこで駄洒落を言うことが抑止効果を高めるとも思えない。
「お供えおおきに。願い事言うてみい」
とでも書こうか。僕は今でも一番いいコピーを考えている途中だ。
僕が以前に仕事で奈良の天理高校を訪れた際、トイレでなかなか洒落た注意書きを目にした。女性にはわかりにくいでしょうけど、男性は小便器の前にオシッコをこぼすことがある。その原因は便器に対して遠くに立ちすぎているからだ。だから、たまに公衆便所では「一歩前に立ちましょう」とかの注意書きが見受けられる。
天理高校では、
「One step forward. Yours is not longer than you think」
とあった。つまり、
「一歩前へ。あなたのは、あなたが思うほど長くないのです」ということだ。私立とはいえ、ユーモアのわかる高校である。
僕は感心した。それで人が一歩前に立つかどうかは別として。いや、おそらく立つだろう。
うちの実家に韓国人の学生がホームステイにやってくるという。彼はアメリカに留学しているから、日本語を学びつつも基本のコミュニケーションは英語になる。
僕のおかんはオシッコは男性も座ってしてほしいのだが、それをわざわざルールとして申し付けるのも気が引ける。そこで、僕に英語で貼り紙を書いてくれと言ってきた。ただし、「オシッコは座ってしてください」という公衆便所みたいな味気のない貼り紙はしたくないという。せっかく彼女なりに雰囲気も考えて装飾したりもしているのに、押し付けがましい注意書きがまず目については台無しというわけだ。
そこで僕が書いたのは、
「Ready. Sit. Pee.」。
もちろん原型は「Ready. Set. Go(位置について、ヨーイ、ドン!)」だ。韓国の彼も笑って従ってくれたらしい。よかった、よかった。
あー、わからない人は辞書引いてください。説明するのは野暮なので。
力抜けるような言い方がいいと思うのだ。
どれだけの人がウィットを解するかわからないが、「ポイ捨て厳禁!」とか「空き缶はくずかごに!」などと、当ったり前のことを今さら大声で言うよりもマシかとは思う。
とはいえ、もっと深刻な問題になるとウィットもヘッタクレもなくなって、人間同士がぶつかり合うことになる。
僕は、大阪で以前に話題になった野外カラオケに歌いに行ったことがある。行ってみると、その日は大阪市役所がカラオケ運営側と路上生活者とその支援者たちと衝突する日だった。行政代執行というやつだ。立ち退きをしない人たちに「代わって」物を撤去し、その費用は立ち退き側に請求するという鬼の手段。
法を盾に正論を掲げる者たちと、生活を懸けてそこを防衛する者たちとの炎の上りそうな睨み合い。
偶然にも、体制vs.抵抗側の対決を目の当たりにして、僕はいささか緊張しながらも事の成り行きを見守った。
路上生活者たちはバリケードを築いて気勢をあげる。双方を合わせて五十人はいるだろうか。バリケード越しに怒声が飛び交う。
  • 「速やかに退去してください!」
  • 「不法占拠に対しては行政代執行を行います!」
  • と言葉は丁寧だが、言い方は怒気を含んでいる行政側に対し、
  • 憲法違反だー!」
  • 「生きる権利を認めろー!」
  • 「暴力による強制退去を許すなー!」
  • 大阪市は卑怯なことをするなー!」
  • と敵対心を露にする路上生活者たち。
まさに一触即発。顔と顔を突き合わせての怒鳴り合いは激しさを増し、騒ぎは頂点に達した。
どうする路上生活者たち!
とうとう殴り合いが始まるのかと思いきや……、彼らは
「ワッショイ! ワッショイ! ワッショイ!」
となぜか、おかしなテンションで盛り上がっていった。
なんか使い方違う気がするぞー。傍観していた僕同様、行政サイドも力抜けたのではないだろうか。
(了)

そんなもんどうにもなるかぃ

まずはこちらのアンケート結果をご覧下さい。
日本民営鉄道協会による二〇〇八年度「駅と電車内の迷惑行為ランキング」である:
ふむふむ、まぁわからないでもない。では次。
「gooランキング」によると「満員電車で困ることランキング」は:
  • 一位 雨の日の湿気
  • 二位 汗のにおい
  • 三位 人のもっているカバン(リュックサックなど)が当たる
  • 四位 香水のにおい
  • 五位 中につめないで、ドアの周りだけ人がたまっている
  • (以下略)
  • http://ranking.goo.ne.jp/ranking/999/jampacked_car/
モニター(サンプル)は、前者がおよそ八百人、後者はおよそ千人で男女半々というから、公正なはずなのだが、この「お嬢ちゃま感」はなんだろう。いくらなんでも、「満員電車で、最も、何よりも、困ること」が「湿気」て……。そんなもんどーにもなるかい。
電車内で、最も困ること、嫌なものの、たまらんものの、第一位は決まっておろうが。
キチガイしかないだろ。
これに反対意見を述べる人がいるだろうか。もちろん、正常な人間で、だ。
ちなみに、いわゆる放送禁止用語というのはテレビ・ラジオの放送における「自主規制」なので、第三者や法律が禁止しているわけではない。だから、こんな個人のウェブサイトで、キチガイは書いていけない言葉ではない。不適切かもしれないが、公共の場に不適切なのはキチガイも同様である。
すまんがそこに愛はない。
愛のある好例として、敬愛する故中島らも氏のブルース曲「いいんだぜ」があるが、残念ながら、あの域に達するほど僕は人間ができていない。これはこれで涙のチョチョ切れる歌なのだが、僕には無理だ。「ぶちこんでやる」ことはできそうにない……。
興味のある方は下記Youtubeででも探してみてください。職場や周囲に人がいる場所で再生する際にはお気をつけあれ。
先日、僕は大阪市地下鉄に乗って、端っこの席に腰を下ろした。車両は席が六割くらい占められている感じで、まぁすいていると言っていい。
奥の方で中年男性が元気に話す声が聞こえてくる。一方がもう一人に、何やらを熱心に説明している様子だった。
「……で、ワシ言うたったんや『そんなわけないやろ』て。でも、よくよく聞いてみると、そいつがな、後藤田さんとこのセガレと知り合いだったんや。な? ところが! や……」
という具合に。しかし、はじめは気にも留めなかったのだが、奇妙なことに、話し声が一人分しか聞こえてこない。二人の会話かと思っていたら、誰も相槌打つ者がいないのだ!
降り際に見たら、全身革ジャン・革パン・革アクセサリーのいかにもアブナそうなおっさんだった。一人で話し続けていた。周りの人は、彼の演説をBGMと扱っていた。
キチガイである。
キチガイで不適切なら、キティガイ。キティちゃんである。
東京の大江戸線に乗った際、込み合った車内で、座席にいる男の前だけ空いていた。そこに立とうとした僕のキティちゃんセンサーが鋭く反応した。
何か目がおかしいのだ。そういう「おかしさ」は表現が難しいが、明らかに違うのだ。
やがて、そいつは膝に置いていたクリアファイルをカプッと口にくわえた。大人しい感じの、キティちゃんだったのだ。
僕は自らの慧眼を静かに誇った。センサーをONにしておいてよかった……。
またある時、近鉄電車で通勤中、電車はよく込んでいた。吊り革の前に立つ僕の横にヨレヨレのスーツを着た太ったおっさんがいた。そいつがまた不快なヤツで、洟をジュルジュル言わせている。その上、洟を拭いたその手で再び吊り革を握る。僕は「吊り革を触れない神経質な人」とか「便器に触れないように空気椅子の姿勢でウ○チする人」とか、以前は理解できなかったのだが(どんな清潔か知らんが、自分かてウ○チしてるやん)、吊り革に関しては最近、大きく揺れた時に最低限しか触らないようにしている。日中に必ず手を洗い、帰ったら真っ先に手洗いとうがいはするようにしている。おかげさまでこの冬は風邪を引かなかった。
こういう不潔なおっさんを目の当たりにすると、なおさらその決意を堅くする。おっさんは時折、小脇に持っている缶から飲み物を啜る。おっさんの立ち位置が車両の端なので、それに気付いた人は車内で僕しかいない。チラッと見た時に、缶が金色だったから、まさかとは思った。だって、朝の八時前の通勤電車である。
しかし、やはりそいつは、発泡酒を飲んでいたのである。
こういうヤツを文庫本の角で「カパーン!」と殴ってやっても、罪にならない条例を作ってくれないだろうか。大阪市限定でいいから。
不況不況と言われて、必死に職探しをしたり、銀行の貸しはがしに遭って奔走している中小企業の社長さんとかがワンサといる世の中で、こんなヤツがのうのうと通勤している。そいつが社長でないことを祈る。僕が社長ならクビにしたいところだ。精神状態は知らないが、行為はキチガイである。キティちゃんまでいかないから、ララちゃんとでもしておこう。
大阪になぜだか多いような気もするのだが、文字通り怒り狂って怒鳴り散らしては駆け回るおばはん。逆に、やたら嬉しそうに笑みを浮かべては跳ね回るにいちゃん。なんか知らんがタイ人の悪口を延々連ねている男、などなどなど。
「暖かくなるとおかしなのが増える」という俗説が本当なのが怖い。天気予報のおねえさんもその内「今週は温帯低気圧が発達しますので、太平洋側ではキチGUYSに充分ご注意ください」と言い出しかねない。
不思議なことに、こういうキティちゃんやララちゃんが、一車両に同時多発したことはない。同じ車両にキティララが揃ったら、そこは修羅場だ。沈黙の修羅場だ。
女性専用車両と同じく、キティララ専用車両を是非設置してほしい。そして、その車両だけ途中で切り離して収容施設に直行してほしいものだ。
なぜそこまで言うかというと、迷惑だからだ。乗客に迷惑をかけない限りアタマがオカシかろうがヤンデいようが構わない。しかし、キティララは恐怖を強いている。
この国においては、万が一そういうキティララに突然プスッといかれて死んだとしても、心神耗弱とか心神喪失とかいって罪が軽減されしまうのだ。下手すりゃ罪にさえ問われない。ただし、被害者が幼児であるとか要人であるとかの場合はこの限りではない気がする。でも、幼児でも要人でもない、僕みたいなただのおっさんが刺し殺されても法は守ってくれない。
自衛の手段としては、「君子危うきに近寄らず」しかないのではないか。キティララを目の前にして、乗客はあたかもキティちゃんなどそこにはいないかのように振舞うが、それでは自衛にならない。露骨に嫌な顔をして、車両を変えるなり、降りるなりして、不快感を表現していいと思うのだ。
キティララ話はこのくらいにして、「満員電車で困ること」の次点は、なんだろう。それは……、満員電車そのものじゃ! ふざけんな。
くっ付きたくもないおっさんにくっ付いて朝から不快か、触れるつもりもない女性に痴漢と間違われて逮捕までされる始末。どっちに転んでもろくなもんじゃない。こんなもんがなければ日本人(特に男性)の平均寿命はもう五年は長いのではなかろうか。海外との比較が好きな日本人に言ってやりたい。
異常ですよ、こんな電車! キチガイですよ!
(了)

「地球のために、ファックミー」

僕の仕事は広告を作ることなのだが、環境広告を作ってくれ、というお題ほど憂鬱なものはない。いきなり矛盾を感じるからだ。
「私らはこんなに環境のためにがんばっています」ということを、たとえ事実であれ、わざわざエネルギーや資源を使って訴えかけることが果たして正しいことなのか。
そこには、「環境負荷が小さい我が社の製品を使ってください。そうすればあなたも環境に貢献していることになります」というメッセージがあるわけだから、まぁあながち間違ってはいない。
ただし往々にして勘違いしてしまうのは、「○○を使うと、二酸化炭素排出量が削減されます」という言葉遣いだ。
「従来品である××や、他社製品である△△を使った時に比べて」という前提なのだが、そこをすっとばしてあたかも「○○を使うだけでCO2が削減される」かのような誘導が行われてはいないだろうか。人間が活動をするならなんにせよ二酸化酸素はプラスになる。プラスはプラスだが、その値が大きいか小さいかの違いだけだ。マイナスにしているわけではない。
もうひとつの勘違いは「○○は地球のためにがんばっています」というような表現。
コピーライターとして、自分の没コピーを人目に晒すのは恥ずかしいのだが、言い出したものは仕方ない。ひとつ言います。僕は先日、環境系の仕事をする際に「ひとえに人へ」というコピー案を書いた。すると、それは没になった。「地球のためにやっているのに、なんだか人間中心ぽいから」というのがその理由だ。
僕は仕事に関しては「泣かぬなら殺してしまえ」タイプだから、あまり自分が書いたものに拘泥して抵抗したり議論したりしない。人がそう思うならダメなのだろう、と割と第一印象に頼って没なものは没にしてしまう。
しかし、これに関して主張させてもらうなら、あらゆる環境活動が「人間のため」なのではないだろうか。いや、没は没でいいのだが、理由に異議ありなのだ。
ゴミを減らしましょう。エネルギーを節約しましょう。CO2を削減しましょう。リサイクルしましょう。これは全て「人間が今後も生きながらえるため」であって、決して「地球のため」ではない。
これを地球のためにやっているなんて思っていることこそ「人間中心的な」考えなのである。
地球が現状のままいたいかどうかは誰にもわからない。気温が上昇していくのは、もしかしたら氷河期が来た時と同様、地球の生理現象なのかもしれない。百歩譲ってそれが人為的な原因によって起こっているとしても、困っているのは地球だろうか。滅びるのは地球ではなく、あくまで人類である。
もう人間などいなくなってほしいから地球が温度を上げているのだとしたら、その場合でも「地球のために、ほな我々は滅びましょう」と言えるのか。
要するに、自分らが存続していくために汲々としているくせに、あたかもそれが誰かのため、母なる地球のためであるかのような偽装をしているのが気に喰わない。
おそらく、本当に気候変動が起こるなら人間は滅びるしかない。そこには選択や努力の余地などなく、有無を言わせぬ力で人類は排除される。自然の力とはそれくらい強大なはずだ。ものすごく寒い気温からものすごく暑い気温までの幅で、人間が生きていられる現在の条件など奇跡のようなものであるはずだ。人間が焼け死のうと、地球にとっては「最近暑おまんなぁ」ってなもんだろう。
中島らも氏が著作の中でこういうことを言っていた。
獣は発情期に限って生殖活動としての性交を行うのに、人間は年がら年中欲情している。獣に対して失礼であるから、今後、タカシはヨウコの乳房を獣のように貪ったみたいな表現が書いてある小説は三流だからそれ以上読まないように、とのこと(だったっけな……?)。
同様に、今日も「緑と青の地球のために」というステッカーを貼ったどこかの社用車を見かけたが、こういう会社は信用してはいけない。
地球が温暖化すれば、一部は砂漠化するかもしれないが、寒冷地にも植物が育ちやすくなるのであるよ。青については知らんけど、緑についてはそういうことが言える。
ほんまに日本中がええ加減にせなあかんと思う。
かと言って、僕がエコ活動をしていないかといえば、そんなことはなく、できる限りのことはしたいと思っている。あくまで「できる限り」だが、その上で人類が生きられない環境にまで気候条件が変わってしまうなら、先述のように、これは仕方ないのである。悲しいが滅びるしかない。
地球もそうだが、国家も同じように考えられないものだろうか。
僕が学校で、日本は軍隊を持たないと教えられた時、アメリカの駐留軍とかPKO国際貢献だってな複雑な事情は知らなかったから、以下のように考えていた。
もしも外国が攻め入って来た場合、日本は暴力には反対したまま負けちゃうんだろうと。でも、その負けは正しいのではないかと。
現在の僕は理想的には、兵力は持たずに、憲法九条に則ったかたちで戦争は完全に放棄するのが正しいと思う。憲法九条は、もう一度言う、「理想的には」世界に誇って堅持できればいいとは思う。それを手に入れた経緯が「こっぴどくやられたから懲りた」というカッコ悪いものなので、この点が誠に口惜しいが。
まぁ、理想ばかりでは国を守れないから自衛隊を持つとしよう。で、アメリカには出て行ってもらう。他国の軍事基地があるなんてのは、普通の感覚で考えたら、平等な二国のすることではない。
もしも外敵が攻めて来た場合、独力で最善を尽くして国を守る、としよう。あくまでも守る。決して攻め入らない、としよう。
こんな戦い方は不利だから、負けた場合、日本は滅びる。国連がどう動くかは知らないが、とにかく「戦争を永久に放棄した日本という国がかつてあった。しかし、それがために他国に滅ぼされた」という歴史的事実が残る。

となると、理想というのは生き残るためには邪魔になることもあるのかもしれない。

もちろん、日本がなくなることは望まないが、正しい道を歩んで消え去る。こういうことが起こり得る、というキツイ想定をした上で、一旦理想は措いて、国について考えなくてはいけない。

地球に話を戻すと、ちゃんと「人間世界のために」と言わないのは欺瞞なのだ。理想は「人と地球のため」だが、本当は「なんとしても人類が存続するため」だ。「地球ヤバイ! でも全人類、火星に住める!」ってなったら、ガンガン移住するかもしれないだろう。 だけど、人間は結局人類が滅ぶことなんて想定してはいない。それはハリウッド映画の中だけの話だ。だからこそ「地球のために」なんてフワッとしたことがいえるのではないのか。

人間たるもの、生き様同様、死に様も考えなくてはいけないのではないか。終わりはいつか来るのだから。
今回、ウ○コチ○コの話は全くせずに悲しい話をしてしまいました。すみません。次回はもっとウ○コチ○コについて自由闊達な議論ができるようがんばります。
(了)
P.S. しかしながら、正しい敗北というのは歴史では認められないのである。勝者こそが正しい。悲しいかな、これが歴史なのだ。それを知っている日本だからこそ、負けてはいけないのだ。

「ごまかしましょう。それではサン、ハイ!」

勤め先の廊下を歩いていると、ふいにギュインギュインギュインと音が聞こえてくる。任天堂Wii零〜月蝕の仮面〜」というゲームで、幽霊に遭遇した時の効果音にそっくりなのだが、こんな説明でわかる人はいないだろう。
確かに気持ちのいい音ではないが、これはうちの会社ではウォシュレットボタンの脇にある「消音ボタン」で出る音なのである。主に女性だろうが、おしっこのジョロジョロ音や、う○ちのポットン音をごまかすために、このギュインギュイン音をお使いになる。でも、僕はあの音を聞く度に、反射的に「あ、誰かおしっこしてはる」と思うのである。
つまり、おしっこしていることをわざわざ教えているようなものなのだ。ジョロジョロの生音でではなく、ギュインギュインの人工音で。ということは、掻き消す音であればなんでもよいのではないだろうか。ピヨピヨピヨピヨのヒヨコ音でも、ズッドーンのバズーカ音でも、ゴゴゴゴドドーンのスペースシャトル音でもいいのではなかろうか。
その日の気分で選べるようにしてはいかがだろう。
  • 「めっちゃおしっこしたいから、ピヨピヨでは足りへんわ。ウシガエルの鳴き声にしましょう」
  • 「今日はどうもユルいから、ここはひとつ乾いたハイウェイを疾駆するコルベットの音でいこうかしら」
  • 「ずっと便秘してたのに、やっと出てうれしいから、鳴り止まぬ拍手喝采の音にしてみよう」
とかとか、またひとつ一日の楽しみが増えることだろう。
それにしても、ごまかせればなんでもいいのなら、なんなら、本物よりも大きな音でジョンロジョロロロ〜! とか、ピュ〜〜〜ポッッットーン! とかブリブリブリー! でもいいということにはならないか。
僕にはあのボタンを押すということは「はい、今ワタシ音立ててウ○コシッコしてますから、もっと大きな人工音でごまかしますね、それでは、サン、ハイ!」という感じがして余計に恥ずかしいと思うのだが、どうだろうか。
そう思う僕と、なんでもいいからごまかしたいと思う女性は、羞恥心対決ではどちらに軍配が上がるのだろうか。
ちなみに、男性トイレからはギュインギュインは聞いたことない。もっと言えば、ギュインギュイン以外にも、ジョロジョロもポットンも男性トイレから、廊下にいる僕にまで聞こえたことはない。ということは、あんなモン不要なのだ。わざわざ大きな音を作り出して、自分がここで用を足していることを教えているようなものなのだ。
いくつになっても女性の行動には謎が多い。
細く見える服とか、目が大きく見えるメイクとか、僕だったら、細く見える云々ではなく、細くなるようにジムに行くなり、食事を制限するなり考えるし、目なんか大きくも小さくもならんと思っている。
寄せて上げて、そんでどやねん。僕らが興味あるのは、それを取った時なのであって、その以前にどう細工しようが知ったことではない。商品でいえば、包装が華美であることと同様なわけで、「立派やね」とは思っても、「せやからどないしてん」なのである。
仮に、おしっこ音を人工の音で糊塗することを、1ギュインとする。
【1ギュイングループ】
  • ・目の周りにもっと大きな黒を塗って大きく見せる。
  • ・コーヒーに砂糖も入れないくせに、コラーゲンの粉末(みたいな気持ち悪いモン)は入れる。
  • ・靴底に敷きたくなるくらいフッカフカのパッドを装備したブラをする。
こんなところだろうか。
【〜5ギュイングループ】
  • ・Yゾーンのみならず、Iゾーンまで毛の処理をする。僕なら、病気でやむを得ない事情でもない限り、恥ずかしくてゴメンだ。
  • ・Iゾーンのみならず、Oゾーンまで処理する。なんのことやらわからない男性諸氏のために説明すると、Iゾーンはあそこの両サイド。Oゾーンとは黄門さまの周辺である。ドラゴンアッシュ降谷建志が「KJ」と改名したそうだが、これからのKJは「Koumon wo Jomou suru」ことだ。KYの次に来る言葉だから覚えておくこと。
こういうことにさせてもらおう。
【〜10ギュイングループ】
こうなってしまう。
みなさん、くれぐれも気をつけましょうね。
何を恥ずかしがるべきなのか、物事の本質を見つめましょう。
(了)

「今でもそういう夢を見る」

夜の十時頃の仕事帰り。僕が電車を降りて駅から家への道を歩いていると、集団下校の小学生たちとすれ違う。夜の十時である。つまり、塾からの帰りなのだろう。塾の先生に引率されて駅に向かって歩いているのだ。最近は防犯意識が高まって、塾側もそこまでしないと、お子さんを預かる責任を負えないのだろう。ご苦労様でございます。
それにしても、何度も言うが、夜の十時である。僕は十時に帰ろうが、徹夜しようが、その分お給料をいただいているホワイトカラー労働者なのでいいのだが、小学生の子供が、そんなサラリーマンのような生活をしていいのだろうか。常識で考えればいいわけがない。だって、十時に塾が終わって、帰宅して十時半。お風呂に入って、歯磨きしてたらあっという間に〇時になるじゃないか。
小学生が、業界用語で言うところの「テッペン越え」をしていいのは、大晦日の晩だけだ。
少なくとも、僕の頃はそうだった。「八時だよ! 全員集合」を見たら寝るのだ。「イレブンPM」をコッソリ見たのは中学になってからだ。
しかし、そういう僕も小学校の時分から塾通いはしていた。それでも、言わせてもらう。いや、だからこそ、言うぞ。
小学生を深夜まで働かせるな。
勉強を働かせると呼ぶのが適当でないなら、使役させるな。
なぜなら、僕は今でも、「これから塾に行かなきゃいけないのに既に遅刻している。しかも、宿題が全然できていない!」という悪夢を見るからだ。
シチュエーションはいろいろだ。見知らぬ駅だったり、どこか外国のキャンパスだったりだ。そして、決まって教科は、僕の苦手な数学とか化学とかである。
僕は塾や教室に行きたくないのに行かなきゃいけないジレンマと戦う。行かなきゃいけないのに場所がわからない焦りと戦う。そして、なのに宿題が全然できていない悔恨と戦うのだ。
夕暮れの構内を走って、階段を駆け上がり、席を探して、知り合いを見つけて少し安堵する。先生が何を言っているのかわからずまた焦りだし、テスト用紙が配られる頃には「ハッ、ハッ、ハッ」と短く早い呼吸を繰り返している。
そういう夢を今でも見る。
僕自身としては、塾が嫌で嫌で仕方なかったという記憶はないし、むしろ自分で希望して通っていたはずなのだが、そういう夢をしばしば見て寝汗をかくということは、深層心理としては苦しみがあったのだろうか。
以下に述べることは、いろんなオトナの議論は無視して、当時の僕が「ほな、どうしてほしかったか」ということを記憶を頼りに書いたものである。
ちなみに僕は、公立の小学校を出ている。
とにかく、公立学校の授業のレベルを上げてほしかった。「フン」と思う方もいるかもしれないが、とにかく当時の僕が本当にそう思っていたことは確かである。神童のボクちゃんとしては、国語の授業でみんなで声を合わせて文章を音読させられるのが大嫌いだった。めっちゃ遅いからだ。目から頭にはどんどん文字が入ってくるのに、声に出せるスピードが異常に遅いから、要するにフン詰まりのような気持ちにさせられたものである。
先んじてスラスラ読み上げると、先生から「誰だー!?」と言われる。
僕の時代は、まだ運動会の徒競走を「みんな一列で手を繋いで」させられるような末期的状況には至っていなかった。それでも、義務教育に「伸ばすべきを伸ばす」という発想はなかったように思う。
僕が望んだように、授業のレベルを上げるためには、レベルごとにクラスを分けなくてはいけないし、そうなると科目ごとにレベル分けするのが適当かと思われる。
そうすれば、国語はできるが、理科は苦手という子供もそれぞれ自分のレベルに合った授業を受けられる。中には、体育や図工含め、全ての科目でトップのクラスという秀才クンもいるだろう。
反対に、全てダメでしかも、そういうヤツに限って忘れ物は多いし、家はビンボーだし、おもしろくもないし、嘘つきだし、子供のくせに鼻毛出てるし、机の中に隠してたパンにカビが生えてるし、みたいなサイテーな子もいるだろう。哀しいかな、それが現実だ。
そういう子は、そのビリクラスの中で、義務教育として受けるべき最低限の知識や教養と、人間としての道徳を学び、そのクラス内で評価を受け、卒業する。
それでいいではないか。
「そのクラス内で評価」というのが大切で、全体を最低レベルに合わせるからこそ、その子は学校にいる間中ずーっと最低の位置を味わうのであって、レベルごとに分けてしまえば、もしかしたら最低クラスの中で科目によっては、少し上に浮上できるかもしれない。味を占めて、そのクラスの真ん中くらいまで行けたら、どういうことが起きるか。
つまり、今までビリしか知らなくて自分はいつもビリだと思い込んいた子が、初めて真ん中の成績を経験できるのだ。画期的な出来事ではなかろうか。
あえて実力別に分けることで、そういう救済が可能になるのだ。勘違いであっても、そういう思いをして伸びていくヤツも、中にはいるかもしれないではないか。
この国の危険性というのは、「最低レベルに合わせた教育を広く与えて」きたことだ。だから、レベルが落ちていくし、伸びるべき人間が伸びないのではないだろうか。
世の中は競争社会で、格差も差別もある。僕は市場原理主義には反対の者であるから、規制やルール決めはあって然るべきだと思う。
しかし、人間は平等ではないというところから教育をスタートさせないと、現実との乖離に結局苦しむのは、子供が大人になったその時なのだ。
あるお笑い芸人が「エロスで人を支配できる」ということを話していた。それは、中学生くらいでエロスの知識がやたらあるというのは、勉強ができることや面白いということと同じくらいの尊敬を得られるということであった。
だから、修学旅行にエロ本を持って行くと、「すげぇ〜」と、その勇気を称える眼差しが集まり、人が言うことを聞くようになる。つまり支配力さえ手に入る、と。
なるほど、である。勉強できない者はできないなりに、自己主張の方法を編み出せばいいのだ。それが本当の意味の競争なのだ。
一方、最高クラスの子供には最高レベルの学習をさせるから、塾なんて行く必要はなくなる。お金も時間も節約できる。
その分は、宇宙科学の研究をしてNASAを目指すもよし、エロス研究をして、勉強もすごいがエロスもすごいという最強の青春を過ごすもよし。ただし、部室で最強、女子からの人気は最低となるだろう。
そういう部分にも、人生を学べるチャンスは転がっている……。
大いに悶々とすべし。深く悩むべし、若者よ。
中年にさしかかった僕ですら、塾の悪夢を見る以外の夜には、「モテたいよ〜、モテたいよ〜」と寝言で言っているくらいなのだ。君らには何もわかるまい。
「科目ごとの実力別クラス分け」に加えて、「給食で嫌いな食べ物は残してもいい」という寛容さも是非採用いただきたい。
僕はガキ大将だったから、昼休みには率先してドッヂボールや蹴り野球に飛び出していく子供だった。しかし、給食にグリーンサラダやコールスローサラダが出る度に、僕は席に残され、食べられるまでいつまでも残され、掃除の時間が始まって、先生にカンベンしてもらえるまで残されるのだった。
高学年になると、ハナから生野菜はもらわなかったり、言うことを聞きそうな友人に押し付けたりというサバイバル方法を発明してなんとかやって来れた。それにしても屈辱であった。
人間なのだから、好きなものも嫌いなものもあろう。
それは個性だ。 好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとはっきりして何が悪い。 それは意見だ。 自分の意思で決めているのだ。 それは選択だ。
    何でも食べられるなどという人間は、将来、誰とでもセックスできるような野卑な人間に育つに違いない。
    それは、……偏見だ。
    (了)

    「地元で生きて、地元で死んでいく彼らへ」

    年末に立て続けに同窓会があって、なんだか形容しがたい不思議な気持ちでこれを書いております。月曜日に中学の同窓会、火曜日には高校の同窓会。後者は幹事団が半年以上も準備して実現してくれた大規模なもので、それは素晴らしいイベントになった。
    でも、今回は前者である中学の同窓会について書こうと思う。僕が生まれ育った町というのは東京都練馬区の住宅街で、東京以外の人にはわかりにくいであろうが、閑静でもない、かといって寂れてもいない住宅地である。商店街があって、小さな公園がそこここにあって、神社があって、ネコが歩いている、ごく普通の町だ。
    ここ最近は、駅前が再開発されて、「本屋が潰れ、パチンコ屋が巨大化する」という下流化の進行が認められるが、それもよほど条例が厳しい地域以外なら日本全体で起こっている由々しき潮流のひとつに過ぎない。僕の力では何もできないので、「少なくとも僕は行かない」という選択をする以外にない。
    僕はそういう町の公立中学を出た。中学、高校、大学、会社と、階段を上るごとに付き合う人間は同一化されていく現象を、今回実感させられた。つまり、高校は同じ程度の学力の者が入ってくるし、大学はさらに同じ選考を通過した者の集まりで、会社に至っては知識レベルや興味の範囲、人生への考え方までもある共通項を持った人間が集約されている。
    だから、人は益々同じような人種としか付き合わなくなっていくのだが、公立の小学校、中学校というのは「偶然同じ地域に住んでいる」という以外、なんの選考もかけられていない(厳密には身体や知能検査などがあるのだろうが)者同士が一緒くたに教室に入れられるから実に雑多な人種と(あえて人種という言葉を使う)出会うことができる。
    そこが公立学校のいいところで、醍醐味ともいえる部分だ。幼稚園や小学校から私立に入って、そのままエスカレーター式なんてのは、社会の上の方の表面でプカプカ浮いているだけの経験としか、僕には思えない。スープを底の方から掻き混ぜてみると、むせ返るような辛いのやらしょっぱいのやら、得体の知れない物体が上がってきて、でもそれらの一緒くたこそが、あとを引く本来の味なのである。
    中卒で防水工の職人をしている、当時パンチパーマに短ラン、ドカンズボンだったM君。彼は京都奈良の修学旅行前に先生から「標準の制服を着るか、参加しないか」という選択を求められ「じゃあ行かねえよ」の一言で、思い出作りを放棄した。今は二児のパパ。
    僕が最後に会ったのは高一の夏で、一緒に初めてのアルバイトをしたY君。人の触れられたくない部分を執拗に小突き回す習性は全く変わっていなかった。独身。彼も防水工をしている。防水工というのは、住宅などの建造物に防水処理を施す専門の仕事である。
    中二の時に転入してきたN君。転校生の宿命として、ツッパリ君(当時ヤンキーという呼称は東京では一般的でなかった)らの洗礼を受け泣いてしまった彼も、立派に仲間入りを果たし、……防水工をしている。
    僕は小学校から一緒だったO君にも会いたかったのだが、その日は不参加。彼は中三の時、英語の授業で習った「スタンド・バイ・ミー」の曲が気に入り、僕に歌詞を紙に書いて教えてくれと言ってきた。僕もその歌が好きで歌詞は暗記していたので「When the night has come……」で始まる歌詞全文を書いてやると、「英語だと読めないから、カタカナで書いてくれ」と言ってきた。
    ウェンザナイト ハズカム……。
    彼はたいそう喜んで、その日いつまでも「ウンヌナイ!」「ウンヌナイ!」とベン・E・キングのモノマネで出だしのみを歌っていた。そんな彼は中学浪人をして、一年遅れて高校進学。その後中退したのしないのという噂だけ聞いていた。今は、防水工をしているという。彼らは皆、会社は違うが現場で会う仲間だという。
    練馬では昨今、水が漏れて漏れて大変なのだろうか。
    ツッパリのリーダー格だったI君が、僕をさん付けで呼んでくる。仕事帰りだった彼はスーツを着てネクタイをしている。彼は高校中退後、「函館に女と駆け落ちした」と聞いていた。その日確かめてみたら、事実だった。
    「そうそう、高校三日で辞めてさ。暴れちゃったのよ、うん。でさ、せっかく親に高校入れてもらったのに、居られないじゃん。そん時は女がいたからさ、函館に行ったのよ。でも、中卒で仕事なんか無いよね。だから、屋根に雪止めを付ける仕事してさ、その後東北の方でホテルが出来るからそっちに来ないかって言われて五年くらいいたのかな、うん……」
    穏やかに話す彼の目から、僕は目が逸らせなかった。なぜか二重瞼になっていたが、触れようとも思わなかった。そこを前述のY君がしつこく突いていた。やめたれ、やめたれ。そういうお前はあの頃気にしてた包茎手術はしたのか。
    I君がお店の人に「ウーロン茶割りか、緑茶割りか、なんかそんなの」と注文しているから、僕は「そんなテキトーでいいの?」と心配してしまった。値段が違うかもしれないし、お店の人も困るだろう。
    「うん、大丈夫。この店、中学の頃から来てるから」
    そうか。納得。
    「相変わらずいい声ね」と女性に褒められ「じゃカラオケ行こか」と間髪入れずに言うM君や、まさかあのI君が人の焼酎水割りを作ってくれてる横顔を見ながら、僕は正直、「カッコイイな」と思った。
    羨ましくはないが、労わりたい気分になったし、お互いがんばっていこーゼと言いたかった。
    これこそ、同窓会の魅力であり、魔力か。
    女性は四人が皆子持ちで、それぞれ精一杯背伸びしながら生きている。さっき公立中学に行ってよかったと同意していたくせに、自分の子供をインターナショナル幼稚園に通わせてたヤツもいる。
    誰が誰と結婚してセレブ生活しているとか、子供をどこそこの中学に入れたいとか、アトピーとかは第一子に出やすいから母乳にこだわる必要はないとか、ヤクルトレディはまた買い取りにシステムが戻ったとか、あんたが付き合ってた誰々ちゃんは大地主の娘でラブホテルなんかも経営してたとか、ダンナがこれから麻雀に行くらしいから、私が代わりに家に帰らなきゃとか、なんとかかんとかで夜は深けていった……。
    彼らは、おそらく地元で生まれて、地元で生きて、そして地元で死んでいく。中学はおろか、小学校や幼稚園から知っている友人たちと一緒に飲んで、騒いで、年をとっていくのだろう。ちゃんとモノをつくって、正直なお金を稼いで、子供を学校に入れて、でもやっぱりその子も中退しちゃったりなんかしながら。
    それはそれで素晴らしい生き方で、むしろその方が「普通」のことかもしれないし、そういうささやかな生活が日本のどこの町でも成り立つような、そして繰り返されていくような仕組みが続くといいな、と僕は思った次第なのだ。
    人生は選択の連続で、正解はひとつじゃない。たまには不正解も混じっているかもしれないけど、正解のかたちは多ければ多いほどいい。時代は大きく移ろいで、何もかも崖の先端まで追い詰められて、あとは地面ごと瓦解していくだけのような認識を示す言説が、メディアを通して送られてくる。でも、もしかしたらそうではない。いや、たぶん、きっと、そんなことはないのではないか。
    そういう危機を煽る発言さえも、発信者が自身の生活を守るために味付けをしているということを考慮に入れなければいけないのではないだろうか。
    きたる新しい一年も、皆様のもとに小さな幸福が訪れますように。
    (了)

    「三十三才の誕生日に、また言ってはいけないことを言おう」

    会社でセクハラの意識啓蒙ビデオを見せられた。内容は、いわゆる「えっ、こんなこともセクハラなの!? どうして?」という、男性社員が犯しがちな事例集とその解説のかたちで構成されていた。
    それを我々社員は、失笑と苦笑でもって鑑賞するのだが、その中でこんな件があった。「女性社員を○○ちゃんと呼ぶのは、女性を半人前扱いしているからセクハラである」という。そして、それを例証するためにこんな状況を提示していた。
    • 部長:「クミちゃん、これコピーお願い」
    • 女性:「はい、タケチャン。すぐにします」
    • 社員一:「おーい、山ちゃん、電話だよ」
    • 社員二:「プレゼン行ってくるから。コーちゃん、あとよろしく」
    というような会話がオフィスに飛び交い。ナレーションが、こういう状況はおかしいでしょう、と問いかける。
    僕の感覚から言わせてもらえば、唯一おかしいのは、上司に対してちゃん付けで呼んでいる点で、あとは全然おかしさは感じないし、むしろこんな職場があったらかなり幸せなことなのではないかとすら思ってしまう。
    日本の知識層が大好きなアメリカだって、ファーストネイムで呼び合うのはちゃん付けみたいな気安さと同義なわけだ。職場の人間なんて、家族よりも長い時間を一緒に過ごすわけで、僕は最低限の礼儀さえ押さえれば、あとはちゃんで呼ぼうが渾名で呼ぼうが構わないのではないかと思う。
    実際に、僕の同僚にも下の名前にちゃん付けで呼ばれている女性がいて、その人を同職階の他の人間と同様に姓呼び捨てで呼ぶと、どうも違和感がある。なんかエラソーな感じがするし、正直、ちゃん付けで呼ばれることは特権的なことだとすら言えるのである。おそらく、多くの人が彼女のようにちゃん付けで呼ばれるくらい職場に受け入れられたいと思っているし、僕も自分が下の名前で呼ばれることはうれしいことであり、決して侮辱的に受け取ったりはしない。
    結局のところ、「相手が嫌がることをしてはいけない」という一点に議論は集約されることになり、「ちゃんで呼ばれたいくない人をそう呼んではいけない」というだけのことだ。「ウンコちゃん」という渾名を付けられて、それが嫌だからやめてほしいのと同じで、そんなものは小学校でも教えられている当然のことだ。
    問題は「嫌かどうかの判断はその行為をする人による」という、とっても恣意的な部分である。
    「あの人にはエリちゃんって呼ばれていいけど、この人には呼ばれたくないからセクハラですっ!」だなんて言える人の方が、人を年齢や性別や地位で差別しているではないか。
    若くてきれいな男性社員や同僚の女性社員からは良くて、若くもなくてきれいでもないオジさん係長からはいけないなんて、差別以外の何物でもない。
    我々サラリーマンにとっては仕事なんて「嫌なこと」だらけで、納得できない値引きとか、終わりなき残業とか、お偉いさんの的外れな意見とか、ほんまにナニハラでもいいから訴えるところがあるなら訴えたいわ……。
    男女平等を勘違いして受け取っちゃった人たちがおかしな行動をとり始めて、一時期問題にされたことがあった。学校で体育の着替えを同室でさせるとか、運動会で男女混合で騎馬戦させるとか、トイレのマークを男女統一にして混乱を生むとか。
    いや〜、世の中なにが恐ろしいかって、マジメなバカほど恐ろしいものはない。こういう人たちが戦争を始めるんだから注意した方がいいよ。
    「能力や性質において、男女が平等ではない」なんてことは、誰しも薄々気付いていることなのだから、あたかも「男女は同じ」だなんて幻想を教えない方がよいのだ。
    むしろ、「男と女がいかに違うか」ということを伝えた方が、生きていく上では役に立つ。
    僕はこれを知らなかったから若い頃にだいぶ苦労したり失敗したりしたものだ。だって、全然違うのだ。男が男に接するのと同じ気持ちで女性を扱うとヒデエ目に遭う、という厳しい現実を知っておいて損はない。
    特に、性に対する態度はお互い理解できなくて苦しむ部分であろう。男が女の裸を見るだけのために年収の何%を費やしているか、女性は知る由もない。喫煙所に放られている週刊誌の袋とじがどれくらいの割合ですでに開けられているか。透明人間になれる薬にどれほどの需要があるのか想像することもできまい。
    天気の話が当たり障りのない会話の導入として用いられるように、男にとってエロス話というのは、「誰しも興味のある話題」として広く受け入れられ、それはあたかも「冬のカニ」とか「腰痛が治る体操」の如く、皆が「へぇ〜」「そうなんだー」と共感を持って聞いてくれるものなのだ。
    「ここをそうするとドライバーショットが曲がらない」とか「ちょっとポン酢を入れるとおいしい」とか「あそこでセールやってる」とかと、何ら変わらぬ次元に「○○を××すると***だ」とかの話があるわけだ。そこをわかってほしい。
    それで、オジさんがよかれと思って女性同席の場でエロスに言及してしまう。まぁ、僕もよくやるのだが、こういう「男女平等扱い」はほとんど否定され、引かれたりセクハラ呼ばわりするのである。
    繰り返すが、よかれと思って、だ。
    金銭を詐取しようとしてしょーもない犯罪で捕まった人を見て、「そりゃぁお金は誰しもほしいけどさー、それはやっちゃダメでしょう」などと口にすれば、周りの人はウンウンと頷くだろう。
    でも、女子高生を買春して捕まった人に対しては「そりゃぁ誰しも女子高生のおっぱい触りたいけどさー」とは言えないのである。思っていても、言えないのである。でも、我々男性には、ウンウンという同意の声が心に伝わってくるのである。
    結果として、秘密を共有した同志のように、男ばかりの結束がより固くなり、結局男女はわかり合えないまま歴史は続いていくのである。
    (了)