月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「地球のために、ファックミー」

僕の仕事は広告を作ることなのだが、環境広告を作ってくれ、というお題ほど憂鬱なものはない。いきなり矛盾を感じるからだ。
「私らはこんなに環境のためにがんばっています」ということを、たとえ事実であれ、わざわざエネルギーや資源を使って訴えかけることが果たして正しいことなのか。
そこには、「環境負荷が小さい我が社の製品を使ってください。そうすればあなたも環境に貢献していることになります」というメッセージがあるわけだから、まぁあながち間違ってはいない。
ただし往々にして勘違いしてしまうのは、「○○を使うと、二酸化炭素排出量が削減されます」という言葉遣いだ。
「従来品である××や、他社製品である△△を使った時に比べて」という前提なのだが、そこをすっとばしてあたかも「○○を使うだけでCO2が削減される」かのような誘導が行われてはいないだろうか。人間が活動をするならなんにせよ二酸化酸素はプラスになる。プラスはプラスだが、その値が大きいか小さいかの違いだけだ。マイナスにしているわけではない。
もうひとつの勘違いは「○○は地球のためにがんばっています」というような表現。
コピーライターとして、自分の没コピーを人目に晒すのは恥ずかしいのだが、言い出したものは仕方ない。ひとつ言います。僕は先日、環境系の仕事をする際に「ひとえに人へ」というコピー案を書いた。すると、それは没になった。「地球のためにやっているのに、なんだか人間中心ぽいから」というのがその理由だ。
僕は仕事に関しては「泣かぬなら殺してしまえ」タイプだから、あまり自分が書いたものに拘泥して抵抗したり議論したりしない。人がそう思うならダメなのだろう、と割と第一印象に頼って没なものは没にしてしまう。
しかし、これに関して主張させてもらうなら、あらゆる環境活動が「人間のため」なのではないだろうか。いや、没は没でいいのだが、理由に異議ありなのだ。
ゴミを減らしましょう。エネルギーを節約しましょう。CO2を削減しましょう。リサイクルしましょう。これは全て「人間が今後も生きながらえるため」であって、決して「地球のため」ではない。
これを地球のためにやっているなんて思っていることこそ「人間中心的な」考えなのである。
地球が現状のままいたいかどうかは誰にもわからない。気温が上昇していくのは、もしかしたら氷河期が来た時と同様、地球の生理現象なのかもしれない。百歩譲ってそれが人為的な原因によって起こっているとしても、困っているのは地球だろうか。滅びるのは地球ではなく、あくまで人類である。
もう人間などいなくなってほしいから地球が温度を上げているのだとしたら、その場合でも「地球のために、ほな我々は滅びましょう」と言えるのか。
要するに、自分らが存続していくために汲々としているくせに、あたかもそれが誰かのため、母なる地球のためであるかのような偽装をしているのが気に喰わない。
おそらく、本当に気候変動が起こるなら人間は滅びるしかない。そこには選択や努力の余地などなく、有無を言わせぬ力で人類は排除される。自然の力とはそれくらい強大なはずだ。ものすごく寒い気温からものすごく暑い気温までの幅で、人間が生きていられる現在の条件など奇跡のようなものであるはずだ。人間が焼け死のうと、地球にとっては「最近暑おまんなぁ」ってなもんだろう。
中島らも氏が著作の中でこういうことを言っていた。
獣は発情期に限って生殖活動としての性交を行うのに、人間は年がら年中欲情している。獣に対して失礼であるから、今後、タカシはヨウコの乳房を獣のように貪ったみたいな表現が書いてある小説は三流だからそれ以上読まないように、とのこと(だったっけな……?)。
同様に、今日も「緑と青の地球のために」というステッカーを貼ったどこかの社用車を見かけたが、こういう会社は信用してはいけない。
地球が温暖化すれば、一部は砂漠化するかもしれないが、寒冷地にも植物が育ちやすくなるのであるよ。青については知らんけど、緑についてはそういうことが言える。
ほんまに日本中がええ加減にせなあかんと思う。
かと言って、僕がエコ活動をしていないかといえば、そんなことはなく、できる限りのことはしたいと思っている。あくまで「できる限り」だが、その上で人類が生きられない環境にまで気候条件が変わってしまうなら、先述のように、これは仕方ないのである。悲しいが滅びるしかない。
地球もそうだが、国家も同じように考えられないものだろうか。
僕が学校で、日本は軍隊を持たないと教えられた時、アメリカの駐留軍とかPKO国際貢献だってな複雑な事情は知らなかったから、以下のように考えていた。
もしも外国が攻め入って来た場合、日本は暴力には反対したまま負けちゃうんだろうと。でも、その負けは正しいのではないかと。
現在の僕は理想的には、兵力は持たずに、憲法九条に則ったかたちで戦争は完全に放棄するのが正しいと思う。憲法九条は、もう一度言う、「理想的には」世界に誇って堅持できればいいとは思う。それを手に入れた経緯が「こっぴどくやられたから懲りた」というカッコ悪いものなので、この点が誠に口惜しいが。
まぁ、理想ばかりでは国を守れないから自衛隊を持つとしよう。で、アメリカには出て行ってもらう。他国の軍事基地があるなんてのは、普通の感覚で考えたら、平等な二国のすることではない。
もしも外敵が攻めて来た場合、独力で最善を尽くして国を守る、としよう。あくまでも守る。決して攻め入らない、としよう。
こんな戦い方は不利だから、負けた場合、日本は滅びる。国連がどう動くかは知らないが、とにかく「戦争を永久に放棄した日本という国がかつてあった。しかし、それがために他国に滅ぼされた」という歴史的事実が残る。

となると、理想というのは生き残るためには邪魔になることもあるのかもしれない。

もちろん、日本がなくなることは望まないが、正しい道を歩んで消え去る。こういうことが起こり得る、というキツイ想定をした上で、一旦理想は措いて、国について考えなくてはいけない。

地球に話を戻すと、ちゃんと「人間世界のために」と言わないのは欺瞞なのだ。理想は「人と地球のため」だが、本当は「なんとしても人類が存続するため」だ。「地球ヤバイ! でも全人類、火星に住める!」ってなったら、ガンガン移住するかもしれないだろう。 だけど、人間は結局人類が滅ぶことなんて想定してはいない。それはハリウッド映画の中だけの話だ。だからこそ「地球のために」なんてフワッとしたことがいえるのではないのか。

人間たるもの、生き様同様、死に様も考えなくてはいけないのではないか。終わりはいつか来るのだから。
今回、ウ○コチ○コの話は全くせずに悲しい話をしてしまいました。すみません。次回はもっとウ○コチ○コについて自由闊達な議論ができるようがんばります。
(了)
P.S. しかしながら、正しい敗北というのは歴史では認められないのである。勝者こそが正しい。悲しいかな、これが歴史なのだ。それを知っている日本だからこそ、負けてはいけないのだ。