月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「衆院解散前に先手マニフェスト(続き)」

前回に引き続き、マニフェストをお送りします。
【声出し禁止】
これを見て、どうせスケベな話だろうと想像された方は、お間違いです。
先日、うちのおかんがドイツに旅行に行った。おかんが泊めてもらった同級生の旦那さんがドイツ人で、元々はシェフ、その後航空会社のパーサー、今は早期引退して、奥様と二人暮らしという人だった。娘は独立、結婚して近所に住んでいる。
だから、日々、庭で摘み取った野菜やハーブを使って料理を作り、野山を散歩したりして暮らしているという。
なんやねん、その生活は! なんちゅう、羨ましくていてもたってもいられなくなって、しまいには腹立ってくる生活やねん。
その旅行の写真を見せてもらって、僕は少なからずショックを受けた。ドイツの田舎ではあったが、どこを切り取っても絵葉書になるのではないか、というくらい景色が美しいのである。家々のそこはかとない統一感。建造物と自然との調和。そこで営まれる静かで、余裕に溢れた人生。
僕は訪れたことはないが、ドイツも工業国だと聞いていた。第二次世界大戦で敗れた後、目覚ましい発展を遂げた点も日本と共通していると聞いていた。それなのに、それなのに、この違いたるや、一体どういうことだ。聞いてないぞー!
この違いは一体何なのか、写真をよく見て気付いたことは、まず看板というものがない。
例えば肉屋さんの店舗でも、壁面の端っこになんかドイツ語で表記してあるのがおそらく「肉屋」なのか「肉の○○」で、その他の広告的文言は一切ない。というかまぁ、見たら肉を売っているのだから、疑うべくもなく肉屋なのだ。
その他の町並みの写真にも、看板が一切ない。それに比べ、我が国の風景ときたら……。特に、僕が生活している大阪ときたら、看板だらけも甚だしい。有名な、道頓堀のネオン看板群はもはや芸術の域に達しているとの見方もできるが、何年住んでも、あの場所に立つと猥雑さと喧しさに圧倒される。
そらぁ、庭のハーブを摘んで自家製パンと、仔牛のグリルのラタトゥイユ添え、などという生活とはほど遠い。
テレビで見た香港の風景も、日本の繁華街にそっくりで、もはやこれはアジア人としての遺伝子に深く深〜く刻み込まれたセンス、としか言いようがないのではないかと思う。日本も香港もソウルも、都市開発においてお互いを参考にした、というかマネたつもりなどさらさらないのに、ここまで似ている。これはセンスという、抗い難い、不可避な力によって作り出された結果としか考えにくいのではないか。
僕は広告会社に勤めていて、世の中には広告看板というものもあるわけだから、あまり大きな声では言えないが、この、街の看板攻勢に深く関わっているのは、悪しき資本主義と日本人の雰囲気重視の性癖である。
ドイツだって資本主義なのに、どのように社会が成り立っているのか想像もできないが、日本においては、広告をバンバン打つことによって広告会社の商売が発生し、消費者も購買意欲が掻き立てられ、結果、広告主も売上が上がり、それでなんとか生活が成り立っている。なんで誰もがそこまでギリギリを強いられ、汲々としているのかわからないし、どっかで誰か黒幕がゴッソーっと利潤を横取りして「ワッハッハー」しているという疑いすらかけたくなるが、とにかく現状はそうだ。だから、看板も必要ということになっている。
消費不振が深刻化しつつあるとのことで、百貨店の方が「節約志向が強まり、必要最低限のモノしか買わなくなった」と言っている。しかし、本来、それがあるべき姿ではないのだろうか。百貨店の方の主張は、裏を返せば「人々が不要なモノまで過剰に買い続けないと、この社会の経済は成り立たない」と言っているわけだ。それがいかにおかしいことかは誰でもわかるはずである。
以上が悪しき資本主義の構造問題。続いて、日本人の雰囲気重視の特性についてお話しするために、例えば条例で看板を一切禁止にしたとしよう。全て撤去して、街がスッキリして、なんならちょっとヨーロピアンな品性ある町並みに一歩近づいたとしよう。ふむふむ、なかなか静かではないか。
すると、この国では何が起こるか。
  • 「なんだか、活気がなくなった」
  • 「淋しくなって、商売に気合いが入らない」
  • 「雰囲気が良くなったって、お腹は膨れない」
といった意見が出てくるのである。こういうしょーもないことを言うオトナが必ず現れる。
「活気」「気合い」「雰囲気」といった、外国人にどう説明していいのか全くわからないような、それでいて日本人が大切にしている言葉たち。実体は無いし、日本語でだってうまく説明できないのに、当然のようにその重要性は認められているものごと。
僕が小学生の頃、中学校の前を通りがかると、野球部のおにいさんたちがキャッチボールをしては、
  • 「ウィ〜」
  • 「オィ〜」
という文字で表記しづらい声を出し合っていたものだ。僕には、あれは何と言っていて、どういう意味があるのか不思議だった。
「あのー、練習中すみません。それはなんと言ってるのですか?」
と質問しても、邪魔者扱いされるか、ちゃんと答えられる人はいなかったろう。
その謎は中学に行っても、高校に入っても、解けることはなかった。
しかし、よーするに声出しとは、それら「活気」「気合い」「雰囲気」発生法として、日本特有に行われているのではないだろうか。実際は知らんが、おそらく、いやほぼ確実に、メジャーリーガーは「ウィ〜」「オィ〜」言いながら練習はしていない。ということは、野球の上達には無関係なのに、日本人が思うところの「活気」「気合い」「雰囲気」の三点セットの発生(知覚)のために行われているのだ。
そういう曖昧な「空気感」を後生大事にする限り、看板も消えることはないだろう。
よって、看板をなくすためには、まず声出し禁止から始めてみて、しばらく様子を見るのが良いと思う。日本人が精神論の呪縛から解放されると、ビジネスにおける過労死やスポーツにおける無意味なシゴキもなくなり(しかし効果は上がり)、実質的で贅肉のない社会へと転換されるだろう。
少なくとも僕はそれを望む。
問題は、その実現にはかなりの「気合い」が必要であろうことだ。
(了)

「衆院解散前に先手マニフェスト」

政治のことはよくわからんし、経済のことも興味ないので、勝手なことばかり言わせてもらうが、まぁオバハン議員の「台所感覚」よりはマシだろうと思うので、僕のマニフェストにお付き合いください。別に、将来立候補とかするつもりはありません。
  • 【所得は十億円を限度とする】
常々、周囲の人に話しているのだが(このコラムにも以前書きました)、だ〜れも賛同してくれないのが不思議である。みんなそんなにお金がほしいのだろうか。もしくは、いつか自分がそれ以上に稼げるという希望を持っているから、賛同してくれないのだろうか。言っておくが、そんなことは我々には絶対に起きないから、安心して僕について来てほしい。
我が国において、お金持ちになる第一の条件は、「お金持ちの家に生まれる」ことである。僕たちは自由の国に生まれたと思い込んでいるが、実はそうでもなかったりするのだ。お金持ちの子はお金持ちに、ビンボー人の子はビンボーになるシステムなのである。社会的流動性(人が一生のうちに階層を飛び越えて出世したり没落したりすること)の乏しい社会であり、ここ十年で益々その傾向を強めていることは周知の事実である。
言っておくが、貧乏の出でも野球選手になればお金持ちとか、そういう事例は、黒人はボクサーかラッパーにでもならないと階層を打破できない、という構図にそっくりなのだ。
で、十億円である。生涯所得が十億円に達した時点で、「ごくろうさまでした」ということで「ロン!」である。人生上がり、で、それ以上の稼ぎについては全て政府が譲り受け(没収とは言わない)社会保険庁みたいにではなく、ちゃんと、運用したり社会福祉に還流させたりみんなの(特に、抗えない悪条件のために生活が困難な人々の)幸せのために使う。
まぁ一種の社会主義だが、ロンするために競争がある。そして、ロンした人にはちゃんと誇れるような見返りを与える。具体的には未定。メダルや盾のようなプライドをくすぐるようなものでもいいし、伯爵や男爵のような称号もいいだろう。 なんならパチンコ屋の「ただ今フィーバー中」の札ように、玄関先にスコッと札を挿してあげてもいい。
「人生、フィーバー中」とか。これなら安上がりでいい。
僕のハグだけにすればさらに安上がりだ。
大体、人生を満足に過ごすために十億円以上のお金は不必要なのだ。いや、必要か不必要かは個人の判断によって分かれるという意見もあろう。だからこそ、政府である僕が決めたる。
「不必要である」
ほしいかどうかは個人の勝手。でも必要かどうかなら、「不必要」!
これがこれからを生きる人のための、エコな考え方であると思う。エコと言っておけば誰も反論できないだろうし、そういうことにしておこう。
ポルシェやベントレーのような高級外車を何台も所有する必要などないし、お手伝いさんや庭師を常駐させなくてはいけないような豪邸も必要ないし、エビアンで風呂を沸かす必要もないし、私費で世界の格闘家を集めて最強決定戦を開催する必要もなし!
ホームランが打てるからといって、年に二十億も必要なし、働く人を競走馬の如く扱ってお金を賭けるようなヤツに大金の見返りは必要なし。
やっとこう言う人が現れた、と思ったのが俳優のキーファー・サザーランド
シネマトゥデイ」のニュースによると:
  • 「24」のキーファー・サザーランド、「おれも含めて俳優の給料は高すぎる」
  • (中略)キーファーは「この業界で発生する金額はあまりにも高過ぎる」と言い、視聴率、興行収入を高めることができる俳優を高額な出演料で称賛するやり方も間違っているという。「社会の本当のスターは医者、教師、消防士や警察官だ」と付け加え、こういう分野にこそ金が流れるべきだと考えているようだ。
  • (二〇〇八年八月二十七日)
とのこと。
あー、もうその通りです。
利益を再投資して新たな何かを生み出す企業や団体ではなく、個人が喰うのにそんな大金が必要なわけがあるまい。ちなみに僕のマニフェストでは十億円の中から遺産相続は認めるが、それ以上は子孫が受け継ぐこともできない。個人は個人でがんばる。十億円を目指してがんばる。
上限が十億で適切かどうかは、その時の経済状況を鑑みて都度、見直すとしよう。誰がって、僕が。
反論をする人の中には「ハリウッドスターのような大金持ちは、よく慈善団体への寄付をするからいいんじゃないの?」と言うが、であればなおさら僕に票を投じなくてはいけないのではないのか。
僕は、「であるから、政府が代わりにしてあげる」と言っているのだ。同じことだ。わかったら目を覚ませ。
一見自由がないように聞こえるかもしれない。ある意味その通り。僕は自由だなんて一言も言っていない。
なんだか教祖のような言い分になってきた。
浄財? いや、社会貢献である。名誉である。
  • 【ラブソングには課税を】
アメリカという国家は嫌いなのに、アメリカの人や文化からは学ぶべきところがあると思っている僕であるが、先日「マイ・シボレー」というカントリーソングを聴いて心打たれた。Phil Vassarという歌手の歌だが、その名の通り、シボレーの自動車について歌っている。初めて自動車を手にした感動と、金曜の晩に友人たちと乗り回して遊んだり、ドライブインシアターでデートした青春の思い出をエモーショナルな旋律に乗せて歌っている。
カントリーミュージックには自動車に関する歌が散見される。Alan Jacksonの「マーキュリー・ブルース」、「ドライブ」(註1)、Jeff Carsonの「ザ・カー」(註2)、Joe Diffieの「ジョンディア・グリーン」(註3)などがそうだ。
車を通して家族愛とか青春とかを歌っているわけだが、思えば、日本においていくらトヨタや日産が経済的な躍進をしたとしても、それをポップソングにして歌おうということになるだろうか。タイアップとかのコマーシャリズム抜きにして、純粋に特定のメーカーの自動車を題材に、心を打つ歌が作られるものだろうか。
僕はそこにアメリカの鷹揚さというか、かの資本主義大国に残存した純朴さを見い出し、微笑ましさと一種の憧憬を覚えるのだ。
この世には歌うに値するものが無数にある。なのに、日本で聴こえてくる歌はラブソングばかり。僕は若い頃よりずっと疑問に思ってきたのだが、恋愛のような脆弱な関係ばかりがなぜもてはやされるのだろう。恋愛至上主義に商業主義が結びついた、この醜悪さというのは一体なんだろう……。
というわけで、ラブソングには課税する。「くだらないものには税をかけろ」というのが定石だ。酒、タバコがそうだろう。
自動車重量税というのがあるが、自動車の歌はもちろん非課税だ。ラブソングには、その陳腐さによって税率を変えるとしよう。
誰が決めるかって? だから、僕だ、僕。
もっと家族愛や、友情の名曲が作られるようになって、恋愛、つまりセックスばかりが全てではないという風潮が醸成されるとよい。セックスは僕が担当する。
速報!
青山テルマがお経のように唱えるあの歌は、シングル一枚、なんと、七二〇〇円になりました(註4)。
とり急ぎ、ご報告まで。
(つづく)
  • 註1:「ドライブ」は、歌詞の中に六十四年製フォードが出てくる。アラン・ジャクソンのアルバム「DRIVE」に収録。ちなみに「マイ・シボレー」に出てくるシボレーも六十四年製。その年には何かあるのだろうか……。
  • 註2:「ザ・カー」はマスタングの歌である。亡父が遺してくれた車に乗って父を憶うという、父子愛の感動的な曲。アルバム「JEFF CARSON」に収録。
  • 註3:ジョンディアは農耕機器メーカー。日本ではヤンマーが販売代理。ジョー・デフィーの歌はアルバム「HONKY TONK ATTITUDE」に収録。
  • 註4:元々は一二〇〇円のところ、六千円の加算。四千円がラブソング税で、二千円が「どこにも盛り上がりがないことに対する罰金」である。

「くだらないコメディをまじめに語る」

日本では、アメリカンジョークというと、考え落ちの小咄みたいな「あんまり笑えない笑い話」というような受け取られ方をしているフシがある。それは国民性というか、文化の違いによってある程度仕方ないのだろうけど、僕はアメリカのユーモアセンスが大好きである。
中学生の頃に映画『裸の銃を持つ男』とか『ホットショット』なんかを観て大笑いし、大の大人がバカバカしいことにお金と労力をかけて本気で取り組んでいることに感動すら覚えた。大人でもフザケていいんだ! と衝撃を受けたものである。興味のある方は観てみるとわかりますが、本当にくだらないです。力抜けます。そして、僕は心底憧れたものである。
「くだらないことに本気で取り組むって、なんてカッコいいんだ」
と、この考えは今でも変わらない。それ以降、ハリウッドのB級コメディはできる限り観るように心がけて後期青春時代を生きている現在の僕である。
選ぶのは本当に難しいのだけど、あえて以下に、僕が好きなコメディ映画を五つご紹介させていただきます。順位はありません。なんでも一位を決めたがるのは資本主義の悪いところですから。
『ブルースブラザース』
ドタバタコメディの金字塔! 天才コメディアンのジョン・ベルーシダン・エイクロイドがテレビ番組「サタデーナイトライブ」の中で結成したR&Bユニットがブルースブラザース。僕が中三にして初めて買った洋楽のCDは「ブルースブラザース」のものであった。初めて買ったサングラスも彼らがしていたレイバンのウェイファーラーであった。
有名なので中身は割愛するが、ジョン・ベルーシは世界一カッコいいデブだと思った。ダン・エイクロイドはハーモニカを吹く姿が信じられないくらいクールでカッコよく、その後『ゴーストバスターズ』のぽっちゃりが同一人物だと知って衝撃を受けた。
この映画が教えてくれたことは、正しいことのために生きるワルたれ、ということと、ハシャぐことだけが人を笑わせる術ではないということだ。
『アメリカン・パイ』
卒業を間近に控えた高校生の四人組が、卒業までに童貞をなくすことを誓い合って奮闘するという、青春の全てが詰まった下ネタ満載の映画。アメリカではかなりのヒットとなり、以降シリーズとスピンオフが計五本(当時)作られている。日本でも公開されたが、たいていこういう好作品は黙殺される。なぜだ!? 青春の中身を分解すれば、セックスへの幻想と、渇望と、不安以外に何があろうというのか。そして、男がいつまでも子供である根因もここにあると思って間違いない。男にとってセックスは運転免許みたいなもので、「更新」しないで二週間も放っておくと精神的には童貞に戻ってしまう。
つまり「無免許」みたいな状態。
だからまた、童貞だった頃のように、セックスのことばかり考えてる「少年の心」を忘れずに生きていけるのである。美しい。
『ふたりの男とひとりの女』
僕が絶対の信頼をおいているファレリー兄弟の監督作品。ジム・キャリーレニー・ゼルウィガー出演のこれまた下ネタ映画だ。というか、この監督らはいつも下ネタばかりだ。代表作の『メリーに首ったけ』を知っている方には一目瞭然だろう。キン○マをスボンのジッパーに思い切り挟んで救急車で運ばれる冒頭。そして、デート前にマスターベイションして飛び出したアレを、キャメロン・ディアスがヘアジェルと間違えるシーンはあまりに有名。
『ふたりの男……』は、警察官役のジム・キャリーが、町中の笑い者なのにもかかわらず、常に怒りを押さえつけて生きていたところ、到頭ブチ切れて、凶悪(でスケベ)な違う人格が現れてしまう話。その二重人格の演じ分けは、アカデミー賞ものだと僕は思う。そして、絶対男にしかわからない下ネタジョーク。ジム・キャリーレニー・ゼルウィガーがついにHをしちゃった翌朝のオシッコシーンは必笑である。
ファレリー兄弟について特筆すべきは、毎回タブーに踏み込むところ。セックス、自慰、人種、身体障害、精神疾患シリアルキラー(連続殺人犯)など、普通触れてはいけない世の中の暗部を全くデリカシーなく笑い飛ばす。そこには、はっきり言って愛などというものはなく「だっておもしろいじゃん!」という監督の無邪気な笑い声が聞こえてくるかのようだ。
白人夫婦のはずなのに、生まれてきた子供がなぜか黒人で気マズい雰囲気が漂うとか、女性のアソコの痒み用クリーム「ウ゛ァジクリーム」と堂々と茶化したり、とにかく、そこまでやって大丈夫か? というところまでやり切る。そのイカレっぷりがすごい。どんなアホ兄弟かと思う。
日本はその点偽善的だから、とにかく隠蔽する。なんであれ描いてはいけない、とされる。でも、アメリカ人のファレリー兄弟は、配役の中にいつも小人症の人や知的障害のある人を使う。世の中には実際にそういう人もいるわけだし、「いないものとする」日本の暗黙のルールが本当に健全とは思えない。
ジャック・ブラック主演のスマッシュヒット作。ダメ人間の売れないロッカーが、エリート小学校の臨時教員になりすまして、生徒たちにロック魂を叩き込んでいく痛快な物語。ダメ人間を演じさせたら、現在右に出る者はいないであろうジャック・ブラックは実際にバンド活動もしているから、彼のロックへの愛が満ち溢れている。
『エース・ベンチュラ』で初めてジム・キャリーが出てきた時、あの顔芸は神業かと思った。そして、この映画におけるジャック・ブラックの動きは、同様に神がかっていると言える。細部までギャグにぬかりがない上、ドギツイ下ネタもないので(彼の主演作全般にそうである)、家族中で笑って、そしてちょっとジーンとくるお手本のようなコメディである。この映画で笑えない人がいるなら、ちょっと自分の生き方について考え直していいと思う。少なくとも、僕は友達になれる自信がない。
僕が、それまで劇場で最も笑った映画は前出の『ふたりの男とひとりの女』で、あれ以上に笑った映画は後にも先にもないと思っていた。しかし、世界記録はいつか更新されるように、世界最高に笑い死にしかけた作品がその後現れた。それが、この『ボラット』である。
ファレリー兄弟に輪をかけてタブーだらけの超ブラックコメディ。本当はイギリス人のサシャ・バロン・コーエンという俳優が、カザフスタンからアメリカ文化を勉強しに来たレポーターというかたちでボラットなる野蛮人を演じている。彼が巻き起こす数々のトラブルと出演者の反応は全てドキュメンタリーであるらしい。まず設定からメチャクチャで、カザフスタンという国は売春婦と殺人犯ばかりで、今どきユダヤ人を追い払うお祭まであるという描き方。完全に未開の国扱いなのである。よく公開できたな、と思う。『YASUKUNI』どころの騒ぎではない。
だから、ボラットはアメリカでも女性は売春婦扱いするし、銃砲店で「ユダヤ人から身を守る銃は?」と訊いたりする。笑えるのは、店員が「だったら九ミリか四五径がいいよ」と普通に受け答えしてくる点だ。あるんかい!
途中、やり過ぎに辟易とさせられるかもしれないし、全く笑えない人もいるかもしれない。でも、非常識で変に純粋なボラットが周りのアメリカ人を真っ青にさせ、顰蹙を買いながらも、なぜか、不思議とアメリカの異常さというものを浮き彫りにしていくその過程には、ドキュメンタリー映画の醍醐味が味わえる。そこがこの映画のスゴイところである。そして、ラストの大落ちはお見事という他はない。最後の最後まで笑いが凝縮されている。
お笑いドキュメンタリーという反則映画であるが、コメディ映画の歴史に新たな一ページを刻んだことは確かである。でも、なぜかDVDを買おうという気にはならないのであった。上記の他の全ての作品は持っているのに……。
以上、僕が崇拝に近い気持ちを持って紹介した五作品。ご興味がある方は是非観ていただきたい。
でも、本当は『ロード・トリップ』(日本では劇場未公開)とか、『ハウスゲスト』(日本では劇場未公開)とか、『ドッヂボール』(ベン・スティラー主演)とか、『アニマルハウス』(ジョン・ベルーシ主演)とか、『大災難P.T.A.』などのスティーブ・マーティン出演作品とか、アダム・サンドラー出演作品とか、他にも好きなコメディはたくさんある。 僕はまだ観てないが『俺たちフィギュアスケーター』もめっちゃ笑えるらしい。
映画でも音楽でも、いつも日本人に効く売り文句は「泣ける!」「感動の……」などというものばかりで、コメディへの評価がイマイチなのが歯痒い。アメリカのコメディを「わかりやすい」という言葉であたかもそれが低レベルであるかのように表現する人がいるが、わかりやすいことこそコメディの神髄である。悪いことでも低いことでもなんでもない。
商業ベースの創作において、アイデアが生まれてから先の作業など、わかりやすくしていく努力ばかりではないのか。それができない人間が独りよがりな不完全作品を「シュール」の一言で済まそうとする。
コメディは、人生を楽しく生きる上で最も大切な要素であるユーモアを教えてくれる。その上、世界の恥部や禁忌まで見せてくれる。子供がいたら「文部科学省推薦」などという子犬とかの映画よりも、笑えるコメディを見せようと思う。
社会勉強と、性教育も兼ねて。
(了)
P.S. その後、ウィル・フェレル主演「俺たちフィギュアスケーター」も鑑賞して、大爆笑しました。その他「俺たちダンクシューター」などの「俺たち」シリーズは欠かさず観ています。最高です。

「夢想の詩」

僕は職業として広告を作ることをしているのだが、やっている側としてはこれはなかなかおもしろい仕事ではないかと思う。色々不満もあるし、人間関係とか力関係とか複雑な事情とかにがんじがらめで思うようにいかないことばかりだけど、サラリーマンが「オモロイ」ことを競えるなんて、普通はありえない幸福な職場環境だと言える。もちろんオモロイというのは、単純に笑えるという物差しのみではなく、シャレている、頷ける、目を見張るなど、広い意味でのオモロイである。
まぁ、問題は、僕がこの職に就いて以来鳴かず飛ばずを謳歌している点だ。
しかし、やっている本人らは楽しいか知らんが、通常、広告なんてものは世の中に無い方がいいようなものなのだ。街中に見られるゴチャゴチャの広告看板が無ければもっと景観はスッキリするし、テレビCMが無ければ、あの鬱陶しい「続きはCMのあとで!」にイラッとさせられることもなくなる。その代わりトイレに行く時間もなくなるので膀胱炎患者が激増するかもしれない。
厳密に言えば、というか世の中の仕組みにちゃんと目を向けると、広告がなければ、テレビ放送は無料では成り立たないし、新聞も雑誌もその購読料は倍以上になるだろう。
だから、本当は一般消費者は皆、広告から恩恵を受けているのだが、それでも、「もし広告がなくても生活自体はなんら変わらないという新しいビジネスモデル」が発明されれば、人々はこの広告クラッターから解放されたことにセイセイするだろう。現状では、広告料か課金かしか確立されたモデルはないから、ひとまずすぐに広告がなくなることはないのだが、これは想像するとかなりのセイセイなのである。
そう、広告が世の中の役に立っているなんてのは、思い上がりなのである。だから、時折僕は夢想せずにいられない。「もっと世の中の役に立つ職業に就いた自分」を。
具体的には、ジャーナリスト、検事である。
しかし、前者に関しては、僕は人見知りなので、知らない人のところに行って、グイグイ事情や秘密を聞き出してくるようなことは恐らく無理である。それでも、ジャーナリストなんて肩書きは(僕のコラムニストと同様で)何か資格が必要なわけではない。名乗ってしまえば、明日からだってジャーナリストなのだ。だから、それに対する憧れを公言していると「ほなやれや」と言われかねない。
だから、僕はそれは心に秘めたままにして、その夢想はあまり深堀りされることはない。
さて、検事である。司法試験の難しさはよく知られている。合格率三%未満、三年以内で合格する率は四割弱だという。国の方針により、今後制度が変わってもう少し緩くなりそうだが、まぁ、アタマの良い人らがやる職業であることに変わりはない。僕は特に記憶力がダメなので、試験は論外だろう。
でも、試験というわかりやすい難関が立ちはだかっているからこそ、部外者は好き勝手に憧れを口にすることができる。わかりやすく無理なので、無責任に放言できる。聞いている方も「はいはい」で済ますことができる。
というわけで、僕は検事として、悪人を容赦なくブタ箱にぶち込みたいのだ。それが明快な社会貢献なのだ。正義の行使なのだ。
検事というと、裁判において弁護士の敵役みたいな描かれ方が多いかもしれないが、実際は(って実際は知らんけど)刑事事件の捜査、起訴、公判での立証までを行う、かなりハードボイルドな職業だとお見受けする。つまり、ハードボイルドの代表といえば刑事であるが、警察は捕まえるまで。その後、事件が送致されると、起訴、不起訴の判断を下し、裁判にあたるのが検察官である。犯人が逮捕されてハッピーエンドとなったドラマの、あまり描かれることのない「その後」を扱っているのである。
裁判では、初めちょっとモジモジするかもしれないし、「こんな顔のヤツ、有罪に決まってる」と見た目で決めつけるかもしれないし、ということは、犯人が美人だったりしたら求刑年数を六掛けくらいにするかもしれない(美女への刑が軽いことは統計的に見て本当らしい)。
それでも、僕は昨今新聞紙上などで、取りざたされることもある責任能力の議論について、わずかでも抵抗したいと思う。
この国では、信じられないことに「アル中の人間が、泥酔状態で人を殺す」と、心神耗弱だとか心神喪失などといった理由がくっ付いて無罪(不起訴)になったり、刑が軽減されてしまったりするのだ。
その他の例においても、犯罪行為の後に隠蔽工作までしておいて、心神耗弱が主張されたりする。悪いと思っているから隠そうとしているのに、「罪を犯した時点では適切な判断ができない状態だった」とかなんとか……。そんなこと言い出したら、人を殺すなんてこと自体、普通の判断ではできないわけで、全ての殺人は適切な判断をしていないから無罪ということになりはしないか。
僕の常識から言えば、責任能力がないというのは「完全にイッてしまっている人間」のみに与えられる称号である。責任がないのだから、恐怖も罪悪感もなく、危機管理もできない。たとえば、赤信号でも車道に突っ込んでいかなきゃいけないし、お金なんかも持って出るはずはない。
そうであるはずなのに、ちゃんと安全に道を歩いて、電車の切符すら買って、ホームセンターで凶器まで買って、お釣りもちゃんと受け取って、殺人現場までやってきているのであろうこのおかしさ。さらに言うと、善悪の判断ができないのなら、まともな会話のキャッチボールも成り立たないし、なんや言うたらウ○コを食べているような態様でなくてはおかしいのではないのか。
「神の声が聞こえた」なんていうのは認めない。そんなのはどこかで聞いたような発想だ。過去事例から学習しとるやないか。
「フペポケペケペピョーン」と供述して初めて、「ん、こいつまさか?」となる。で、おもむろにウ○コを食べ始めた時点で、「うーむ、これはもしかしたら」となるだろう。
だから、責任能力を云々したい向きには、ウ○コを差し上げるとよい。
なぜなら、「人を殺すこと」と「ウ○コ食べること」は、そのしてはいけない度合においては同等であるからだ。
PTSDだってそうだ。そんなもん乱発しないでほしい。特別な事情の特殊な例にだけ許される診断だろ。だったら、青春時代に散々痛めつけられたために、女性不信になってこんなに性格が歪んでしまったこの私はどうしてくれる。これでも元気に、法に従って生きているのだ。
結局、検事になっても、というか、なったらなおさら腹が立ちそうな気がしてきた。正義なんか扱わない、広告屋でいいや……。
  • 人間は鳥のように飛ぶことを夢想する。
  • 鳥は魚のように泳ぐことを夢想するのだろうか。
  • 魚は木のように眠ることを夢想するのだろうか。
  • 木は人間のように歩くことを夢想するのだろうか。
(了)
P.S. 僕は死刑にも賛成である。しかし、人を殺すことには諸手を挙げて反対である。一見矛盾するように聞こえるかもしれない。それは、「殺人は、命をもってしても償えないが、その命は剥奪されて然るべきである。だからこそ、殺人がこの世からなくなれば、死刑も自ずと廃止されるのである」という論理で、僕の中では完全に辻褄が合っている。
責任能力については、門田隆将著『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮文庫)、日垣隆著『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫)という本が実にエキサイティングに述べている。ジャーナリストってすごいわ。

「ヒミツの公式」

そりゃ、ワタクシだって、若くてキレイな女性が好きなのだが、若くてキレイなだけの女性は嫌い、という相反する気持ちがあり、僕は日々、ほぼ関わりもないのに勝手に苦しみながら生きている。
若くてキレイな女性が好きなことについては、大概の方々のご理解をいただけるはずである。そして、だからこそ、若くてキレイじゃないと腹が立つ瞬間についても。
これはそーゆーお店とかじゃなくて、たとえばテレビでフィギュアスケートを目にするとしよう。僕はそもそもフィギュアスケートなどというものが、ショウではなく、競技として成立していること自体おかしいと思っているのだが、そこで目にする日本人選手がブスだったりすると、無性に腹が立って、恥ずかしい気持ちにすらなってしまう。ロシアやイタリアの美しい選手たちと、仮にも(技術とか表現力も包含した意味での)美しさを競うスポーツで、戦おうとしている、この日本人のブス。てめえ、何様のつもりでぃ! という気分になってしまうのだ。
オレの方が何様だっつーの。
あんなスポーツは幼少期から英才教育を受けた人間しか競技の場に立てないから、そのコも親に半ばやらされてきたのだろう。つまり、親バカの産物として、そこにいるわけだ。うちの子が一番かわいいと勘違いした親が、一攫千金を狙ってフィギュアスケートなんか始めさせたばかりに、全ての女の子が必ずしも美しくは育たないという冷たい現実にブチ当たり、越えがたい世界との壁を見せつけられることになるのだ。
見せつけられているのは、視聴者である僕たちである。
「お前なぁ、それで勝てると思ってるのか」と、ため息が漏れてしまう。「あなたが指す美しさとは相対的なもので、美しさの解釈のひとつでしかありません。本当の美しさというのは、個人の内面から沸き立つ……(以下略)」などという、くだらん議論は無視いたします。そりゃわかるし、なにも姿形だけではなく、オーラを含めての美の話だけどさ、美しさとはひとえに主観であって、なぜか共有可能な主観なのである。その「なぜか」な部分に美の神秘がある。
美に説明など必要ないのだ。ブスにも必要ない。以上。
ところが、人の心理とは複雑なもので、若くてキレイというだけでも、これまた腹が立つ。今さら、こんなことをどの口がぬかすねん、という感じだが、僕はこの国の外見至上主義、若さ至上主義が文化をダメにしていると考えている。若くてキレイというだけの理由で、人が動き、お金が動くから、本物の才能が育たない、正当な評価を与えられない。そして、若さもキレイさも人生の中では一瞬のものだから、その人自身もやがて消費されて使い捨てられていく。
この国における、歌手、俳優のモデル出身者の数は異常だ。ハリウッドで活躍する俳優のプロフィールを調べてみれば分かるが、歌手であり俳優などのクロスオーバーが許された一部の本当に才能に恵まれた人たちを除いては、大抵、演劇科を卒業していたり、演技アカデミーで学んでいる。つまり、演技を通して生計を立てたいから俳優になっているという、目的がはっきりと見える。
その点、日本の場合、モデルであれば=見た目が良ければ、俳優として受け容れられてしまい、演技者としての評価など二の次になってしまう。だから、演じられない俳優、歌えない歌手なんて、意味のわからない人たちがのさばっている。
構造的には、そういういわゆる芸能人とかタレントとか呼ばれる人たちは、集金装置としての役割が存在意義の大きな部分を占めていて、文化活動に携わる人間とは到底呼べない。それも一つの能力と言われればそれまでだが、その一人を通じて、音楽、テレビ、映画、出版などなどの文化領域からお金を吸い上げるシステム。そこでは、いい音楽を作ろうとか、いい映画を撮ろうという気概はないがしろである。
なぜ俳優がCDを出さなくてはいけないのか。なぜアイドルが上手くもない演技で映画に出るだけでは飽き足らず、良くもない歌を歌い、挙句の果てにデビューの時点で武道館を満員にしてしまうのか。なぜしたいことを究める努力ではなく、あらゆるメディアからお金を回収する努力にばかりベクトルが向くのか。
僕には不思議で仕方ない。
そんな商売が成り立ってしまうことも不思議なのだが、これは、なぜ自民党の一党支配が覆らないのか、に近い。民主党が頼りないように、他に選択肢がない場合、人はアホになって現状を受け容れるか、投票に行かない(たとえば洋楽しか買わない)かのどちらかなのだ。
そのシステムの陰で、本当に評価に値する音楽家や俳優などの表現者が陽の目を見ることなく過小評価され続けている。 これは文化の損失と言えやしまいか。
僕はふと、どこかで見聞したスカトロ愛好家の公式を思い出した。女性の美しさと、そのウ○チの汚さの掛け算によって、興奮度が決定されるという、サイテーの公式だ(註1)。
つまり普通を0として、超美人なら+10とする。そして、そんなキレイな女性が、え、まさか、本当に、あんなすごいウ○チを……、で、+10とする。
+10×+10=+100点となる。興奮度100点満点である。
掛け算であることが鍵だ。だから、超ブスは−10である。そのブスがいくらすごいウ○チをしたところで……、−10×+10=−100点となり、先ほどの100点とは対極となってしまう。元々がマイナスであるために、どんなにがんばってみても(ふんばってみても)、がんばればがんばるほどマイナス度が高くなるだけなのだ。
マイナス×マイナスだと値がプラスになってしまうが、それはどうしたんだっけな? たぶん、ウ○チである時点で、愛好家にとっては「プラス」だから、そこにマイナスは発生しないのだと思う。……などと都合よく考えておこう。
とにかく、これは、美醜の組み合わせの妙に画期的な解釈を与えたと、僕は膝を打つ思いがした。これと似て、美しさと能力も掛け算によってその価値は決定される。
  • (ブスなフィギュアスケーターの場合)
  • −5の美しさ×+8の能力=−40点!
  • (歌唱力のないアイドルの場合)
  • +8の美しさ×−5の能力=−40点!
この勝負引き分け、となる。
でも、この場合は、どうしてもマイナス×マイナス=プラスの問題が生じて、公式が成り立たない。めっちゃブスで、なんの能力もないヤツが100点満点になってしまうのだ。これはこれで、見てみたい気はするが、たぶん腹が立つだけなので、現実にそぐわない。
やはりスカトロ専用に開発された公式だとみていい。
そんなわけで、若くてキレイじゃないと腹が立つくせに、若くてキレイなだけでも腹が立つ、このそんなに若くもないし、大してキレくもないこの僕。こんな人間がソープランドでし終わった後に、説教をするようなカスみたいな人間になるんだと思う。気を付けねば(※註2)。
いや、しかし、人前に出て拍手喝采を浴びる権利のある人間というのは、まぁ若くなくたっていいが、本当に才能があり、なおかつ美しくなければいけないと思うのだ。そういうほぼあり得ないような存在にこそ、我々凡人は拝跪し、お金だって払おうというものだ。
それ以外の人間は、きっちりお引き取り願う、そんな成熟した文化を国が推進しなくてはいけないはずなのである。ここは北朝鮮ではないから、国とは政府という意味ではない。大人が、ということだ。
(了)
※註1:僕にそういう趣味はありません。あくまで伝聞です、念のため。
※註2:広告屋なんてやっていると少なからず、そういうシステムに加担してしまうことがあり、遺憾です。せめて、ウンチもオシッコもするけど、エコに気をつけてますみたいな感じで、そぉっと働きます。

「思ったほど白くなかった僕たちのこと」

世界的に有名な野球選手に、メジャーへ移籍したばかりの日本人選手について、「彼をどう思うか」などと質問する記者。
同様に、グラミー受賞アーティストに、日本人歌手について意見を訊くレポーター。「ウタダを知っているか」みたいに。
「人種差別するわけじゃないんだけど」と初めに断ってから、「イラン人は入居禁止なの」と言うアパート大家。
台湾人に対して「あなたは日本人みたいに見えるわね」と、褒め言葉のつもりで言うおばちゃん。
タイ人は「長粒米という不味い米を食べている」と思っている日本人。
アジアの国々と日本をなぜか別のグループで考えている日本人。
ベトナムに行ったことがあるからといって、インドネシア人に対して「ベトナムでは」「ベトナムでは」と話をするうちのおかん。
こういうのは全部間違っていると思うんだけどな。こういうのを自民族中心主義と呼ぶのだ。どこが間違っているのか、全て説明するのは面倒だし、言わずもがななので、いくつかについてだけ述べると、台湾人は別に日本人のように見えたくもなくて、あくまでも台湾人として見えれば結構なのだ。タイ米は日本人にとっては食べ慣れていないからパラパラに感じられるが、タイ人にとってはあれが標準で、パラパラだからおいしいのだ。もしかしたら、「日本人はベタベタな米をありがたがる変な人たち」と思われているかもしれないのだ。
日本は確かに、地理的、歴史的、文化的に固有の国家で、その特殊な言語や、倫理観、価値観などは誇りにしていいと思う。しかし、どの国でも同等に固有で、特殊なはずなのである。
こういう自己中心性であるとか独善性というものは、僕を含め、日本中、世界中の人々の心の中に潜んでいる。
まず、大前提として、日本は徹底的にアジアの国であるという事実は忘れてはいけない。特に、欧米の国々から見た場合、日本は欧米の一員では決してない。ありえない。これを忘れているから、いつまでも国連の常任理事国にもさせてもらえず、予算拠出ばかり求められてバカを見るのだ。
やめちまえ、そんなもん。鎖国じゃ、鎖国
なにかと「欧米では」とか「欧米と比較して」などと言って、欧米基準でモノを語るのが日本の知識階層の常套となっているが、それが間違いの始まりで、不幸の源だ。日本の国民が「自分らは欧米と同化することが最終目的である」と勘違いしてしまう(というか、してしまった)。
アメリカの一般市民からすれば、悲しいかな、日本など位置も知らないし、行ってみたくもないし、つまり興味もないアジアの国のひとつに過ぎない。アメリカの支配階級からすれば、日本は金づるであり、属国であり、心底蔑視されている。
これは、毎年日本政府とアメリカ政府が「年次改革要望書」という文書を交換していて、郵政民営化裁判員制度会社法建築基準法の改正も、全てそこに書いてあるアメリカの要求通りということからも明らかである。要望書とは名ばかりの命令書なのだそうだ。
詳しくは、関岡英之氏の『拒否できない日本』(文春新書)、『奪われる日本』(講談新書)を読まれたし(恐ろしい事実に愕然とすることでしょう……)。
なお、アメリカが平等の国などと思っている方には、ポール・ファッセル著『階級』をオススメする。彼によるとアメリカ社会には九つの階級があり、一番上と一番下は「ケタはずれで見えない」のだそうな。しかも階級についておおっぴらに話すことは、日本で被差別部落を語るように、タブー中のタブーである。
あ、思わず愛国ショータに火が点いて脱線しそうになったが、アメリカでたとえばシリアル食品を買うと、パッケージには大概白人家族と黒人家族とアジア人家族が描いてある。建前上人種の平等を標榜していて、それでいて平等も自由もないウラオモテ国家の象徴である。黒人のサンタクロース人形とかも同様。そして、そのシリアルパッケージにあるアジア人の顔は、めっちゃアジア人なのである。「はい、ここにアジア人印刷しましたぜ」という記号であるから、わっかりやすいアジア人が求められるのだ。西洋文化に侵された我々日本人が考えるような美しい外見の人では決してない。
ルーシー・リューに代表されるようなアメリカで活躍するアジア人女優やモデルのメイクが、殊更アジア人の特徴を強調するかのようなものであることにお気づきだろうか。とにかく吊り上がった目をさらに吊り上げて見せるアイシャドウ。女優やモデルに限らず、西洋に長く住んでいるアジア人おばちゃんのメイクにも共通のものだ。
結局、アジア人はアジア人であることを利用しないと生きていけないのだ。そして、もっと言えば、我々は、自分たちが考えているほど白人ではない、ということだ。
だから、日本人はアジア人として、自分たちがどういう存在なのか自覚しなくてはいけない。僕が〇五年の冬にアメリカを訪れた際には、アメリカ人の日本人観をよく表すTシャツを二度、目にした。
ひとつは、胸プリントの「I am a legend in Japan」というメッセージ。これは「オレは日本では伝説だぜ」というもの。「ここアメリカでは無名のただの男に見えるけど、遠い国である日本では、君らは知らんだろうが有名なんだぜ」という意味である。それくらい日本というのは遠い国、ということがよくわかる。
これはおもしろかったので、友人の土産にした。
もうひとつには、ダックスフントのイラストが描いてあり、メッセージは「My winnie is huge in Japan」というもの。要するに、「ダックスフントのチ○○ンだって、日本でなら巨大である」ということ。
屈辱である。国民に対する侮辱である。
こちらはあまりに腹立たしかったので、買わなかった。買うかい、そんなもん! 見たんか、お前は。誰のや。
日本で、日本人が白人や黒人のチ○コを揶揄するようなシャツを着るだろうか? そもそもTシャツがアメリカ的だというなら、日本人が、黒人のチ○コで川柳を一句詠むだろうか? そんなサラリーマン川柳が入選するだろうか? それよりもまず、アメリカで白人が黒人のチ○コのサイズを冗談にしたTシャツを着られるだろうか? もちろん「NO」である。あるなら、僕が着てみたいものだ。
であるのに、日本人のものに関しては堂々とジョークにできる。
ここからどういうことが読み取れるかというと:
  • ・(遠い国の人間だから)日本人に見られることもないだろう。
  • ・(どうせ英語もわからないから)意味が通じるはずもないだろう。
  • ・(日本人だし)意味が分かったって、怒ることはないだろう。
以上のうちのどれかか、またはその全てである。
色とか大きさではなく、性能がよく、どれだけ長持ちするかが問題だという真理を、かの国の人たちは自動車から学ばなかったのだろうか。
(了)

P.S.  最後に一句。ナニよりも チ○コに驚く 裏ビデオ

「まだ見ぬ娘への十箇条(続き)」

以下、娘に遺したい十箇条である。娘以外の女性にも有効な、ありがたい言葉なので、精読し、できれば暗記していただきたい。同時に、男女のことであるから、性の問題は避けて通れない、ということをご承知おきいただきたい。つまり、下ネタばかりである。
一、【夢を語る男を信用するな】
デカい夢を語るばかりで行動しない男は周りにいないだろうか。本当の夢など、簡単に人には言えないものなのだ。たとえば、「いつか相武紗季とヤリてえなー」とか、人には言いづらいものなのだ。
二、【魂のない音楽を聴くヤツに魂など、ない】
SEAMOとか聴いてるヤツは許さん。そして、同じアーティストの、ファースト、セカンド、サードと、ちゃんと継続的に買っているか。ベスト版だけで知ったような気になっているヤツは信用できん。
三、【爽やかな男の定義を吟味せよ】
爽やかとは何か? そんな形容の人間がいるのか? 「オツムが軽やか」と勘違いしてないか? 天パーではいけないのか? ただサッカー部なだけではないのか? 身長にごまかされてないか? 彼が爽やかであっても、君にメリットはあるのか?
四、【アメフト部には近づくな】
大学時代に人生の頂点を迎えるような男は、オレは好かん! 完全に偏見、というか嫉妬だが。レイプ犯の予備軍くらいに思っている(京大アメフト部、帝京大ラグビー部、早大ラグビー部参照)。そうでないなら、センスの悪い横文字社名の会社を六本木に立ち上げて、芸能界にまで及ぶ人脈を駆使してビジネスを拡げ、挙句の果て、美人モデルと結婚でもするのだ。うわっ、思いっ切り成功してるやないか!
五、【寝た女の数を自慢するような男は、所詮下手クソだ】
良くないからこそ、次々ご新規さんを相手にできるだけで、上手ければお得意さんが放してくれないはずなのだ。
六、【車をコロコロ買い換えるようなヤツは、女も次々換える】
前項と関連するが、女と車は、男からすれば、同じ「乗り物」であると知れ。車ではないが、僕の先輩の吾妻さん(仮名)がコンパの席で「女なんてエロビデオと同じだ!」と豪語して顰蹙を買ったそうだが、ある意味、その通りなのである。しかし、僕は、お気に入りシーンは結構何度も見るタイプだ(クソの自慢にもならないが)。
七、【内股で歩く女を、男はかわいいだなんて思っちゃいない】
変な歩き方してると脚も曲がるし、姿勢も悪くなる。そんなことでは、それレベルでよしとする男しかついて来ないのだ。颯爽と歩き、そして……
八、【抱かれるな。抱きにいけ】
セックスは、させてあげるものでも、してもらうものでもない。したい時は、自分の意思で選択し、狩りにゆけ。狩りの際には、終電とか履いてきたパンツの色柄とか顧みるな。そして、するならするで……
九、【草食動物のようなセックスをするな】
それがどういうもんかよくわからないのだが、喰うか喰われるか、殺すか殺されるか、みたいな生命の一瞬の輝きを見せてもらいたいものだ。セックスに対する真摯さ、探究心を持った求道者をスケベの一言で片付けるべからず。大事なことなのだ。最終的に、受益するのは、女性なのだから。
最後に……
十、【オナニーを恥じるな】
自炊をする。自習する。学費を自分で工面する。若い人にとっては、これらの行為と同等にエライことであると思い知るべし。自炊、自習、自活、自慰を「人生の四大訓練」とする。
以上の十箇条を心に刻んで、長い人生の中の短い青春期を歩めば、これらを知らない者たちよりも、断然の差があることは間違いない。それは飼い猫と野良猫ほどに、人生に元々の差があると考えていい。
念のため言っておくと、僕に娘が生まれるような、そういう予定は全くありません。
(了)