月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「今でもそういう夢を見る」

夜の十時頃の仕事帰り。僕が電車を降りて駅から家への道を歩いていると、集団下校の小学生たちとすれ違う。夜の十時である。つまり、塾からの帰りなのだろう。塾の先生に引率されて駅に向かって歩いているのだ。最近は防犯意識が高まって、塾側もそこまでしないと、お子さんを預かる責任を負えないのだろう。ご苦労様でございます。
それにしても、何度も言うが、夜の十時である。僕は十時に帰ろうが、徹夜しようが、その分お給料をいただいているホワイトカラー労働者なのでいいのだが、小学生の子供が、そんなサラリーマンのような生活をしていいのだろうか。常識で考えればいいわけがない。だって、十時に塾が終わって、帰宅して十時半。お風呂に入って、歯磨きしてたらあっという間に〇時になるじゃないか。
小学生が、業界用語で言うところの「テッペン越え」をしていいのは、大晦日の晩だけだ。
少なくとも、僕の頃はそうだった。「八時だよ! 全員集合」を見たら寝るのだ。「イレブンPM」をコッソリ見たのは中学になってからだ。
しかし、そういう僕も小学校の時分から塾通いはしていた。それでも、言わせてもらう。いや、だからこそ、言うぞ。
小学生を深夜まで働かせるな。
勉強を働かせると呼ぶのが適当でないなら、使役させるな。
なぜなら、僕は今でも、「これから塾に行かなきゃいけないのに既に遅刻している。しかも、宿題が全然できていない!」という悪夢を見るからだ。
シチュエーションはいろいろだ。見知らぬ駅だったり、どこか外国のキャンパスだったりだ。そして、決まって教科は、僕の苦手な数学とか化学とかである。
僕は塾や教室に行きたくないのに行かなきゃいけないジレンマと戦う。行かなきゃいけないのに場所がわからない焦りと戦う。そして、なのに宿題が全然できていない悔恨と戦うのだ。
夕暮れの構内を走って、階段を駆け上がり、席を探して、知り合いを見つけて少し安堵する。先生が何を言っているのかわからずまた焦りだし、テスト用紙が配られる頃には「ハッ、ハッ、ハッ」と短く早い呼吸を繰り返している。
そういう夢を今でも見る。
僕自身としては、塾が嫌で嫌で仕方なかったという記憶はないし、むしろ自分で希望して通っていたはずなのだが、そういう夢をしばしば見て寝汗をかくということは、深層心理としては苦しみがあったのだろうか。
以下に述べることは、いろんなオトナの議論は無視して、当時の僕が「ほな、どうしてほしかったか」ということを記憶を頼りに書いたものである。
ちなみに僕は、公立の小学校を出ている。
とにかく、公立学校の授業のレベルを上げてほしかった。「フン」と思う方もいるかもしれないが、とにかく当時の僕が本当にそう思っていたことは確かである。神童のボクちゃんとしては、国語の授業でみんなで声を合わせて文章を音読させられるのが大嫌いだった。めっちゃ遅いからだ。目から頭にはどんどん文字が入ってくるのに、声に出せるスピードが異常に遅いから、要するにフン詰まりのような気持ちにさせられたものである。
先んじてスラスラ読み上げると、先生から「誰だー!?」と言われる。
僕の時代は、まだ運動会の徒競走を「みんな一列で手を繋いで」させられるような末期的状況には至っていなかった。それでも、義務教育に「伸ばすべきを伸ばす」という発想はなかったように思う。
僕が望んだように、授業のレベルを上げるためには、レベルごとにクラスを分けなくてはいけないし、そうなると科目ごとにレベル分けするのが適当かと思われる。
そうすれば、国語はできるが、理科は苦手という子供もそれぞれ自分のレベルに合った授業を受けられる。中には、体育や図工含め、全ての科目でトップのクラスという秀才クンもいるだろう。
反対に、全てダメでしかも、そういうヤツに限って忘れ物は多いし、家はビンボーだし、おもしろくもないし、嘘つきだし、子供のくせに鼻毛出てるし、机の中に隠してたパンにカビが生えてるし、みたいなサイテーな子もいるだろう。哀しいかな、それが現実だ。
そういう子は、そのビリクラスの中で、義務教育として受けるべき最低限の知識や教養と、人間としての道徳を学び、そのクラス内で評価を受け、卒業する。
それでいいではないか。
「そのクラス内で評価」というのが大切で、全体を最低レベルに合わせるからこそ、その子は学校にいる間中ずーっと最低の位置を味わうのであって、レベルごとに分けてしまえば、もしかしたら最低クラスの中で科目によっては、少し上に浮上できるかもしれない。味を占めて、そのクラスの真ん中くらいまで行けたら、どういうことが起きるか。
つまり、今までビリしか知らなくて自分はいつもビリだと思い込んいた子が、初めて真ん中の成績を経験できるのだ。画期的な出来事ではなかろうか。
あえて実力別に分けることで、そういう救済が可能になるのだ。勘違いであっても、そういう思いをして伸びていくヤツも、中にはいるかもしれないではないか。
この国の危険性というのは、「最低レベルに合わせた教育を広く与えて」きたことだ。だから、レベルが落ちていくし、伸びるべき人間が伸びないのではないだろうか。
世の中は競争社会で、格差も差別もある。僕は市場原理主義には反対の者であるから、規制やルール決めはあって然るべきだと思う。
しかし、人間は平等ではないというところから教育をスタートさせないと、現実との乖離に結局苦しむのは、子供が大人になったその時なのだ。
あるお笑い芸人が「エロスで人を支配できる」ということを話していた。それは、中学生くらいでエロスの知識がやたらあるというのは、勉強ができることや面白いということと同じくらいの尊敬を得られるということであった。
だから、修学旅行にエロ本を持って行くと、「すげぇ〜」と、その勇気を称える眼差しが集まり、人が言うことを聞くようになる。つまり支配力さえ手に入る、と。
なるほど、である。勉強できない者はできないなりに、自己主張の方法を編み出せばいいのだ。それが本当の意味の競争なのだ。
一方、最高クラスの子供には最高レベルの学習をさせるから、塾なんて行く必要はなくなる。お金も時間も節約できる。
その分は、宇宙科学の研究をしてNASAを目指すもよし、エロス研究をして、勉強もすごいがエロスもすごいという最強の青春を過ごすもよし。ただし、部室で最強、女子からの人気は最低となるだろう。
そういう部分にも、人生を学べるチャンスは転がっている……。
大いに悶々とすべし。深く悩むべし、若者よ。
中年にさしかかった僕ですら、塾の悪夢を見る以外の夜には、「モテたいよ〜、モテたいよ〜」と寝言で言っているくらいなのだ。君らには何もわかるまい。
「科目ごとの実力別クラス分け」に加えて、「給食で嫌いな食べ物は残してもいい」という寛容さも是非採用いただきたい。
僕はガキ大将だったから、昼休みには率先してドッヂボールや蹴り野球に飛び出していく子供だった。しかし、給食にグリーンサラダやコールスローサラダが出る度に、僕は席に残され、食べられるまでいつまでも残され、掃除の時間が始まって、先生にカンベンしてもらえるまで残されるのだった。
高学年になると、ハナから生野菜はもらわなかったり、言うことを聞きそうな友人に押し付けたりというサバイバル方法を発明してなんとかやって来れた。それにしても屈辱であった。
人間なのだから、好きなものも嫌いなものもあろう。
それは個性だ。 好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとはっきりして何が悪い。 それは意見だ。 自分の意思で決めているのだ。 それは選択だ。
    何でも食べられるなどという人間は、将来、誰とでもセックスできるような野卑な人間に育つに違いない。
    それは、……偏見だ。
    (了)