月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

マエダという名前とインドネシア

もう五年もたってしまった。五才若かった僕は、インドネシアで働いていた。
勤めていた広告会社で、アジア内のあちこちの拠点にコピーライターやアートディレクターの中堅社員を送り込み、三ヶ月間、現地社員たちと席を並べて働くという研修プロジェクトがあったのだ。
大阪で働いていた僕はある日、上司に小部屋に呼ばれた。
「……というプロジェクトを本社が始めるそうで、お前が関西第一号として選ばれたから」
呼ばれた時点では、僕は人事異動かなにかだと予想していたので戸惑った。
「え、どこの国に行くのですか?」
「わからん」
「いつからですか?」
「わからん」
こんないい加減な感じだったのだが、やがて僕はインドネシアに送られた。

その頃に書いたコラムは12年12月号から13年4月号までの四回に残されている。

僕には、今でもインドネシアに友人たちがいる。最近は、現地の経済伸長が著しく、インドネシアから彼らが日本に旅行にやってくる。その度に僕は京都や大阪を案内したり、観光客が来ないようなバーに連れて行くのである。

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僕はインドネシアを愛してやまない。
日本人の多くが知らないのが大変残念なことなのだが、僕の苗字である「前田」というのは、かの国ではとても尊敬されている。

旧日本海軍に、前田精(ただし)少将という人物がいて、大東亜戦争時に在バタビアジャカルタ日本海軍武官府の代表をされていた。

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インドネシアというのは、およそ三五〇年間に渡り、オランダ(およびイギリス)の植民地だった。赤道に近い熱帯の気候は、コーヒー、タバコ、茶、サトウキビなど国際市場で需要の高い作物の栽培に適し、地下資源も豊富だった。しかし、それらすべては植民地政府に安く買い取られ、ヨーロッパで高く売られた。

一九四二年に、日本軍が石油を求めてインドネシアに侵攻し、オランダを追い出した(オランダ本国はすでにドイツに降伏して、イギリスに亡命政府を作っていたが、オランダ領東インドと呼ばれたインドネシアには植民地政府が残っていた)。

そして、戦争は日本の敗北で終わる。
オランダ植民地軍が戻ってくる。
インドネシア人がとうとう独立を求めて立ち上がった。

ポツダム宣言を受け入れた日本は、何もしてはいけなかったし、武力紛争が起これば鎮圧する義務を負っていた。しかし、前田少将は、かねてより親交があったスカルノ氏、ハッタ氏らが独立宣言を起草する際、安全な自分の公邸に呼び入れ、部屋を使ってもらった。
スカルノ氏とは、デヴィさんが第三夫人だった人、と言った方が日本ではわかりやすいかもしれない。インドネシアの初代大統領になる人物である。ハッタ氏はその後、二代大統領に就く。

  宣言
  我らインドネシア民族はここにインドネシアの独立を宣言する。
  権力委譲その他に関する事柄は、完全且つ出来るだけ迅速に行われる。
  ジャカルタ、05年8月17日
  インドネシア民族の名において
  スカルノ / ハッタ

手書きの原稿には日付のところに数字が「17 8 05」と並ぶ。17日8月05年の意味だが、05年というのは、日本紀元(皇紀)で、1945年は2605年だったからだ。イスラム教徒であった起草者たちは、キリスト教に基づいた西暦を拒否したかったのだろう。

インドネシア独立戦争は一九四五年から四九まで続いて、日本軍の中から祖国を捨てて、軍を脱走してインドネシアに残り、現地人とともに戦った者たちが一千から二千人いたと推定される。そのうちのかなりが命を落としたと言われている。

 

現在では、前田精少将の邸宅は、独立宣言文起草記念館として公開されている。
インドネシア独立戦争で亡くなった八〇万人の一部は、ジャカルタ郊外のカリバタ英雄墓地に墓標がある。日本人の名前が並んだ一角もある。
僕は五年前に、その両方を訪ねた。

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前田提督(海軍の将官を提督という)は、インドネシア語では「ラクサマナ・マエダ」といい、教科書にも出てくるそうなので、ちゃんとした教育を受けたインドネシア人にはよく知られている。

僕がインドネシアの拠点をはじめて訪れた頃、僕なりに緊張していたので、白いシャツを着て、マジメな顔をして会社に通った。インドネシア人の同僚からしたら、「日本からなんだかパリッとした人がやって来た。『マエダ』さんというらしい……」と、敬意を持った目で見られていたようだ。
ある時、同僚に訊かれた。
「あのー、マエダさんは、あのラクサマナ・マエダと関係がある人でしょうか?」
僕は眉ひとつ動かさず、相手の目を見据えて答えた。

「もちろんだ」

数秒おいて、ニヤッと笑うと、向こうもそれが冗談だと気づく。
「わははは! ウソつけ!」
「わははは! オレを敬え!」

こんなふうにして、僕は彼らと友達になった。前田提督に感謝である。
しかし、僕の次に派遣された後輩社員も、名前が前田くんだったから、マエダがありふれた名前であることがバレてしまった……。

若いデザイナーの社員とキツイ仕事を担当して毎晩夜中までクレイジーな働き方をした。イユスくんという。彼とのことは13年1月号に書いてある。

五年たって、彼は二回会社を移っているが、その時の同僚であった女性社員と結婚して、ハネムーンで昨日、日本にやって来た。僕は昨夜、大阪の道頓堀近くに会いにいった。

観光客が来ないバーに彼と花嫁を連れて行って、思い出話をした。
「マエダさん、僕はあの時の企画、クライアントに採用されなかったけど、今でも一番よかったと思っています」
「そうだよなー。あれ、おもしろかったよな」
「日本の広告会社は、クライアントの求めるものを提案しようとするけど、今いる(欧米系の)会社は、本当にいい案を出そうとするから、こっちの方がいいです」
僕はあの時、傭兵みたいな立場だったので、力を示さなくてはならなかったし、広告ってそもそもおもしろいはずじゃん! ということを若い彼らに見せたかった。だから、やや無責任におもしろい案を出したのだった。それはそれですごいプレッシャーだった。

イユスくんは、日本が大好きで、奥さんの方は本当は韓流スターが好きなのだが、「まずは日本!」と主張して連れてきたそうだ。
前述のラクサマナ・マエダの冗談を彼にも話して笑った。
僕はカウボーイの話をした。
彼はジャパンが受注を逃し、チャイナに奪取されたジャカルタ高速鉄道の話をした。
その他、なにかいろいろ話した。
「君たちは、これからセックスしろよな」
と言って、新婚夫婦と別れた。

五年前に、文字通り、笑ったり泣いたりしながら働いてよかったと思えた、いい夜だった。

ジャカルタの、体にまとわりつく熱気と雨のにおいが、僕は恋しい。