月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「銃でスポーツする人たち」

九〇年代の後半。僕がアメリカのケンタッキー州の大学にいる時、パブリック・スピーキングのクラスが必修だった。つまりはプレゼンテーションやスピーチなど、大勢の人の前で話をする技術を学ぶ教室だ。
その中で、「自分が好きなことについてスピーチをしろ」という課題があった。僕がその時、下手くそな英語で何について話したのか覚えていないのだが、おそらくカントリーミュージックについてでも話したのだと思う。

ブライアンという男がいて、迷彩柄のツナギとオレンジ色のヴェストを着て教室に現れ、彼が愛してやまないハンティングについて話した。アメリカの田舎ではハンティングというのは人気スポーツである。主に鹿や七面鳥を撃つ。

「アウトドアショップ」に行くと、たいていキャンピングやバーベキュー用品に加えて、釣り、カヌー、そしてハンティング・グッズが大量に置いてある。もちろん、ライフルやボウガンなど、武器として殺傷能力を有するものも様々なバリエーションが販売されている。

ブライアンのスピーチのあと、質疑応答の時間に、僕は手を挙げた。
「撃った動物はどうするんだい?」
「食べる。ソーセージにしたり、グリルで焼いたり」

クラスが終わると、ブライアンが僕に近付いてきた。
「ショータ、お前はハンティングしたことあるか?」
僕が質問したことにより、この日本人はハンティングについて何も知らず、もしかしたら殺生することに批判的な見方をしている、と受け取ったのかもしれない。
僕が「ない」と答えると、彼は「今度の土曜日、ディア・ハンティングに行くけど、一緒に来てみないか?」と誘ってきた。
僕は即座に申し出を受け入れた。

朝3時。まだ外は真っ暗な中、彼は友人と二人で僕を迎えにきた。
「陽が出てから森に入っているようではもう遅いんだ」
彼は話しはじめる前に”I tell you what(いいか?)”と言うのが口癖のようだった。
森の入り口でピックアップトラックを止めると、ブライアンは僕のための用意してくれたオレンジ色のツナギを出した。僕は着ていたものの上からそれを身に着けた。同じ色のニットキャップもかぶった。

森に踏み込む前に、彼は注意事項を告げた。
「いいか、これからハンティング用の見張り小屋へ向かう。声は立てるな。咳もしたらダメだ。もしもどうしても我慢できない時は、上着の中に静かにやれ」
彼は服の首の部分を引っ張って、そこにアゴを突っ込むようにして見せた。

暗闇の中をどのように進んだのかわからないが、しばらく歩いてから、僕たち三人は見張り小屋に入った。木造の物置のような小屋だが、草原に向いた方の壁には一文字に覗き窓がある。そこからライフルを出して撃つので、当然ガラスはない。

夜空が白んできた。どれくらいの間、そこに潜んでいたのかわからないが、会話をしてはいけないのだから、ただただ寒かったことだけよく覚えている。ブライアンは双眼鏡を覗いたまま微動だにせず、広い草原に獲物が顔を出してくるのを待っている。
やがて、彼がささやいた。
「Buck(牡鹿)だ」
僕が肉眼で見てもよくわからなかったので、距離は遠かった。
ブライアンはライフルを構えると、一発ぶっ放した。

外したようだ。
やはり遠すぎたのか、牡鹿は逃げていってしまったという。

小屋は諦めて、場所を移すことにした。森のさらに奥へ入って行って、木々に囲まれた薄暗い場所でブライアンは立ち止まった。
彼は、僕が見たこともない道具を出した。持ち運び用の座席の背の側にループ状のベルトが付いているもので、いま調べたら「ツリー・スタンド」というそうだ。
〈参考画像〉
木に登って、動物に気付かれないくらい高い位置の幹にベルトで固定する。だいたい地上十二メートルくらいはあったのではないだろうか。
「いいか、ショータは、いま俺が設置したこれに座っておけ。俺はあっちのあたりに陣取るから」
彼と友人は森に消えていった。別々の場所にツリー・スタンドを取り付けて、それぞれ上から獲物を狙うようだ。

僕はまっすぐ伸びた木の幹をよじ登り、そこに座った。といっても、僕はライセンスがないためライフルを撃つつもりはないので、そこに座っているだけだ。
靄がかかった森の寒さの中、じっと座って、耳だけを澄ませていることになる。途中でおしっこがしたくなったが、降りてまた登るのが面倒くさいし、ガサゴソ音を立てて、ブライアンたちに撃たれでもしたらかなわないので我慢した。こちらから、彼らの居場所はわからないのだ。

銃声が二回聞こえた。
僕が息を殺して待っていると、しばらくして枯葉を踏む足音と、ブライアンたちの声が届いてきた。
「仕留めた。もう一頭いたけど逃げていった」

鹿は胸を撃たれて即死だったようだ。ピクリともせずに、そこに倒れていた。ブライアンは満足げにその傷口の位置を確認した。
彼は頼りないくらい小さなポケットナイフで、鹿の腹を裂くと、内臓を手づかみで枯葉の上に捨てた。それは朝の冷たい空気の中、湯気を立てた。途中で、腸を割いてしまったらしく、彼は「クソッ!」と顔をそむけた。血や臓物よりも強い、糞のにおいがあたりに立ちこめた。

「腐りやすいから内臓は捨てておく。こいつは持って帰ってトラックに載せる」
狩った鹿は地元の管理事務所に報告をして、頭数を把握してもらうという。
ズルズルと死骸を引きずって森を出ると、ケンタッキーの小さな町は、いつもと変わらない土曜日が動き出したところだった。

 

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アメリカで銃乱射事件が起きると、決まって銃規制の話題が盛り上がる。
一九九九年に起きた有名な銃乱射事件であるコロラド州コロンバイン高校(15人)のあとにも、重大なものだけで以下のような銃乱射事件がある(カッコ内は犠牲者数。射殺された犯人は含まず)。
二〇〇七年:ヴァージニア州ヴァージニア工科大学(32人)
二〇〇九年:テキサス州フォートフッドの陸軍基地(13人)
二〇〇九年:ニューヨーク州ビンガムトンの移民センター(13人)
二〇一二年:コロラド州オーロラの映画館(12人)
二〇一二年:コネチカット州サンディフック小学校(26人)
二〇一三年:ワシントンD.C.海軍工廠(12人)
二〇一五年:カリフォルニア州サンバーナーディーノ(14人)
二〇一六年:フロリダ州オランドのナイトクラブ(49人)
二〇一七年:テキサス州サザーランド・スプリングスの教会(26人)
二〇一七年:ネヴァダラスヴェガスのコンサート会場(58人)
二〇一八年:フロリダ州マージョリー・ストーンマン・ダグラス高校(17人)

犠牲者がいないもの、より小規模な事件はもっとあるのだが、列挙すればするだけ無機質な、単なる場所と数字の羅列になってしまう印象がある。

アメリカ開拓の歴史の一翼を担うといっても過言ではない、米国最古の銃火器製造メイカーであるレミントン・アームズ社が破綻した。アメリカの分析によれば、トランプ大統領が誕生した二〇一六年以降、銃火器の販売数は落ち込み、各社苦境に耐えているという。
なぜかというと、愛好家たちが「トランプなら銃規制に消極的だから、銃を今買っておく必要もないだろう」と買い控えたからだという。皮肉なものだ。

僕はもはや歴史や憲法と直結した銃火器の規制というものを絶望視している。それでも、せめてAR-15に代表される「アサルト・ライフル」だけは民間への販売を禁止するべきではないかと考えている。すでに一千万丁から千二百万丁が出回っていると言われているので、手遅れであることには変わりないのだが。

アサルト・ライフルというのは、元々はコルト社が開発したAR-15がオリジナルだ。軽量で反動が小さく、全自動ではないが、トリガーを素早く引くことで何十発も連射が可能なライフルである。その上、銃弾の速度が速く、殺傷力が非常に高いという。
一九七七年にコルト社の特許が切れると、各社が類似品を製造販売し出した。
「銃乱射事件で使われた『AR-15』の破壊力を、医師たちが語った」wired.jpより〉

youtu.be


このアサルト・ライフルが乱射事件に度々使われるため、非難の対象になってきた。レミントン社も、ブッシュマスターというAR-15型のライフルが、サンディフックの事件で使われたため、遺族から訴訟を起こされている。

一九九四年から二〇〇四年の間はアサルト・ライフルの販売が禁止されていたのにもかかわらず、それに近い製品は売り続けられていたというから抜け穴だらけだったわけだ。

僕がたった一回だけ経験したスポーツとしてのハンティングだが、明らかに銃弾を連射するような状況はありえない。”Assault”は急襲という意味だから、アサルト・ライフルはスポーツ用品ではなく、もはや兵器だ。
銃全体がいけないという理屈に屁理屈を返すことが許されるなら、野球のバットだって凶器になる。それに僕はカウボーイとして牧場で働いた経験を通じて、ライフルの必要性をよく知っている。
ハンティング自体の是非は、肉食にもかかわるので、ここでは論じない。

ただ、僕はハンティングをスポーツとして楽しみ、親が子に釣りを教えるようにライフルの扱い方を手取り足取り指南するような文化の一部に触れてきた。今でも交流のある、学生寮のルームメイトであった友人は、父親と狩った鹿の頭をいくつも部屋に飾っている。
日本人から見たら残酷でバカらしい趣味なのだけど、都会と大自然の環境の差、ピストルとライフルとアサルト・ライフルとマシンガン、スポーツと虐殺を一緒に考えると反発が必至であることはわかっている。できることから始めるなら、やはりアサルト・ライフル(とそれ以上の銃器)は民間に不要だと思う。過剰だと思う。

乱射事件が起きて、銃反対運動や、規制を求める声を聞くたびに、僕はあの日、授業の終わった教室で、日本からの留学生にケンタッキーらしい文化を伝えようと
「ショータ、お前はハンティングしたことあるか?」
と、声をかけてくれた時のブライアンの黒くて大きな瞳と、「いいか……」と言う南部訛りを思い出す。

人は「好き」でできている

先月、頼まれて講演をしたので、そこでお話ししたことを編集してお伝えしようと思う。

依頼は兵庫県立図書館からで、読書推進事業の一環として、若い人たちにもっと本を読んでもらおうというのがテーマであった。

今さら言うまでもなく出版業界というのは大変つらい状況にあって、以前は「雑誌が売れて書籍を支えている」と言われていたが、今や雑誌も、漫画すらも売れていない。出版市場はピークであった約二十年前の半分近い落ち込みだ。
それなのに出版社一社の出版点数は増えていて、つまり乱暴にいうと粗製乱造なのである。

出版不況より深刻 漫画単行本、売り上げ激減 市場規模はピークから半減 - 産経ニュース

そんな中、大人たちが「子供や若い世代に本を読んでもらいたい」と言ったからって、大人自身が読んでいないのに虫がよすぎるというものだ。

各メディアの一般的な特徴を挙げると:
テレビは音と映像が出るから影響力が大きい。
ラジオは発信者と受信者の親密度がもっとも高い。
新聞は情報の信頼度が高い。
雑誌は専門性が高く、保存がしやすい。
書籍は「期待値」がもっとも高い。
と、このように言われてきたのだが、インターネットが発達し、SNSが登場するともはや影響力、親密度、専門性などについてはトラディショナルメディアをすっかり凌駕してしまった。信頼性については玉石混交なのは言うまでもないが、テレビや新聞が扱わない「ホントの話」もネットで暴露されることも多いから、使い手のリテラシーによっては有用である。
ウェブの記事は書き手と編集者がノウハウを蓄積して、いかに引き込むか、クリックさせるか、一気に読ませるかというテクニックがふんだんに取り入れられて、書籍のようにどうしたって一ページ一ページめくらざるをえない、面倒くさい、時間もかかる、おカネもかかるものは、そりゃ勝ち目はない。

「期待値」を説明すると、お金を払って買ったものだから、当然おもしろくあってほしい、役に立ってほしい、知らないことを教えてほしいという期待度がハナから高いのだ。しかも映画のように眺めていれば進んでいくものではなく、自分の読解力を使って読み進めなければならない。
それはすなわち、「おもしろくないものは読み切れない」のである。

それにもかかわらず、先述のように出版社はとりあえず明日のメシのために粗製乱造だから、状況はますます重苦しいものになる。

本当は、「本を読むのは楽しいから」と、声を大にして言いたい。若い人が想像力と感受性を伸びやかに育むのに、本はうってつけなのだ。
それを言い換えると、「おもしろい人間になれるから」であると思う。僕の知っているおもしろい人というのは、皆よく本を読んできている。おもしろいというのは、人を笑わせる能力のほかに、ハッと気づかせてくれるとか、ウーンとうならせてくれるとか、刺激を与えてくれることだ。「面白い」の語源は、「目の前がパッと明るくなる」ことだそうだ。明るくなることを、白くなると昔の人は表現したのだが、そういう気質を持った人たちのこと。
あなたの周りのおもしろい人のことを思い浮かべてみてほしい。どうだろう?

そして、そういうおもしろい人がいる、楽しいところに人は集まる。そういう人に、自分は今さらなれないとしても、自分の子供や将来のある人たちにはなってほしいと願うのは当然のことだと思う。

「人生は『好き』を登る山」のことである。実はこれが、僕がつけた講演のタイトルだったのだが、副題を「本は最高のガイドです」とした。

「好き!」という衝動を大切にして、それを探求していくことによって、いろんな出会いがあったり、発見があったり、道を選択する際の理由になったりする。そして、その探求には終わりがない。

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好きを追求することにはオマケもあって、何事も自分の好きなことを通じて学ぶと、勉強とか訓練とか苦しそうなイメージを持つことなく進めることができる。
たとえば英語。これを身につけたいなら、自分の好きなことを通じて覚えるのが一番よいと思う。釣り好きなら、アメリカの釣り雑誌を読むといい。知らない単語も、釣りのことなら想像ができるかもしれないし、辞書で調べるのも「知りたい」という気持ちがそれを苦にさせない。
そして、雑誌やウェブサイトで知った場所に、いつか私もこういう川で、湖で、釣りをしに行きたいと思えれば、この先の楽しみがまたひとつ増えるではないか。実際にそれを叶える時には、航空券の手配も、釣り免許の取得も(アメリカの場合、免許がいる)、レンタカーでのルート調べも、英語をものともせずグイグイできてしまうものだ。

好きなことを、もっと知って、もっと好きになるのに本は欠かせないと思う。一冊一冊、専門家が書いたものだからだ。小説だって、その世界を書こうと思ったら、(本を読んで)調べに調べて専門家に近くならないと書けないだろう。そして、ありとあらゆることが本になって世に出ている。

僕も、自分が好きな、山歩きの本、旅の本、革の本、アメリカの歴史の本などはたくさん読んできた。何年も前に本で知ったジョン・ミューア・トレイルを、昨年ついに歩いてきた。
monthly-shota.hatenablog.com

僕が『カウボーイ・サマー』という本を書いたのは、カウボーイについて知ることができる日本語の本があまりにも少なかったからだ。
会社での仕事まで辞めて、本に人生を狂わされたと言ってしまえばそれまでだけど、書いてよかったと思う。だって、これから何年でも、カウボーイに興味を持った人はこれを読むことになるのだから。若い人たちに大きな世界を覗いてもらう手伝いができるのなら、子供を持たない僕にとって大変光栄なことだ。

結論めいたことを言うと、子供に本を読ませたいなら、彼や彼女が好きなものに関する本をそっと身近なところに置いておくことではないだろうか。
「読みなさい」とは一言も告げずに、手の届くところに用意しておけば自ら読み始める。そういうものだと思う。

ここで重要なのは、自分が彼らに読ませたいものではなくて、彼らが読みたいであろうものを差し出してあげることだ。夏休みの宿題としての読書感想文もそうだが、オトナが読ませたい名作だとか古典文学なんかは、子供には退屈でガマンできないものだ。わざわざ本を嫌いにさせるような行為だ。

また、大人が夢中で本を読む姿を、子供たちに見せてあげてほしい。
「なにがそんなに楽しそうなんだろう」と、思わせてあげてほしい。

僕の父親は、夜になると早々に寝室に引っ込んでいたので、「寝るの早いなぁ」と思っていたのだが、実はベッドで本を読んでいたようだ。亡くなって十年以上がたつが、書斎には膨大な量の本が遺されている。僕は実家に帰るとたまに、そこから難解すぎずにおもしろそうなものをピックアップしてもらって帰る。

去年は『トランプ自伝』(早川書房)という本を拝借した。父親が一九八八年に初版を買っていたものだ。
アメリカの現大統領であるドナルド・トランプ氏は、当時四十二才で資産が四〇〇〇億円分あって、若い時はハンサムだったからアメリカンドリームの体現者で、スーパースターだったようだ。巻末の訳者あとがきに、驚きの言葉があった。
「美しい妻イヴァナは言う。『あと十年たってもドナルドはまだ五十一才です。(中略)大統領選に出馬することもないとは言い切れません』」
三十年たって、本当にそうなっちまったんだ。

この本はちくま文庫から復刻されているから、興味のある方は読んでみてください。彼がニューヨークという街に自分の理想を持って、再開発という複雑な交渉と巨額の投資がからむ仕事にどう取り組んできたのかわかる。

本を読んでいると、こういうおもしろい体験もある。
これは僕がアメリカが好きだから、やはりアメリカ好きであった父を通じて出合ったおもしろさである。

恋愛を例に出すまでもなく、好きなことというのはどうしようもない。好きなものは好きで、本を読んでそれをもっと好きになって、大好きになると、いいことがいっぱい待っている。恋愛のように相手はいないから、自分でそれをどこまで好きになっても拒絶されることもないだろう(合法な限りにおいて♡)。

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そうして、「好き」を通じて自分独自の世界を持つことこそが、幸せに生きる方法なのではないだろうか。
明日、ご自分が好きなことを思いながら、本屋さんを訪ねてもらいたいと思う。

あなたにとっての、大切な一冊が見つかりますように……。

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「キ、キミらはおもしろいのか?」  

ちょっと思い出話を。
一九九〇年代と二〇〇〇年代の間の頃のことである。僕はアメリカで大学を卒業したあと、帰国して法政大学の大学院に進学した。日本の大学生活というものを知らなかったし、それらしいことを体験してみたいと思って、「そうだ、サークル活動だ!」と思い立った。
アメリカには(少なくとも 僕がいた二つの大学には)サークルというものはないのである。スポーツをしたい場合は、大学のチームに入ってやる他はない。映画研究会とか落語研究会のような文化系のサークルは皆無であった。
ちなみに、ゼミというものもないので、僕はいまでもゼミというのが何をするところなのか知らない。

大学院には単位互換制度という便利な仕組みがあって、別の学校の講義を履修しても、それが認められたクラスであれば、自分の単位として数えられるのである。日本のキャンパスライフを満喫したかった僕は、家から近かった立教大学のクラスをひとつ取ることにした。
池袋の立教大のことは「なんか黒い服着たおしゃれなやつらが多い」ということくらいしか覚えていないのだが、そこで、壁に貼られたチラシを目にした。
「お笑い工房LUDO 立ち上げメンバー募集」

そう、僕はお笑いサークルを探していたのだ。
それは早稲田のサークルだった。法政で院生をしながら、立教で早稲田のサークルを見つけたわけだ。さっそくその頃はじめて手にした携帯電話で連絡をして、メンバーに会いに行った。

福井くんという子(僕は大学に入学したての人たちより、すでにだいぶ年上だった)が、高校に進まず一緒に上京してきた弟と住んでいる、早稲田近くの部屋に会いに行った。ほかに、沼田くんという幹事長の男と、江藤くん(仮名)とか、佐藤くん(仮名)とか、奥山くん(仮名)とか、当時は7、8人のメンバーがいただろうか。

どんな楽しげな元気のよい若者に会えるのかと思って行ってみたら、お笑いをやりたい人たちのほとんどは学生生活の敗者みたいな人が多いことを知った。
「え? 君たちは学校で、クラスで、一番おもしろかったのか?」
初対面なのに、思わずそんなふうに訊いてしまった僕はその場の空気を悪くした。
早稲田にいるくらいだから勉強は苦手ではないのだろうが、スポーツに秀でているわけでもなく、リーダーシップがとれるわけでもなく、当然モテないし、カネもない。僕もモテないしカネはないのは同じだったのだが、快活でもなければ、活動の展望もそんなになさそうな面々を前に、今後がやや不安になったのだ。

特に福井兄弟は、親元を離れて大阪から出てきたはいいが、自分の生活をまともに構築することすらままならないような感じであった。とにかく、みんなの集合場所として使っていた彼らの部屋が汚かった。気付けば、ベランダに布団が何ヶ月も干したまま、というか雨ざらしだったし、風呂は泥の中に棲む生物を飼っている水槽みたいになっていた。
「僕は本当はきれい好きなんです。だからこそ、もうあれらを触ることもできないんです」
と言っていた福井くんの兄の方はちょっとおかしなやつで、しょっちゅう手を洗っていた。一度始めると、何分でも洗い続けていた。
彼が洗面所でシャカシャカ始めると、僕たちは「またかよ」と放置していたのだが、当時は強迫性障害という言葉も知らなかった。なにか潔癖症のひどいやつだとは思っていたが、「医者に行け」とは誰も言わなかった。

ある時、兄弟となにかの用事のため電車で出かけた時も、彼は駅の便所で「ちょっと待ってください」と、手を洗いはじめた。僕はしばらく待っていたのだが、約束の時間に遅れそうだったためしびれを切らし、まだ洗い続ける彼の横から腕を伸ばし、キュッと蛇口を閉じた。
「ああああぁぁぁ……」というこの世の終わりのような彼の声を今でもよく覚えている。

奥山くんは普通に見れば見た目も悪くないし、早稲田の学生としてもっとありきたりな楽しい学生生活を送れそうなものなのに、異様に風呂が嫌いだった。「もう一週間入っていません」などと、なにかの記録を伸ばすかのように平然と言った。
「今日は電車で座ってたら、隣りの女性が席を立っていきました。へへへ」
時は、もう二十一世紀になるやならんやの頃である。

佐藤くんはとても理想の高い人物で、その理想と自分の能力との乖離にいつも苦しんでいるようなところがあった。ギョーカイ人でもないのに、尊敬するダウンタウンの松っちゃんのことを話す時には「松本さん」と言った。僕らはそれに慣れたが、他のサークルの人と交わる時にも「松本さんは」と話すので失笑を買っていた。「知り合いか」と。

江藤くんは、当時においてもすでに古めだった田原俊彦、トシちゃんがなぜか大好きで、コントを書かせても、最後はトシちゃんのダンスを完コピして悦に入りたがった。
「それいるか?」

沼田くんは一番おもしろくなかったのだが(笑)、そんなダメ人間の集まりの中、最もコミュニケーション能力が高かったので幹事長(リーダー)を務め、友人の何人かをライブの際の照明や音響係として引っ張ってきたりして、よく運営したと思う。

定期的にライブを開いて、チマチマと、それでいてそれなりに熱心に活動を続けた二年目、ある大手芸能事務所がお笑い部門の創設を目論んでいて、お笑い志望学生の青田買いを目的に、東京の大学のお笑いサークルに声をかけて「学生お笑い選手権」のような大会を開いた。十数の大学から、二十近い団体が参加したトーナメント方式だった。
早稲田からは僕らを含めて三団体が出場していて、今でいう「かもめんたる」の二人や小島よしおさんもいたWAGEと、寄席演芸研究会だったかと思う。

学生のやることだから、今観たらきっと恥ずかしいし稚拙なんだろうと思うけど、僕ら「お笑い工房LUDO」は、真剣に取り組んだ甲斐あって、二回勝って、別の日に定められた決勝大会に駒を進めた。
決勝の会場は渋谷のクラブ貸切りで、お客さんはギッシリ。司会はアンジャッシュだった。アンジャッシュは当時からおもしろかったなぁ。
審査委員が五人くらいいて、中にどこかの大学のミスキャンパスの女の子がいた。
アンジャッシュの渡部さんがコメントを求めると、
「コントっていうのはー、脚本の構成と演技力の勝負だと思うのですがー……」
「お前になにがわかる!!」
この、会場すべての声を代弁した児嶋さんのキレ芸が、その日一番大きな笑いだった。

僕たちは完全に会場の雰囲気に飲まれたのだった。僕たちだけでなく学生演者の誰もがそうであったと思う。結果は惨憺たるものだった……。

その芸能事務所の担当者は、よしもとから移籍してきた敏腕マネージャーと言われていた方で、僕ら学生から敬われていたし、怖れられてもいた。
僕はある日、彼から「前田、うちで一緒にやらんか?」と誘われた。
僕はその時すでに翌年電通に入社することが内定していたので、丁重にお断りした。
彼は「そっか」とそっけなく受け入れたあと、こう言った。
「この仕事は『人買い』みたいなもんだ。だから、俺は人を見る目だけはあると思っている。がんばれよな」

ご本人はこの言葉も、僕のことも覚えてはいないだろうけど、僕はなんとなくこの時かけられた言葉を励みにしている。彼の誘いに乗って、芸能事務所に行っていたら、きっと売れないまま芸人か放送作家をしていたかもしれない。今、売れない物書きをやっているのだからそれは確信に近い思いがある。

 

あんまり人に話したことのない、自分の黒歴史みたいな二十年近くも昔のことを書いたが、あれはあれで、僕にとっては狂奔の青春の一部で、楽しかった記憶しかない。

ふと思い立って「お笑い工房LUDO」を検索してみたら、今でも早稲田にあるし、当時は非公認団体みたいなもんだったのに、ウェブサイトには公式サークルとして一五〇名が所属していると記載がある。冗談だろ? よしもと主催の学生お笑い団体の大会で、LUDOのコンビが優勝もしている。マジか。
今のメンバーは、設立当初のことなど知らないだろうから、これが誰かの目に触れるとうれしい。

 

福井兄弟は、松竹芸能所属のお笑いコンビとして今でも売れないまま活動している。
江藤くん(仮名)は「シエ藤」というふざけたペンネームでライターをしている。肩書は「田原俊彦研究家、生島ヒロシ研究家、松木安太郎研究家、プロ野球選手名鑑研究家」だ。インタビュアーとして、何度も田原俊彦さんに会っているらしい。
沼田くんはお酒関係の会社で働き、世界を飛び回っている。
他の彼らも元気にしているといい。

おもしろくない毎日を無理矢理おもしろくしようとしていた、あの得体の知れないエネルギーが費えるのを怖れる、青春も後期にさしかかった四二才の年の瀬である。

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さぁ、憲法の話を(堂々と)しよう

うちの近所にものすごく安倍首相が嫌いなご様子の家があり、門に張り紙をしてまでその嫌悪を表明している。
「安保法制反対!」「安倍の独裁を許さない!」「憲法改悪するな!」

悪霊退散の御札か。

先の衆院選自民党が大勝すると、ややトーンダウンしたのか、
「安倍に改憲をさせるな!」「一強となった安倍政権をよく監視」
に変わっていた。

いや、ちょっとちがうんじゃないかな。改憲国会議員の3分の2以上による発議を受けて国民投票によって決まる。つまり、安倍政権ができるのは「国民の皆さん、どう思いますか?」という発議までで、最終的には国民の承認でそれは改正される。だから、安倍政権が好き勝手に変えられるわけではない。
従って、「国民による改憲を許すな」が正確で、これでは「お前は誰やねん」である。民主主義を否定することになる。まぁ、たまに否定したくもなる気持ちはわからなくもないけど。


僕は個人的には国民投票というのをやってみたいと期待する。大統領制の国とはちがい、総理大臣を選ぶ投票もできないし、大阪都構想の時の大阪府民のように住民投票すらしたことはない。結果は多数決で決まってしまうとはいえ、間接民主制の我が国で、個別案件について自分の意見を直接的に表明することができる機会はそうそうない。

改憲勢力」とひと言でくくられる、自民党と、改憲には慎重な姿勢なんだけど公明党、なんだかグラグラしている希望の党も一旦入れよう、それから日本維新の会の議員数を合わせると国会発議が可能な情勢になった。


以下に、憲法改正に関する論説を書くが、もっとも関心の高いであろう9条に限定することにする。そして、その際に、重要なことは「解釈に頼らない」ということと、「今現在に視点を置く」ことだと思う。
※以下は自民党改憲案に依拠して書くが、安倍首相は第9条について1項と2項を残したまま自衛隊の根拠規定を盛り込むことの検討を憲法改正推進本部に指示した。しかし、まだ条文案として、ちゃんと目に見えるかたちになっていないので、現時点では平成24年改憲草案をベースにする。
我が国の憲法は「解釈」によっていかようにも歪めたり、現状に捩じ込んだりが可能である事実が、さまざまな噛み合わない論議を惹起してきた。

〈前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。〉

この一文をもっても、「自衛隊は陸海空軍その他の戦力」なのかそうでないのか、解釈によって屁理屈をこねることは可能であった。

そして、「交戦権」とはなんなのか、ひとつの答えはない。憲法起草の責任者であったGHQ民政局次長のチャールズ・ケーディスですら「正直なところ今でもわからない」と1981年のインタビューで告白している。


自民党の改正草案では
〈前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。〉
として、第9条の2においては、
〈我が国の平和と独立ならびに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高司令官とする国防軍を保持する。〉
と、はっきりと「自衛権はある」「国防軍を持つ」としている(これからの議論により、自民党案がそのまま国民投票にかけられるとは限らない)。

改正部分がわかりやすいのはこちら:

自民党の憲法草案ってどんな内容? 何が消えて、何が加わるのか一目でわかる


次に「今現在に視点を置く」ことであるが、これは憲法成立の歴史を知ることは重要なことではあるものの、歴史の一部は再び「解釈」に委ねられる性質のものであり、事実が混沌とした部分を避けられないからだ。

日本国憲法は日本人が書いたのか、アメリカ合衆国が書いたのか」は、これまたずっと噛み合わない議論である。GHQの命令により、日本人が苦心して書いたものは「アメリカが書いたもの」でもあるし、「日本人が(敗戦の軛に堪えて)書いたもの」でもある。
バイデン前副大統領は「我々が書いた」と言ったが、〈前項の目的を達するため〉という文言を付け足した芦田修正まで含めて、完全にアメリカが書いたとも言えないだろう。

「あの仕事? あぁアレね、オレオレ。俺がやった」という、広告業界でいうところの「アレオレ詐欺」みたいなものだ。一旦どっちだっていいじゃん。

アメリカが書いたから我が国の名誉回復のために改正するのか、もしも日本が書いたなら一言一句変えないのか、いま必要な論点はそこではないのだ。


憲法第9条をどうするかは、「安全保障をどのように考えるか」の一点による。

「安保法制反対」も、「沖縄の米軍基地反対」も、「オスプレイ反対」も、「打倒、安倍政権」も、「では、どのように安全保障をよりよくするの?」という疑問に答えないから、議論が前に進まない。日本人は討論ができない、とハナから諦めたくなるような状況になる。

憲法改正について話し合いを…」
憲法改悪反対!」
「第9じょ…」
「絶対反対!」
「安全ほ…」
「戦争反対!」
「な」
「安倍辞めろ!」
「ちょ…」
ネトウヨ!」
「ちょ、ちょっと待ってください。チャイナの習近平国家主席は、今年の共産党大会で『今世紀半ばまでに世界一流の軍隊を作る』と宣言していますよね。戦時でもない今、どういう意図なのでしょう。南シナ海ではベトナムやフィリピンからの反発と仲裁裁判所の判決をものともせず、確実に海洋権益を拡大していますよね。ジャパンにおいては尖閣の奪取、沖縄の分断も狙っていると危惧もされています。この状況を踏まえて、どのように平和と独立を守りますか?」

「対話です。まずは相手の話にじっと耳を傾けることです」

「どの口が言うwww」
となる。

本当はこういった大事な話こそ自由闊達に話し合わなくてはいけない。わからない人は色んなちがった意見に触れなくてはいけない。

とは言っても、僕だって犬の散歩中に、あの張り紙をしてる家の前でおっさんと出くわした時は、顔を伏せてその場を通り過ぎた……(そりゃそうか)。

 

アメリカの大統領補佐官(国家通商会議議長)であるピーター・ナヴァロ氏が著した『米中もし戦わば 戦争の地政学』(文芸春秋)には、あらゆる角度からアジアの安全保障状況、アメリカの軍備、開戦した際の戦略などが具体的にシミュレーションされている。安全保障とは「想定すること」なのだと示してくれる本である。

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その中に「第39章 中国との対話は可能か」という章がある。
アメリカは、「我が軍にはこれほどの戦力がある。手を出さない方が身のためだ」という透明性を抑止力とする戦略をとり、一方のチャイナは自国の能力を隠して競合国を不安にさせることで抑止力につなげるという指摘がされている。話し合う際にも多国間協議を嫌い、優位に立てる二国間協議にこだわり、条約を公然と破るチャイナとの対話にほとんど絶望的な見方をしている。

フェアであるために念頭に置いておかなくてはいけないのは、アメリカという国は建国以来飽きることなく「何かを恐れてきた国」であるということだ。
開拓時代は先住民族に、第二次大戦前にはジャパンに、戦後はソ連共産主義に、現在ならイスラム教徒に、過剰ともいえる恐怖を抱いて、独自の「正義」に基づいた世界観によって世界に火種を撒いてきたと言える。だから、ナヴァロ氏の言説にもすこーしだけ眉に唾をつけてみてもいいとは思う。

彼自身も、著作の終盤では、現実から目を逸らさず、リスクの大きさを双方が完全に理解できれば希望が見えてくる、と説く。
〈中国とは話し合える、話し合いはできない、といったゼロか百の議論はすべきでないと思う。私なら、「中国と話し合うことはできるが中国と話し合うのは難しい。だから、粘り強く取り組む必要がある」と言う〉との、ジョンズ・ホプキンス大学デビッド・ランプトン教授の言葉も、一面の真理を突くものだ。


では、憲法自衛権を明記し、国防軍を創設することのメリットとデメリットを考えてみよう。軍事力による抑止力は働くだろう。アメリカとの軍事同盟も改めて結ぶだろう。同時にアメリカ製の兵器をさらに大量に買わされることは言うまでもない。核兵器を持たないなら、アメリカの核の傘の下にい続けなくてはならないことには変わりがない。そして、平和のコストとしての軍事的エスカレーションは免れまい。
しかし、これが世界中の国々が採るであろう定石である。

9条を堅持はするが、価値観を共有しない国に隷属することのないよう、「平和!」「戦争反対!」という誰でも言える安易さに堕することなく、本当の抑止力を機能させることは果たしてできるのか。世界に類例はない。

このあたりを、国民一人ひとりが考えなくてはいけなくなった。これが、「改憲勢力が整った」今の日本だ。結構キツイ思考が求められる。
僕個人の意見はある程度固まっていて、それも言うは易く行うは難しなのだが、以前に(無責任に)書いたからここでは割愛する。

月刊ショータ2012年1月号:
「衝突を避ける。徹底的に(本論)」 - 月刊ショータ

およそ6年たってまったく意見が変わっていないわけではないし、状況もちがっている。「憲法9条を一言一句変えるな」と強硬に考えているわけではない。ただ、自衛権とは、武力のみで構成されるものではないだろう、というのが僕の持論だ。

2012年1月は当時の民主党野田政権の時で、安倍政権は第1次が頓挫したあとだ。この時のコラムで引用した識者たちの一部とは、日本の現状の把握の仕方について意見を異にしてしまっている。今回改めて憲法を取り上げ、もう一度考えを整理して、読者諸氏がご自分の意見形成をされる際の参考にしていただこうと思った次第だ。

いやー、それにしても、カンタンではない……。
「一粒飲めば全快するクスリ」や「これだけ唱えていれば安心なおまじない」はないのである。

おっさんたちのスタンド・バイ・ミー③

ロザリー・レイクを後にすると、スイッチバック(九十九折のこと)で丘を下った。昨日はほぼずっと登りだったから、はじめて下りの筋肉を使ったような気がする。
ほどなくして、昨日の本来の目的地だったシャドウ・レイクに出た。このトレイルでは次々と湖に出くわす。水のある景色というのは、それが川であれ、滝であれ、湖であれ、人を和ませるものがある。僕は海にはたまに恐怖を覚えるのだが。
僕たちはすでにギラついている朝日に目を細めながら、また写真を撮った。

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陽光を受けて目に沁むほど白い花崗岩の道を登っていく。左手には川が流れていて、ビーバーの巣があったり、滝が轟音とともに岩肌を洗っていたりして、目を楽しませてくれる。が、とにかく暑い。今日も天気が良すぎる。

昨夜なかなか寝付けなかったり、大谷さんが迷子になったりでいろいろあったので、充分に回復できていない上、行動食を制限しているから体力が落ちていく。いつもなら五〇分歩いて一〇分休憩を取るところを、頻繁に休むようになった。
休憩中に川原まで降りて、手ぬぐいを濡らし、焼けた首元を冷やした。他の三人は、川の水を浄水器に入れて、冷たい雪解けの水をガブ飲みした。岳ちゃんはその後、何度も小便をしていた。そうやって体温を下げようとしていたらしい。

途中の分かれ道に立てられた標識の前で、アメリカ人三人組の男たちに道を訊かれた。
「アグニュー・メドウへはこっちでいいのか?」
「おぉ、そう言えば、シャドウ・レイクの手前で案内板があったから、このまま行って、それに従えばいいはずだよ」
「サンキュー。……その、手首に付けてるのはなんだ?」
僕はフマキラーの「どこでもベープNo.1未来セット」というふざけた製品名の、腕に装着する除虫剤を着けていた。電池でファンが回って、薬剤を拡散するタイプで、パッケージには「世界最高水準」「5倍効く!」と書いてあった。
「これは、蚊のため」
除虫剤を英語でなんて言うのか咄嗟に出てこなかったので”mosquito thing”と言ったのだが通じたようだ。正確には”insect repellent”というらしい。

「わはは、見ろ! 彼の周りには蚊がいないが、こっちの彼には蚊がたかってるぞ! 効いてる!」と、男は僕と大谷さんを指さして仲間たちに冗談を言った。ほんまに、効いてるんかいな、これ。

蚊は相変わらず大量にいて、僕たちを終始困らせた。タイツの上から刺されるので、今日は僕も大谷さんも着脱可能なズボンの裾を付けて長ズボンにしていた。アメリカ人のほとんどは半袖、短パン姿で、タンクトップの女性とかもいる。どういうことなのだろう……。ハナから防御しようという気はないのだろうか。
インポからハゲまで、なんでも錠剤で解決しようとするアメリカ人は、近い将来「飲むと蚊に刺されなくなる錠剤」を開発するのではないだろうか。

今朝のハンモックの一団のおじさんが言っていたように、雪が残った一帯があった。斜面なので、足跡をたどるように気をつけて渡ると、ガーネット・レイクが見えてきた。

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ここで長い休憩を取ることにした。地図上ではすぐに見えるのに、朝九時に出発して、もう三時になっていた。僕はここで湯を沸かしてチキンラーメンを食べ、大谷さんは昼寝をした。
休憩を終えて、ガーネット・レイクから離れる時に出会った中年カップルの女性は、
「ここからトレイルがわかりにくい場所があるわよ。私たちは間違えて湖の向こうの方に出ちゃって苦労したわ。あなたたちGPS持ってるの?」
と注意してくれた。
「いや、紙の地図だけですが、まぁ気を付けます。大丈夫です」
先へ進むと、トレイルは岩山を急登していくのだが、確かにわかりづらい箇所があった。しかし、それよりもとにかく苦しかった。酸素も薄い上、岩道の登りで日陰が少なく、この日はつらかった記憶しかないくらいだ。大谷さんは「ここが一番キツかった」と、後日話した。一番若くて体力のある滝下は、すぐに僕らを引き離していく。

足の裏、太腿だけでなく、バックパックの重量がのしかかる腰も両肩も、痛んだ。

さらにルビー・レイク、エメラルド・レイクという小さな湖を通って、ようやくサウザンド・アイランドレイクに到着。ここはJMT全体で見ても、ハイライトと呼べる絶景の湖だそうだ。

倒れるように荷物を置き、テント用に小石がどけてある水辺のスポットを四人分見つけてテントを張った。もう六時を過ぎて、陽も落ちかけていたが、岳ちゃんはまた魚釣りに挑んだ。
僕は川に足を浸してしばらく冷却した。気持ちがよかった。

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疲れ果てた僕らは、翌日から二手に分かれる相談をした。滝下が地図を睨んで、このままトレイルを北上して、ドノヒュー・パスを越えて一泊し、トゥオルミー・メドウまで出る本来の道程のほかに、ここの湖から東へ分かれて、比較的平坦な道を南東へ下りていく「パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)」のルートを見つけていた。

僕と大谷さんの四〇代チームは、迷わず後者を選んでいた。
「すまんが、もう無理や……」
「このままでは明後日トゥオルミーに着くこともできないぞ」

滝下自身は「僕はどっちでもいいんですけどね」と言っていたため、PCTで帰るプランが有力になっていたが、岳ちゃんは「元のプランで行きたい」と言い出しづらくなっていたようだ。
そこで翌朝から二手に分かれるよう計画をし直した。四〇代チームはとにかくPCTで山を降りる。バスで町へ戻り、クルマを回収してモーテルに泊まり、翌日君らを下山口まで迎えにいく。
これはスリルもあり、なかなかのプランだと思い、僕たちはサウザンド・アイランドの畔に立てたテントに潜って寝た……。

ところがその夜、ドドドと雷が鳴り出し、空が光った。雨がテントの生地を叩く。
僕は、どうせ雨も降らないし、誰も来ないと考え、テントの中を狭くする大きなバックパックを外に出して寝ていた。そんな時に限って、雨は本降りになってきたので、慌てて中へ引き入れた。
湖畔というのは落雷の危険度は最悪レベルだ。昨夜に続いて、またもや僕たちは深夜にテントから這い出した。湖の向こうの丘の中腹にヘッドライトの光がチラチラ動いた。他のキャンパーも怖れて起きてきたのだろう。どこかに落雷した音が鳴り響くと、僕たちは恐怖で身を縮めた。
大谷さんにとっては、二日連続で夜中に岩陰で身を潜めることになるという、災難続きのテント泊であった。

翌朝、僕たちは残りの食糧を二チームで分け分けして、湖のすぐ先で別れた。岳ちゃんと滝下はまっすぐ、大谷さんと僕は右へ。

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パシフィック・クレスト・トレイルというのは、ジョン・ミューア・トレイルと一部を重複しながらも、南北にもっともっと長く伸びるトレイルだ。

僕たちが歩いたトレイルに関して言えば、起伏を越えることによるダイナミックな景観は少ないが、花が風に揺れ、鳥がさえずり、リスが木の幹を走り回るような牧歌的なハイキング・コースであった。森の中を一時間半ほど歩いたのち、山の斜面を横切って作られたトレイルを、谷の向こうの山々の連なりや、一昨日泊まったロザリー・レイクが谷間に小さく見えるのを眺めながら歩いた。すれ違うのは、女性のソロハイカーが多かった。

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小さく水たまりのように見えるロザリー・レイク

十キロちょっとのこのコースは、滝下と岳ちゃんが行ったJMTの続きよりはずっと楽なはずだったが、それでも、二日間の疲労が蓄積している僕たちには充分こたえた。
地図で見る限りほぼ平坦だと思っていても、坂道がグググッと曲がりながら続いていたりすると気が遠くなる。最後は九十九折で一気に下りていく予定だったが、それがなかなか出てこない。
「やった! 最後の下りだぞ!」と思っても勘違いで、またトレイルは角度を上げていくということが何度か重なった。
九十九折に辿り着いた時には、それは見紛いようもなく、きれいにくの字の折り返しの連続で、下るとようやく人工物が見えてきた。木材を扱う作業場のようだった。人影はないが、人里に下りてきた実感が湧いて安堵した。アスファルトを少し歩いて、バス停を見つけた。

疲労困憊で、蚊のせいであちこちが痒く、重たい荷物も不快であった。ほどなくしてやって来たバスでマンモスレイクスの町に戻ると、駐車したままのレンタカーを探し出し、僕たち二人は何はともあれ手近なオープンカフェでビールやコーラを飲んで、モーテルを手配した。晩メシは出発の前日とまた同じ店でチーズバーガーだ。幸せだった。笑いが止まらなかった。

とにかく、ベッドで寝られるというのは最高だった。体力が余って余って仕方がない人たちはよしとして、なんで凡人の僕たちがこんなキツイ思いをしてまで山登りをするのか、こういう日には我ながらまったく理解できない。なのに、またなぜか行きたくなるのが不思議なものである。

滝下と岳ちゃんは、ドノヒュー・パスという峠を無事に越えて、安全などこかでテントを張ることができただろうか……。

 翌朝、モーテルを出発すると、大谷さんが、
「あのー、恥ずかしいんですけど、またウェルカム・センターに寄ってもいいですか?」
と告白した。何事かと思って問うと、
「実は……、Sサイズを買ったTシャツが小さくて、Mを買い直したいんです……」
わははは! 大谷さんはこの何年か体重が増えているから、僕たちは「アメリカンサイズだけど、Mですって」と助言したのだが、「いや、Sで大丈夫!」と跳ねつけて買ったのだ。

途中、ヨセミテ公園に東側から入るゲートで大渋滞があったため、予定よりも一時間遅れて、約束のトゥオルミー・メドウに到着した。車を駐車場に残して、トレイルの出口である橋を目指した。
そこで一時間くらい二人で川を眺めながら待ってみたが、彼らは現れなかった。そのため、車をもっとこちらに近い駐車場に移しておこうと一旦戻ったところ、岳ちゃんが車の脇で待っていた。滝下も姿を見せた。橋まで行く道は二股になっていて、どちらも同じところへ着くのだが、そこで入れ違ってしまったようだ。

僕たちはとにかく再会を祝福して、彼らの目的達成を称えた。
途中で断念した、だらしない四〇代チームの僕と大谷さんは、後輩二人を迎えに行く前に、ガス・ステーションとダイナーと土産物屋が一緒になった店で、六本パックのビールと氷を買っていた。そして、ベア・キャニスターに氷をぶち込んで、缶ビールをキンキンに冷やしておいた。彼らのためにピザも用意していた。
二人が狂喜したことは言うまでもない。

こういう時のビール、雪をかぶったままの山塊を鏡のように映し出した湖面や、ひと息入れて見上げた空のブルーだとか、ああいった景色のために、僕たちはまた面倒くさい荷造りをして、暑さや虫に文句を言いながら山を、森を、歩くのだろう。

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1000アイランド・レイク

僕たち四人はサンフランシスコへの帰路につく前に、ヨセミテ公園を見学して、公園のすぐ外にある、映画のセットのようにカラフルでかわいらしい小さな町で、またチーズバーガーを食べた。その後、サンフランシスコの最後の夜にも食べた。

帰国したら四人それぞれの世界に戻るのだけど、またいつかどこかへ行こうぜ。
しんどかったことはすぐに忘れて、僕たちは次の旅へ思いを馳せる。

(了)

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「おっさんたちのスタンド・バイ・ミー②」

マンモス・レイクスではまずウェルカム・センターに立ち寄って、予約してあったジョン・ミューア・トレイル(JMT)の入山許可証を取得しなくてはならない。ログハウス風の建物の中に、記念品や土産物のストアとインフォ・カウンターが一緒になってある。

オリーブ色の制服を着た係官の前には、僕たちと同じようにハイキングをするのであろう人たちがすでに列をなしている。
係官の男性から、トレイル上での規則をひと通り聞いて、質問に答える。
「ベア・キャニスターは持っていますか?」「はい」
「持ち込む燃料の種類は?」「ブタンガスです」
「OK。焚き火はすでに焚き火跡があるかまどではしていいが、それ以外での直火は禁止です」
彼が唐突に「私はワカヤマにいたことがあります」と言った。
はじめは「オカヤマ」と言ったのかと思ったが、聞いているうちに「シラハマ」が出てきたので理解した。厳格なルールが課されるトレイルなのだが、彼とは和やかに会話をして、一人六ドルの入山料を支払って手続きは完了。

マンモス・レイクスの町はスキーリゾートで、町の入口にあるウェルカム・センターから車で十数分ほど坂道を登ると、メインロッジという、冬場にはリフト発着場や着替えロッカーとして機能する大きな建物がある。周りにはレストランやレンタル自転車の店や駐車場があり、その向こうには貼り付けたような青空を背景に、山々が聳えている。

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アウトドアショップに併設されたカウンターで、明日のシャトルバスのチケットを入手し、レストランのテラス席で、そのわざとらしいような青空を見上げて地元のビールを飲み、ダウンタウンで巨大なチーズバーガーにかぶりついた。

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翌日から男四人で、それぞれのテントと寝袋と食糧を担いで歩くので、最後の晩餐のようなカロリーたっぷりの贅沢であった。
モーテルはリゾート価格で高かった。仕方ない。洗濯したり、明日の支度をして、二部屋に分かれて眠った。

 

朝九時過ぎに満員で出発したバスを、デビルズ・ポストパイルで降りた。他の乗客もほとんどが一緒に降りたが、大きな荷物を背負っているのは僕らくらいのもので、日帰りの客だと見える。
デビルズ・ポストパイルというのは「悪魔の、杭の、積層」という意味で、玄武岩が柱状に並んで立つ奇怪な景勝地だ。説明板がそこに立てられていたが、僕らはゆっくりと眺める間もなく、JMTのトレイルヘッド(入口)に向かい、森へと入っていった。

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トレイルは緩やかに登っていく。緩やかなのだが、重さ十五キロほどの荷物を背負って歩くのは、ただ歩くのとはまったくちがう……。気温はさほど高くなく、湿度も日本に比べればぐっと低いので発汗は少ないが、とにかく紫外線がキツイ。日向ではカーッと肌に食い込むような鋭い日差しが体力を奪う。

息を切らせて岩肌の道を登り、普段なら感嘆するような碧空を、ため息まじりにふり仰ぐ。松の木の木陰に入るとスッと涼しくなる。僕が想像していたJMTは、草原の中を一本貫くトレイルを、遠くの山を眺めたり、時折現れる湖で休んだりしながらのんびりと歩くものだった。
誰かの「休憩しましょうか」の声に、頷かなかったことはない。いきなりしんどかった。

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一時間半ほど歩いた頃だったか、そろそろまた休憩しようと思った矢先、目の前に川が出た。向こう岸から数人のアメリカ人男女のハイカーが川の中を歩いて渡ってくる。橋はないものかと見回してもないようだ。
「水は冷たいですか?」と尋ねると、
「上流の方よりはマシよ。目が覚めるわ」と、その女性は教えてくれた。ブーツを脱いで渡渉しなくてはいけない箇所が他にもあるのだろうか。やっかいだな。
躊躇していては、渡る勇気が引っ込んでしまうような気がして、僕はさっさとサンダルに履き替え、先陣を切って水に踏み込んだ。

「冷たい! そして、深いぞ!」
膝の上くらいかと思った水深は、予想を超えて、股の上まであった。流れは強くないが、川底の石は滑りやすく注意が必要だ。一気に渡った。
他の三人はブーツから履き替えるのにややモタモタしていたが、僕が水辺に多い蚊を払いながら待っていると、次々にやって来た。

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確かに目が覚めた。互いに濡れた下半身を笑い合って、そこで休憩したかったが、とにかく蚊が多くて、場所を移った。
ブーツを履き直してしばらく歩いていると、濡れたことも忘れてしまうくらいに、乾燥した空気がすぐに乾かしてくれて不快感はほとんどなかった。


そこからは、トリニティー・レイクス、エミリー・レイク、グレイディーズ・レイクと、小さな湖のそばを抜ける道が続いた。写真に撮ると美しいが、現地にいてみると、ジメッとした湿地で、蚊柱が立つくらいの数で襲われる。タイツの上からも、シャツの上からも刺してくる。もちろん顔、首、耳、指など少しでも露出している部分は抜け目なく刺す。落ち着いて景観を楽しむどころではないのだ。

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トレイルはずっと登っていて、すでに標高は二九〇〇メートルに達し、僕は体力の消耗が激しかった。いつもならナッツ類やm&mチョコを大量に持って行動食にするが、重量とスペースの関係でカロリーメイトやビーフジャーキーのみにして、食べる量も控えていたため、体力維持に支障が出ていた。

当初は地図を眺めて、「一日目はシャドウ・レイクまで行こう。いや、行けるなら、その先のガーネット・レイクまで行ってしまおう」なんて言っていたのに、シャドウ・レイクですらまだ先の先であった。夕方には行動をやめて、テントを張る場所を探すつもりが、目的地に全然たどり着かない。
「こりゃまずいぞ……」と思っていた矢先、アメリカ人のカップルとすれ違った際に、重要な情報を得た。
「どこまで行くんだい?」
「シャドウ・レイクを目指してる」
「そこは今年、キャンプ禁止区域になってるから、手前のロザリー・レイクで泊まった方がいい。素敵なテント場がたくさんあるよ」
いいことを聞いた! それなら次の湖だ。


確かに、ロザリー・レイクは素敵な場所だった。石を積んだかまどがあるテント泊に最適なスペースがあり、湖からの水が流れ出す小川がすぐ近くにあり、蚊も比較的少なかった。これ以上は望めまい。

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僕たちはひと休みしたあと、力を振り絞るようにそれぞれのテントを張った。岳ちゃんは釣りを始めた。虹鱒(ニジマス)を釣って食糧の足しにするつもりだ。


「釣れますか?」
岳ちゃんは突然日本語で話しかけられた。Tシャツを着替えていて、サングラスをしていたからはじめはわかりづらかったが、さっきすれ違ったカップルの男性の方だった。彼は関西外語大学にいたことがあるそうで、日本語を少し話せた。名前をティムという。
彼らは僕たちとすれ違ったあと、グレイディーズ・レイクまで行ったが、蚊も酷いし、快適なテント場を探すことができなくて引き返してきたのだという。

彼の案内で釣り場を移動しながら話を聞くと、彼は昨日大きな魚を釣ったのだが、捌き方を知らないため石で潰したり闇雲に切ったりしたため、食べられる身がほとんど得られなかったのだそうだ。だから、捌くところを見せてほしい、とのこと。
岳ちゃんは快諾した。と、思ったら瞬く間に二匹釣れた。
「彼女も見ていていいか?」
ティムが訊くので、もちろん「いいよ」と答えると、彼は念を押すように何度も言った。
「見るだけだから」
つまり「君たちの食べ物を取るつもりはない」と言いたいのだろう。


僕らのキャンプ地に戻って、魚の捌き方講座が始まった。
ところが、「まず虹鱒を岩に叩きつけて気絶させます」のところから、笑ってしまうくらい難易度が高そうだった。
「お尻の方から腹を切りまして、内臓をこのように指で掻き出します」
すでに彼女の方は引いていた。
そんなこんなで、「……というように、簡単でしょ?」と三枚におろした時には、日米ともに全員が「どこがやねん」と思っていた。


とにかく岳ちゃんはそれをオリーブ油と香草で焼いた。そして、焼き上がると、ティムたちにも味見してもらった。見るだけなんてわけにはいかない。彼の導きによるいい釣り場で入れ食いだった魚なのだから、当然食べてもらわなきゃ。

その晩は焚き火をして、ウィスキーを飲んで寝たのだが、深夜にハプニングがあった。
大谷さんが遭難しかけたのだ。
彼はウンチしに行こうとテントを出て、真っ暗な中を水場から離れて丘を登った。用便には、水場から六〇メートル以上離れなくてはいけないというルールがある。
岩陰で用を済ませたあと、帰る方向を間違えて、テントの位置を見失ってしまったのだ。ヘッドライトで照らす木や岩はどれも同じように見え、光が届かないところは完全な暗闇でなにがなんだかわからない。一時間ほども彷徨って、ようやくハンモックで眠るグループを見つけ、拙い英語で助けを求めた。
「すみません。自分の居場所がわからなくて、ここにいさせてもらっていいでしょうか?」
若い男がひとり目を覚ました。
「ああ、そのへんの少し離れたところにいたらいいよ」
大谷さんは近くの岩場で身を縮めて寒さに耐えた。ここは標高三〇〇〇m弱で、夏でも夜には一桁台まで気温は下がる。彼は用足しだけのためにテントを出たので、上着は着ていなかったのだ。

実はハンモックで眠る一団は、僕らのすぐそばにいた。彼はやっと見覚えのあるテントを視界にとらえて安堵したが、結局二時間近くも外で難渋していたのだ。
生還した大谷さんと滝下の会話が聞こえてきて、僕も岳ちゃんもテントから這い出してきた。とにかくよかった。マヌケに聞こえるだろうが、こんなことも起こり得るのだ。それくらい夜は静寂で、深い暗闇で、つかみどころがないのだ。

翌朝、ハンモックの一団に挨拶をした。
「昨日は我々の仲間がご迷惑おかけしました」
父親なのだろうか、グレーのヒゲを生やした年配の男性が笑顔で答えた。
「いやいや、誰にでも起こりうることだよ。君たちが向かう、ここから先のトレイルには雪もあるから、しっかり足を踏み込んで、気をつけてな」

ティムが出発前に顔を出してくれた。「いつか四国の八十八箇所巡りをしたい」と話していた彼に、僕は自分の名刺を渡して、「その時はどうせ関西空港に来ることになるでしょ。大阪で一杯おごらせてよ」と伝えた。
僕たちは、ため息だか掛け声だかわからない呻き声とともに、またバックパックを背負った。

 

(つづく)

「おっさんたちのスタンド・バイ・ミー①」

カリフォルニア州には「ジョン・ミューア・トレイル(JMT)」という有名なハイキング・コースがある。ハイキングと書くと、サンドウィッチでも携えてテクテクと歩く牧歌的なイメージだが、ここはウィルダネス(原生自然)の中を一本伸びるトレイルを歩くかなり過酷なものだ。JMTは全長およそ三四〇キロ。全部歩こうと思ったらひと月くらいかかる。

僕はもう何年も前に故加藤則芳さんというアウトドア作家がものした『ジョン・ミューア・トレイルを行く バックパッキング340キロ』平凡社から一九九九年初版発行)という本を読んで、憧れを募らせてきた。

一度、仲間たちとその一部を歩こうと計画したのだが、ここは厳格なルールによって入山者を制限しているため、希望の時期に許可が取れず、代わりに同じヨセミテ国立公園内のヘッチヘッチーというエリアにあるスミス・ピークという山を登った。面倒な手続きの話は、月刊ショータ二〇一四年七月号で触れた。

 あれから三年。あの時、僕と大谷さん(仮名)がはじめて山に引き込んだ後輩の滝下(仮名)が、「やっぱりJMTに行きたい」と言う。最近会社を辞めて、僕と同じく貧しくも自由になった岳ちゃん(仮名)も仲間に加えて、男四人がその計画に乗り出した。

ヨセミテへの入園申請や情報収集は、言い出しっぺの滝下が、英語もよくわからないはずなのに異常な情熱をもって積極的に進めてくれた。JMTのすべてを歩く気力も体力もないので、その一部を歩くにあたり、彼は「デビルズ・ポストパイルから入り、テントで三泊しながら北へ六〇キロほど進み、トゥオルミー・メドウへ下りる」というセクション・ハイクを構想した。
「マンモス・レイクスという町からバスでトレイルヘッド(入口)へ行き、四日目にトゥオルミー・メドウから巡回バスを捕まえて町へ戻ります。だいたい一日に一八キロくらい歩くことになりますが、詳しい人に訊いたところ『余裕』だそうです」
「おぉ、カンペキやないか。よし、マンモス・レイクスまでのレンタカーとかホテルとかは任せとけ!」

計画は楽しかった。なんでも四人で割れるから費用は割安になるし、「あれを持って行こう」「これは現地で手配しよう」などといった装備の相談にも話が弾んだ。

僕は出発の前月に『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』(旅と思索社)という著作を刊行していたから、この旅の前に取材先であったカナダの牧場に本を届けに行くという仕事をくっ付けて、彼らよりも十日前に日本を出た。

それぞれが別の飛行機でサンフランシスコ空港にやって来て、そこで落ち合うことにした。当日は、僕が朝の九時半にSF空港に着き、国際便ゲートの前で、十一時半、一時、二時半と次々にやって来る仲間たちを待った。

空港内の電車に乗ってレンタルカー・センター駅まで行って、借りたのはトヨタ・シエンナという三五〇〇ccのミニバン。もっと大きいクルマを想像していたけれど、デカいバックパックと四人の男たちが旅をするに充分なサイズだった。

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さて、ここからは楽しいショッピングだ。サンフランシスコのREIというアウトドア用品の生協に行って、必要な物品を揃える。飛行機に持ち込めないため現地調達の必要がある燃料缶、川の水を飲むためのフィルター、そしてベア・キャニスターなど。ベア・キャニスターは、ヨセミテ公園内では熊が出る怖れがあるため、携行が義務付けられている。食糧はすべてその中に入れて、テントから離れた場所に置くことになっているのだ。四人で二つ用意することにした。

滝下は一つを通販で入手していて、もう一つは注文だけして、ここで引き取る段取りをしていた。強化プラスチックでできたこれが、デカいんだ……。直径約三〇センチ×高さ四〇センチほどの円筒。大谷さんと私(ショータ)は四〇代、滝下と岳ちゃんは三〇代なので、ここは先輩風を吹かせて、若いモンに持ってもらうことなっていた。

REIは僕たちにとっては、一日いても飽きない店なので、Tシャツとかフリーズ・ドライの食糧とか、あれこれ買い込んでから西へ出発した。少し街を回ってから出たので、その頃には夕方六時半頃になっていた。

九二号線(サン・マテオ・ブリッジ)で海を渡って、暮れていくアメリカの乾ききった大地を走る。夕陽に照らされて、元々赤味のある土地が、なおさら赤く焼けたような印象になっていた。

途中のリバーモアという町のショッピング・モールで晩飯を食べて、とにかく今日中に行けるところまで行くつもりだ。なにしろ、マンモス・レイクスまでは五〇〇キロほども離れている。東京・大阪間と同じくらいなのだ。カリフォルニア州というのは、実はそれだけで日本と同じくらい広いのである。
「次の町を過ぎると、マンモス・レイクスまでずっと町はありませんね」

スマホで地図を見ていた岳ちゃんが言うので、オークデイルという小さな町で今夜はモーテルを探すことにした。二軒目に訪ねたホリデイ・モーテルのドアを開けた頃には夜十一時になっていた。受付のおばちゃんはネグリジェ姿だ。
「部屋はあるけど、あなたどこから来たの?」
「日本です」

おばちゃんの声のトーンが上がった。
「ジャパンですって!? うちの息子と娘がね、日本が大好きで、日本語の授業を取ったり、日本のポップミュージックを夢中になって聴いているわ!」

僕はそれを聞いて、少しだけ自分のことを話したくなった。カリフォルニアの田舎町で日本にハマっているなど、彼らはもしかしたらちょっと変わり者扱いをされているかもしれない。学生時代の僕がそうだった。
「僕はカントリーミュージックが好きで、二十年前にケンタッキー州で大学を出て、この度、カウボーイの本を日本で出版したんです」
「あらステキ! タイトルを教えて! 息子に渡すから紙にサインして!」

息子さんが日本語の長編を読めるとは思えなかったが、僕は題名を日本語と英語で書いて、サインをした。
『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

https://www.amazon.co.jp/dp/4908309051
“Cowboy up! Chase your dreams!” と、そこに書き添えた。好きなことは、人が何を言おうと、追い続けた方がいい。それによってどこで何と巡り合うかわからないし、幸せに生きることは、「好き」を追い続けることとほぼ重なり合うのではないかと、最近とみに思う。

そして、「いつかやろうね」と言っていたことは、いつか必ずやるべきなのだ。

翌朝、モーテル近くのレストランでアメリカらしい巨大な朝食を食べて、僕らはすこぶる上機嫌で車を走らせた。

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ヨセミテ公園の入り口ゲートで、一台二十五ドルの料金を払い、湖の碧い水面に感嘆したり、岩山に貼りついた芥子粒のように見えるクライマーを指さしたり、道路のすぐそばまで迫る崖に息を呑んだりしながら公園を横断した。そして、その東側に位置するマンモス・レイクスの町に入って行った。

 

(つづく)