以下は、信じられないような実話である。
僕の取引先に〇村さん(あえて伏せます)という方がいる。その方からのメールを携帯電話で確認すると、必ずお名前が[ラブホテル]村と表示されるのだ。その〇に入る漢字はちょっと珍しいのだが、文字化けというか、変換というのか、その原因は僕にはわからない。
「[ラブホテル]村様 いつも大変お世話になっております。お問合せの件ですが……」
ちなみに私の先輩には「なんでも下ネタで喩えるムラタさん(仮名)」というのがいて、電話すると、
関西の人にしかわからんからまぁいいや。ラブホテル村に戻ろう。
懸念を抱いた僕は、同じ仕事に携わる後輩の河口くん(仮名)にメールを送り、事情を説明の上、尋ねてみたのだ。
しかし、彼からの返信はこうだった。
マジメか! ふざけんな! いやどっちやねん。 なにが「下記ご連絡いただいた件」じゃ。ラブホテル村の話やないか。こっちの方が字数少ないわ。 なにが「ご報告まで」じゃ。無表情か、お前は。ラブホテル村にいっぺん行ってみたくはないのか。
人それぞれ社風とか暗黙の了解があって、文体も制限があるのかもしれないけど、僕が勤める会社にはそんなものはなく、個人の裁量・技量である。 技量というのは、僕の仕事はもはや、メールの往復で交渉したり、依頼したり、問題解決する機会も多いので、そこには技量と呼べるような個人差が表れるのである。 未だに「小生」とか書いてくる人もいるしな。あなたの人生が大きいか小さいか、知らんちゅうのに。
それにしても、Eメールというのはここ二十年で急速に普及したから、実に様々な個人差がある。
■堅苦しくて読みにくい人:
■一行メールの人:
なんの挨拶も説明もなく、転送メール送りつけてくるのもこの一派だ。
■文法・語法が間違っている人:
良いか悪いか知らないが、僕は個人的にあえてやっていることがいくつかある。
■(所々に)余計な話や冗談を入れる
僕の上司なんかは、お得意先へのメールで、なにか延々とご説明さしあげた最後に
■しばらく前に受け取ったメールに返信する時は、ちゃんと下に元のメールが付いているものに打つ。
■箇条書きを多用する。
■してもらったことに対し、まずお礼を言う。
他の仕事は知らないけど、僕の仕事は本当にメールの山を捌くことから始まることが多いので、これが仕事のクオリティの一部のような感慨もある。
まぁ、一番意識的にやるのは最初に挙げた「余計な話を入れる」ことかな……。
個人的な考え方なんだけど、僕は仕事もプライベートも態度を変えずに生きるのが正しいと考えている。正確に言うと、「そのように生きられることが望ましい」。日常生活の中で演じなくてはいけない役割や、期待される応対はそりゃ様々あるけど、なるべくその幅を小さくするのが人間的な心を保つ秘訣なのではないか。ちょっとアメリカ人みたいで申し訳ないけど。
願わくば、エライ人にも、年下の人にも同じような態度で臨みたいと思っている。これを続けると、目上の人からは生意気な鼻持ちならない人間だと誤解もされるけど、取引先の前でだけニコニコしてる人や、相手によって態度を変える人をどうにも信用できないのだ。
だったら、無愛想な人の方がむしろマシ。常に無愛想だったら、逆に安心するもんな。その人を笑わせることができたりしたら、ちょっといいことした気分にすらなるからな。
みんな、酒飲んだらアホ話、エロ話、マジ話するでしょう。いや、たとえ飲まなくても。 わかってまっせ。
仕事場でものすごい有能な感じでプレゼンしてた人を、後日電車で見かけた時に、スマホで必死にゲームしてたら軽くショック受けるでしょ。 そういうことです。みんな人間なんです。フツウにいこうや。
後輩の河口(仮名)よ、楽しい人生を生きろよ。
心に火を。尻にも火を
広告企画制作の仕事をしていると、初対面の人などにこのように言われることがある。
「クリエイターって、ゼロから何かを生み出すんだから大変な仕事ですね」
僕は毎度こう答える。
「ゼロからじゃないですよ。商品があって、クライアントの指示があるんだから」
実際はゼロどころか、制約と条件だらけの世界だ。 大変な仕事であることは認めるが、クリエイターだなんて呼ばれるほどのものではない。
クリエイターを英語で「The Creator」と表記すれば、それは創造主、つまりユダヤ教・キリスト教において七日間で天地を創造したとされるヤハウェのことである。 だから、僕は自分をクリエイターだなんておこがましいことを言える人間を信用できない。
クリエイターと言える人間は、子供を産む女性だけではないだろうか。だって、人間をクリエイトできるのだから。人から人が出てくるなんて、我々男からすれば想像もできないクリエイションなのである。
そのクリエイターが減って久しいことはよく知られている。少子化である。 それに関しては、子を持たない僕自身も責任を感じないではない。 しかし、自分を含めた多くの共働き夫婦の生活を顧みると、そりゃそうだろという諦念も感じざるを得ないのだ。
散々働いて、「今晩はゴハンいらない」で、外で飲み食いして夜十時とか十一時に帰宅する。
とりあえずテレビニュースをつける。 お風呂沸かすと十二時。明日も七時起き お互いこうだったらそりゃね、セックスなんてする元気も時間もないわけですよ。
僕の先輩に仲尾さん(仮名)というヤンキーみたいな先輩がいる。この人はとにかく、チームを遅くまで仕事させることで知られ、ご自身も夜昼関係なく猛烈に企画をすることで数々の実績を築いてきている。
それなのに、男の子が三人もいる。奥様はハーフかと思えるような美人だ。にもかかわらず、子供は何人生まれても仲尾さんそっくりで、奥様の要素はどこにあるのかわからない。だから僕は、仲尾さんが自分でピッコロみたいに口からヒリ出していて、奥様はその傍らで応援しているだけなのではないかと疑っているくらいだ。どういう強い遺伝子をしてるのだ。
このくらいの何かを残し、遺すというDNAへの強いプログラミングがないと、仕事も子供もできないのかもしれない、と何事にも執着の少ない僕なんかは仲尾さんを見ていて思うのだ。
奇しくも週刊新潮四月三〇日号で「『人口激減社会』の利点検証」という特集記事があった。
我が国では、少子化による人口減少に加え、出生率が全国最低の一・一三である東京への一極集中が加速していて、消滅可能性都市が地方のあちこちに生まれているという。
しかし、記事は: ・産業構造の転換により、経済規模が変わらないまま人口が減れば、各人はより豊かな生活が送れるようになる。 ・空き家が増える問題の反面、家を二つ持つことも夢ではなくなるかもしれない。 ・悪名高い日本の満員電車から解放される。 ・人手不足になることで、終身雇用や年功序列に代表される、人を大切にする日本型経営を取り戻せる。 といったような利点を指摘している。
いくつかは首肯できる点があると思ったが、イマイチおもしろくねえな、と僕は雑誌を閉じた。 騙されてはいけない。少子化は問題ではない。
僕は率直に言うと、少子化なんて人口の適正化としか思っていない。それとセットになる高齢化の方がよほど深刻なんだけど、深刻なのは「今、生きている世代にとって大変」、というだけで、我々団塊ジュニアあたりの世代までが死に絶えたあとの若い世代は、もっと幸せになれると希望を持っていいよ。
まず、余計な仕事をしなくて済むだろう。人が少ないから、アレコレ言ってくる外野が減る。製造業で言うなら、製品に無駄な機能をくっ付けるのをやめられる。
多すぎる全員に何がしかの仕事をさせなくてはいけないから、「至れり尽くせりのつもりの余計なお世話」の機能がいっぱい付けられて、あーだこーだ口を挟んでくるエライ人の意見も取り入れなくてはいけなくて、その分費用が価格に乗せられて高くなっているのが現在の日本の状況だ。
電化製品一般は、それで世界で勝てなくなっているのではないのか。先日ツイッターで、某カメラメイカーの製品パッケージを開けたら、分厚い説明書やらディスクやら、そのインストールの手順書やら、なんたら登録の方法とか、余計な紙モノや付属品がワラワラ出てきて幻滅した旨の投稿を見た。「ワクワク感が一気になくなった。だから、箱やその中身まで美しいアップルに勝てないんだよ!」と、その人は嘆いていた。 便利にしていくのはいい。しかし、どこかで「いや、それはいらん」と、本質でないものはストップさせないと。自動車が全自動運転に近付けば近付くほど、買いたい人いなくなるよ(作ってるのはグーグルかもしれないけど、それは措いて……)。
今ですら、雨が降れば自動でワイパーが動き出し、暗くなれば勝手にライトが点灯するらしいではないか。いるか、それ?
運転しているのはヒトなわけで、速度や進行方向はもちろん、天候やら路面状況やらの条件を見つつ、自分でコントロールするところに運転の楽しさがあるのではないのだろうか。ということは、自動車って自動ではなかったのだね。自ら動かす車か。なんかしんどそうやな。
生きている人生がコントロールができないことばかりだからこそ、自分の操縦によって人間以上の力を享受することができるのがクルマの魅力ではないのか。判断すべき要素と遣う体の部位が多いから、モーターサイクルはより楽しいのではないのだろうか。
ああ、オレは古い人間さ。
結局、傑作は個人からしか生まれないのだ。桑田佳祐の才能の五分の一ずつを持った人が五人集まってもサザンオールスターズは生まれないのだ。強い個人と、それを支えるメンバー。
山田洋二監督は、寅さんという傑作キャラクターを、原案・脚本・監督を担当して、一人で作った。それでも、脚本は常に他の誰かとの共同執筆でクレジットされている。個人の力と、巧みな補助。
こういうことだ。
人が少ないなら少ないで、個人の裁量を大きくして、物事の決定を早くして、重要な部分にお金と時間とサポートを充てる。
結果、ソリッドでいて目の行き届いた良品を作っていく。ジャパンの生き残る道はこれだと、僕は思っている。 そして、これこそが効率化である。
日本の産業界は他の先進各国に比べて、その生産率や効率が悪いと指摘されている。そりゃそうだよ、人が多すぎるんだから。 それをもってして、世の大企業の中では効率化の名のもとに、総務系部署の肥大化が進んでいて、「効率を上げる目的で、それを測定・精査するための不必要な作業」が増え続けている。それで現場が余計に仕事が増えて苦しんでいるという、本末転倒が起きている。
本当はそういうことじゃないでしょう。
若い人が「死ね、クソ」と思っているおっさん世代は実際にじきに死ぬから。だから、あとの世代は、働くの、もっと楽しいよ。せめて自分たちがゆくゆくそういうおっさんにならないように気を引き締めて生きていこうではないか。
さっき、全自動運転の自動車は誰も買いたがらない、という話をしたが、男性の所謂草食化・絶食化だって、エロスがインターネットでいつでもタダで見られるようになったのと軌を一にするだろう。止められはしないけど、便利すぎるのはダメなのだ。疑似体験はできても本物じゃない。
人が多すぎて、オンナなんかいくらでもいるから、「家帰って、Xvideos観ればいいや」と思っているのかもしれないが、これがもっと少なくなってみなさい。極端なこというと、日本人が三十八人くらいになってみなさいさ。ひとクラス分ですわ。
そうなれば、DNAが勝手に種の保存に対して危機感を持って、何か緊急事態宣言的なものを発動させるかもしれない。
「このオンナは、他の誰でもない、オレが抱かなくてはいけない!」
「このコだ。このコなんだ! このコでなければ一生愛なんていらない!」
「このヒトにはオレしかいないんだ!(残り男子たった十七人だけどっ)」 というある種の集団催眠のような狂奔。殺し合ってでもクラスのマドンナちゃんを抱くと思うけどね。マドンナちゃんでなくてもそれなりに抱いちゃうと思うけどね。
これくらいの切実感に溢れた勘違いをしないと恋愛もセックスもできませんからね。僕なんかそれくらいの切実感持ってたけど、大した恋愛もセックスもしてきてないからな。ナメんなよ。
そうでもしないと、仲尾さん(仮名)みたいなただでさえ遺伝子まで筋肉でできているような人にみんな持って行かれてしまいますから(※仲尾さんはあちこちでそっくりな子供を作っているわけではありません)。
まぁ、これから産業転換の過渡期に入って、もう少し「ジャパン大丈夫か?」という危機感が共有されれば、なおさら日本が自滅することはないのではないかなぁ。
江戸期にも飢饉による人口減によって、農業の改善に拍車がかかって効率が上がり、余暇ができたことにより、むしろ文化が発展したというし。
締切のある仕事をしてきた「似非クリエイター」、月末にならないとこれを書かない「自称コラムニスト」として、僕にはそこのあたりはよーくわかります。
「ヒジがね、当たってますねん」
二年半ぶりのタイ王国。
三十まで一体なにを楽しみに生きてきたのかと、
三月の日本から着いたスワンナプーム空港の夜は、
あとで知ったことだが、
譲り合わないために渋滞が余計に酷くなる現象などは、タイ、
広告祭自体はとてもいい体験だった。
それでも、微笑みの国タイの人々はやさしい。日中であれば、
また、
僕はまだタイを深くは知らないので、
余談だが、もうひとつ付け加えると、「
だから、我々は、勤勉で猫背ですぐに名刺を出して、
チ◯コ界のコントレックスでいこうではないか。
https://www.contrex.co.jp/
ちなみに、インド人のステレオタイプも色々あるのだろうけど、
だから、インド人と話すと、外国人はその距離感が快適でなく、一歩下がる。すると、インド人はまた一歩踏み出す。それを繰り返して最後はコーナーに追い詰められてしまうのだ。
十数億人にそれをされ、周辺国の人々が下がりに下がった歴史の帰結として、出来上がったのがヒマラヤ山脈だと言われているとかいないとか。
タイからの帰りの飛行機で、搭乗券をもぎられたあと、
よほど「あのね、触れられるのは不快なんですけど」
通路の向こうの方で、
「思惑交差点に立つ男と女」
とあるファッション雑誌編集長がフライデーされた。記事によると、こうだ。