月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「思ったほど白くなかった僕たちのこと」

世界的に有名な野球選手に、メジャーへ移籍したばかりの日本人選手について、「彼をどう思うか」などと質問する記者。
同様に、グラミー受賞アーティストに、日本人歌手について意見を訊くレポーター。「ウタダを知っているか」みたいに。
「人種差別するわけじゃないんだけど」と初めに断ってから、「イラン人は入居禁止なの」と言うアパート大家。
台湾人に対して「あなたは日本人みたいに見えるわね」と、褒め言葉のつもりで言うおばちゃん。
タイ人は「長粒米という不味い米を食べている」と思っている日本人。
アジアの国々と日本をなぜか別のグループで考えている日本人。
ベトナムに行ったことがあるからといって、インドネシア人に対して「ベトナムでは」「ベトナムでは」と話をするうちのおかん。
こういうのは全部間違っていると思うんだけどな。こういうのを自民族中心主義と呼ぶのだ。どこが間違っているのか、全て説明するのは面倒だし、言わずもがななので、いくつかについてだけ述べると、台湾人は別に日本人のように見えたくもなくて、あくまでも台湾人として見えれば結構なのだ。タイ米は日本人にとっては食べ慣れていないからパラパラに感じられるが、タイ人にとってはあれが標準で、パラパラだからおいしいのだ。もしかしたら、「日本人はベタベタな米をありがたがる変な人たち」と思われているかもしれないのだ。
日本は確かに、地理的、歴史的、文化的に固有の国家で、その特殊な言語や、倫理観、価値観などは誇りにしていいと思う。しかし、どの国でも同等に固有で、特殊なはずなのである。
こういう自己中心性であるとか独善性というものは、僕を含め、日本中、世界中の人々の心の中に潜んでいる。
まず、大前提として、日本は徹底的にアジアの国であるという事実は忘れてはいけない。特に、欧米の国々から見た場合、日本は欧米の一員では決してない。ありえない。これを忘れているから、いつまでも国連の常任理事国にもさせてもらえず、予算拠出ばかり求められてバカを見るのだ。
やめちまえ、そんなもん。鎖国じゃ、鎖国
なにかと「欧米では」とか「欧米と比較して」などと言って、欧米基準でモノを語るのが日本の知識階層の常套となっているが、それが間違いの始まりで、不幸の源だ。日本の国民が「自分らは欧米と同化することが最終目的である」と勘違いしてしまう(というか、してしまった)。
アメリカの一般市民からすれば、悲しいかな、日本など位置も知らないし、行ってみたくもないし、つまり興味もないアジアの国のひとつに過ぎない。アメリカの支配階級からすれば、日本は金づるであり、属国であり、心底蔑視されている。
これは、毎年日本政府とアメリカ政府が「年次改革要望書」という文書を交換していて、郵政民営化裁判員制度会社法建築基準法の改正も、全てそこに書いてあるアメリカの要求通りということからも明らかである。要望書とは名ばかりの命令書なのだそうだ。
詳しくは、関岡英之氏の『拒否できない日本』(文春新書)、『奪われる日本』(講談新書)を読まれたし(恐ろしい事実に愕然とすることでしょう……)。
なお、アメリカが平等の国などと思っている方には、ポール・ファッセル著『階級』をオススメする。彼によるとアメリカ社会には九つの階級があり、一番上と一番下は「ケタはずれで見えない」のだそうな。しかも階級についておおっぴらに話すことは、日本で被差別部落を語るように、タブー中のタブーである。
あ、思わず愛国ショータに火が点いて脱線しそうになったが、アメリカでたとえばシリアル食品を買うと、パッケージには大概白人家族と黒人家族とアジア人家族が描いてある。建前上人種の平等を標榜していて、それでいて平等も自由もないウラオモテ国家の象徴である。黒人のサンタクロース人形とかも同様。そして、そのシリアルパッケージにあるアジア人の顔は、めっちゃアジア人なのである。「はい、ここにアジア人印刷しましたぜ」という記号であるから、わっかりやすいアジア人が求められるのだ。西洋文化に侵された我々日本人が考えるような美しい外見の人では決してない。
ルーシー・リューに代表されるようなアメリカで活躍するアジア人女優やモデルのメイクが、殊更アジア人の特徴を強調するかのようなものであることにお気づきだろうか。とにかく吊り上がった目をさらに吊り上げて見せるアイシャドウ。女優やモデルに限らず、西洋に長く住んでいるアジア人おばちゃんのメイクにも共通のものだ。
結局、アジア人はアジア人であることを利用しないと生きていけないのだ。そして、もっと言えば、我々は、自分たちが考えているほど白人ではない、ということだ。
だから、日本人はアジア人として、自分たちがどういう存在なのか自覚しなくてはいけない。僕が〇五年の冬にアメリカを訪れた際には、アメリカ人の日本人観をよく表すTシャツを二度、目にした。
ひとつは、胸プリントの「I am a legend in Japan」というメッセージ。これは「オレは日本では伝説だぜ」というもの。「ここアメリカでは無名のただの男に見えるけど、遠い国である日本では、君らは知らんだろうが有名なんだぜ」という意味である。それくらい日本というのは遠い国、ということがよくわかる。
これはおもしろかったので、友人の土産にした。
もうひとつには、ダックスフントのイラストが描いてあり、メッセージは「My winnie is huge in Japan」というもの。要するに、「ダックスフントのチ○○ンだって、日本でなら巨大である」ということ。
屈辱である。国民に対する侮辱である。
こちらはあまりに腹立たしかったので、買わなかった。買うかい、そんなもん! 見たんか、お前は。誰のや。
日本で、日本人が白人や黒人のチ○コを揶揄するようなシャツを着るだろうか? そもそもTシャツがアメリカ的だというなら、日本人が、黒人のチ○コで川柳を一句詠むだろうか? そんなサラリーマン川柳が入選するだろうか? それよりもまず、アメリカで白人が黒人のチ○コのサイズを冗談にしたTシャツを着られるだろうか? もちろん「NO」である。あるなら、僕が着てみたいものだ。
であるのに、日本人のものに関しては堂々とジョークにできる。
ここからどういうことが読み取れるかというと:
  • ・(遠い国の人間だから)日本人に見られることもないだろう。
  • ・(どうせ英語もわからないから)意味が通じるはずもないだろう。
  • ・(日本人だし)意味が分かったって、怒ることはないだろう。
以上のうちのどれかか、またはその全てである。
色とか大きさではなく、性能がよく、どれだけ長持ちするかが問題だという真理を、かの国の人たちは自動車から学ばなかったのだろうか。
(了)

P.S.  最後に一句。ナニよりも チ○コに驚く 裏ビデオ