月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「夢想の詩」

僕は職業として広告を作ることをしているのだが、やっている側としてはこれはなかなかおもしろい仕事ではないかと思う。色々不満もあるし、人間関係とか力関係とか複雑な事情とかにがんじがらめで思うようにいかないことばかりだけど、サラリーマンが「オモロイ」ことを競えるなんて、普通はありえない幸福な職場環境だと言える。もちろんオモロイというのは、単純に笑えるという物差しのみではなく、シャレている、頷ける、目を見張るなど、広い意味でのオモロイである。
まぁ、問題は、僕がこの職に就いて以来鳴かず飛ばずを謳歌している点だ。
しかし、やっている本人らは楽しいか知らんが、通常、広告なんてものは世の中に無い方がいいようなものなのだ。街中に見られるゴチャゴチャの広告看板が無ければもっと景観はスッキリするし、テレビCMが無ければ、あの鬱陶しい「続きはCMのあとで!」にイラッとさせられることもなくなる。その代わりトイレに行く時間もなくなるので膀胱炎患者が激増するかもしれない。
厳密に言えば、というか世の中の仕組みにちゃんと目を向けると、広告がなければ、テレビ放送は無料では成り立たないし、新聞も雑誌もその購読料は倍以上になるだろう。
だから、本当は一般消費者は皆、広告から恩恵を受けているのだが、それでも、「もし広告がなくても生活自体はなんら変わらないという新しいビジネスモデル」が発明されれば、人々はこの広告クラッターから解放されたことにセイセイするだろう。現状では、広告料か課金かしか確立されたモデルはないから、ひとまずすぐに広告がなくなることはないのだが、これは想像するとかなりのセイセイなのである。
そう、広告が世の中の役に立っているなんてのは、思い上がりなのである。だから、時折僕は夢想せずにいられない。「もっと世の中の役に立つ職業に就いた自分」を。
具体的には、ジャーナリスト、検事である。
しかし、前者に関しては、僕は人見知りなので、知らない人のところに行って、グイグイ事情や秘密を聞き出してくるようなことは恐らく無理である。それでも、ジャーナリストなんて肩書きは(僕のコラムニストと同様で)何か資格が必要なわけではない。名乗ってしまえば、明日からだってジャーナリストなのだ。だから、それに対する憧れを公言していると「ほなやれや」と言われかねない。
だから、僕はそれは心に秘めたままにして、その夢想はあまり深堀りされることはない。
さて、検事である。司法試験の難しさはよく知られている。合格率三%未満、三年以内で合格する率は四割弱だという。国の方針により、今後制度が変わってもう少し緩くなりそうだが、まぁ、アタマの良い人らがやる職業であることに変わりはない。僕は特に記憶力がダメなので、試験は論外だろう。
でも、試験というわかりやすい難関が立ちはだかっているからこそ、部外者は好き勝手に憧れを口にすることができる。わかりやすく無理なので、無責任に放言できる。聞いている方も「はいはい」で済ますことができる。
というわけで、僕は検事として、悪人を容赦なくブタ箱にぶち込みたいのだ。それが明快な社会貢献なのだ。正義の行使なのだ。
検事というと、裁判において弁護士の敵役みたいな描かれ方が多いかもしれないが、実際は(って実際は知らんけど)刑事事件の捜査、起訴、公判での立証までを行う、かなりハードボイルドな職業だとお見受けする。つまり、ハードボイルドの代表といえば刑事であるが、警察は捕まえるまで。その後、事件が送致されると、起訴、不起訴の判断を下し、裁判にあたるのが検察官である。犯人が逮捕されてハッピーエンドとなったドラマの、あまり描かれることのない「その後」を扱っているのである。
裁判では、初めちょっとモジモジするかもしれないし、「こんな顔のヤツ、有罪に決まってる」と見た目で決めつけるかもしれないし、ということは、犯人が美人だったりしたら求刑年数を六掛けくらいにするかもしれない(美女への刑が軽いことは統計的に見て本当らしい)。
それでも、僕は昨今新聞紙上などで、取りざたされることもある責任能力の議論について、わずかでも抵抗したいと思う。
この国では、信じられないことに「アル中の人間が、泥酔状態で人を殺す」と、心神耗弱だとか心神喪失などといった理由がくっ付いて無罪(不起訴)になったり、刑が軽減されてしまったりするのだ。
その他の例においても、犯罪行為の後に隠蔽工作までしておいて、心神耗弱が主張されたりする。悪いと思っているから隠そうとしているのに、「罪を犯した時点では適切な判断ができない状態だった」とかなんとか……。そんなこと言い出したら、人を殺すなんてこと自体、普通の判断ではできないわけで、全ての殺人は適切な判断をしていないから無罪ということになりはしないか。
僕の常識から言えば、責任能力がないというのは「完全にイッてしまっている人間」のみに与えられる称号である。責任がないのだから、恐怖も罪悪感もなく、危機管理もできない。たとえば、赤信号でも車道に突っ込んでいかなきゃいけないし、お金なんかも持って出るはずはない。
そうであるはずなのに、ちゃんと安全に道を歩いて、電車の切符すら買って、ホームセンターで凶器まで買って、お釣りもちゃんと受け取って、殺人現場までやってきているのであろうこのおかしさ。さらに言うと、善悪の判断ができないのなら、まともな会話のキャッチボールも成り立たないし、なんや言うたらウ○コを食べているような態様でなくてはおかしいのではないのか。
「神の声が聞こえた」なんていうのは認めない。そんなのはどこかで聞いたような発想だ。過去事例から学習しとるやないか。
「フペポケペケペピョーン」と供述して初めて、「ん、こいつまさか?」となる。で、おもむろにウ○コを食べ始めた時点で、「うーむ、これはもしかしたら」となるだろう。
だから、責任能力を云々したい向きには、ウ○コを差し上げるとよい。
なぜなら、「人を殺すこと」と「ウ○コ食べること」は、そのしてはいけない度合においては同等であるからだ。
PTSDだってそうだ。そんなもん乱発しないでほしい。特別な事情の特殊な例にだけ許される診断だろ。だったら、青春時代に散々痛めつけられたために、女性不信になってこんなに性格が歪んでしまったこの私はどうしてくれる。これでも元気に、法に従って生きているのだ。
結局、検事になっても、というか、なったらなおさら腹が立ちそうな気がしてきた。正義なんか扱わない、広告屋でいいや……。
  • 人間は鳥のように飛ぶことを夢想する。
  • 鳥は魚のように泳ぐことを夢想するのだろうか。
  • 魚は木のように眠ることを夢想するのだろうか。
  • 木は人間のように歩くことを夢想するのだろうか。
(了)
P.S. 僕は死刑にも賛成である。しかし、人を殺すことには諸手を挙げて反対である。一見矛盾するように聞こえるかもしれない。それは、「殺人は、命をもってしても償えないが、その命は剥奪されて然るべきである。だからこそ、殺人がこの世からなくなれば、死刑も自ずと廃止されるのである」という論理で、僕の中では完全に辻褄が合っている。
責任能力については、門田隆将著『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮文庫)、日垣隆著『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫)という本が実にエキサイティングに述べている。ジャーナリストってすごいわ。