月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「ウトゥクシク、ナリタイナ」

 ある晩、もう二十三時くらいのことだ。
後輩のアートディレクター(以下、AD)喫煙室に入ってくるなり、イライラした様子で煙草に火を点けて、大きなため息をひとつ吐いた。
「どうした?」
 先輩の僕は一応声をかける。
「もうムチャクチャっすよ。ポスター作ってるんですけどね……」
 彼はあるお菓子メイカーを担当していた。
 
「グレープ味新発売のポスターなんですよ。一番上に『グレープ味新発売!』って書いてあるのに、下の方に丸囲いで『NEW!グレープ味新登場』って入れろって、クライアントが言うんですよ。書いてあるやん! って」
「うん、アホやな」
 
 こんな時間までやっているということは、今日が入稿日で、印刷会社との約束の時間はとっくに過ぎているのだろう。もしかしたら、色校正の段階まで進んでいるのに、色彩や明度とは無関係の修正指示が来たのではないだろうか。
 
 広告業界のデザイナーなら誰でも経験のある腹立ちだろうと思う。
 僕はデザイナーではなく、コピーライターだが、ポスターや新聞広告など平面グラフィックを制作する際は、文字担当のコピーライターと、デザイン担当のアートディレクターやデザイナーと組んで仕事をするものなので、憤りは共有している。
 
 彼は日本最高の芸術大学をトップの成績で卒業して入社してきた人間である。ご想像の通り変わったところのある人間で、少し不遜な性格をしているが、この業界で能力のある人間は大体奇人か不遜か、その両方の資質を兼ね備えているものだ。
 僕は会社を辞める時に、仕事仲間からこう言われた。
「ショータさんは電通(あ、書いてもうた)でやっていくには、心がキレイすぎますよ」
 これはもしかしたら、「あなたはここでは通用しない」という意味の婉曲表現なのかもしれない。しかし、心がキレイで、人を疑うことを知らない僕は、褒め言葉として素直に受け取った。
 仕方ないじゃねえか、オレを育てた親に言ってくれ。
 
 ADの彼は、おそらく物心ついた頃よりデザイン方面に興味を持ち、スポーツもすることなく、大した遊びにも手を出さず、モテもしない青春時代を送ったことだろう。美術館やアート関連の分厚くて高価な本に耽溺し、デザインの腕を磨いて芸大に入り、セオリーを学び、成績を伸ばし、iMacの前や布団の中でデザインとはどういうことなのか考え続け、それで食っていこう、あわよくばそれで何かの役に立とうと思って、就職試験に通り、会社に入ってきたのだ。
 入ったら入ったで、途方もない実力の上司や先輩がたくさんいて、自分に不安を抱きながら、なんとか成果を出さないと、とプレッシャーを感じて仕事に取り組んできたはずだ。何年か経ってどうにか手応えのようなものを感じつつ、三〇才を迎えた春のこと。どこかの文学部出のおっさんに「『グレープ味新登場!』と同じ平面に重複してレイアウトせよ」と言われる。
 
 怒るわな。
 
 僕は能力はないがただ不遜な人間なので遠慮なく書くと、僕が電通を辞めた理由は、その仕事の構造が、「患者の指示に従って治療を行なう医師」のようなものだからだ。そんなものが成立するはずがない。
「手術が必要ですね」
「嫌だ。痛い」
「では、この薬を一日三回飲んでください」
「嫌だ。三回も飲めない」
「では、この強い薬を一回飲んでください」
「嫌だ。ニガい。でも治してや」
「……」
「ほんでな」
「なんでしょう?」
「安せい」
 
 ネットで見た情報で、「デザイナーに最も必要なものとは」という質問に対する現役デザイナーからの答えがこうだった。
「体力」
 付け加えるなら、「耐ストレス性」もあるだろう。体を壊す前に心を壊してしまう人間のなんと多いことか。
僕は心はキレイなのだが、変に強かったので、精神を病むようなことはなかった。ただそこを去ることになった。
 
 音楽でもアート作品でも文学でも、世に出たものは批評の対象となって許されるべきである。
 この前、友人と食事をしていて、僕たちはモーターサイクルで来ていたから、ノンアルコールビールを頼んだ。
 出てきたパッケージを見て僕はのけ反った。

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「何回『ゼロ』、『ノンアルコール』って言うねん!」
 いち、に、さん、し……五回だった。
 しかも、POP(Point of Purchase)のように
「ドライな飲みごたえUP」
クリーミーな泡!」
とまで缶に印刷されている。
「これ、デザイナー泣かせやなぁ」
「仕方なく、入れさせられた感ありますね……」
 僕と、同じ業界の友人にはそれがヒシヒシと伝わってくる。
 デザイナーのため息が聞こえるようだ。
 
 コンビニの限られた棚を奪い合う熾烈な競争は、我々の想像を超えたものなのかもしれない。だから缶がそのままPOPの役割も兼ねる必要があるのだろう。
 それはわかった。しかし……。
 試しにハイネケンでも、クアーズでも検索してパッケージを見てほしい。
 美しいから。何回も同じこと言う電車の車掌みたいな顔つきしていないから。
 
 ウトゥクシイクニ、ニッポン(安倍首相、すみません)。
 
 この国では、デザイナーにはデザイナーとして最高の仕事を求めることはできないのだろうか。
 でも、日本においてはハイネケンよりもスーパードライの方が売れるのだから、誰も疑問は持たないのかな。
 ん? グローバル化ってなんだっけ?
 ※ハイネケンは世界三位であるハイネケン社の代表ブランド。二〇一四年の時点で、アサヒは十位。
 
 アサヒ・ドライゼロだけの問題ではない。これは日本の随所にある「ダサさ」の問題だ。
 

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  こんなもの飲む人間の気が知れない。
 コンビニ店員の声によると、こういうものを買う人のほとんどはすでにデブなのだそうな。そういう何かに頼って楽にヤセようとする心性がデブ特有のものなのだ。
 こんなに大きな「特保マーク」を見たことがあるだろうか。特保マークをデザインしたデザイナー本人ですら「エヘヘッ」って照れ笑いするだろう。
「脂肪の吸収を抑え、排出を増加させる」とは、飲む時点でもうウンコのサイズ感について考えながらよく飲めるな、と僕は思うのだ。まず摂取を抑えろよ。
 なんでも求めようとする強欲ドリンク。
 
 こういうのを飲む人間が、「値引け。安せい。もう一個付けろ。タダで付けろ。ほんで、早く届けろ。送料もタダにせい。指定の時間に一分でも遅れるな」と要求してくる輩なのではないか。
「喰いたい。ガマンしたくない。飲みたい。もっとほしい。なんぼでもほしい。でもヤセたい」と言っているわけなのだから。
 どうなんだい、このデブ野郎!
……もはや誰に怒っているのかすらわからなくなってきた。
 
 ペプシの名誉のために、力強いこちらも載せておこう。
 

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 スーパードライは僕が一番好きなビールの銘柄だ。

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 今さら企業に阿るつもりはなく、本当にそうなのだ。
 
 日本を愛するひとりとして、ジャパン・プロダクツにはカッコよくあってほしいんだ。
 研究するプロ、醸造するプロ、描くプロ、販売するプロ。
 明日こそは、プロがプロの仕事をできますように……。
 
補遺:このコラムは拙著『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな』に収録され、毎日新聞出版から刊行されました。
笑えて泣ける一冊です。

畳と茣蓙と科学的屁理屈

(前回からの続き)ようやく婚約を果たしたユウちゃんの話を聞きながら、浮かない表情の二人がいた。共に独身のアキちゃん(仮名)と滝下(仮名)である。

  • 「どうしたら、そういうことになれるのでしょう……」

人間関係という深遠なものに対する完全な対処法はないけれど、ある程度までは科学の力で補助することは可能であろう。

僕は家に帰ってから、二十年近くも前に米国の大学で使っていた社会学の本を引っぱり出してきた。

教科書のタイトルは、『日常生活の社会学(Sociology in Everyday Life)』という。

 索引を見ながら探すと、あった。

そこには「恋愛の発展へのホイール理論」というものが掲載されている。

ホイールというのは車輪のことで、つまりサイクルのことだが、そこは重要ではないので、四つの段階として説明する。

  • ①Rapport [一致:「いいな」「気が合うな」と思うこと]
  • ②Self-revelation [自己開示:自分について曝すこと]
  • ③Mutual dependency [相互依存:お互いを頼ること]
  • ④Personality need fulfillment [人としてのニーズを満たしてくれること]

 ①は一瞬で決まる。メラヴィアンの法則と言って、人の第一印象は三~五秒の間の一瞬で決まってしまうらしい。確かに、僕は一目惚れ以外はしたことがない。

もう少し猶予を与えるなら、出会ってすぐの表層的な会話によって、「この人、合う」、「合わない」は早い段階で見極められてしまうのだ。

しかも、これは教科書に書いてあることだから本当なのだが、男は女の見た目に重点を置き、性格の判断もそれに引っぱられる。美人に対しては、「性格も良さそうだ」、「これだけ美しい人なら心も美しいはずだ」と勝手にいいように解釈する。

 瞬殺で決まってしまう出会いに関して、あまり言えることはないのだが、ひとつだけ申し上げるなら、「よく見るとブスな一見美人」も「よく見るとかわいいところもある一見ブス」もこの世には無数にいて、これがいないと人類などとっくに滅びている。だから、一見ブスの皆さまにおかれましても、人類の希望を背負ってがんばってほしい。

 さて、③④は本論から外れるので割愛することは先に断っておく。関係ができてからは私の知ったことではない。お互いに依存しようが、ニーズに応えようが応えまいが、私の与り知らぬことなので、勝手にくんずほぐれつ、上になったり下になったりしたらいいのだ。

 ②の自己開示が最も重要である。

要するに「自分が何者で」、「何をしてきて」、「何が好きで、何が嫌いか」を表明しなくては話は進まないということだ。

出会ってすぐの表層的な会話、「どこに住んでるの?」とか「好きな音楽は?」とかいう質問は、相手に自己開示させる手段に他ならない。

だから、飲みに行った先で女性が同席していても、すぐに気配を消してしまう後輩の滝下(仮名)など言語道断なのだ。

かと言って、自分のことばかり喋り続けても、「この人はオノレにしか興味がない人間だ」という情報を与えるだけなので注意が必要だ。

訊かれた質問には真っ直ぐ答えることだ。

勤め先を訊かれて、「ええっ……」などと口ごもる相手は、それにより「あぁ、この人は私とこれ以上関係を深めるつもりは一切ないのだ」というメッセージとして受け取られる。

そして、自己開示には「私はあなたに興味がある」という事実を伝えることも含まれる。これは言語・非言語の伝達があるが、前者はいきなりは難しい。

非言語でもって、すなわち態度や行動で、それを伝える必要がある。

「これが僕の連絡先です」とメモでも渡せば、それで「私はあなたと今後も連絡が取りたい」、「また会いたい」という情報の開示・意思の表明になるだろう。

連絡先を訊く・貰うことが恥ずかしければ、渡せばいいのだ。その方がずっと簡単だ。

 恋愛は市場の法則により動いている。つまり、取り引きだ。何を渡して、何をもらうか。だから、渡さない人は、もらえない。

 ひとつ註釈を挿入すると、結婚してのちのことは市場ではない。

僕の個人的見方だが、「相手に何も求めない。期待しない」という態度が肝要である。

  • 「給料はこれくらい家に入れてほしい」
  • 「掃除洗濯をしてほしい」
  • 「今晩あたり抱いてほしい」

こういった期待をするから裏切られた時に腹が立つ。依頼はしても期待はしない。これに尽きる。

 「人間の間違いってのは、常に期待をして待つことじゃないかな」

これは、宮本輝が書いた言葉だ(『花の降る午後』)。

 さて、ここまでは大体、科学の話であった。

大してモテてこなかった私のような人間が、さも自分の経験的知識の蓄積であるかのようにエラソーに書いてきた。

違うんだ。教科書に書いてあっただけなのだ。

科学的なトレーニングさえすれば、誰でもイチローのようにヒットが量産できるかと言えばそんなわけはないので、科学的知識を踏まえた上で、あとは個人の力量・練度が問われる。

 松井秀喜氏だって、ジャイアンツ選手寮の畳が擦り切れるくらい素振りをしたというではないか(画像はsanspo.comより)。

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 畳といえば、先日友人がこんなことを言った。

  • 「この前ええ言葉聞いてん。『三〇サセごろ、四〇シごろ』なんやて」
  • 「ほぉ」
  • 「女は、三〇はさせてくれーと言われるが、四〇はしてくれーと自分から言うくらいしたいんやて」
  • 「なるほど」
  • 「で、次にな、『五〇茣蓙むしり』と続くんや。ゴザを掻き毟るほどという表現がええな」

彼はぐへへへと笑った。

 まさか「してくれー」と自分では言いにくいだろうが、これも非言語の伝達方法があるはずだ。各個人で研鑽を積んでいただきたい。ヒントはたくさんお教えしたぞ。

あとは「ルールブック」を再読してほしい。

なんなら、こちらも合わせて読まれたし:

2007年12月号「まだ見ぬ娘への十箇条(続き)

 

アメリカの大学で学んだことが、「どうしたらいいのか……」というアキちゃん(仮名)の役に立ったら光栄である。それとも、毎度のように屁理屈だっただろうか。

「えー、『とにかく彼氏ほしい!』とかけまして、アメリカの大学と解く」

「その心は?」

「簡単に入れます」

「ヤマダくん、彼女にゴザ一枚」

「スタンプカードが一杯になったようなのだ」

コラムに二度登場いただいているユウちゃん(仮名)である。
初めに書いたのは、二〇一四年五月号「ルールブック、読んだか?」の中だった。その続報として、翌年六月にまた書いた。
私は、彼女のいじらしくて切ない恋の行方を静かに見守っていた。
二十九才だったユウちゃんは、三十一才になっている。
それらコラムをお読みいただき、ルールブックなるものの存在を心に刻みつけてくださった皆さんにご報告申し上げる。
ユウちゃんはついに婚約した。
私は、ルールブックを携えて、再び追跡調査に乗り出した。彼女をランチに呼び出し、ユウちゃんの同僚女性と、前回もいた後輩の滝下(仮名)を連れて、評判のカレー屋さんのテーブルについた。
事の経緯はこういうことだった。以下、多少の脚色を交えて述べる。
先月、ユウちゃんが、彼氏と観た映画では、素敵な夫婦像が描かれていた。
帰宅後、彼女は彼にメッセージを送った。
    「あんなふうなら、結婚ていいよね」
彼女は二人の関係において、初めて「結婚」という言葉を持ち出したのだ。
思い出してほしい。車中での沈黙の中、はたまた、大西洋を望むビーチで波の音だけを聞きながら、彼女がそれを待ち、そして彼に問うてみたい自分を抑制したことを。
    「結婚ね……。うん、ちゃんと考えてるから」
彼氏の返信は、ユウちゃんの胸の蕾を温かく緩ませるものだった。
二人はその後、彼の先輩と三人で食事に行った。先輩は相変わらずな二人を前に言った。
    「君たちはいつ結婚するんや?」
私自身は彼氏と面識はないが、この二人を見ていたら、その先輩でなくてもそのように直截に訊きたくなるだろう。
彼氏は狼狽えながらも、先輩の手前、先日のメッセージでの言質を繰り返した。
    「はい、ちゃんと考えています」 「いつ言うんや?」
先輩も、ユウちゃんを前にしてなかなかやるものである。一歩踏み込んだ。
    「えぇ……と、来月には」
見たことはない彼氏の困った表情と、額の汗が目に浮かぶようだ。
    「何日や?」
せ、先輩、やるぅ!
    「じゃ、じゃあ、十四日に」
突然降ってきては具体化する結婚のイメージに、ユウちゃんの瞠目は想像に容易い。
しかし、ここまで聞いて、私は一旦彼女を遮った。
    「ちょっと待て。なんやそのママゴトは」
もう言うとるやないか。結婚すんねやないか。その「十四日」はなんやねん。そこまで待たなあかんのか。
    「ええ、そうなんですけど……『ホワイトデイだから』って言うんです」
ロマンチックというのか、律儀というのか、その割にこれまでの鈍感さはなんなのか。
大体ホワイトデイというのは捏造で、アメリカにおいて「ホワイトデイ」なるものを制定したら、町々で暴動が起きるんだぞ。
ユウちゃんはその先を継いだ。もう先はわかっているのだが、一応、「姫は王子様と結ばれて幸せに暮らしましたとさ」となるまで、ガマンして聞いてほしい。
当日、二人は食事に行った。
    「彼がカジュアルな格好で来たから、『えっ? 違うのかしら』と思ったんです」
なんやそれ。ここから、「な」と打つと「なんやそれ」と出るほど、頻繁に登場するが、やはりガマンしてほしい。
    「ちょっとトイレ行ってくる」
彼が途中で席を立ち、少し汗を浮かべて帰って来たのを見て、ユウちゃんは「お腹の具合でも悪いのかしら。じゃあ今日はいいか……」と半分諦めた。胸の蕾がまたキュッと萎むのを感じた。
デザートを頼んだが、「少々時間がかかるので、お庭でもご覧になってはいかがですか?」と言う店員に促されて、二人はしばらく歩いた。
中庭には、ガラス張りの建物があった。
    「入ってみよう」 「でも、勝手に入っていいのかな」 「いいから。俺、オシッコしたいし」
な(自動変換)
そこはチャペルだった。
一度は萎んだ蕾が再び色を染めた。
奥の台には、花束があった。彼はそれに歩み寄ると、手にして戻ってきた。
    「結婚してください。きっと幸せにします」
な(だけど、オレはちょっと涙ぐんでいる)
彼氏の、これまでに見たこともないような緊張した面持ちが、ユウちゃんは嬉しかったという。
    「はい、もちろんです」
深く安堵した彼氏は、
    「ちょっと、本当にオシッコ行ってくる」 と言って、トイレに消えたそうだ。
一度目に「トイレ」と言った際に駐車場まで走って、花束を台に置いて、席に戻ってきたということだ。
その晩、ユウちゃんはしとどに濡れて乱れ咲いた花弁の奥で怯えたように震える芯を、彼のオシベが屹立する叢に擦り付けるようにして、未だかつて経験したことのない高みに昇りつめたのであった。
これがユウちゃんが語った事の全貌だ。先に断ったように、多少の脚色を交えた。
すっかりカレーを食べ終えた私たちは、ひとつ疑問を呈した。
    「そないに緊張するか? 単願受験の中学生ですらそないに緊張せえへんぞ」
私自身はどうだったかって? もう十年も前の話だ。
私は、「ショータご結婚優待券」というものを印刷して、相手に書留で送りつけたような無粋な人間だ。裏には【ご使用にあたってのご注意点】として、
  • ・ご本人様のみ一回限り有効です。
  • ・お申込後のキャンセルはお受けいたしかねます。
  • ・他人への譲渡・換金はできません。
  • ジョージ・クルーニーとの交換はできません。
  • ・ご辞退された場合、他の候補を改めて決定することになりますが、しばらく落ち込みます。
  • ・お金持ちになる見込みは全くございません。
  • と記載してあった。
もちろん、断られることなど想定していなかった。
はたと思うに、ユウちゃんの彼氏を、純粋な青年と評価していいのか、もしかすると、あえて口にするなら、人の気持ちがわからないアスペルガー的な人間なのではないか。そんな危惧する気持ちすら湧き起こるのである。
もしかしたら、今後も言うべきことを口にしないで、勝手に借金こさえて苦しむような夫になりはしないだろうか。オシベとメシベを擦り合わせた結実として、小さな果実を得た時に、ちゃんと父親としての役目を果たすだろうか。
そんな私の知ったことではない先のこと以前に、現在においても、まったく独りよがりな交接を繰り返しては、即座に背を向けて眠りこけるような御仁ではないだろうか。
ユウちゃんは全然気持ちよくない所をグイグイ擦られていないだろうか。
心配でならない。
そんな時はまた相談してくれることを願う。相談は具体的であれば、具体的であるほどよいぞ。
こうして、めでたくスタンプカードを一杯にしたユウちゃんである。
ところが、晴れない表情の者たちがそこには同席していた。
三十三才になる同僚のアキちゃん(仮名)と、後輩の滝下(仮名)という独身の男女二人である。
アキちゃんは嘆息と共につぶやいた。
    「どうしたら、そういうことになれるのでしょう……」
つづく

「カウボーイハットの内側に」

■「ハーブという男」篇

十五年近く勤めた広告会社を辞めて、ひと夏の間、カナダにてカウボーイをして過ごすことにした。今はもうすでに帰国して、三ヶ月が経ったところだ。

僕がお世話になったキング牧場は、ハーブという六六才(当時)の男と、その息子のケヴィンという前号で書いたカウボーイたちによって営まれている。ケヴィンの子供たちを含めて、つまり三世代がそこに住んでいる。

牧場の所有地と借地を合わせて東京ドーム八〇〇個分。そのわけのわからない広さを、男手二つで管理しているのだから、忙しくないわけがない。本当に毎日よく働いた。

仕事で使うピックアップトラックはフォードのスーパーデューティーという車種で、「キング牧場限定版」だ。後ろに「KING RANCH EST. 1853」というエンブレムがある。「すげえな」と思っていたら、実際はこのキング牧場のことではなく、テキサスにある世界最大規模を誇った有名な牧場とのコラボ版だった。

僕がいた方のキング牧場は、一九〇三年の開業だ。それでも立派なことだ。

始めたのはハーブの妻イーディスのおじいさん。彼女の旧姓がモットといったので、当時はモット牧場だった。

ハーブとイーディスは一学年違いの小学校の同窓生だ。ハーブと結婚して、彼が継いだ時に名前をキング牧場に変えたようだ。この牧場の近辺にはコープが一軒あるだけで、工具や機械部品、アウトドア用品、食料品などを扱っている。二人の結婚パーティーでみんながダンスをしている最中に、そのコープに強盗が入ったという。

ハーブはハーバートの愛称だ。目も体も丸い。ある時、キッチンを白いブリーフ一枚でウロウロしている姿を見たら、まるで球体のようだった。しかし、筋肉でガッシリとした印象だ。

ハーブとイーディスというやさしい夫婦から、どうしてケヴィンのような荒くれ者が生まれたのか不思議なほど、二人は親切な人たちだった。

僕は今でも感謝してやまない。

「カウボーイのことを知りたい」と押しかけて来たこの日本人に対して、ハーブはいつもあれこれ教えてくれたり、見せてくれたり、話してくれた。いや、正確に言えば、不器用ながら、そうしようと努めてくれていたことが僕にはわかった。

彼は、穀物を収穫する巨大なコンバインに乗せてくれたり、馬にサドルを取り付ける順序を見せてくれたり、牛が一頭どれくらいの価格で売れるものなのか昨年の領収書まで見せてくれたりした。

新しく教わった仕事がなかなか複雑で、僕が「覚えることが多いですね」と、ため息をつくと、僕のカウボーイハットを指さして、

「このハットの内側のモノを使うのだぞ」 とニヤリとした。

ラクターのグラッポー(ツメ)を使って大きな鉄の柵を撤去する時に、彼は僕にこう言った。

「危ないから離れておけ。死んだらゲームオーヴァーだ」

そしてこう続けた。

「そしたらもう、心配事も心の痛みもなくなるぞ」

彼独特のユーモアなんだけど、僕はハッとさせられた。こういう生活にも心配事は尽きないのだろうし、彼にはどういう悩みがあるのだろう……と。

ある日、牧草地に出たら雨が降ってきて、僕たちはトラクターの中で雨宿りをしていた。「今日は無理だな」ということで迎えを待っていた。トラクターは時速四〇キロがせいぜいだから、明日のためにもそこに置いて帰るのだ。

「日本には引退制度はあるのか?」

唐突に彼が訊いてきた。僕は年金のことと理解して、「あります」と答えた。

「そうか、こちらでは六五才だが、最近は六五で引退しても人は生きていけないよな。そのうち七〇に延長されるだろう」

「引退について考えますか?」

「ケヴィンがここを継いでいなかったら、牧場を売ってのんびり釣りでもしていたかもしれないなぁ」

彼は釣りが大好きだった。

「私はまともな教育を受けていないから、今さら他にやりたいことなどない」 と、彼は言ってから、すぐに訂正した。 「いや、他に何ができるというのだ。コンピューターを使った仕事なんて、今から学んでも、覚えた頃には本当に引退する年になっちまう」

僕は、この仕事、この生き方しか知らないハーブの心の裡に触れたようで、少し哀しいものを感じたが、それ以上に、それを吐露してくれたことがなんだかうれしかった。

誰だって、自分以外の人生のことなど知る術はない。

ちょっと照れくさいのだが正直に言うと、僕は彼に父を見ていた。

僕の父親は、ハーブの年齢である六六才でこの世を去った。僕の父はあまり自分のことを語らなかったので、亡くしてから十年近く経った今でも僕は、「親父は一体どういう人間だったのだろう」と時折わからなくなる時がある。

わかっていることはとにかく頭脳明晰で、心が強靭だった。善かれ悪しかれ、自分の考えに沿って生きた人だった。と、これすらも真実かどうかはわからないのだけれど。

親父と酒を飲んだことは一度もない。彼はほとんど飲まなかったからだ。

だから、ハーブがウォッカとトマトジュースとソースなどを出してきて、「シーザー飲むか?」と訊いた時は、必ず「はい」と答えた。シーザーとは、ブラッディメアリーのことだ。

「うまいですね」

「うん、日本でも作れ」

ウィスキーはクラウンロイヤルという銘柄だった。それもよく飲んだ。カナダのウィスキーは、ケンタッキーバーボンとは違う、クセのないスムーズな味わいだ。

大きなボトルを買うと、小さなサンプルがオマケで付いてくることがあったようで、ハーブはそれを五つほど掴んで、「持って帰れ」と僕にくれた。

ケヴィンは前号で書いた通り、様々なピンチの際に颯爽と現れて僕を救援してくれたのだが、教えてくれるという感じとはまた違った。

「あの草の名前は何と言うのですか?」

「スルーグラス」

「スルー……。それはどういう綴りですか?」

「SLO...ナントカだ」

また別のある日、 「これは何という機械ですか?」

「オウガー」

「それはどう綴るのですか?」

「O、いや、AU...ナントカだ」

こういう時、僕は大体夕食の時にハーブとイーディスに問い直した。正解は、「Slough grass」、「Auger」だった。ケヴィン、単語テストみたいな質問ばかりして申し訳なかった。

僕はおよそ三ヶ月を牧場で過ごすために来たのだが、そこを去る日は決めていなかった。ひと月くらいたって、そろそろ先方の都合もあるから決めなくてはと思っていたので、イーディスに尋ねた。

「十月の初め頃は何か予定のある日はありますか?」 「んー、二日がハーブの誕生日よ」

ハーブの誕生日を前に、ここを出るわけにはいかない。僕はその翌日をお別れの日にした。

いよいよ最後の晩になった時、僕のお別れとハーブの誕生日を兼ねて、ジェイク一家(前々号参照)や、彼のいる牧場の牧場主たちまで集まってくれてパーティーを開いてもらった。

僕はハーブにフラスコを贈った。ウィスキーを入れてクピッとやるアレだ。 釣りの時にチビチビやってもらえたらいいと思ったのだ。

ジェイク、ケヴィン、ハーブという三人のカウボーイたちのおかげで、僕にとって忘れられない夏となった。この男たちが教えてくれたこと、見せてくれた心意気は、僕は胸の中で死ぬまで大切にする。カウボーイハットの内側に刻みつけておく。

今はもう冬になり、彼の地はマイナス三〇度とか、想像を絶する極寒だという。 僕にはなんだか雪一面の牧場は想像し難くて、思い馳せれば、ポコポコと浮かんだ綿雲の空の下、馬を駆るカウボーイたちが今日も黙々と働いているのであった。

「荒くれ者の端くれとして」

■「ケヴィンという男」篇

十五年近く勤めた広告会社を辞めて、ひと夏の間、カナダにてカウボーイをして過ごすことにした。今、ふた月が経ったところだ。

ケヴィンという荒くれ者カウボーイ一家の牧場に滞在して、その両親であるハーブとイーディスという夫婦の家の地下室に寝泊まりさせてもらっている。

ケヴィンは四十五才。眼光鋭く、口元はこんもりと蓄えたヒゲで覆われている。頭頂部は逆に、潔いほどに毛に覆われていないのだが、男たちは屋外では必ず野球帽なりハットをかぶっている。無帽で表に出ることはまずない。背自体は僕と大差ない一七〇センチ半ば。だが、三角筋(肩)から広背筋が発達した大きな背中を少し丸めてノシノシと歩く姿は、実際よりもずっと大きく見える。

僕が彼を荒くれ者呼ばわりするのには、理由がある。怒りを全く包み隠さないのだ。そして、その時の吐く言葉がとにかく汚い。

「mother-fucking」「cock-sucking」という形容詞に対応できる、通常に流通した日本語は無い。「mother-fucking, cock-sucking bastard!」など、母親とヤるわ、チ○ポは咥えるわ、親なし子だわ、矛盾だらけだ。意味なんかないのだ。ただフラストレーションの発散として何事かを叫びたいから、吐くだけの言葉なのだ。

まぁとにかく、知り合って間もないというのに、こういう言葉を間近で大声で聞かされると、こっちはちょっと萎縮する。

普通、女性のいる前や、特に子供の面前では、男はこういう言葉を口にしないものなのだが、ケヴィンはお構いなしだ。牛や馬といった家畜に対しても、ケヴィンは無茶苦茶だ。僕は動物を本気で殴る人間を初めて見た。逆ムツゴロウさんだ。

ただ、一点断っておくと、馬に対してはライダーである人間がボスであることを教え込まなくてはいけない。何事も馬の意思ではなく、人間の指示する方向に進ませ、こちらの思い通りに動くように仕向ける必要があるのだ。

たとえばホルター(口紐)に繋いで馬を引く時にも、人間が先を歩き、馬に引かせてはいけない。あくまでも人間の行きたい方向に馬を従わせるのだ。

趣味で乗馬しているわけではなく、我々カウボーイはあくまで仕事として、最高の効率と安全を追求しつつ馬と共に作業にあたっているからだ。

それでも、ケヴィンのやり方は、僕の目には度を越えているように見えた。牛の群れを制御する時には、専用の弾力性のある棒を使うのだが、彼はそれがビュッと音がするくらい激しく振って、バチン! と背中を打ったり、お尻を突いたりする。家畜用でない、そこらの鉄棒をバットのように両手で振って、家畜の頭蓋骨がゴチン! と音を立てることすらあった(本当はもっとすごいことをしていたのだが、前号に引き続き、残酷描写のため詳述は避ける……)。

荒くれ者は、仕事に関しても、手取り足取りなんかは教えてくれない。ケヴィンは僕が「今日は何をするんですか?」、「それは何のためにするのですか?」と質問しても、早口でゴニョゴニョッと答えるので、よくわからないことも多い。そのくせ、友人と長電話をしては、汚い言葉を交えつつバカ話を延々と続け、「ギャハハハ!」とバカ笑いをする。だから、僕はこの人がやや苦手であった。

しかし、振り返ってみれば、彼が僕に向かって汚い言葉を吐いたことはない。それどころか、幾度もピンチの際に助けてもらった。

八月の暑い日のこと。僕は、ケヴィンの妻であるタミーと、トラクター二台を使って干し草巻きの作業をしていた。実は、夕方に僕の水筒の水が残り少なくなり、まだ作業は数時間続ける見込みであったため少々焦りを感じていた。牧場までは十数キロ離れているから、水は補給できない。そんな時、タミーのトラクターに付けたベイラー(草を巻く機械)が故障して、作業が中断した。僕は「まずいなぁ」と思いつつ、ケヴィンに電話をかけるタミーを見ていた。数十分後、ケヴィンがピックアップトラックで現れた。

すると、工具の他に、頼んだわけではないのに、缶ビールを数本持って来てくれているではないか。なんて気が利くんだ。こんな人だったっけ? と、僕は感謝しながら、それで喉を潤した。

それ以外にも、僕のベイラーに、落ちていた牛の頭蓋骨が挟まって詰まってしまった時。

僕が穀物を積載した十トントラックを畑でスタックさせてしまった時。

ケヴィンは文句も言わずにすぐさま助けに来てくれた。

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普段、機械が故障したり、動物が言うことを聞かないと、上記のFワードだかナニワードだかを叫んで当り散らすのだが、僕が何かをしくじっても「Oh well, oh well(まぁまぁまぁ……)」とだけつぶやいて救援してくれた。そして、僕が押しても引いてもどうにもできなかったトラブルを、時に汗みずくになりながら、時に手を油で汚しながら、毎度解決してくれた。

何か一緒に作業を終えて、体は埃だらけ、ブーツは泥や糞だらけになって汗を拭く。彼がショップ(機械修理をする作業所)の冷蔵庫から缶ビールを二本出してくる。それを喉に流し込む時ほど、充実感のある瞬間はない。半人前以下の僕でも、その日は何事かを成し遂げたような気分にさせてもらえる。

そうは見られたくはないのだが、僕はどうしたって「ホワイトカラーの仕事経験しかない非力な男」に過ぎない。残念ながら、自分で自分を顧みるとそう思う。二ヶ月いても、自分では何一つ完結できないのだ。

そんな役立たずだが、どこかからケヴィンの「mother-fu……, cock……%#@&Xπγ*!!!!」が聞こえてくると、僕に何か少しでも手伝えることがあるかどうか、歩み寄っていくのだ。

「どーでもいいこと、よくないこと」

■「ジェイクという男」篇

十五年近く勤めた広告会社を辞めて、ひと夏の間、カナダにてカウボーイをして過ごすことにした。今、ひと月経とうというところだ。

会社は大企業だったから、知人の中には「えぇーっ、もったいない」などと言う人もいたけれど、「おぉ、おめでとう。楽しみだな」と激励してもらえるのが一番うれしかった。

会社も広告業界も、もしかしたら日本社会すらも、僕にとっては複雑になりすぎて、ちょっと小休止であり、僕の人生にとっては大勝負といったところだ。別に、なにもかもに厭世的になってここに流れてきたわけではない。もちろん用心棒でもない。

カナダに来て、まずお世話になったのはジェイクというカウボーイだ。ジェイクといっても、彼は日本人だ。愛称で長い間そのように呼ばれている。ジェイクは十数年に渡って、ステュアートという老牧場主の下でカウボーイを生業としている。

「カウボーイとは何か」という説明は、僕も今それを自分なりの解釈で言葉にしたいと思っているところなので省きたいが、簡潔に述べるなら「牧畜業」でいいと思う。食肉用の牛を育てて売る。それが本業だ。そのために、穀物をはじめとした作物も栽培すれば、人間の手足となり働く馬や犬も世話しなくてはならないし、様々な機械も運転・操作しなくてはならない。

僕はジェイクのところで数日間手ほどきを受けてから、カナダ人の牧場に移るのだ。

牧場の朝は早い。ジェイクは七時には家を出る。クワッドと呼ばれる四輪バギーで牛たちの見回りをし、馬たちに餌をやる。その他、敷地を囲って牛たちの移動を制限するフェンスの修理、出産や治療といった牛の世話、牧草の管理、トラクターや各種機械のメンテ・修理などなど。毎日あれこれとある仕事のほとんどを、ジェイクひとりの手で行うことに驚かされる。

土日というものはないに等しい。一日家でゴロゴロという日は何かよほどの幸運か、大雨や雪で閉じ込められるなどの不幸が起こらない限り訪れない。それでも、夕方から遊びに行くとか、一緒に働いている牧場主の息子、ディーンに任せて数日間キャンプに出掛けるといった余暇はたまにある。

ジェイクの牧場にはミーと名付けられた寝たきりの牛がいた。尿管結石を伴う病気らしく、お腹に穴を開けられ、垂れ流しの状態でアリーナ(馬を調教する厩舎)の片隅で時折「オォォ~」と苦しげな声を上げていた。その日、僕たちは夕方からロデオを観に行こうかと話していた。ところが、いざ出ようとしていたところ、そのミーが横倒しになり動かなくなっているのを発見した。

ジェイクが確認するとすでに絶命していた。

急遽ロデオ観戦は中止して、ミーの死骸処理をすることになった。解体して、肉は冷凍し犬の餌にするという。ジェイクは「もしも気分が悪くなったりしたら、向こうにいていいから」と言う。僕は血が苦手なので内心ビビったが、押しかけカウボーイをしている以上、できることはやらなくてはいけない。顔は青ざめていたかもしれないけど、なんとか平静を装って彼の指示を待った。

ジェイクはまず牛の首にナイフを入れて血抜きを行なった。それから、ミーの亡骸の両足に鎖を結び付けてトラクターのバケット(ショベル部)にくくる。トラクターを操作して体重五〇〇キロ以上はあろう牛の体を逆さ吊りに持ち上げる。ミーの鼻から血液と体液が流れ出てそこに血溜りをつくる。足首からグルリと皮を切って、脹脛から真っ直ぐ下す。そうやって、皮下脂肪と肉の間に刃を入れて毛皮を剥いでいく(以下、残酷描写のため省略……)。

とにかく僕はナイフ片手に、ジェイクの仕事をできる範囲で手伝った。訪れて四日目のことだ。

翌日、ジェイクとクワッドに乗って牛の見回りに行くと、一頭の仔牛がうずくまっていた。ジェイクが後ろに回り込むと、お尻のあたりから肉が赤く露出していた。

「コヨーテに噛まれたんだ。肛門のあたりの柔らかいところを狙うんだ」 と、ジェイクが教えてくれた。 「こいつは助からないから、殺るしかない……」

ヤレヤレという顔をして彼が言う。ところが、牧場にライフルと弾丸を取りに帰ると、二十二口径の弾だけが見つからない。

「他のもっと大きな弾ではダメなんですか?」 と、素人の僕が尋ねると、 「それでは頭ごとブッ飛んでしまう」

牧場主のステュに報告に行くと、「それならナイフでやれ」と言う。ジェイクはさすがに嫌そうな表情をしていたが、「ボスの言うことだからさ……」とそれに従う。

僕は「写真を撮るので、離れたところにいていいですか」と断って、カメラを構えた。それを言い訳にして直視したくなかったというのが正直なところだ。

ジェイクがロープを投げて仔牛を捕え、身動きを封じるために縛りつける。他の牛たちが、一様に不安げな眼差しをこちらに向けている。その視線に抗議めいたものを感じなくもない。

ジェイクはナイフを手に仔牛の胴体を跨いだ(以下、残酷描写のため再び省略)。

僕は、自然と対峙し、命あるものを扱う厳しさを目の当たりにした。仔牛の生命が完全に消失するのをうな垂れて待つジェイクの後ろ姿に、僕はなんだか感情の昂ぶりを覚えて涙をこらえた。

「二日で二頭失うとはね」と、手を血だらけにしたジェイクは諦めの混じった笑みを見せた。

これが五日目の出来事だ。

こういうことが毎日のように起きる、と言っては語弊があるが、起きてもおかしくない状況にあることは確かだ。しかし、これらは「どうでもよくないこと」で、緊急の判断と対応を求められる。死肉は腐る前に処理しなくてはならない。襲われた仔牛は苦しみを長引かせるよりも殺処分してしまうべきだし、銃弾がなければ刃物を用いて手を汚しながら仕事をやり遂げなくてはならない。ビジネスとしては、コヨーテ被害は保険申請の対象だから損害を写真に収め死骸を持ち帰り、証拠を残さなくてはいけない。

翻って、広告会社時代のオレよ。なんと「どーでもいい」ことに右往左往させられてきたことか。いや、今でも働く仲間たちには申し訳ないが。いやいや、みんなもうとっくに気付いているだろう。ほとんどのサラリーマンの仕事など、どーでもいいことの集積だ。

ちゃんと手続きを経て制作して掲出済みのポスターに対し広告主の上役が「なんだこれは!」とお怒りだという情報を誰かが持ち込んでくる。僕ら制作チームは、渋々会議室で頭をつき合わせて代案をヒネリだし、デザイナーたちは徹夜してそれを提案用に描き出す。

いざ上役を呼び立てて、「こちらが『元々の』ポスターです。こういう意味が込められています」とプレゼンテーションすると、 「あっはっは。おもしろいじゃないか」 と、彼は聞いていたのとは全く違う反応を見せる。そりゃそうでしょうよ。我々プロが本気で作ったのだ。プロのギタリストに「ギターうまいですね」と言うか?

うちの営業が「次のはもう見せんでいい」と目で合図を送ってくる。結局、オオゴトどころか何事もなく、元々のポスターで一件落着する。一体なんの騒ぎだったのだ。徒労感とデザイナーたちへの申し訳ない気持ちで恥じ入る。そのポスターはのちに、広告コピーの賞を受けた。

おそらく上役は悪気もなく、「アレさぁ、誰が作ったんだい? ワタシはちゃんと見ていないが?」とでも言ったのだろう。小指の先みたいな些細な一言を、さも天地がひっくり返ったようなオオゴトになるまで拡大して、若いデザイナーたちの週末は、彼らの労働時間は、彼らの家族は……。こんなことの繰り返しだ。

またちょっと涙出てきた。

とはいえ、大きな意味ではどんなことも、もしかしたら僕ごときの人間が死ぬことですらも、どうでもいいことなのかもしれない。カウボーイにとって牛というのは財産であり商品だから、敷地から逃げられたりするのはオオゴトだ。ジェイクの友人のカウボーイは、逃亡した牛がなかなか見つからなかった時でも「まぁ、同じ地球上のどこかにいるさ」と笑ったという。

僕は、僕にとってはどうでもよくないことをしようと思うんだ。少なくともこの夏は。