月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「広告業界という無法地帯へ」

電通の新入社員が自殺して、超過勤務による労災が認定されたという出来事が、メディアで連日取り上げられている。若くして人生を諦めてしまった女性社員の無念と、ご家族の心痛と、友人や同僚たちの動揺を思うと、僕の心も穏やかではいられない。

 僕は二〇〇一年に電通に入社し、十五年目で退職するまで関西支社に勤めていた。だから、去年の新入社員だった彼女とは勤務地も違えば、ほとんど入れ違いになっているため直接の知己ではない。だから、彼女の個人的なことに関しては何も知らないので、語るべきを持たない。

しかし、電通という会社、広告業界という特殊な世界については、少し知っていることがある。

この件に関して、加えてこの春に話題になっていた五輪招致にまつわる贈賄疑惑、続くインターネットの空広告の不祥事についても、電通を擁護する気はない。

但し、まず明確にしておきたいのは、電通はメディアの支配者でも、日本国の影の主権者でもないということだ。電通で働いたこともない人たち、電通の内部を知りもしない人たちが「電通というのは恐ろしい会社だ」、「日本を牛耳っている存在だ」、「悪の権化だ」と吹聴することに関して、社員たちがどのように思っているか。少なくとも、僕は「勝手に言っておけ。もっと言え」だ。

なぜなら、そのようにまことしやかに囁かれることは、業務上およそ不利には働かないからだ。「電通はなんか知らんが凄いらしい」、「電通ならやってくれる」という共同幻想が強化されるため、むしろ色んな仕事や相談事が舞い込んでくる。

旧ソ連KGBみたいなものだ。週刊誌ライターをしている知人から聞いた話だが、ロシアに取材に行く外国人記者は「各人の行動や通信は当局に完全に監視されているらしい。KGB出身のプーチンが統治するロシアにはそれくらいの力があるはずだ。だから気を付けなくてはいけない」と思い込むという。

実際はKGBだろうと、現在のSVRだろうと、そのような隠然たる力があるわけはない。物理的に難しいことなのだ。しかし、ロシア政府関係者はそれを否定はしない。勝手に陰謀論を信じ込んでもらうことで不利益はほとんどないからだ。

かくして、電通にも様々な仕事や相談事が舞い込む。「雨を降らせろ」みたいな荒唐無稽なことは無理だが、「我が社のこの巨大プロジェクトを着地させよ」とか「これをx日までに作り上げろ」といった仕事なら、電通は大抵のことはやり遂げてしまう。社員や関係会社のスタッフが血反吐を吐くような思いをしてだ。

 だから僕は「もっと言え」と思っていたのだが、「黙っとけ」と思うこともある。電通に長時間勤務の是正勧告が入ったことに対し、やれ「ブラック企業」だ「潰れてしまえ」だと、実情をなにひとつ知らずに全否定をして溜飲を下げる人たちだ。

 長時間勤務の問題は、電通上層部が何十年にも渡り頭を悩ませてきたことだ。

そこまで悩むならいい加減解決策を出せ、と言われるだろうが、そうはいかない。

理由のひとつは、「電通は自社でモノを作って売っている会社ではない」ということだ。自社の工場を動かす会社なら、製造量を制限して「はい、ここまで」と電気を消して、社員を帰らせれば済むかもしれない。しかし、広告業界というのはクライアント企業から仕事を請けて初めて仕事が発生する受注産業である。

僕がいた頃でも、「残業は月○○時間まで」、「夜十時以降の残業をする際は、上長の承認を事前に受けること」などといった非現実的な規則が導入されていった。夜九時に営業から電話があって、「あの件、変更になった! 明日までに代案を出せって!」と言われたりしたなら、「上長の許可が得られませんので対応できません」と答えろとでも言うのだろうか。それを営業はクライアントにどのように伝えるというのか。また、営業は、そう言うコピーライターに次に仕事を頼みたいだろうか。

 先人たちの努力により「大抵のことはやり遂げてくれる」との評価を築いた電通は、いつしか「どんな無理を言ってもいい存在」に成り下がってしまった。

日本企業の広告宣伝部、広報といった部署が重要視され肥大化する中で、広告主の発言権が際限なく大きくなってしまい、キーマンをあたかも神のように扱うのが広告業界の悪癖となってしまった。もちろん、靴を舐めるようにして増長を許してきた電通博報堂を始め、各広告会社の責任も免れないだろう。拝跪して言われたことを聞き、ノタ打ち回って仕事を完遂することが優れたサービスだとして競争してきた結果が、今日の姿だ。

 電通の社員に灰皿を投げつける人、ボケカス無能と大声で面罵する人、そうやって高給取りの電通社員を足蹴にして悦に入るような人間が、日本のあちこちの企業にいる。あちこちにいて、今回の騒ぎについて知らぬ顔を決め込んでいる。

 正月休みの前に課題を投げつけて、休み明けに提出させる。盆もそう、ゴールデンウィークもそう、週末もそう。

撮影済みで、編集も最終段階にかかろうかというテレビCMに対し、打合せにもいなかったエライさんが急に「気に喰わん。やり直せ」と言ってくる。エライさん本人が言ってくるなら、弁の立つ営業ないしクリエーティブ・ディレクターなら、論理的説明、泣き落とし、詭弁、逆ギレ、屁理屈などなどあらゆる手を使って説得するかもしれない。しかし、現れもせずに部下にそう命じる卑怯者に打つ手はないのだ。

映画の中でもそうだろう。誰が誰に会う、誰にまず通す、というのは武士でもヤクザでもサラリーマンでも一定のルールがあり、身近な誰かの面目を潰すことはできないのだ。

 いいですか、恐ろしいのは電通でもNHKでも安倍政権でもない。どこにでもいる普通の人たちだ。自分の存在意義を誇示するがために、他人の時間を奪うエライさんだ。自分の身がかわいくて、上司からの無理難題をそのまま下請けに押し付けるサラリーマンだ。それを唯唯諾々と飲み込んで徹夜してしまう労働者たちだ。

 無論、僕もそのひとりであり、何もできることなどなかった。できたのは、会社を辞めることくらいだ。

たまに命の危険を感じることがあった。

いつか頭の血管がプツッといって斃れるのではないかという予感。

これくらいが人間が働ける限界なのではないかという感触。

横になっても一睡もできずに朝を迎えることが週に二度起きた時には、医務室に行って薬をもらった。

なんでもストレスのせいにするのは好まないが、蕁麻疹、痔、下痢、顔面痙攣などなどはあった。

今だから言うが、アメフト出身で僕の体重三倍くらいある営業とケンカになり、翌日「今日は殴り合いをせざるを得ないかもしれん。掴まれたら絞め殺されるので、こっちは刺し殺すしかない」と心に決めて、ナイフを尻のポケットに忍ばせて会社に行ったこともある。サラリーマンがここまで思い詰めて働かなあかんのか!

 「夜十時以降の残業禁止」とか「電灯消すから帰れ」と、勝手に決めるのはカンタンだ。では、目の前の仕事と雑用をどうすればいいのか。出口ばかり塞がれても、入り口から流れ込んでくるものを制限しないと溢れ返るではないか。どの組織でもそうだろうが、仕事の大半は生み出す作業ではなく、捌くことだ。メールを、書類を、案件を。

クライアントは容赦なく「あれしろ」「これもしろ」「明日までに」「朝イチで」と申し付けてくる。営業は困っている。どうすればいいというのだ。

 

 断っておくが、広告業界は酷い人間ばかりではない。

広告が面白くなくなったのは、上記の広告宣伝部の肥大化と消費者からのインネンを極度に恐れる日本企業の風潮のせいだ。

僕は、僕が関わる広告に「※CM上の演出です」と意味不明なキャプションを入れなくてはいけなくなったら会社を辞めようと決めていた。幸いにもそういうことはなかったのだが、ある時こういうことがあった。

 詳細は伏せるが、「液体に映る模様が日本列島のようなかたちを描いている」グラフィックを制作した際に、僕は日本の大きな四島以外を割愛した。というか、それ以外を描いていないことに疑問を持たなかった。あくまでも模様だから、沖縄も佐渡島もその他離島も、もっと言えば半島も正確には反映していなかった。

その広告が出た後に、「あのー、『愛国的な』方からご指摘がありましてね」とクライアントに呼び出された。僕は内容を聞いて「ごもっともだ」と思った。沖縄は県であり、なにがしかの形で描いておくべきだった。戦争を巡る本土と沖縄の人たちの微妙な気持ちのすれ違いも理解している。僕も愛国的な人間として、そこは見据えておくべきだったと自分を恥じたものである。

 「で、その『日本の中に沖縄がないいうんはどういうことや? おたくの会社は、沖縄を日本の一部と認めてへんいうことかえ』とおっしゃるその方にはなんと答えたのですか?」

僕はクライアントに尋ねた。彼の答えはなかなかのものだった。

「いえ、そんなことはございません。弊社は○○年より沖縄で××というイベントを開催していまして、沖縄への貢献として××という活動も続けております。しかし、ご指摘は大変貴重なものとして受け止め、今後の広告活動に役立たせていただきます」

僕は自分たちの不注意を、このようにカヴァーしてくださった、この、いつもはヘタレで、考えろいうから提案した企画を副社長のところに持って行っては、毎度これとは別の件で叱られてその話題にも至らずにスゴスゴ帰ってくるおっさんを少し見直したのである。

その会社の製品を僕は今でもずーっと使っている。色々面白い経験をさせてもらったと感謝している。

 

 長時間残業が減らない理由をもうひとつ挙げるなら、アイデアという無形のものを扱っているため、企画においては「これで完成」ということがない。 コピーを考えるにしても、あと一時間考えたらもっといいモノが書けるのではないか、これでいいのだろうか? という疑念は常に脳裏を離れることがない。

電通と一口に言っても、部署ごとに業務内容も全く違えば、感じるプレッシャーも違う。僕が知る広告制作の現場で言えば、こういう側面もあるのだ。

 それを根性論と片付けることもできるし、確かに根性論で成果を上げている先輩もいたから、体育会系が大嫌いな僕のような軟弱な人間でも、一目は置かざるを得ないのだ。

もちろん勤務時間に含めることはしないが、夜中にベッドの中で何事かを思い付いて、起き上がってメモするような経験は、この仕事をしている者なら誰しもあったはずだ。

 電通の人間は基本的には仕事が好きで、楽しいことを実現したいと思っていて、やめろと言われても仕事をするような人たちだ。世間で思われているほど裕福ではなく、みな残業代が今月は多いの少ないのと言って、半ばそれに生活を依存しているのも事実だ。

 しかし、死ぬまで、もしくは人生を終わりにしたくなるほど、精神を病むほど、働くべき職業ではないだろう。芸術家が命を削って作品を残すのは意味がある。消防士が己の命を顧みずに火の中に突進するのは賞賛されてもいい。兵士が前線に志願して行くのも誰かがやらなくてはいけない仕事かもしれない。

電通はちがう。もっとくだらなくて、どうでもいい仕事じゃないか。それに命を懸けているフリをしないと仕事を獲得できないインチキな仕事なだけじゃないか。

 オレはゲームを降りた人間であり、箝口令とは関係ないところでホソボソと暮らす者だから言わせてもらう。

電通グローバル化を推進していて、外国の大きな会社を買収し、取締役に外国人を招き、会計年度まで海外に合わせて三月から十二月に移した。外ヅラだけグローバル企業を取り繕い、内実は昔ながらのドメスティックなやり方で、現代ならではの非人間的な組織運営を進め、どうするつもりなのか。

欧米の広告会社がどうしているのかは知らないが、グローバル気取りするなら、仕事の前に契約書でも取り交わして、することとしないことと、できることできないこと、その料金表を提示して、それを遵守したらどうなのか。「働くな。しかし任務は死んでも完遂せよ」と、社内の締め付けを強化して何かが解決するのか。

 広告界にもルールはあるはずだ。協会とかあるなら、広告主へのベンチャラ団体、内輪の親睦団体にしておかず、ルールを明文化することに寄与でもしたらどうなのか。四代社長、吉田秀雄が作ったメディアビジネスの枠組みで大儲けしてきたのだから、次は業界で働く人が命を落とさないための基本的なルールを広告に関わる全ての企業に説いたらどうなのだ。

それでも横車を押す企業があるなら、その時こそ電通が隠然たるパワーとやらを発揮するべきだ。それが何なのか僕にはわからんのだけど。

 僕がそもそも広告業界を選んだ理由は「何でもアリで楽しそうだった」からだ。しかし、もはや「何でもアリの無法地帯」ではないか。いつ何を言っても広告会社はなんとかするべきだという風潮が蔓延している。

ワイルド・ワイルド・ウェストの世界だ。以前はそれが社会から半分ハミ出したような荒くれ者を受け容れる度量として機能していた。僕も荒くれ者の端くれとして、そこでしばらく糊口させてもらった。しかし、社員を飼い馴らそうとするなら、せめてルールの整備はしてほしい。さもないと死者が出る。いや、出たのだ。しかもまたしても。

 

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新入社員が命を絶つということが如何に異様なことか、自分の新人時代を振り返るとわかる。大阪に来て間もない一年目、僕は花岡さん(仮名)という先輩の後ろをウロチョロついて回るくらいしかできることはなかった。残業なんてできるほど自分の仕事はなかった。

ある夕方、花岡さんが言った。

「これから七時に打合せがあるんやけど、お前入れるか?」

僕は東京生まれでアメリカ帰りの鼻持ちならない新人で、バカ正直に言った。

「実は……、これからデートの約束がありまして」

テレビドラマなら、「はい!」と答えて陰で女の子に「ごめーん」とケータイ(当時)でも入れるところだろう。

花岡さんは言った。

「そっか、ほなそっち行け。お前は仕事覚えるよりもまず、大阪を好きになれ」

 

自殺した彼女の不幸は、こういう先輩に恵まれなかったことではないだろうか。答えのない想像を巡らす。

何を言っても帰らぬ命だし、周囲は悔やんでも悔やみきれないだろう。大きな意味では同じ釜の飯を食ったひとりとして、僕は何事か思わざるを得ないのだ。

冥福を祈る。

合掌

 

補遺:このコラムは、『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?として、大幅加筆ののち毎日新聞出版より書籍化されました。