月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「一瞬たりとも油断すべからず to Bandung」

インドネシアジャカルタという街は、観光用にできているとは言い難い。あまり見るべきものはなく、街を歩けるような構造にもなっていない。巨大なショッピングモールばかりがあちこちに濫立していて、しかも中身は大体画一的。どこに行っても同じショップが同じ商品を同じ値段で売っている。

二ヶ月間、会社の入るビルとホテルを、例の「渡ってはいけない橋」(十二年十二月号ご参照)を渡って往復する生活を続けた。ここらでひとつ別の町を見てみたいと思っていたところ、職場でルミくんというモーターサイクル好きの友人に出会った。 ルミくんは三〇才だが、背が低く痩せているので少年のようにしか見えない。浅黒い肌にやや巻いた短髪、芯の強そうな性格を映した大きな目、こういう喩えは申し訳ないが「爆弾背負って自爆テロに駆けていくムスリム少年兵」のような風貌なのだ。

彼とはこんなことがあった。僕がルミくんとは別のメンバーと、ある生活用品の広告企画をしている際に、メイドを登場人物にする案が日本側から出てきた。すると、インドネシアのスタッフからこういう声が上がったのだ。

  • 「この国ではメイドを主人公にするような広告は主婦層に受け入れられない」

その場にいた誰に尋ねても大体その点には合意する。貧富の格差もさることながら、社会的階層もおぼろげに、しかし厳然と存在するようで、雇用者側が使用人の振る舞いを見てその商品を買う気持ちになるようなことは、インドネシアの主婦層にはありえないというのだ。この国では、富裕層でなくともメイドを雇うことは珍しいことではなく、そういったメイドさんたちはシンガポールを初めとする外国にも出稼ぎに出ていて、もしかしたら日本でのインドネシアなどからの外国人介護士を増やそうというような動きも一連の傾向を反映したものだ。

会議での議論はしばし続いた。

  • 「職を持つ母親層は、仕事も家事もこなすスーパーウーマン的な描かれ方はされても、メイドのおかげで助かってるというような見方はされたがらないだろう」
  • 「況してや、メイドに『こっちを買った方がいい』とか指示されることはありえない」

日本人駐在が「主婦とメイドがスーパーに行って、主婦がカートに入れた商品をメイドがこっそりより良い商品に換えるとかは?」と粘っても、反応は芳しくない。

僕は一連の会話を聞きながら胸がムカムカしてきた。 スーパーウーマン気取りで自己陶酔するのは勝手だが、少なくともメイドに感謝くらい示したらどうだ? そんなことがあった翌日、僕はルミくんにそのことを話した。するとルミくんは、憤然とした様子で僕に言った。

  • 「そんなことはない! 誰だそんなこと言ってるヤツらは! そんなわけないじゃないか。メイドだって広告に出して構わない」

その日のうちに彼は僕にメールを送ってきて、「メイドが出ているテレビCMをいくつか紹介する。主人公じゃないけど、どうだい?」と、Youtube映像のリンクを貼ってきた。 そのメールは「VIVA、メイド!」という、よくわからないテンションで締めくくられていた。 ちなみに、イスラム教徒の多いこの国では、犬も蔑まれていて広告には出せないらしい。犬のキャラクターとかロゴマークの海外ブランドはどうするんだろうね。

そんなルミくんと、ジャカルタから約二〇〇キロ離れたバンドゥンという街までツーリングすることになった。 お互いモーターサイクル乗りで意気投合した際に、僕が「バンドゥンまで行ってみたい」と言うと、即座に「行こうよ。連れて行ってあげるよ」と誘われた。僕は人見知りなもので、いきなり誘われると即答できない。「お、おぅ、考えとくわ……」とその場はお茶を濁したのだが、一晩考えてみるとこんなチャンスは二度とない。行くことに決めた。 彼には何から何まで世話になった。レンタルバイクの手配、出発前日の金曜日の自宅への宿泊、コース取り、バンドゥンでの彼の奥さんの実家への宿泊など。

他人の自宅に泊まるのは抵抗があったが、インドネシアの庶民の生活も見てみたかったので、「もし構わなければ泊まれよ」と言う彼に対して、顔色ひとつ変えないように注意しつつ即座に「ありがとう。泊まるわ」と答えた。 僕が乗ることになったモーターサイクルは、カワサキニンジャ二五〇。古いが、名機と呼ばれるに相応しいマシンだ。 金曜の晩にまずは僕のホテルから彼の自宅に向けて出発。ルミくんの毎日のバイク通勤コースを辿る。 「ゆっくり行くから」とは言ってくれていたものの、走り出すと彼は狭い車列の隙間もグイグイ入っていった。乗り慣れない機種、走り慣れない国、着込み過ぎた暑さのため、僕はヘルメットの中で滝のように汗を流しながら必死でついて行った。ちょうど帰宅ラッシュの渋滞の時間にあたり、エンジンの騒音、排ガス、クラクション、隙間があればドンドン前に詰める習慣など、それは日本人には実際に体験しないとわからないであろう凄まじさなのだ。また、自動車の後部座席から見る渋滞の有様と、生身のバイクでその真っ只中にいるのとでは全く経験が違うことも言い添えておきたい。痛烈な洗礼を受けた感じだ。

小一時間で彼の自宅に着くと、僕はまず言った。

  • 「君は毎日こうやって通勤してるのか!」
  • 「そうだよ」
  • 「信じられないよ(命がいくつあって足りないよ)」

最後の言葉は飲み込んだ。なにか不吉な感じがして憚られたのだ。

翌朝六時に出発。陽が昇る頃だ。片道二〇〇キロ弱なら大したことないと高を括っていた。この国ではモーターサイクルは高速道路走行が許されていないが、街さえ出てしまえば、田園地帯をのんびりと、遠くの山でも眺めながら並走できると目論んでいたのだ。 完全に甘かった。 渋滞はほとんど絶え間なく続いたのだった。大通りから片側二車線の郊外の町に出ると、朝市があってすでにバイクや車がひしめき合っている。片側二車線のはずなのに、もう何列なのかもわからない混沌だ。ルミくんが赤いヘルメットを被っていて助かった。それだけを追い駆けてギアチェンジを繰り返す。 そこを抜けると舗装路もないぬかるんだ凸凹道を往く。道端にはタバコや飲み物を売るトタン小屋の商店が並ぶ。裸足の子供が鶏と遊んでいる。やたらゴミが落ちている。ローカルバスである青いヴァンが人を何人も乗せて道の端を走行している。それを巧みにかわしながら、道路の水たまりや穴を避けてコースを判断する。 どう見ても小学五年生くらいのガキがヘルメットも被らずに、スクーターを二人乗りしているかと思えば、家族四人全部乗せのスクーターも平然と走っている。法規なんて無いも同然なのだ。 ゴルフのカントリークラブの敷地内を通ってショートカットし、丘を越えるとプンチャックというちょっとした観光地だ。サファリパークがあるので、ここも大渋滞。日本でなら通常バイクは左車線の左側を抜けて自動車を追い越す。しかし、ルミくんも他のバイクも右側を対向車線にはみ出して追い越していく。当然、対向車線のバイクもそうしてくるから、正面衝突しないように絶妙のタイミングを見計らって遂行しなくてはならない。そして、とにかく周りのスクーターたちの距離が近い。真横、真後ろにビッチリくっついてきて、僕が少しでも車間距離を空けると割り込んでくる。

プンチャックのあとは山道。黒煙を吐くデッカいトラックをこれまた右側からかわしつつ斜面を登る。カワサキニンジャは加速、コーナリングともに意思のまま動いてくれることがまだ救いだ。 山の途中の休憩小屋でコーヒーを飲み休憩。ここでだったか、前の休憩でだったか、僕は言った。

  • 「おい、この九〇パーセントを僕は『ツーリング』とは呼ばないぞ。これは『サヴァイヴィング』だ」

山越えの次のシパナスという街も当然渋滞。道路を横断する人も多いが、車両は一切待ってあげたりしない。本当は僕は止まってあげたいところだったが、ルミくんについて行くのに手一杯で申し訳ないがそれどころではない。少し景色のいい、緑に囲まれた地域も走ったが、周りの車やバイクは相変わらずなので、それを楽しむ余裕もなくエンジンを回す。 もうひとつ山越え。トラックが、重さの単位はトンであろういくつもの岩をワイヤーで固定することもなく柵もない荷台に載せている。また、岩石を荷台に摺り切りまで積んでいるが、後部の蓋はないトラックなんかもいる。そういうトラックの後ろを走るのは冷や冷やする。

僕は日本ではクルーザータイプのモーターサイクルに乗っている。スピードは出ない分、運転姿勢はどっしりと楽チンだ。シーソーペダルという、ギヤを上げるのも下げるのもブーツの底でペダルを踏めばいい仕組みなので、通常のバイクのように爪先は使わない。しかし、ニンジャは脚を折りたたんだ前傾姿勢で、腕にも体重が乗ってくるため、腕、肩、背中、首、爪先、クラッチを握る左手、そしてお尻が痛み出している。ほぼ全身だ。

ニンジャ自身にも、ガタはきていた。 実は前日の時点で、すでに電気系統が故障してウィンカーが点かなくなっていた。さらに、インドマートというコンビニで休憩してから出発しようとすると、今度はイグニッションが働かず、エンジンが始動しない。肝を冷やした瞬間だった。道程の半分以上は過ぎたと思うが、こんなところでリタイヤしてもここからどうすればいいのだ。 何度も試したあとにやっと機嫌を直した八十二年製のニンジャと、自分自身に再びムチを打って先へと往く。 バンドゥン市街に入っても、というか入ったらさらに渋滞は酷くなり、もうなにがなんだかわからない。地獄だ。自動車とバイクと横断する歩行者で隙間なく埋められた空間で、排ガスと土埃に塗れて、半分朦朧とする意識の中でルミくんだけを追う。 結局、目的地到着まで七時間かかった。

ルミくんの奥さんとその両親は、温かく迎えてくれた。父上は、日産、マツダ、そして引退までは日野自動車と、日本企業に勤めてきた方で、日本のこともビジネス界のこともよく知っていらっしゃる。その頃の思い出話などを、懐かしそうに話してくださった。 母上は、これからルミ夫妻と僕と三人で夕食に出かけようというのに、「ラーメン作ったから食べなさい」だなんて、おかんは万国共通だなぁと、微笑ましい。

翌朝は三時半起床、五時出発でジャカルタへの復路だ。 日曜日だったので道路事情はまだマシ。途中でルミくんの叔父さんの家に立ち寄った。前夜の都会の一軒家とは打って変わって、田舎の素朴な家屋だ。朝六時半の突然の訪問だったにもかかわらず、画家だったという老人は歓待してくださった。白髪の長い巻き毛に、画家然としたキモノ風のいでたち。夫人も加わり、英語でカタコトの会話をする。

「そうか、日本人か。君はサムライのような顔をしておるな」

家の壁には彼が描いた日本美人のペイントがある。

「ワシは、日本女性を描くのが好きなんじゃ。今度、君の奥さんの写真を送ってくれ」

ルミくんによると、彼は頑固な画家でなかなか絵を売ることができず、苦しい生活を続けてきたという。途中で、片足の悪い中年の次男が足を引き摺って起きてきた。長男は数年前に亡くなったそうだ。親戚には病気だと言ったが、詳しいことは話さず、おそらくケンカで殺されたのではないかと、ルミくんはあとで打ち明けた。

  • 「うちの夫婦はな、あと三年で金婚式じゃ。こいつは美しくないし、かわいくもないが、わしゃ好きなんじゃ」

この貧しく、悲しみを背負った画家の老人と家族は、僕が日本人だというだけで「お茶飲め」「菓子食ってけ」「タバコ吸ってけ」とそれはそれは良くしてくれて、一時間近くもお邪魔してしまった。

わかりますか。日本企業を勤め上げたルミ夫人の父上。日本人だというだけで僕のヒザを叩いて、「お前のこと好きじゃぞ」とニコニコしている老画家。僕も知らないような日本映画や漫画で育ってきたルミ。ジブリ大好きな奥さん。町には日本語が散見され、おそらく日本食レストランではない店に日本語の店名が書かれている。様々な商品も日本企業のものだったり、日本語の名前が付いている。この国は、こんなにも日本への愛で溢れているのだ。

これまで、インドネシアなんて、南の島のジャングルだと思っていた。なにも知らなかったし、考えもしなかった自分が申し訳ないし、恥ずかしいとすら思える。

そういえば、叔父さんの家には犬が飼われていた。犬は忌み嫌われているのではなかったっけ。 ルミに訊いてみた。 「ああ、そうなんだけど、うちはイスラム教の教えには従っても、文化は取り入れないことにしたんだ」 だから、彼は時折豚肉も食べる。酒も飲む。

インドネシア島嶼によって切れ切れになった国土と、複雑な民族と、窮屈な宗教に囚われた、奥深い国だ。僕のような短期滞在者には到底理解しえないものがある。地獄のような渋滞や、路上に山積され腐ったゴミや、汚職が物語る通り、公共意識の崩壊した国でもある。そして、それらすべてを超えて、愛すべき国だ。

行きも帰りも、道に穴があれば後方の僕に脚で指し示し、道路に出てくる車があれば左手のサインで制し、対向車がこちらへ飛び出して来れば右手で注意を促しながら走ってくれたルミ。彼のヘルメットを見つめながら僕は、これまでで最もしんどいツーリングだったにもかかわらず、後悔は一片も混じらない清々しさを感じていた。