月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「(4+9)×2の旅 後篇」

九州自動車道という高速道路に入り、鹿児島に向かってぶっ飛ばす。山道と格闘した後は高速道路のありがたみが身に沁みてわかる。周りには車も少なく、日差しに南国の峻烈さが窺えるようになってきた。
サービスエリアで話しかけられたトラックの運転手さんが「鹿児島市内は桜島の火山灰が降って大変だよ。道路の端に溜まるから、滑って転ばないようにね。それと、大型車がそれを撒き上げるから注意してね」と教えてくれた。昨日阿蘇駅で会話したおっちゃんも火山灰のことを言っていた。正直、経験したことのない僕には想像ができない。
しかも、鹿児島市の手前で高速を一旦下りて給油した際に、ガソリンスタンドのおにいちゃんがまたも火山灰について注意してくれた。よほどこの地方では話題なのだろう。
いよいよ鹿児島市に入ると、確かに視界一面朦々と煙ったようになっていて異常な雰囲気だ。黄土色の砂埃のような、近くで山火事でもあったような視界の悪さで、ヘルメットの中で顔をしかめる。火山灰はガラス質で粒子が尖っているから、吸い込むと肺や気管を傷付けると聞いたことがある。しかし、呼吸しないわけにもいかないので、気休め程度に鼻で浅く呼吸しながら、早くここを通り抜けたいと祈る。
九州自動車道が終わり、指宿スカイラインに入ると知覧まではすぐだ。その頃には火山灰も見えなくなり、道が丘に上ると遥か遠くに自らの噴いた灰で半ば姿を隠した桜島を目にすることができた。それにしても車が少ない。結局このスカイラインでは一台の車を見ただけで、あとはひたすら独りで走りやすい緩やかなアップダウンやカーブを楽しんだ。
知覧の町の入口には武家屋敷跡の観光地があり、きれいに整備された道に大型バスや観光客が往来していた。着いた。午後二時。間に合った。
やっと一安心して空腹も感じるようになりそば屋で昼食にありつく。知覧は完全に夏ではないか。革ジャン姿が少し恥ずかしいが、遠くからやって来たのだから仕方ない。昨晩は気温十度くらいの高原でテントで寝ていたのに、この落差はなんなのだ。
「世界と戦った偉大な日本人に敬意を示しに行く」という巡礼の目的地である知覧特攻平和会館は、知覧の町の南はずれにあった。少し道に迷って、ランニング中の高校生に声をかけ道を教えてもらった。日焼けした肌の精悍な顔に、「これくらいの年齢の若者が神風特別攻撃隊として沖縄の海に命を散らしたのだなぁ」と特攻隊員の面影を勝手に見てしまう。
会館は、石塔の並んだ小道の奥の敷地に、厳かな霊気を発しながら佇んでいる。敷地内には、戦闘機の展示や隊員の銅像やお堂がある。その先に真っ直ぐに伸びる道を歩くと会館がある。展示室には、散華した一〇三六名の遺影が壁面に貼られていて、その下には家族や恋人に宛てた遺書、手紙、辞世の句などが展示ケースに収められている。遺品や基地で撮られた写真、模型、映像など、豊富な展示物が陳列されている。
想像していたよりも多くの中高年の来館客がいた。若い女性や、修学旅行の学生たちや引率の教師たちもいる。だから、「泣かないように気を付けよう」と心して、僕は歩を進めた。しかし……、三つ目の展示ケースであえなく落涙。遺書を途中まで読んでいる時だった。この方の文はなんとか最後まで読もうと思って、涙を拭き拭き読み進むと最後で気が付いた。この文章は、僕が靖国神社内の遊就館で泣かされたのと同じ手紙だった。
英霊の名は、穴澤利夫大尉という。端正な、いかにも理知的な顔つきの若者である。許嫁に向けて「二人でなんとかやってきたけど、終わりが来た。私との過去に囚われることなく、現在を生きろ」と諭している。それでも、最後には彼女への愛情と名残惜しさが溢れ出しているのだ(二〇一〇年一月号参照)。何度読んでも、思い出すだけでも、涙を禁じ得ない。
その手紙を宛てられた智恵子さんがどういう気持ちでそれを受け止めたのかは、想像を絶する。
多くの隊員が勇ましい言葉を遺しているが、中には当時の国の有様に苦言を書き残して「明日、自由主義者が死にます」と、理不尽を飲み下して死んでいった方もいて、実に様々な人間がいたことがわかる。「轟沈」「必沈」「必勝」などと布に大書きされた数々の遺品を見ながら、僕は自身も青春を通過してきた男として、当時の若者の精神状態がわからないでもない。 いや、もちろん航空機に乗って敵艦に突撃する瞬間や、それすら叶わず大海原に撃ち落とされる無念や、死地に赴く前夜の気持ちはわかるはずもない。 しかし、若者が団体で寝食を共にしている中で、「絶対に敵と刺し違えてやるんだ!」、「一丁、敵を屠ろうぜ!」というヒロイックな昂りが基地内を宿舎内を、そして脳内を支配する心理は想像の範疇に置くことができるのだ。厳しい部活動をやっていた人ならなおさら理解できるであろう。
そういった若者特有の自己犠牲や、一種の陶酔によって成立しえた作戦であったと思う。もっと言えば、軍部が計らずもそれを利用することによって遂行させたのであるし、隊員たちにはそうでもしなければやり切れない決死の覚悟を強いた。 特攻の生みの親と言われる大西瀧次郎第一航空艦隊司令長官自身が「統率の外道」、「邪道」と認める非道な作戦であった。 それでも、会館の展示は僕が感じた限りにおいては右にも左にも偏ることなく「敵機の迎撃や砲撃を操縦によって避けられる利点」の一方「隊員が必ず死ぬという欠点」があった事実を冷静に提示している。本当は、歴史を現在の人間が裁くことなどできるはずもない。
メシを頬張る若者や、仔犬を抱いて無邪気な笑顔を見せる彼らの写真を見ていると、僕には彼らのことを知って、思って、供養する気持ちを持つ以外に今更なにもできないことを痛感して、ただただ涙ばかりがこぼれるのである。 「人の命は地球より重い」なんていうのは全くのキレイゴトで、誤解を恐れずに言うと、このように爽やかに軽やかに鮮やかに散っていった命がある。しかし、それらが積み重なったこの国の歴史の重さや悲しさには、心を抉るような痛みさえ伴う痛切さがある。
修学旅行で来ていた学生の団体くんたちよ、君らがガヤガヤしだしたから僕は出たけど、わかってくれたのか? 大人になってから、また来いよ。
英霊たちの思いに圧倒されて、会館を後にした僕はグッタリしていた。 朝から山道を走ってきた疲労もあったし、涙で水分が失われてしまったこともあったろう。ノドが乾いていたのでコカコーラを飲もうとして、思わず自分を「そりゃないだろ」と戒め、売店で冷たい知覧茶を飲んだ。まろやかな甘みがあっておいしかった。
宿は十数キロ西へ行った加世田という町に予約してあった。そこへの途中、夕陽に染められた知覧茶の茶畑を通り、茶葉の販売店を目にした僕は「そうだ。土産に買っていこう」と思い立ち、モーターサイクルをUターンさせた。 すると、道幅も充分あったし、なんでもないターンだったのに、ゴロンと車体をコケさせてしまった。 前述の通り、山道で何度かコケそうになっていたが、ついにやってしまったのである。腕もブルブルきてたから相当消耗していたのだろう。 なんでオレはこの日だけスキンズを装着していなかったのだ。焦って重量二五〇キロの車体を起こす僕の脇をスクーターが一台だけ通り過ぎていった。恥ずかしい……。
この日の走行距離は三一二キロ。家族経営の小さなホテルで体を休めた。
鹿児島県の知覧から福岡県博多へ一気に北上する四日目。 少しゆっくり目の八時半過ぎに出発した。 吹上浜海浜公園という、ここにも特攻隊が出撃した飛行場の跡地があるので、そこに寄り道してから北上を開始した。草木の青さも、太陽の勢いも、ほのかな海の香りもすでに夏のそれである。夏休みのような緩慢な、そして、なぜか昭和のような柔らかい朝の空気である。
九州の西端の海岸沿いなど、本州に住む僕からしたらかなり果てまで来た感慨がある。 そんな寂寥感や隔絶された断崖を期待していたのだが、意外にも大型の貨物トラックばかりが目立つ市街地が多く、期待はずれだった。モーターサイクルとトラックは走るペースがこれほど合わないものはなく、イライラしてしまう。時間ばかりかかり、この日の予定を消化できるのかまたもや不安になってきた。
この日は博多で、ある年上の友人と飲む約束をしているのだ。しかし、その前に寄りたい場所が熊本にあった。
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也著 新潮社)という超絶的な名著があり、僕はこれを読んでいたく感動し、またそれまで木村政彦という世界最強の柔道家、格闘家を存じ上げなかった不明を深く恥じていたのである。
「鬼の柔道」「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と謳われた世界最強の柔道家の生い立ちから、ほとんど劇画のような鬼気迫る練習法から、牛島辰熊木村政彦岩釣兼生と三代に渡る師弟の絆から、ブラジルでエリオ・グレイシーに圧勝した栄光や力道山にプロレスで敗退したのちの不遇の人生まで、著者の増田氏が十八年の歳月をかけて取材した執念の力作である。この辞書よりも分厚い書籍が今年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した時は、会ったこともない増田さんのためにとてもうれしかった。
木村政彦氏は熊本生まれだ。お墓が熊本市野田の大慈禅寺というお寺にあるという。そこにこの日もまた「世界と戦った偉大な日本人に敬意を示しに行く」のである。
国道二七〇号から三号に入りとにかく北上していく。阿久根市とか水俣市といった聞いたことのある地名の小さな町を通り過ぎつつ、進み具合の遅さにジリジリとする。「まずいなぁ」と思っていた頃、芦北という場所でトラックたちがゾロゾロを右折していく。なにか勘のようなものが働いた僕は、モーターサイクルを止めて地図を見た。すると、近くから気付きもしなかった高速道路の乗り口があるではないか。
これは天の助けだと引き返し、それに乗るとあっという間に野田に着いた。
大慈禅寺の門をくぐると石像が整然と居並ぶ先に本堂がある。右手に墓地があったのでそちらへ見当をつけて歩いても、誰もいないし奥行きがあり、それ以上ズカズカと入り込むのを躊躇した。寺務所の建物の中に声をかけて尋ねると女性が出てきて案内してくださった。歩きながら話すと、女性も正確な位置は把握していない様子で、途中の生け垣を手入れしていた父親らしき男性(住職?)に訊いている。
  • 「大勢の人がお参りに来ませんか?」
  • と問うてみると、
  • 「月に何人かくらいかなぁ。割と東京だとか、遠方の方が来られますね」
  • とおっしゃる。
一際大きな平たい墓石が木村氏のものであった。「鬼の柔道 木村政彦之墓」と堂々たる筆致で彫ってある。 f:id:ShotaMaeda:20210815185025j:plain 手を合わせてご挨拶させてもらい、ここではたと気付いた。 何もお供えするものを持ってきていないではないか。 足元にはいつ置かれたのかわからない古いワンカップ酒が二つほど供えられているが、蜘蛛の巣が張り、墓石の周りには枯葉が落ちている。 そこで僕は、せめて掃除していこうと思い、箒を使ってひと通り掃かせてもらった。
そして、木村氏に実際にお目にかかったらデカくておっかないだろうなと想像し、そそくさとその場を辞したのであった。
高速に戻って博多へ。約束の時間にちょうど間に合って、ホテルに荷物を置いて、すぐに待ち合わせ場所まで天神の街を急いだ。
約束のお相手は川島透さん。『竜二』『チ・ン・ピ・ラ』などの名作を撮った映画監督である。 八〇年代の作品ですが、まだ観ていない方がいたら是非観て下さい。監督とは数年前に仕事で知り合ったのだが、とても楽しい方なのでいつか一緒に飲みたいと思い、今回福岡に移り住んでいる川島監督にお願いしてお時間をいただいたのだ。 御年六〇余年になる川島監督は白フチのサングラスに、デニムジャケットの襟を立てて、そこにいらっしゃった。楽しいだけでなく、カッコいいのだ。昔はきっと後者の比重がもっと高かったのだろうと想像する。今はかなり「楽しいおっちゃん」の割合が大きくなっているかもしれないが……。
ゴハンを食べてから、バーへ。作品や若い頃の秘話や、いろいろ勇気の出るお話をお聞かせいただいたり、人間いくつになっても目標を持っているとエナジーに溢れているということを学ばせてもらったりした。男同士の会話は尽きることなく、夜は更けていく。
陸上における旅の最後の晩に相応しい、気持ちの良い酩酊であった。明日の晩は大阪港へ向かうフェリーの上だ。
この日の走行距離は三四四キロ。
最終日は夜に新門司港から出るフェリーに乗るしか用事はない。 博多で遊んで、新門司港に行く前に、日暮れ前の門司港まで足を伸ばしてみた。門司港駅の古い駅舎は一九一四年建造で、全国初の重要文化財に指定された駅舎だという。それを写真に収めた後、ノーフォーク広場という湾岸公園で海を見ながら旅の終焉を惜しんだ。

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白黒模様の猫がいたので、逃げるとわかっていながら呼んでみると、なんと近寄ってきて僕の膝まで上がってきた。 そういえば、以前に室戸岬でも同じように猫が擦り寄ってきたなぁ。モーターサイクル乗りは、おっさんと猫にだけはなぜかモテるのだ。

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門司港を二五日に発ったフェリーは、翌日の二六日に大阪港に着いた。
(四+九)×二の旅は、その解と同じく二六日で無事終了。最終的な走行距離の合計は、一三六四キロであった。
「世界と戦った偉大な日本人に敬意を示しに行く」旅の目的は、完遂した。さぁ、次は僕の番かもしれない。
僕は、世界と戦えるのだろうか。
(了)