月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「(4+9)×2の旅 中篇」

愛媛県八幡浜港を出たフェリーは、約二時間をかけて大分県臼杵港に着く。乗客は潮風を避けて客室内で思い思いに時間を過ごしている。車庫を地下とすると、船は三階建てで、僕は二階の甲板のベンチで本を読んでいた。しかし、寒くなってきたので後半は室内に引っ込んだ。 f:id:ShotaMaeda:20210815185539j:plain 船は左右にゆっくりゆっくりと揺れるため、階段を降りるときは急に勢いがついて危ない。気を付けなくては老人なんか転げ落ちてしまいそうだ。

海上にいる間だけ空には晴れ間がのぞいたが、正午に臼杵港に到着すると霧雨が降ってきた。それでも、レインウェアを出すほどではないと判断して、そのままモーターサイクルで下船。西へ西へと、熊本県阿蘇を目指す。

市街地をいくつか通り過ぎながら、道は自然の中に入っていく。それでも道が広く滑らかなので、走りやすい。農村地帯や川に沿った大きなカーブを気持ちよく走る。途中の原尻の滝という道の駅で昼食を摂り、すぐ裏手の滝を見に行った。幅一二〇メートルに渡って弧を描いた崖から滝が幾筋も落ちていて、滝壺から正面の川に注いでいる。川には吊り橋が架けられていて、その壮観を正面から捉えることができるのだ。空は白く曇っているが、それがなおさら農村地帯の中にポッカリ現れたこの滝を幻想的なものに見せている。滝の中から仙人でも浮かび上がってきそうだ。

阿蘇に近づくと、日本の田園風景が突如アメリカのように変化した。アメリカといっても漠然としているが、大きな樹木や山肌が遠くに去り、鶸色(ひわいろ=黄緑+茶色)の高原にやって来たのだ。そこにログハウスが建っていて、傍らにトラクターが鎮座している。オーバーオール着て赤いメッシュの野球帽を被ったヒゲモジャのおっさんが、マグカップ持って出てきそうな雰囲気、といえば想像していただけるだろうか。

阿蘇がバイカーの聖地と言われる意味が即座にわかった。アメリカを疑似体験できるのだ。

細かい雨がサワサワ降ってきて、気温が十二度足らず。休憩所でついにレインウェアを着用して、阿蘇に向かう。国道五七号を右折して「ミルクロード」という広域農道に入る。

ビックリした! 名前から想像はしていたが、いきなり道の脇の斜面に茶色い牛が数頭いるのだ。小型自動車くらいの大きさがあるし、なにせ近い。その距離、四メートルくらいか。怖い。

いくつかカーブを曲がると、全くの非日常の世界に踏み入れたことが認識できた。モコモコと褶曲した草原が視界の限り続いていて、写真を撮るためにエンジンを切ると虫やカエルの声以外は静寂に支配されている。野を覆った雨雲の空が、「ここは人間のものではない」ことを語りかけている。そうなのだ、非日常感は、ここは人間に属さない一帯であるというメッセージから醸されているのだろう。同じことをアメリカのイエローストーン国立公園で感じたことを思い出す(二〇〇九年9月号その一参照)。

厳密に言えば、近くには牧場があるし、道路は通っているし、人間の手が加えられていることは疑いようもない。しかし、この原野や丘を切り拓いて町を造るとか、ビルを建てるとかは絶対に許されないという静寂のメッセージが、空から、大地から発せられているのである。僕はオカルトは信じないが、自然への畏怖というものは持ち合わせている。パワースポットというのはこういうことなのか……。

エンジンを回して、左へ、右へ、上へ、下へと鶸色の丘に挟まれた道路に導かれるまま進んで行く。いつの間にか高度が上がっていて、大観峰という阿蘇の山々を見渡せる展望台にやって来た。ここは売店やトイレなどがある休憩所になっていて、山だけでなく遥か谷の下にある人々の営みを望めるビューポイントとなっている。

が、雨だし、寒いし、この日はあまり展望が望めなかったので、一休みして早々に立ち去った。

ここからは山肌に刻まれた急なカーブを繰り返して、ぐんぐん下りていく。阿蘇駅まで下りてもう一度休憩。地図を開いて、この日テント泊をするつもりのキャンプ場を探さなくてはいけない。鹿児島から来たというおっちゃんと会話する。鹿児島は桜島が噴火を繰り返していて、灰が大量に降っているという。

うーむ、今夜は冷たい雨の中、テントで寝なくてはいけないのに、明日の鹿児島は灰か、と暗澹たる気分になる。気合いを入れ直して、キャンプ場に向かうが、これがなかなか見つからない。旅の計画をした段階で、数多ある阿蘇山麓のキャンプ場の中で、なるべく静かで広々したところを選ぼうとした。家族連れや、バイク乗りのおっさんらがワイワイ宴会をしているようなところは避けたかったのだ。そこで、夢高原キャンプ場という場所に勘で白羽の矢を立てたわけだが、予約の電話をしても「この電話はお客様の都合によりつながりません」とテープの案内が伝えてくる。すでに営業をしていないのか?

そこで僕はすぐにペンを執り、テント泊したい日と人数と到着時間とこちらの連絡先を手紙に書いて送った。すると、数日後に携帯電話に留守電が残されているのに気付いた。おじさんが聞き取りにくい小さな声で「お手紙ちょうだいしました。お泊まりいただけますので、お待ちしております」と言っている。よし!

ここまでしてやって来るのは僕だけだろう。きっと静かで平和なテントの一夜を、星でも眺めながら過ごせるはずだ、とほくそ笑んでいたのである。

まさか、雨で気温十度くらいなどとは想定していない。しかも、キャンプ場があるはずの道を行けども行けども表示が現れない。道は片側一車線ずつの国道だが、町から離れていったと思ったら、徐々に高度を上げ始め、ついにまた丘が迫った山道を上っていくではないか。斜面には牛の群れが見える。あたり一面山に囲まれ、雨だか霧だかで視界も悪く、かなり不安になってきた。ケータイの電波がないので問い合わせることもできない。どこかで見落として通り過ぎたのかと疑いながら、半ばヤケクソになって山を上っていった。すると、手作りの「夢高原キャンプ場」という木製の看板を見つけた。うっかり通り過ごしてUターンしたくらいだ。そこから細い脇道に入り、さらに森の奥へ奥へと入って、ついに舗装路でもなくなって砂利道をジャリジャリと進んだところにやっと今日の寝場所を見つけた。

わりと立派な一軒家に管理者(オーナー)のおじさんが住んでいて、家の前には木材を扱う作業場のような小屋がある。そこに足を一本失ったビーグル犬が繋がれていて、モーターサイクルのエンジン音に反応してワンワンと吠えてくる。わかった、わかった、静寂を乱してごめんよ。

小屋の裏手に、広葉樹が散在した草原が広がっていて、「どこにテントを張っても構わない」という。案の定、客は僕だけ。使用料の千円を払って、僕は適当な場所を選んだ。なるべく雨が当たらないよう、樹が枝を広げたその下にテントを張った。今夜はおそらく雷の心配はないからいいだろう。日が暮れる前にバーナーでチキンラーメンを作って夕食を終えた。今夜は風呂には入れない。

陽が落ちると完全な闇になる。することもなく、テントの中でライトを点けて本でも読む。今日は『坂の上の雲』ではなく、持ってきたもう一冊の方の『太平洋戦争最後の証言 第一部 零戦・特攻編』(門田隆将著 小学館)を読んで明日向かう鹿児島の予習である。鹿児島の知覧という場所にある「知覧特攻平和会館」を訪れるのだ。この旅のテーマは、「世界と戦った偉大な日本人に敬意を示しに行く旅」であるから。

時折風が吹く。風が遠くの草木を揺らして、闇の中こちらに向かってくるのが感知できる。遮蔽物と雑音がないから、遠くの方からザワワワーとやって来るのが聞こえるのだ。それが予想通り、数秒後に僕が下にいる樹の枝葉を揺らし、葉から雨滴が落とされてバラララッとテントの布地を打つ。パツパツパツパツという雨音と、ザワワーという風と、その後のバラララッ。この繰り返しだけを聴きながら、読書に集中できたため、予習は完了。読み終えた本を閉じて、寝袋に潜って眠る。

試練の二日目、終了。走行距離は一九九キロ。

翌朝は一転して快晴。濡れたテントを拭いて片付ける。オートバックスで買った、吸水クロスが力を発揮する。僕のテント泊の必需品だ。

七時前に出発。この日はかなりの距離を走った上で、五時には閉館してしまう知覧特攻平和会館に行かなくてはいけないので、もっと早く出るつもりだったが、ゴミ屋敷のように散らかったテント内で荷造りして、昨日の雨で裾を濡らしてしまったジーパンを履いて、テントを袋詰めしたりするのに、手間取ってしまった。

昨日不安に駆られて走った国道二六五号に戻り、その道を先へ先へと南下する。天気が良いと、やはりこの辺りは高原リゾートなのだとわかる。阿蘇雄大な景色が広がっている。大きな空の向こうに堂々たる山々が朝陽を躯いっぱいに受けてとめて、緑の大地を越えてこちらを睥睨している。阿蘇山というのは、中岳、高岳根子岳杵島岳烏帽子岳の総称なのだという。写真に撮りたかったが、カメラをバッグの奥に入れてしまっていたことを悔やみつつ素通り。申し訳ないが、しかし、写真に撮れなかった景色の方が後々まで記憶に長く留まったりするものだ。

朝の清々しい空気の中、森の中や農村を抜けて、高森峠を越える。蘇陽峡という場所の先で「九州のヘソ」であるという地点を通った。まさに九州の真ん中をぶっちぎって南下していくのである。川に架かった橋の上で地図を確認していると、中学生の男女が橋にいて、挨拶してくる。「朝からデートか?」と思って、少々怪訝な僕も会釈を返す。すると、軽トラに送られて来た他の生徒も現れ、やって来た迎えのバスに乗っていく。そうやって登校する姿だったのだ。

見上げるような急峻な山に囲まれた椎葉村を通り、道が狭く、険しくなってくる。上椎葉ダムダム湖沿いにカーブを縫っていき、地図によると近道であるらしい抜け道に左折してみる。辛うじて舗装はされているが、濡れた落ち葉だらけの山道。ここからがキツかった!

狭く、急坂で、鋭角なカーブの連続。図体のでかい僕のモーターサイクルが全く場違いに思えて、後悔が頭をよぎる。二速に落としてもカーブを曲がりきれず、曲線の内側に足をついてしまいバイクを倒しそうになった。そういうことが何度かあったが、その都度「ふぬっ!」と筋力で持ち堪えた。途中、紛らわしい分岐もあり、緊張と不安で、カーブの度に腕に力が入ってしまい、ようやく国道に戻った時には、バイクを止めてゼエゼエ言っていた。

ところが、その後ももうひと峠あり、やっと湯前町という人里に下りて来られた時には、かなり体力を消耗してしまっていた。十一時。昼メシは後回しにして、とりあえずコンビニでパンを齧って先を急がねば。なにせ「知覧特攻平和会館」は、この旅のハイライトの位置付けなのだから。「行ったけど間に合いませんでした」では英霊に申し訳が立たないだろう。

(つづく)