月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「やっぱりわかってないのね感」

  • カワサキ オートバイ」とカタカナで胸に大きく書かれたTシャツを着ていたら、会社で色々な人に声をかけられた。
  • 「なんでカワサキなの?」とか「バイク好きなの?」とか「それ、いいねぇ」とか。
僕は普段は社名やブランド名が書かれた服は避けている。自らお金払って(お金出してその服を買って)まで、広告媒体をしてあげる義理はないと思うからだ。そして、胸に書いてあるメッセージには責任を持つつもりがあるからだ。
僕にはカワサキをPRする理由がある。
僕はカワサキのモーターサイクルに乗っていて、カワサキという無骨で不器用なメーカーを応援していて、川崎重工株式会社の株主でもある。だから、胸に「カワサキ」と書いて表を歩くのだ。
それにしても、いくら僕がカワサキ乗りであることに誇りを持って「カワサキ オートバイ」Tシャツを着ていようと、もしもそれが「KAWASAKI MOTORCYCLE」の表記であれば、あれほどの人が僕に話しかけてきたであろうか。
いや実は僕は答えを知っている。「KAWASAKI」とアルファベット表記されたシャツも持っているのだ。当然、そんなふうに話しかけられることはない。
昔、僕の塾のセンセイが言っていた。
  • 「君たち、『コカコーラ』と書いたシャツは平気で着るくせに、それが『伊藤園の梅こぶ茶』だったら着ないよな。なんでだ?」
伊藤園は梅こぶ茶を出してはいないようなんだが、まぁいいや。そうなのだ。なんでだ?
コカコーラはカッコよくて、梅こぶ茶はカッコ悪いからか。
確かに、梅こぶ茶を何杯飲んだって、水着美女たちと浜辺で戯れるような、そんなコークなシチュエーションには辿り着けないだろう。オシッコだけが近くなる気がする。
ところが、「Coca Cola」は着るけど、「コカコーラ」であっても着ないではないか。
同じ言葉でも、アルファベットになった時点で、日本人にとっては、意味が薄まってしまうようだ。Coca Colaはコカコーラではない。極言すれば、単なる模様というか、デザインの一部になってしまう。
  • カッコよさ基準で言えば、
  • Coca Cola > コカコーラ > 伊藤園の梅こぶ茶
  • ということになる。そして意味の明瞭さでは、
  • 伊藤園の梅こぶ茶 = コカコーラ > Coca Cola
  • ということになる。
日本人はTシャツの言葉に意味を求めてはいないのだ。求めているのは、なんとなくな雰囲気だけで、そこにメッセージや何かの象徴は不要なのだろう。さらに、アルファベットにも意味を求めていない。だから、なんかアルファベットで書いてあったら満足なのか。
そこが致命的に恥ずかしい点だと思う。人様の言語を知ってるつもりで実は理解していないくせに、敬意も払わずに勝手に使う。ただの意味のない「カッコよさげな」デザインの一部として扱ってしまう。
言語である限り単語には意味があり、文には文法がある。そこを無視して、表層だけを拝借する。
そして、最もカッコ悪いのは、「それがカッコいいと思っている」感覚だと思う。
たとえば、固有名詞で申し訳ないが吉本興行が「ライブスタンド」というイベントを催していて、ここ何年か大々的に宣伝している。これは音楽フェスのお笑いライブ版で、全席スタンド(立ち見)でやっているから、こういう名称になったものだ。だけど、LIVE STANDでは、英語として通用しない。どういうふうに解釈されるかは、僕はアメリカ人じゃないからわからない。ともかく、LIVEは「生の」とか「その場の」という形容詞で、名詞ではない。STANDにはカウンターとか停留所とかの意味があるから、「生のカウンター?」、「生きろ! 立て! って命令形? なんかそういう長渕的イベント?」、ん? なに? となって、おそらく、「わけわからん」と思われるだろう。
辞書によると、STANDには「巡回劇団の巡業地」という意味もあるらしいけど、それにしても意味はよくわからない。単語の音だけで並べてみて、その二つの言葉を複合した時にどういう意味を生んでしまうのか検討されていないから、こういうことになる。
とあるファストフード店の包み紙に「Native Diet」と書いてある。言いたいことはわかる。日本人で、それなりに英語も理解する人には。
  • 「本場アメリカで食べられている健康的な食事(をそのまま、ここ日本に持ってきました)」ということでしょ。親切に意訳すれば。でも、残念ながら「Native」に「アメリカ人」という意味はないから。
  • 「Native」は「先住の」「生まれながらの」という意味である。だからアメリカでいう「ネイティブ」はいわゆる「インディアン」を指すことになる。だから、アホな女が「ネイティブみたいに話せるようになりたーい」とか言ってるということは、
  • 「ニッポンジン、ウソツカナーイ」
みたいな喋り方をしたいのかなー、と〇・三秒くらい僕は考えてしまう。
  • 「ネイティブ・スピーカーのように英語を話したい」、もしくは、「ネイティブ・イングリッシュ・スピーカーのように話したい」と言わなくては意味がおかしいのだ。
それにしても、こういったことを僕が指摘すると、必ずこういうことを言われる。
  • 「いいんじゃない? 日本で通じるんだから」
日本で通じればいいなら日本語で書けよ! と僕は思うのだ。わざわざ他所の国の言葉を遣って間違ったり誤解を生んでおきながら、「日本だからいいじゃん」はないだろう。
そういう無神経さが、この国を恥かしいものにしているのに、気付かないのか。……気付かんわな、無神経なんだから。
吉本つながりで書くが、トータルテンボスの大村さんがツイッターでこんなことを書いていた。
  • 「大阪出身のアメリカ人芸人『リー五世』が言っていた。『確かにアメリカ人がキャップとかタトゥーにチョイスする漢字一文字のセンスはおかしいよ! それは認める。ただ、日本人もカッコイイと思って着ている英語が書かれたTシャツの英文もたいがいやでー!』と。は、はあっ! そ、そうだったのか!」
そうなんですよ。そういうことなんですよ。
僕が肩に「愛生命」とか「頑」とか「自発性」とか「トマト」とか「牛」とか、頭になぜか「足」という文字を刺青で入れているのを見ると笑ってしまう(上記は実際にヤフー画像で見つけたもの)のと同じ目で、我々のウソ英語Tシャツも見られているのだ。
日本語に訳すなら「今日は天気がいいから、散歩に行こう。雲は友達。イヌ大好き」みたいな、どーっでもいいふわっふわポエムをわざわざ胸に刷って主張することもないし、「ウチカリフォルニアカラキタベサ。ミテケロ。オーイエー。パーティースッペ」みたいなよーわからんテンションのメッセージに映っている可能性がある。おかしいのである。
おかしい=笑える、ならまだいいが、ザンネンな気持ちにさせるではないか。
やはり、こんな極東の島国を遥々訪ねてくれた外国人をザンネンな気持ちにさせるのは控えたいところだ。「やっぱりわかってないのね」感(註)が伝わってしまうと、見下されると思うしね。
  • 註釈:
  • ブランド物が冗談かと思うくらい似合ってないチャイナのおっさんを見た時、マヨネーズでベトベトのスシロールを食べてるアメリカ人をテレビで見た時、脚に向かってタックルで突っ込むロシア人ジュードーカを見た時(最近反則になった)、初めて「ベストキッド2」を見た時、僕らの心の中に沸き上がるあの感情、残念と羞恥と諦念の入り混じったあの気持ち、それが「やっぱりわかってないのね感」だ。
外国の店に、日本語で「イチパイタダ」と書いてあっても、怪しくて(どっちのパイか不明で)一杯やりに行く気にならなかったり、「ヤヌイ! オメク!」と表記して「安い! お得!」をアピールされても、全く信用できないのと同じで、ちゃんとした言語の使用はその国や人の信頼につながるはずなのだ。
いや、ブロークンな英語で会話したり、身振り手振りでコミュニケーションするのは構わないし、僕も正確な英語は話せない。しかし、準備して調べればわかる範囲ならそうしたい。
英語を公用語になんかする必要はないし、遣わない人は遣わなくてよろしいのだ。でも、遣うなら正しく使えよ、と言いたい。せめて正しいのなら、知識として意味はあるが、日本語英語はクソの役にも立たない。
  • 「ザ・沖縄」という店を見かけた。
  • オキナワに「ザ」はいらん!
  • 「オ」キナワは母音だから、書くなら「ディ」もしくは「ジ」だ!
  • ジ・アルフィー」を知らんのか!
  • しかし、「アルフィー」ってなんや!
  • 造語に「ザ」も「ジ」も「ア」も「アン」もあるかい!
うーん、この国は手の施しようのないことになっている。
(了)