月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「ポスターとか、無理でしょ」

先日行なわれた参議院選挙は、僕はいつもしているように期日前投票で済ませてきた。僕の住む選挙区は候補者が三人しかいない田舎なので、あまりおもしろくもなかった。というか票を投ずべき候補者を選べなくて煩悶した。 そんなネガティブなベクトルで悩まなくてはいけない選挙はつまらない。
それに比例代表制という仕組みの意味がわからなくて、たぶん多くの国民が、指名されてもいない人が政党の決めたよくわからん順列によって当選していくことに疑問を感じているはずだ(小さい政党にも議席が得られやすいように考案されたものらしいが、それでも疑問は残る)。
それに投票日以前にメディア各社がこぞって世論調査を行ない、やってもいない選挙の結果を「○○党優勢」とか「与党過半数割れの見込み」などと発表する意味もわからない。ワールドカッププロ野球の予想ではないのだ。
世論調査どころか世論を誘導しかねない愚行だろう。どこにも必要がない。大きなお世話なのだ。
そんな予想よりも、各党の主張をもっとわかりやすくまとめて紹介するとか、政策によってどういう影響が期待または懸念されるのかとか、報道するべき内容はあるだろうに。
郵政選挙の時に、郵政民営化をすると何が得られるのか、気味悪いくらい語られなかったのを覚えているだろうか。賤しくも民主主義を標榜するのなら、民に対してそれだけの教育と、情報開示を行なわなくては選べるわけがないのに、そのどれもなされていないという奇怪な国である。
しかし、それでも平和に成り立っているのだから、ある意味幸せな国でもある。
しかしまぁ、過去を振り返ってみても、国が我々シモジモの人間に対して良くなったことなんか一度もないわけだから、政治に期待などせず、つまりなるべく腹なんか立てずに傍観していきたいと考えている(それでも腹が立つことが多いのだからそーとーなモノである)。
できる限り国に頼らずに生きて、そして死んでいけるように希望する。
この国の政治はこれからも良くなんかならないことは断言できる。それは、良くなんかなるはずもない国民が選んでいるのだから間違いない。その点に関しては僕は非常に悲観的であり、また確信的である。
そもそも民主主義って、今の日本で実施されているような形式でいいの? という疑問が僕の中で残尿感のようにいつまでも気持ち悪く存在している。
だって、今の制度だと、自己顕示欲の強い人間ばかりが国会議員になって国を運営していくじゃないですか。
議員定数削減については色々言われているけど、とにかく、衆議院に四八〇、参議院の二四二の「オレがオレが大先生」方がいるわけだ。
僕が仮に、比例代表制を理路整然と説明できるくらいの説得力があって、政治、経済、法律、国際情勢、教育を知悉していたとしよう。
でも、僕なら、自分の顔をポスターに刷って、町中に貼るなんてことはまっぴらごめんなのだ。車の中からワーワー言いながら手を振る行為もしたくないし、妻まで動員して頭下げさせて、今の今までオ○ンチン触ってたかもしれない不特定多数の人たちとも握手してとか、国を良くしたいという思いや行動と全くかけ離れたハードルを越えないといけないではないか。
それはパイロットになるためには、同じパンツを八日間履いたまま野山を駆けずり回り、クマと相撲をとり、最後に滝に打たれなさい、と言ってるくらい目的と通過儀礼に乖離があるように思われる。
「そういう選挙活動をしなければいい」と言われるだろうが、そういう選挙活動をしないで当選する人はこの国では非常に少ない。選んでる国民がアホと言ってしまえばその通りなんだけど、人間の心理として「がんばってる感」を出して「どこかで聞いた名前感」を得られれば、選挙は圧倒的に有利に進むのだ。
それだけ、選んでる方も真剣には選んでないということでもある。ブルーレイレコーダーを買う時には、メーカー各社のカタログを持って帰って見比べ、ウェブで調べ、店頭で質問をする人も、選挙の時に同じような情熱で研究、検討するかといえばそんなことはないはずだ。
きっと多くの人が投票所に行って鉛筆を手にした時点で、誰の名前を記入しようか考えている。そんな時「なんだか知ってる人」を記入する可能性は格段に高い。
新聞やテレビも調査するならその点について調査してもらいたいものだ。いい加減さが浮き彫りになる。民意つうもんがいかにいい加減で曖昧で気分次第であるということの証左になる。
何かの本で「政治家になると何千何万という自分の知らない人間が、自分の名前を書いて投票箱に入れる行為に興奮を覚える」と読んだことがあるが、どんな変態野郎どもの集まりかと思う。自分の顔のポスターを見て悦に入っているヤツとか、拡声器で自分の名前を連呼できるようなヤツに、ロクな人間がいるわけがないじゃないか。「キモイから」という理由だけでいいから議員定数なんかガンガンに減らしてくれよ。
そんな「自分大好きっ子ちゃん」たちに国を任せなくてはいけない不幸と危険というものがこの社会には横溢している。
さらに、自己顕示欲旺盛な人たちが自己顕示欲だけでなく、もっとあからさまな欲望である金銭欲まで満たせてしまうところに問題がある。
議員という立場が「おいしすぎる」のだ。年に二千万円以上も給料が入って、文書通信交通滞在費という、高度通信社会の現代においておよそ理解できないお金が別途毎月百万円も入る。ケータイでエロ動画をどれくらい見たらそんな金額になるのか。通信交通宿泊費に遣わなかったら国庫に返せってのが常識でしょうが。というか、遣った分だけ領収書精算が普通でしょ。サラリーマンは皆そうしているのだ。
激務であるとか、苦労が多いとか、社会的責任が重いとか、本人らは色々意見があるでしょうが、いやいや、そんなに大変なら世襲なんかしないはずなのだ。
「おいしすぎる」から息子や孫にまでさせるわけで、これは私ら平民からは想像もつかないようなおいしさなのだろう。国に仕えるということは、己の名誉だとか私利はそっちのけで身を尽くさねばならないのであるから、清廉な人物が望まれることは自然なことだ。
清廉な人物は「センセイ」などと呼ばれて嬉しがったりしないものだ。
選挙の時はお願いしますお願いしますと平身低頭だったのに、当選したら偉そうにふんぞり返るって、人間としてありえないでしょう。議員はあくまでも国民の下僕なのだ。別にこちらからお願いしてなってもらったわけではない。
自分のことはどうでもいい、極論すれば暗殺されようと国に貢献できるのなら構わない、お金なんかどうでもいい(どうでもいいからバンバン遣う人、は意味を勘違いしている)、ベンツとか乗りたくもない、グルメに興味はない(かと言ってカイワレ大根だけを山盛り食べたりもしない)、銅像とかいらない、意味がわからない、風俗にも行かない、夫婦のセックスライフ(もしくは4月号参照の「体操生活」)は人に自慢できるくらい充実している(でも自慢するために映像を変なところに投稿したりはしない)。
こういう人こそが国会議員に値する人物であると思うのだ。
まぁほとんど人間ではない。
おそらく、いて日本に四人だろう。
ということで、国会議員は四人でいいという結論になりました。世界に誇れる国になると思う。
(了)
P.S. いっそ「人間ではないもの」に任せられたらどんなにいいかと思うが、それは神による統治の時代に戻るにも等しいことである。人間による放棄であり、後退でしかない。辛くても民主主義が現世においては最良の方法なのだろうね。