月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

『カウボーイ・サマー』(第1章無料公開)①

私、前田将多のカウボーイの旅から5年になる夏、『カウボーイ・サマー』発売から3年になる記念に、第1章を何回かに分けて無料公開します。

旅した気分で、ゆっくりおたのしみください。

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Dedicated to my late father and all the cowboys out there.
(亡き父と、今日も大空の下で働く、すべてのカウボーイたちに捧げる)

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DAY1「ジェイクという男」


「君、嘘をついているだろう。わたしにはそう見えるが?」

ヴァンクーヴァー空港の入国審査官は、僕の目をまっすぐ覗 のぞき込んで詰め寄ってきた。イタリア系であろう男の大きくて黒い瞳に射すくめられて、僕は脚が震えるのを感じた。

「いえ、嘘は言っていません」

震えを悟られないように平静を装って答えた。制服姿のイタリア系は眉一つ動かさない。一年以上費やした計画が、しょっぱなのこんなところで阻止されてはたまらない。
「それは確かか? この国で働くのではないな? 虚偽の証言は連邦政府からの罰則の対象になるぞ」

僕がミスしたのは、この質問への対応だった。初めの質問に対する答えは「イエス」だし、続く質問へは「ノー」である。

そこでやや混乱した僕は、
「はい、いや、つまり、いいえ……」
と答えてしまったのだ。それは、彼の目には口ごもったように映っただろう。
 
先ほど、入国審査のカウンターでは、僕は女性係官に対してにこやかに受け答えをした。
「前職は広告会社のコピーライターでしたが、先月辞めました」

バカ正直にそう伝えたのが良くなかったのだ。彼女は、僕が手渡した税関申告書にさらさらっと何事か書き加えた。果たして、僕は他の乗客が直進して出口へ向かうところを止められ、「お前はあっちだ」と別室へ追いやられたのだ。そこは尋問をする側とされる側の人間が何組も並ぶ大きな部屋だった。

初めは、ランダムに選ばれて形式的な質問のいくつかも受けて、通されるものと思っていた。「荷物開けろと言われたら、タバコがたくさん入ってるからマズいなぁ」程度に思っていたのだ。

しかし、疑われたのは不法就労で、入国審査官はあくまでも本気で、実に執拗だった。
「誰のところに行くんだ」
サスカチュワン州に何があるのだ」
「そんな何もない所で、三か月も何をするんだ」
「宿泊先の友人というのは誰だ」

挙句の果てに、
「アイフォーンを出して、その人物の連絡先を見せろ」
と来た。連絡先はアイフォーンの住所録ではなく、メールの文章の中にあったため、僕はなにかマズいことが書かれていなかったか、そしてそれが英語でなかったか瞬時に思い出しながら、命令に従った。

彼はアイフォーンを奪うと、奥の電話を使い始めた。画面を覗き込みながら何軒にもかけている。
僕はなす術もなく、その様子をぼんやりと眺めた。

僕は、この夏の間、カナダの牧場でカウボーイとして働く計画だった。牧場主に提示した条件は「給料はいらない。しかし、食事と寝床を提供してほしい」というものだった。だから、僕は嘘をついているといえばついているし、無給なのだから「働く」わけではないという理屈も成り立つ。
しかし、不法就労を疑う審査官にそこまで説明はしない。事前に、「無給といえど、働くことによりカナダ人の雇用を一つ奪っていることになると解釈されるから、それは言うな」と助言されていたのだ。嘘はつかないが、余計なことまで言わないというスタンスを貫くしかない。

無機質なタイル張りの審査室では、僕の脇でインド人の子連れの婦人が尋問を受けている。「日本人がわざわざカナダに出稼ぎに来るかよ」と内心毒づいてみるが、彼らにとっては、日本だってアジアの一国にすぎない。チャイニーズもジャパニーズも一緒くただ。

イタリア系が戻ってきた。
「行ってよい」

行ってよくない時は絶対逃がさないという眼光で威圧するのに、一度行ってよくなると邪魔者のように追い払われる。
「僕のアイフォーンを返してください」

彼は「申し訳ない」のひと言もなく返してきた。
 
国内線でレジャイナ空港に着くと、ジェイクが奥さんと二人の娘を連れて出迎えてくれた。彼と会うのはその時が二回目であったが、大きなカウボーイハットをかぶっていたからすぐに分かった。

背丈は僕と変わらない一七〇センチくらい。とにかく目を引くのが、その大きなマスタッシュ、口髭だ。分厚く伸ばしたヒゲを外向きにカールさせている。彼の瞳も、間近で見ると色素が薄く奥まで透けそうな茶色で、その日本人離れした風貌を強調している。

そう、彼はジェイクといっても日本人だ。サスカチュワン州の牧場で、十数年に渡りカウボーイとして働いている。その年の正月に彼が七年ぶりに帰国していた際に、僕は友人を通じて彼と出会った。

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春になって、僕は会社を辞める準備をしつつ、彼に「カナダでひと夏カウボーイをしたい。ついては、カナダ人の牧場を紹介してくれないか」とお願いしたのだ。

ジェイクも戸惑ったことだろう。一度だけ会った男がそんな依頼をしてきたのだ。
空港では、その戸惑いを反映したようなぎこちない握手をしたような覚えがある。僕の方も、それを感じ取って不自然なくらい慇懃に振る舞ったような気がする。

しかし、その後、僕にとってジェイクという男は、心の中の特別な位置を占める男となるのだった。
 
ジェイクの運転で一家とレジャイナの街に出ると、その足でカウボーイハットを買いに行った。なにはともあれ、まずは格好から入りたい。
カウボーイハットには大きく二種類がある。秋冬用のフェルトハットと、春夏用のストロウハットだ。前者の方が高価で、中でもビーヴァーのファーで作られたものは最高級と言われている。
ハンドメイドのものであれば、米ドルで五〇〇ドルを優に越えるだろう。その次がラビット・ファーで、ウール製は比較的廉価だ。カウボーイたちは、高級品であれば何年、何十年にも渡りそれをかぶるという。一方、ストロウハットは数十ドルから一〇〇ドル程度で、ワンシーズンかツーシーズンで使い捨てにする場合もある。

夏を過ごすにあたり、僕が選んだのはストロウハットだ。ブリム(ツバ)の広さは四インチ(約一〇センチ)が標準的だが、その反り返り方のシェイプや、クラウン(頭を入れる筒の部分)の高さ、クリース(天辺の部分の窪み)の形状、ハットバンド(頭周りに巻かれたバンド)の素材やデザインは様々だ。

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二階建ての広い店内には何十種ものハットがあり迷ったが、最後はサイズ重視で選んだ。風が吹いたり馬に乗る時に、ハットが脱げては困るから、頭を振ってみてもグラグラしないジャストサイズなものが必要なのだ。

ステットソンのハットが買えるに越したことはないが、そんな高級品は作業用にはもったいない。
ステットソンというのは、二〇一五年に創業一五〇年を迎えた、カウボーイハット・ブランドの代表だ。正確に言えば、ジョン・バターソン・ステットソンが、カウボーイハットというものを発明したのだ。

ニュージャージー州のハットメイカーの息子として生まれたジョンは、結核性の病気を患い、療養先として西部に滞在していた。

ある日、ハンティング仲間たちとコロラド州パイクスピーク周辺で嵐に遭って、身動きが取れなくなってしまった。
彼らは狩った獣の生皮でとりあえずのテントを作って夜を凌いだ。そこでジョンは、父親が帽子作りに用いていた手法で、ウサギの毛から耐水性の布地を作ることを思いついた。
初めは毛布にしていたが、そのうちにハットを作ってみた。
太陽からも顔を守れる広いツバと、軽くて暖かで、水も運べる丈夫なクラウンを持つハットであった。

ジョンがそれをかぶって旅を続けると、すれ違った馬上の男が興味を示した。男は、その見たこともない素敵なハットを五ドルで売ってほしいとジョンに頼んできた。

機嫌よさそうにハットをかぶって去っていく男の後ろ姿と、手の中の五ドルを見ながらジョンは決心した。東部に戻ったジョンは、姉から六〇ドルを借りて、合計一〇〇ドルの資金を元手に、あのオリジナルのハットを量産すべく会社を起こしたのだ。

それが“Boss of the Plains (平原を治める者) ”と名付けられたカウボーイハットの初代である。
一九世紀末には、ステットソン社は世界一のハットカンパニーに成長していた。様々な会社がハットを作り始め、互いに競いながら形や大きさも多様に変化していった。

南西部のカウボーイたちは日差しから顔を陰にできるツバの広いハットを好んだ。
北部では、厳しい風雪でハットが飛ばされないよう、ツバは小さ目でクラウンも低いものが必要とされた。
当時は、ハットの形によって、出身地が大体分かったという。

ワイルド・ウエスト・ショウや初期のカウボーイ映画のスターたちは、そのカリズマの象徴ともいえる大きなハットを粋にナナメにかぶった。
カウボーイに限らず、都会生活者の間でも、表を歩く時には帽子をかぶるのがエチケットとされた古き良き時代があった。ステットソンは、ドレスハットやカジュアルハットも、高い品質で供給した。

やがて時代は移ろい、機械工業化社会の進展と第三次産業の勃興とともに、男たち女たちが皆ハットをかぶることはなくなってしまった。ステットソン社も厳しい時を過ごしたが、今も昔もハットを使うカウボーイたちに支持され、揺るぎない地位を保持している。

僕がハットを試している間、ジェイクたちは店内にひしめくように陳列されたカウボーイブーツやシャツや馬具を見ていた。街で買い物と夕食を済ませると陽も暮れた頃だった。
ジェイクの九三年製のトヨタは、見た目もさることながら、内側も土埃で汚れている。エアコンは故障して動かない。
僕はそれを見ただけで、牧場での仕事の厳しさを垣間見る気がした。

彼が住むGapview Ranch(ギャッヴュー・ランチ)までは、二時間の道のりだ。
街を抜けると、漆黒の中をヘッドライトに照らし出される車線しか見えなくなる。街路灯も信号も一つもない。

闇の中のどこかでジェイクが左折すると舗装もされていない道となった。そこをガタガタと三〇分ほども走り、何度か曲がり角を曲がった。

道路の途中で、鉄パイプを等間隔で何本も横に敷いた箇所があり、その上を通ると金属が音を立てた。
「テキサスゲイトっていうんだ。車は通れるけど、牛は隙間を怖がって通れない仕組みなんだ」
と教えてくれた。
つまり、これが牧場の敷地内に入った証なのであった。

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その晩はすっかり遅くなったのだが、娘たちが寝たあとも、ジェイクと奥さんのヨシミさんと三人でビールを飲みながら話した。
彼らが、久しぶりの日本からの来客を、ひとまずは喜んでくれているようで、よかった。
僕はここではじめの五日間世話になり、カウボーイの仕事の手ほどきを受けてから、カナダ人の牧場へ移る予定だ。

僕は関西からやって来たが、同じく関西にあるヨシミさんの実家から、娘たちへの届け物を預かっていたので、それらを渡した。
ハウス食品のシャービック・イチゴ味とメロン味。
それと、日本の国語教科書。ジェイクとヨシミさんは日本で生まれ育ったが、幼くしてカナダに来た長女のリンカと次女のミライは、日本語と英語を母語とする日本人だ。
家庭でしか使わない日本語をちゃんと習得できるように、教科書を読ませようというのだ。

それは、親や親戚からしたら大事なことだと思ったし、娘たちは娘たちで、シャービックを心待ちにしていたことだろう。
僕は三か月分の荷物を入れるスーツケースになんとかそれらをねじ込んできた。

(DAY 2へつづく…)

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