月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「今夜も悲しいきみへ」

今朝いきなり訃報が舞い込んできた。

カナダの牧場にいる日本人カウボーイ「ジェイク」から、「ステュがなくなった。おそらく心臓麻痺」というメッセージを受けた。
「ポッカリ穴があいた感じ」というジェイクに返せる言葉を探すには、しばらくの時間を要したのだが、僕は
「いいボスでした。冥福を祈ります」
と返信した。

ステュこと、ステュアート・モリソン氏は、八〇〇〇エイカーを誇るサスカチュワン州のギャッヴューランチの牧場主で、長身で声が大きく、体や声と同じくらい大らかな心を持つ男だった。僕が拙著『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』の取材でそこに滞在していた二〇一五年には、七十二才だった。だから今は七十五才か。

僕が牧場に着いて三日目くらいに「インタビューをさせてほしいので、今夜時間をください」とお願いすると、「いいよ」と快諾しながらも、あとでジェイクには「なにを訊かれるんだろう……」とやや緊張した様子を見せていたらしい。
結局、「あのインタビューだけどな、明日にしてくれないか」と一度延期したことを覚えている。その時の会話の内容は『カウボーイ・サマー』の第一章に載っている。

「写真を撮らせてほしい」
と尋ねると、
「いいよ。あ、ちょっと待ってね」
と、よっこいしょと立ち上がり、壁に掛けてあったハットを取ってきて、それをかぶった。一九八八年のカルガリー五輪の年に、ちょっと無理して買った高価なカウボーイハットだという。もう汚れて多少ヨレたものだったが、やはりカウボーイの正装は、カウボーイハットなのだと、僕はうれしく思ったものだ。

ジェイクからしたら、職場のボスだから、いろいろ不満も、時には面と向かって言いたいこともあったろう。
だけど、彼はステュのことを、心からリスペクトしていたし、感謝していた。

島根県出身で、大阪で働きながら、お金を貯めてはカナダに飛んで、ロデオに打ち込んでいたジェイクを、「弟子」のようにカウボーイとして雇い、当時入手したてだった広大な牧場を任せてくれたのは、ステュ本人だからだ。

ロデオ会場で出会った、英語もろくに話せないアジア人に対して、
「お前、今夜泊まるところあるのか?」
と声をかけ、寝床を提供するというのは、こうしてただ書くよりもずっと難しいことだと思う。
ただし、「ちょっと飲んで行こか」と立ち寄ったバーで酔っ払って、肝心のジェイクを置いて帰るという豪快なオチがあるのだが、この話はジェイクもステュも、いつも笑い話として話してくれた。

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ギャッヴューランチから、キングランチに移った僕は、あの夏、馬や犬といった動物たちにはよくモテた。特に、キングランチの牧場主、ハーブが飼うグーフィ―という大きくて黒いラブラドール・レトリバーは、よく僕にくっついてきた。

「人間のことが好きなんですね」と言った僕に、ハーブの妻、イーディスは、
「でもね、大きくてうるさい人は苦手みたいよ」
と教えてくれた。ステュのことらしかった。

ただカウボーイへの憧ればかりで、牧畜業のスキルなどなかったジェイクをいちから育て、ヴィザの手続きなどの面倒を見て、外国人の彼に信頼を置いて立場を与え、大きな声で溌剌と人付き合いをする彼は、Big hearted cowboyの見本のような男だったと思う。

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二年後、本を持って僕が牧場を再訪した時、高齢のステュは脚を悪くしたようで、ギクシャクとロボットのようにぎこちなく歩くようになっていた。

生前には、ジェイクの娘たちの学費を援助することや、牧場の管理を今後もジェイクに任せることを約束していたそうなので、グランパ(おじいちゃん)との突然の別れに、娘たちやジェイクの悲しみを思うと、心が痛む。

 

生きていると、喜びは長続きしないのに、悲しみは心を押し潰さんばかりの勢いで襲ってくることがあるだろう。あたかも、うれしかったことが、悲しいことに上書きされていくのが人生であるかのような錯覚すら覚えることがある。

人はいつか死ぬし、物はいつか壊れるし、恋は終わるし、カネはなくなる。

悲しみというのは、〈乖離〉のことだ。

つまり「離れている」状態のこと。
愛する人と、死によって会えなくなること。
好きだった人と、心が離れてしまうこと。
みんながもう、集まれないこと。
夢見た場所に、行けないこと。
ほしいものが、手に入らないこと。
なりたかった自分に、なれないこと。
そうあるはずだった人生を、生きられないこと。
過去のあの時に、戻れないこと。

これらはすべて、物理的、心理的、両方を含めて距離が離れていることだ。
それが悲しみの正体なんだ。

僕はこれに気付いてから、悲しいことを不必要にひどく悲しむことはなくなった。
いや、悲しいことはたくさんあるし、悲しいことばかりのように思える夜もある。

だけど、これはただの乖離の問題だから、自分でどうにかできることと、どうしようもないことがあると、分解してみるとわかる。いや、わからないかもしれないけど、わかったような気になって、また明日を待つのである。

そして、自分でどうにかできることは、そこまでは自分でやってみるけど、そこから先の手が届かない領域はくよくよ考えないことにしている。

超えられない乖離は、仕方ないこと。ただ、僕たちができることは、想うことである。
想うことは、距離も時間も超えられるから。

だから、今日は、もう会えないステュのことを想って、遠くにいるジェイクのことを想って、乖離を心の中では、少しだけ埋めてやるのだ。

Rest in peace, Stu.

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