月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

『カウボーイ・サマー』(第1章無料公開)②

DAY 2 「カウボーイって今でもいるんですか?」

 

朝六時半に自然と目が覚めた。会社員時代にはまずなかったことだ。

僕は電通という広告会社のコピーライターだった。コピーを書くだけでなく、イヴェントをプロデュースしたり、ブランド・コンサルタントのようなことをしたり、海外の支社でも働いた。

電通には能力の高い上司や先輩、後輩が多かった。有能と表現するよりも、関西弁で言うところの「おもろいヤツ」が多かった、と言った方が的確な気がする。
おもろいくらい口が達者な営業マン、おもろいくらい頭のいいマーケター、おもろいくらい次々とおもろいアイデアを出すクリエーティブ社員。社内だけでなく、一緒にプロジェクトにあたるデザイナー、プロデューサー、演出家、カメラマン、制作会社、企画会社、イヴェント会社、PR会社などのスタッフの中にも、仕事を越えた友情を結んだ人たちがいる。

広告の仕事は、傍から見えるほど華やかなものではないが、それでも日本中・世界中のあちこちに行かせてもらう機会があったり、様々な業界の人に会えることが仕事の喜びの一つだった。

給料も悪くなかった。若い頃からそうであったわけではないが、一五年近くも働いていると、充分すぎる額の給料をもらっていた。それでも僕は、それら一切を捨てても、カウボーイについて深く知りたかった。

いや、カッコつけすぎた。電通での仕事はストレスが高かったし、組織が巨大化・グローバル化するにつれ、日本のどの大企業とも同じように、官僚化・硬直化が進んでいた。僕はそれに一生付き合うつもりはなかったから、僕にとっての潮時だったのだ。

「会社辞めてカウボーイする」と人に言うと、一人残らずこう訊いてきた。文字通り、一人残らずだ。

「カウボーイって何するんですか?」

次の質問も決まっていた。
「カウボーイって今でもいるんですか?」
「基本的には牛を育てて食肉業者に売る。これが仕事。それをどうやっているのかを、これから見てくる。カウボーイは今でもいるし、今でも馬に乗って仕事しているはずなんだ」
僕はいつもそのように答えていた。

ジェイクは七時前に起きてきて、彼が「ライノ」と呼ぶ二人乗りの四輪バギーに同乗して、牛の見回りに出かける。僕に牧場のひと通りを見せてくれる意味もあったのだと思う。

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ライノはヤマハの四輪バギーのモデル名だが、ジェイクは一人乗りの四輪バギーである「クワッド」と区別するために、現在のものはヤマハ製ではないのだが、そう呼んだ。

ジェイクが働くギャッヴュー・ランチは、広大な敷地のほぼ中央に居住区域があり、南東にジェイクの家、やや離れて南に牧場主のステュアート・モリソン氏の家があり、そして、通りを挟んだ西側にその息子のディーンが住んでいる。

ジェイクの家屋の前にはサッカーのフィールド半分ほどの敷地があり、その中央部をフェンスで囲ってロバを飼っている。

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その北側に馬の競技や調教を行うアリーナ兼厩舎、東側に工具や機械類がある「ショップ」と呼ばれる作業場と納屋(バーン)があり、西側にもう一つ古いバーンがある。
そのバーンの隣りの草地もフェンスで囲われていて、馬が二頭いる。他にもここからは見えない放牧地に馬はいるが、手に入れて間もない馬や、具合が悪かったりして見えるところに置いておきたい馬はそこに入れるようだ。

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ショップ

それぞれの場所へ徒歩で向かうといちいち時間がかかるから、ライノやクワッドを使って牧場内を移動するのだ。

ジェイクの運転するライノで牧場を出て、放牧地へ向かう。昨夜とは別のテキサスゲイトを越えて、東の方の丘へ向かっていく。これまでに自分が付けた轍を踏襲しながら、ジェイクは見回りを行う。

仔牛は春から初夏に産まれるように、種付けの時期をコントロールしているが、遅れてこの七月の半ばに産まれてくる場合もあるから、主にそれをチェックしている。

それにしても、広い。空が大きい。ギャッヴュー・ランチは東側の土地が隆起していて、あとは三方向ともほぼ平らな大地が広がる。だから、東の丘から眺めれば見渡す限り、若芽色の牧草地帯とポコポコと積雲が浮かぶ涼しげな七月の空が視界に満ちるのだ。

そこここにオレンジ色のポンプジャックが稼働しているのが見える。石油掘削機だ。巨大な機械も、ここから見るとオレンジ色の小鳥が地面を啄ばんでいるように映る。
僕はあまりの広大さに息をのんだ。
「これ全部がジェイクのところの土地なんですか?」
「いや、全部じゃないけど、あのへんからあのへんまで……」
と、ジェイクは遠くの彼方を指さした。

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左手に見えるのがポンプジャック

カナダのサスカチュワン州を飛行機から見下ろすと、きれいに正方形に土地が区切られているのが分かる。それをセクションという単位で呼ぶ。
一平方マイルの大きさだ。そして、さらによく見てみるとその正方形は「田」の字のように四分の一に仕切られている。これを一クォーターという。
つまり、一マイルが一・六キロメートルでその半分だから、八〇〇メートル四方の土地だ。

ギャッヴュー・ランチの敷地は、一二・六二五セクションある。これは、八〇八〇エイカーということになり、約三二・七平方キロメートル。
広すぎて理解しにくい場合に日本人はよく東京ドームでたとえるが、この場合、およそ七〇〇個分にあたり、結局想像もつかない。

さらに丘を上ったり下ったりしながら牧草地を走る。轍があるとはいえ、ジェイクがこの茫漠とした土地を自由に走り回って、よく迷子にならないものだと変に感心してしまった。

七月半ばでも、カナダの朝は涼しい。ライノでスピードを出すと風が冷たい。
ゴアテックス上着を着て来てよかった。ハットを飛ばされないようにやや俯き、振動でよろけないように助手席の支柱を握る。

「とうとうカウボーイの牧場まで来たんだな……」という実感が湧いてきて、ニヤニヤしてしまう。

牧場に戻ると(牧草地も牧場の一部だが、本書では分かりやすく区別するために家屋やショップがあり生活をするメインの敷地を牧場と呼ぶ)、アリーナへ案内してもらった。

ここは、体育館ほどの大きさの建物で、入り口を入ってすぐ右手に干し草が貯蔵してあり、左手の小部屋には家畜用の薬品や難産の牛を介助する医療器具などが置いてある。ジェイクは毎朝ここでコーヒーを沸かす。

奥が鉄柵で囲われた砂地になっていて、ここで馬の調教をしたり、ロープで牛を捕らえるローピングの競技大会などを開催したりする。
柵のそばの倉庫部屋に、サドル(鞍)やブライドル(馬勒や手綱)やスパー(拍車)などの馬具が保管してある。

入り口から一〇メートルほど入った所に、黒い牛が一頭、四肢を折って腹這いになっていた。
聞けば、このミーと名付けられた雌牛は障害があり歩行困難なため、群れから切り離してこちらで面倒を見ているのだという。尿結石を伴う疾病のため、お腹に穴を開けられて、糞尿を垂れ流しの状態で、寝たきりになっているのだ。
確かに、お尻のあたりは尿で濡れていて、糞もそこに溜まっている。
ジェイクがその糞を干し草用の大きなフォークでかき取る。

間近で見る牛を、怖いとは思わなかった。
黒い巨躯を伏せて、ときおり「ウオォォ~」と苦しげな声を上げる様は、彼女がすでに半分モノになりかけていることを表していた。

「助からへんと思うんやけど、どうしたもんかな……」
ジェイクは困った顔で言った。生き物としてのミーは気の毒であったが、仕事の場である牧場としては、厄介な懸案事項であった。体重が優に六〇〇キロを越えていて、移動させるのも人間の力ではままならない。

 

ジェイクが牧場で働く仲間たちを紹介してくれた。
ロジャーは七九歳。しかし、白髪のヒゲを蓄えて、野球帽をかぶってなにやら巨大なマシーンで颯爽と登場してきた姿は、八〇近い老人とは思えない。アルバータ州カルガリーから、サスカチェワン州のギャッヴュー・ランチまで九〇〇キロを運転して、数日間だけ手伝いに来てくれているという。

握手を交わすと、七九歳の掌は分厚すぎて、僕の指がほとんど回らなかった。こちらの手が華奢すぎて恥ずかしくなったくらいだ。

彼は、トラクターの後部に取り付けた長大な金属のマシーンを操作して、ヘイベイルという干し草を巻いたものを運んでいる。
ヘイベイルは直径一八〇センチほどもあり、重量は先ほどのミーと同程度の五、六〇〇キロもあるという。それを牧草地から一度に十四個運んできて、牧場の南側の敷地に降ろし、並べていく。

ベイルというのは「貯蔵」という意味だが、まさにこうして、家畜の食糧である草を貯蔵していくのだ。

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次に紹介されたのは、牧場主の息子であるディーンだ。
彼もまたデカい。後日訊いたら一八〇センチ台半ばだったが、堂々たる体格が、実際の身長以上に大きく見せるのだろう。
口の周りは黒々としたヒゲで覆われ、それが癖なのか、ややしかめたような表情をする。しかし、口を開くと拍子抜けするようなやさしい話し方で、ちょっと似合わないくらいの高い声を出す。
五〇を越えた男にしては威厳が足りないのだが、僕は出会ってすぐに、彼はいいヤツなんだと分かった。

ディーンは、ジェイクの家の裏に盛るための土を取りに行くというので、僕もトラックに同乗した。
ジェイクの家は、モバイルハウスといって、他所で建造されてからそのままの形で運ばれてきたものだ。この春に、土を掘った所に設置されて、まだ土台が剝き出しのままになっていた。
そこを土で埋めて平坦にしようというのだ。

トラックの助手席は視界が高く、長いギアをゴキッと入れてエンジンを唸らせるディーンの傍らにいるだけで、なんだかワクワクする。
コーン畑に沿って一〇分ほど走ると、土砂堆積場があり、そこに土が山盛りになっている。
ディーンはトラックを降りるとすぐさま停めてあったペイローダー(シャベルカーのこと。これは和製英語)に乗り込んで動かし始めた。

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大型トラックから、すぐさまペイローダーに乗り換えて巧みに操る彼を見て、僕は理解し出した。
現代のカウボーイは、あらゆる機械を自在に操作しなくはいけないのだ。ピックアップトラックはもちろん、ライノ、クワッド、トラクター、大型トラック、ペイローダー……。

そして、家屋の外構整備も自分たちでやり、電気、ガス・水道管の設置工事まで自分たちでできる限りは行うのだそうだ。畜産のみならず、農作、土木、機械と、あらゆる知識とスキルが求められるようだ。
広告業界でしか働いたことのない僕には、いずれの経験もゼロである。初めから分かっていたことだけど、改めて不安になってきた。

ジェイクから申し付けられた初仕事は、除草作業であった。

ライノで北に数キロ走った斜面に、牛が食べると有害な植物が繁茂しているので、除草剤をスプレーして回ってほしいという。
それなら僕にも問題なくできそうなので、ジェイクの上の娘であるリンカと二人で作業に向かう。
ふと考えると、この広い土地のうち、「あそことあそこに不要な雑草が生えている」ということをジェイクが把握していることに驚きを覚える。

除草剤の液体をタンクに詰めて、僕がそれを肩に掛けて、斜面を上っていく。
リンカと目的の雑草を見つけては、「あった!」「あそこ!」と指さして、タンクから出たチューブの先の噴射口からスプレーを撒く。

リンカも自ら進んで実によく働く。夏休み中の一一歳の女の子が、野外で除草剤を撒いて回りたいはずはないと思うのだが、右も左も分からない僕をサポートしてくれるつもりなのだろう。彼女は鼻の頭に汗を浮かべて、僕と一緒に歩き回った。
 
タンク内に夾雑物が多いのか、たまに噴射口が詰まる。その度に先端を外して、息を強く吹きかけてスプレー穴を掃除して元に戻す。
僕は仕事のために、日本からバッファロー革の茶色い手袋を持って来ていた。土や埃や雨で汚れることは覚悟してきたけれど、まずは除草剤によって染みができた。

一時間ほどで、その区域の除草剤散布は終えた。
イメージしていたカウボーイの仕事とは程遠いのだが、僕にもできる仕事を与えてくれたジェイクの気遣いをありがたく思った。

ジェイクは言う。
「完璧になることはないんやけど、常に先々を見て、土地をより良くしていくのが、カウボーイの仕事。たとえば、俺は家の庭に何本も苗木を植えた。自分が生きているうちに大きくはならへんかもしれへんけど、俺の孫くらいの代には、いい日除けになるかもしれない」

今季の業績、半期の目標、五年後の肩書。あとは考えるとしたら老後の自分のことくらい。
会社員をしていた僕は、目先のカネのことなんて考えたくもないと粋がっていたけれど、せいぜいその範囲しか考えていなかった。
ジェイクたちカウボーイが視野に置く、時間の長さ、静かな思いの遠大さに、僕は胸を突かれた。

ジェイクはその日、僕に乗馬もさせてくれた。
アリーナに馬を牽いてきて、その準備をする。僕はカウボーイの仕事を経験するにあたり、昨年のうちに何度か、日本でウェスタン式の乗馬をさせてくれる乗馬場で基礎的な
ことは習ってきた。
だから、歩く・ジョグする・止まるくらいは問題なくできた。しかし、それ以上の複雑な動きはできない。

サドルやブライドルといった馬具の取り付けも、乗馬場ではオウナーが行なっていたから、自分でしたことはない。それを伝えるとジェイクがやってくれた。
それを眺めて覚えようとしたけれど、取り付ける手順やコツがあるような感じで、とても一回見たくらいでは覚えきれるものではなかった。

アリーナの鉄柵の中で馬にまたがってみると、視界が高くなり気持ちがいい。恐るおそる歩かせてみて、時々走ってみる。
まだ怖くて体がのけ反ってしまいカッコ悪い。
リンカも、下の娘のミライも、ポニーに乗って一緒に歩き回ったり、器用に走らせたりする。子どものうちから上手に乗ってしまうのだから、将来が楽しみである。

しばらく遊ばせてもらって、馬を降り、サドルとその下に敷いた毛布を下ろして、馬にブラシをかける。これは馬を美しくするためというよりは、汗で濡れた毛を整えたり、馬の体に触れながら、ケガはないかおかしな傷はないかなど、健康状態を子細にチェックしていく意味がある。
乗る前にブラシするのは、小石やゴミが付いている上から毛布とサドルを乗せてしまうと、馬が不快だったり、傷を作ってしまうからだ。

それにしても、馬の美しさは格別だ。
パンと張ったお尻や、隆起した首元から肩にかけての筋肉、引き締まった脚、そして、艶やかな毛の輝き。
これまで、競馬ファンなどが言う「馬はかわいい」という気持ちはあまり理解できなかったのだが、間近で触れてみると確かに、やさしそうな目は意思の疎通ができそうで、愛らしい。

その晩は、庭にテーブルと椅子を並べて、僕の歓迎と、明日またアルバータ州へ帰るロジャーへの慰労を兼ねたパーティーをしてもらった。
牧場主のステュアート、息子のディーンとそのガールフレンド、ロジャー、そして、ジェイクの一家四人と、大きな家族のように温かい時間を過ごした。

(DAY 3へつづく…)

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『カウボーイ・サマー』(第1章無料公開)①

私、前田将多のカウボーイの旅から5年になる夏、『カウボーイ・サマー』発売から3年になる記念に、第1章を何回かに分けて無料公開します。

旅した気分で、ゆっくりおたのしみください。

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Dedicated to my late father and all the cowboys out there.
(亡き父と、今日も大空の下で働く、すべてのカウボーイたちに捧げる)

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DAY1「ジェイクという男」


「君、嘘をついているだろう。わたしにはそう見えるが?」

ヴァンクーヴァー空港の入国審査官は、僕の目をまっすぐ覗 のぞき込んで詰め寄ってきた。イタリア系であろう男の大きくて黒い瞳に射すくめられて、僕は脚が震えるのを感じた。

「いえ、嘘は言っていません」

震えを悟られないように平静を装って答えた。制服姿のイタリア系は眉一つ動かさない。一年以上費やした計画が、しょっぱなのこんなところで阻止されてはたまらない。
「それは確かか? この国で働くのではないな? 虚偽の証言は連邦政府からの罰則の対象になるぞ」

僕がミスしたのは、この質問への対応だった。初めの質問に対する答えは「イエス」だし、続く質問へは「ノー」である。

そこでやや混乱した僕は、
「はい、いや、つまり、いいえ……」
と答えてしまったのだ。それは、彼の目には口ごもったように映っただろう。
 
先ほど、入国審査のカウンターでは、僕は女性係官に対してにこやかに受け答えをした。
「前職は広告会社のコピーライターでしたが、先月辞めました」

バカ正直にそう伝えたのが良くなかったのだ。彼女は、僕が手渡した税関申告書にさらさらっと何事か書き加えた。果たして、僕は他の乗客が直進して出口へ向かうところを止められ、「お前はあっちだ」と別室へ追いやられたのだ。そこは尋問をする側とされる側の人間が何組も並ぶ大きな部屋だった。

初めは、ランダムに選ばれて形式的な質問のいくつかも受けて、通されるものと思っていた。「荷物開けろと言われたら、タバコがたくさん入ってるからマズいなぁ」程度に思っていたのだ。

しかし、疑われたのは不法就労で、入国審査官はあくまでも本気で、実に執拗だった。
「誰のところに行くんだ」
サスカチュワン州に何があるのだ」
「そんな何もない所で、三か月も何をするんだ」
「宿泊先の友人というのは誰だ」

挙句の果てに、
「アイフォーンを出して、その人物の連絡先を見せろ」
と来た。連絡先はアイフォーンの住所録ではなく、メールの文章の中にあったため、僕はなにかマズいことが書かれていなかったか、そしてそれが英語でなかったか瞬時に思い出しながら、命令に従った。

彼はアイフォーンを奪うと、奥の電話を使い始めた。画面を覗き込みながら何軒にもかけている。
僕はなす術もなく、その様子をぼんやりと眺めた。

僕は、この夏の間、カナダの牧場でカウボーイとして働く計画だった。牧場主に提示した条件は「給料はいらない。しかし、食事と寝床を提供してほしい」というものだった。だから、僕は嘘をついているといえばついているし、無給なのだから「働く」わけではないという理屈も成り立つ。
しかし、不法就労を疑う審査官にそこまで説明はしない。事前に、「無給といえど、働くことによりカナダ人の雇用を一つ奪っていることになると解釈されるから、それは言うな」と助言されていたのだ。嘘はつかないが、余計なことまで言わないというスタンスを貫くしかない。

無機質なタイル張りの審査室では、僕の脇でインド人の子連れの婦人が尋問を受けている。「日本人がわざわざカナダに出稼ぎに来るかよ」と内心毒づいてみるが、彼らにとっては、日本だってアジアの一国にすぎない。チャイニーズもジャパニーズも一緒くただ。

イタリア系が戻ってきた。
「行ってよい」

行ってよくない時は絶対逃がさないという眼光で威圧するのに、一度行ってよくなると邪魔者のように追い払われる。
「僕のアイフォーンを返してください」

彼は「申し訳ない」のひと言もなく返してきた。
 
国内線でレジャイナ空港に着くと、ジェイクが奥さんと二人の娘を連れて出迎えてくれた。彼と会うのはその時が二回目であったが、大きなカウボーイハットをかぶっていたからすぐに分かった。

背丈は僕と変わらない一七〇センチくらい。とにかく目を引くのが、その大きなマスタッシュ、口髭だ。分厚く伸ばしたヒゲを外向きにカールさせている。彼の瞳も、間近で見ると色素が薄く奥まで透けそうな茶色で、その日本人離れした風貌を強調している。

そう、彼はジェイクといっても日本人だ。サスカチュワン州の牧場で、十数年に渡りカウボーイとして働いている。その年の正月に彼が七年ぶりに帰国していた際に、僕は友人を通じて彼と出会った。

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春になって、僕は会社を辞める準備をしつつ、彼に「カナダでひと夏カウボーイをしたい。ついては、カナダ人の牧場を紹介してくれないか」とお願いしたのだ。

ジェイクも戸惑ったことだろう。一度だけ会った男がそんな依頼をしてきたのだ。
空港では、その戸惑いを反映したようなぎこちない握手をしたような覚えがある。僕の方も、それを感じ取って不自然なくらい慇懃に振る舞ったような気がする。

しかし、その後、僕にとってジェイクという男は、心の中の特別な位置を占める男となるのだった。
 
ジェイクの運転で一家とレジャイナの街に出ると、その足でカウボーイハットを買いに行った。なにはともあれ、まずは格好から入りたい。
カウボーイハットには大きく二種類がある。秋冬用のフェルトハットと、春夏用のストロウハットだ。前者の方が高価で、中でもビーヴァーのファーで作られたものは最高級と言われている。
ハンドメイドのものであれば、米ドルで五〇〇ドルを優に越えるだろう。その次がラビット・ファーで、ウール製は比較的廉価だ。カウボーイたちは、高級品であれば何年、何十年にも渡りそれをかぶるという。一方、ストロウハットは数十ドルから一〇〇ドル程度で、ワンシーズンかツーシーズンで使い捨てにする場合もある。

夏を過ごすにあたり、僕が選んだのはストロウハットだ。ブリム(ツバ)の広さは四インチ(約一〇センチ)が標準的だが、その反り返り方のシェイプや、クラウン(頭を入れる筒の部分)の高さ、クリース(天辺の部分の窪み)の形状、ハットバンド(頭周りに巻かれたバンド)の素材やデザインは様々だ。

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二階建ての広い店内には何十種ものハットがあり迷ったが、最後はサイズ重視で選んだ。風が吹いたり馬に乗る時に、ハットが脱げては困るから、頭を振ってみてもグラグラしないジャストサイズなものが必要なのだ。

ステットソンのハットが買えるに越したことはないが、そんな高級品は作業用にはもったいない。
ステットソンというのは、二〇一五年に創業一五〇年を迎えた、カウボーイハット・ブランドの代表だ。正確に言えば、ジョン・バターソン・ステットソンが、カウボーイハットというものを発明したのだ。

ニュージャージー州のハットメイカーの息子として生まれたジョンは、結核性の病気を患い、療養先として西部に滞在していた。

ある日、ハンティング仲間たちとコロラド州パイクスピーク周辺で嵐に遭って、身動きが取れなくなってしまった。
彼らは狩った獣の生皮でとりあえずのテントを作って夜を凌いだ。そこでジョンは、父親が帽子作りに用いていた手法で、ウサギの毛から耐水性の布地を作ることを思いついた。
初めは毛布にしていたが、そのうちにハットを作ってみた。
太陽からも顔を守れる広いツバと、軽くて暖かで、水も運べる丈夫なクラウンを持つハットであった。

ジョンがそれをかぶって旅を続けると、すれ違った馬上の男が興味を示した。男は、その見たこともない素敵なハットを五ドルで売ってほしいとジョンに頼んできた。

機嫌よさそうにハットをかぶって去っていく男の後ろ姿と、手の中の五ドルを見ながらジョンは決心した。東部に戻ったジョンは、姉から六〇ドルを借りて、合計一〇〇ドルの資金を元手に、あのオリジナルのハットを量産すべく会社を起こしたのだ。

それが“Boss of the Plains (平原を治める者) ”と名付けられたカウボーイハットの初代である。
一九世紀末には、ステットソン社は世界一のハットカンパニーに成長していた。様々な会社がハットを作り始め、互いに競いながら形や大きさも多様に変化していった。

南西部のカウボーイたちは日差しから顔を陰にできるツバの広いハットを好んだ。
北部では、厳しい風雪でハットが飛ばされないよう、ツバは小さ目でクラウンも低いものが必要とされた。
当時は、ハットの形によって、出身地が大体分かったという。

ワイルド・ウエスト・ショウや初期のカウボーイ映画のスターたちは、そのカリズマの象徴ともいえる大きなハットを粋にナナメにかぶった。
カウボーイに限らず、都会生活者の間でも、表を歩く時には帽子をかぶるのがエチケットとされた古き良き時代があった。ステットソンは、ドレスハットやカジュアルハットも、高い品質で供給した。

やがて時代は移ろい、機械工業化社会の進展と第三次産業の勃興とともに、男たち女たちが皆ハットをかぶることはなくなってしまった。ステットソン社も厳しい時を過ごしたが、今も昔もハットを使うカウボーイたちに支持され、揺るぎない地位を保持している。

僕がハットを試している間、ジェイクたちは店内にひしめくように陳列されたカウボーイブーツやシャツや馬具を見ていた。街で買い物と夕食を済ませると陽も暮れた頃だった。
ジェイクの九三年製のトヨタは、見た目もさることながら、内側も土埃で汚れている。エアコンは故障して動かない。
僕はそれを見ただけで、牧場での仕事の厳しさを垣間見る気がした。

彼が住むGapview Ranch(ギャッヴュー・ランチ)までは、二時間の道のりだ。
街を抜けると、漆黒の中をヘッドライトに照らし出される車線しか見えなくなる。街路灯も信号も一つもない。

闇の中のどこかでジェイクが左折すると舗装もされていない道となった。そこをガタガタと三〇分ほども走り、何度か曲がり角を曲がった。

道路の途中で、鉄パイプを等間隔で何本も横に敷いた箇所があり、その上を通ると金属が音を立てた。
「テキサスゲイトっていうんだ。車は通れるけど、牛は隙間を怖がって通れない仕組みなんだ」
と教えてくれた。
つまり、これが牧場の敷地内に入った証なのであった。

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その晩はすっかり遅くなったのだが、娘たちが寝たあとも、ジェイクと奥さんのヨシミさんと三人でビールを飲みながら話した。
彼らが、久しぶりの日本からの来客を、ひとまずは喜んでくれているようで、よかった。
僕はここではじめの五日間世話になり、カウボーイの仕事の手ほどきを受けてから、カナダ人の牧場へ移る予定だ。

僕は関西からやって来たが、同じく関西にあるヨシミさんの実家から、娘たちへの届け物を預かっていたので、それらを渡した。
ハウス食品のシャービック・イチゴ味とメロン味。
それと、日本の国語教科書。ジェイクとヨシミさんは日本で生まれ育ったが、幼くしてカナダに来た長女のリンカと次女のミライは、日本語と英語を母語とする日本人だ。
家庭でしか使わない日本語をちゃんと習得できるように、教科書を読ませようというのだ。

それは、親や親戚からしたら大事なことだと思ったし、娘たちは娘たちで、シャービックを心待ちにしていたことだろう。
僕は三か月分の荷物を入れるスーツケースになんとかそれらをねじ込んできた。

(DAY 2へつづく…)

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「留学なんて、しにくくていいのだ」

新型ウイルス禍により学校教育が中断している現状を鑑み、「9月入学」が議論されている。

日経新聞が知事41人から回答を得たアンケートによると、6割が賛意を示したという。

新型コロナ:9月入学、知事の6割「賛成」 グローバル化進展期待 :日本経済新聞

産経新聞を読んでいたら、早稲田大の石原千秋教授は、知事たちは勘違いをしている、としてこのように書いている。
〈9月入学制度にすれば海外から優秀な留学生が集まり、日本の若者が留学するだろうと。(中略)ノーベル経済学賞受賞者が一人もいない国に優秀な留学生が大勢くることなどあり得ない。極端に言えば、9月入学制度は日本の優秀な若者を海外に流出させるだけの制度なのである。それでも、将来的には9月入学制度への移行は避けられないと思う〉

留学生が来ること、留学に行くこと、に関して言えば、アメリカはチャイナからの留学生については警戒感を高めていて、留学ビザの取り消しに動いている。
むやみに増やせばいいというものではないので、日本が無防備すぎることは付言しておきたい。

トランプ米大統領、一部中国人留学生の入国拒否命じる-安保上の懸念 - Bloomberg

9月入学に関して、僕個人は「どっちでもいい」という意見で、アメリカとカナダは確かに9月入学だが、オーストラリアは2月だし、シンガポールは1月、韓国は3月だというので、各国まちまちなわけで、なにも無理してアメリカに合わせなくてもいいと考えている。

というのは、僕自身が留学生として、9月入学でアメリカの大学に入学した留学生の出身なので、いくつか思うことがあるのだ。

以下は、教育システムを議論する上でのオピニオン的価値はまったくないとお考えください。ただの元留学生の個人的エッセイとしてお読みいただければ結構です。

 

僕は1994年の3月に高校を卒業して、その年の8月に渡米した。その間の4か月間はなにをしていたかというと、バイトしていた。英会話学校にも通っていた。
同級生たちは大学に進学したり浪人したりしていたから、とても中途半端な時期であった。
日本の大学の雰囲気を知りたくて、大学に進んだ友人の授業にこっそり入れてもらった記憶がある。

アメリカで入る大学はノースキャロライナ州の小さなカレッジに決まっていたから、浪人生のようにバリバリ勉強する必要はなかったのだが、7月頃になると、じわじわと恐怖が襲ってきた。
これまではアメリカに行くといってもなんだか夢の中のように現実感のない話だったし、入学を許可された喜びはあったが、いざ渡米が翌月に迫ってくると、「え、オレまじでアメリカとか行かなくちゃいけないの?」という不安に押しつぶされそうになるのだ。

僕はそれまで日本の普通の学生として生きてきただけなので、特別英語ができるとか、帰国子女であるとかではなかった。
TOEFLは高校生にして500点以上(現在は知らないが、当時の方式で)とっていたけど、英語なんてわからないことだらけで、アメリカ人に交じって授業を受け、単位をとっていかなくてはいけないなんて、「おいおい、まじかよ」と、自分で留学を決めておいて、そんな気持ちだったのだ。

 

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我が母校

アメリカの大学は2セメスター制で、9月~12月の秋学期と、1月~5月の春学期があり、単位取得が満了した時点で、12月卒業の人もいれば、5月卒業の人もいる。

つまり、日本のように卒業する人はみんな3月とは限らないのである。

ちなみに僕は、3年目にケンタッキー州の大学に編入して、合計4年半かかって98年の12月に卒業している。

その間の涙ぐましい留学生活とアメリカ人たちとの友情については別の機会に書くとして、卒業間近から卒業後のことに触れておきたい。

当時はインターネットが個人にも利用可能になる以前の世界なので、両親へのエアメールが1週間かかって日本に届き、また1週間かかって返事がくる時代である。すごいでしょ?

ボストンとかニューヨークとか、大都市では日本企業が開く合同説明会みたいなリクルーティングのイベントがあったようだが、ケンタッキー州という田舎にいた僕は、そういう情報をもたらしてくれる日本人ネットワークも持っていなかったし、正直いって、日本の大学生のように、授業の片手間に就職活動ができるような余裕もなかった。

単位を1つでも落としたら卒業できないという瀬戸際だったので、毎日必死に小論文を書いたり、宿題をやったりすることに忙しかった。それに授業を終えると、週3回、4回、大学のジムに通って筋トレすることに、エネルギーのかなりの部分を割いていた。

その頃、人生のテーマに掲げていたのが「セルフ・コントロール」という言葉で、自分の頭脳と身体、そして心(意識)をいかに制御して、目の前にあるやるべきことをやっていくかに挑戦していた観がある。もちろんサボったり、昼寝したり、ルームメイトのニンテンドーを勝手に使ってゲームをしたりはしていたけど、当時は酒を飲まなかったので、結構マジメだったのだ。

そうそう、思い出した。本も書こうとしていた。
『カッコいい留学という虚像』という仮題で、結局これは出版はされなかったのだけど、はじめに入学したコミュニティーカレッジにいた、団体で留学してくる日本人学生たちの程度があまりにも低かったので、その実像を日本に伝えるために書いたのだった。

日本には、親の見栄とか、あほボンや出来の悪いお嬢ちゃんをアメリカに送ればなんとかなる式の考えにつけこんで、集めた学生を昔の集団就職のようにガサーッとアメリカ中の小規模な大学に送り込むブローカーのような商売があるのだ。

だから、どんなバカな学生でも留学なんて可能なのである。

しかし日本の人はそんな事情は知らないから、帰国すれば「アメリカの大学? カッコいい!」と言われて、なんとなくステイタスになる。実情はひどいもので、「日本でダメなやつは、どこ行ってもダメ」ということが僕にはよくわかった。
そういうのを見てきた反動の、「セルフ・コントロール」でもあったのだ。

半年くらいかけて、現地の生の声としてちゃんとした原稿をワープロ(PCなんてなかった)で書いたつもりだったけど、若かった僕には出版してくれる版元を見つけることはできなかった。その後、原稿はずっと引きだしの奥にしまってあって、いつだったか封筒から出してみたら感熱印紙の文字がもう消えてしまって読めなくなっていた。
フロッピーディスクに入れたデータも今となってはもうどこにいったかわからない。あったとしても読み取る機械がない。

……急に思い出して話題がそれてしまった。

とにかく最後の学期は授業と筋トレと原稿を書くのに忙しくて、就職は先送りにしたかった。
それに、社会学専攻だったのだが、学部レベルのそれは基本中の基本を学んだに過ぎなくて、もっと学びたい意欲もあった。
アメリカで学んだ社会学を、日本の社会にどう応用できるかを試してみたい気持ちもあり、日本の大学院に進むことにした。

98年の12月に卒業して、年が明けた99年の2月には入学試験である。実質ひと月の受験勉強でよく受かったな、と思うが、法政大学大学院に行くことになった(のちに中退)。

これにより僕は日本の4月入学、3月卒業というサイクルに戻れたことになるし、それはつまり、就職活動のスケジュールに乗れることになった。

※しかし結局、2年目に「職が決まれば大学院は中退します」と伝えながら就職活動して、電通の内定をもらってすぐ学校はやめて、入社までまた10か月ほどバイト生活するという、おかしな時間を過ごした。

入学月を変えるというのは、みんなそろって企業に就職活動して、みんなそろって4月に入社するという、日本独特のタイムラインも変更を迫られるわけだ。

僕は、「日本式の新卒採用というものが、新卒/中途、正社員/契約社員、海外支社なら日本からの駐在/現地採用という差別意識と格差を生み、雇用流動性の妨げになっている」として、反対を主張しているのだが、9月入学にするなら、企業社会も含んだ全体のドラスティックな変革が必要になるだろう。
それを日本にできるだけの気概があるかと問われれば、残念ながらないのではないか。

結局、「働き方改革」といってもみんな一斉にそろってやる。「クールビズ」とお上が掛け声をかけてくれないとネクタイひとつ外せない男たち。「こうした方がいいね」ということをすぐに「こうしなくてはならない」というルールにしてしまう大企業。

無理なんじゃないかなぁ。

だから9月入学もいずれ立ち消えになるのではないか、というのが僕の見方だ。

たとえアメリカのように5月と12月に卒業する人が出なくて、日本は引きつづきみんな3月だとしても、それから世界を放浪しようが、起業に挑戦しようが、家業を手伝おうが、自衛隊に入ろうが、またやりたいことが変わって企業に就職したいと思ったらフツーに志願できて受け入れられるような自由闊達な社会に、少しずつ変化していってほしいと思う。

そのためには、ボンクラはどこ行ってもボンクラなので、それぞれが個を磨いて、「なぜこれがしたいのか」を人にちゃんと伝えられないとむつかしいと思うんだけど。

留学生として日本の外に飛び出すという行為は、日本独特の慣習からもいったん外れることなので、それくらいの蛮勇を持って臨んで然るべきなのではないか、と僕は自分を振り返って思う。

そうして日本のシステムを外から眺めて、いろんなことに疑問を持ったり、よいところを見つけたり、劣等感を噛みしめたりして、自分はこうありたい、と考える機会を得ることが、結局留学の成果なのだと思う。英語がどうこうというレベルの話ではないのだ(と、僕の英語レベルは棚上げするが)。

誰かにお膳立てをしてもらって、「ハイどうぞ」とするものではないはずなのである。そうしてもらわないとできないような人間は、ハナから留学などするべきではない。

それくらいキビシイものでいいと思うのね。

「なにかを嫌うことは自由だろう」

先々月、3月11日にライターの田中泰延さん、アートディレクターの上田豪さんとの酔っ払い鼎談の第3弾『僕たちはおかげさまでここにいる』を行なった。まだ外出自粛要請もされていない呑気な世の中であった……(はやく「大変だったね」と笑えるようになりますように)。

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みなさんからの献金によって、我々の交通費やスタジオ代を工面するという試みだったのだが、賛同くださった方々にはこの場で改めて御礼を申し上げたい。

第4回を実施するのにも充分な資金をお預かりしているのだが、いまは全国が緊急事態宣言下なので、また機を見てお目にかかります。

youtu.be

 トーク配信では、事前にご質問・ご相談を募集して、男三人がそれにお答えしていく形式であーでもないこーでもないとお話しするのだが、今回も多くのご質問をいただき、漏れてしまったものがある。

ややハードな内容だったので、インターネット配信の場ではパスさせてもらったのだが、ここで僕なりの見解をお返ししてみたいと思う。

ご相談は女性からで、以下の通り:

「いま付き合っている彼のことで相談があります。

彼と付き合って約3か月、最近彼と私の倫理的、道徳的価値観がだいぶ違うことに気づいてきました。
たとえば、彼は反中反韓で、これらの国の音楽でさえ受け付けないほど忌み嫌っています。私は国と人は分けて考えるので、彼に賛同することができません」

 このほか、勤め先の人たちは全員バカだと言って見下している。3.11の追悼についても「政治的意図が働いている」などと言って顧みる気持ちがない。まったく本を読まない。勧めてみても「書いてるやつはみんな自分より馬鹿だと気づいたから読まない」と受け付けない。
とつづき、「これからの私の身の振り方についてアドバイスをいただけるとうれしいです」と結んであった。

 

酔っぱらっているときなら「別れなさい! ダメだよそんな男」で終わりにしてしまうかもしれない。いや、シラフのいまでもダメだとは思うのだが、ものの見方として、もうちょっとなにかお伝えできることはないものかと、しばらく勘案してみた。

彼女がおっしゃる通り、国と人を分けて考えるのは賢明なことである。
それは逆に考えれば、日本政府がすることすべてを、日本国民である僕に「きみたちはどういうつもりなんだ」と問われても、この民主主義国家においてすら困ってしまう。

共産党独裁国家ならなおさら、市井の人民は「そう言われましても、カンベンしてよ」と思うことだろう。

少なくとも、僕も現在のチャイナの共産党政権と、サウス・コリアの文政権が対外的にやっていることに、およそ賛意を示せるものはない。

チャイナに関していえば、コロナ禍で世界が奔走する中、南シナ海島嶼を管轄する自治体として勝手に定めている三沙市の下に、さらに南沙市と西沙市を新設すると発表した。2016年にハーグの仲裁裁判所に領有権を否定されているのにもかかわらず、周辺諸国の神経を逆撫でするような行為をやめようとしない。

尖閣諸島の領海外側にある接続水域で、毎日のように海警局の船を航行させることもやめない。

台湾と国交があったパナマドミニカ共和国といった比較的小さな諸国に次々と圧力をかけて、それを断絶させた。同国は、WHO(世界保健機構)の会議にオブザーバー参加すら許されていないが、これもチャイナパワーによる。

台湾が国交を失う「本当の原因」とは? WEDGE Infinity(ウェッジ)

「一帯一路」構想に基づいて、「債務のワナ」を仕掛け、オーストラリアのダーウィン港、スリランカのハンバントタ港、ギリシアピレウス港の運営権を取得。途上国に対する露骨な新植民地主義で支配力を拡大するにとどまらず、コロナ暴落で格安となった欧州企業の買収を目論んで、弱った羊をハイエナが狙うように嗅ぎまわる。

新型コロナ:EU、買収規制強化へ 新型コロナで中国念頭 (写真=ロイター) :日本経済新聞

共産党政府の出先機関と目される「孔子学院」を(日本を含む)世界中の大学に設置し、プロパガンダの発信に余念がない。

チャイナではツイッターの利用は禁止されているはずなのに、「戦狼」報道官がツイッターで情報工作を画策し、それを各国にある大使館アカウントがリツイートし、多数の謎の匿名アカウントがさらに情報操作に加担するという。

WEB特集 アメリカと中国 パンデミック下の暗闘 | NHKニュース

「5G覇権」を巡ってのファーウェイ社の通信傍受疑惑も記憶に新しい(アメリカが強い拒否感を示すのは自分たちがやってきたことだから、という冷静な見方も忘れてはいけないが)。

以上はあくまでも対外的な活動であって、香港やウイグルを含め、国内でしていることも、現代の国際社会では到底許されることではないはずだ。

列挙すればキリがないが、チャイナ政府および大企業のやることには、なにひとつ賛同できることがない。好きになりたくても好きになれる要素などないと言える。

挙句の果てに、今回のウイルス災禍だ。
百歩譲って、感染病が発生してしまったことは仕方ないとしても、世界中で312万人が感染し、21万人(2020年4月30日現在)の命を奪った疫病の発生源としての態度とは思えない傲岸さは、あきれるほかない。

すべてに共通するのは、情報を開示せず、なにごとも水面下で秘密裏に進めようとする国家としての隠蔽体質である。それが国際社会、とりわけ地理的に近い国々に不安を与えていることに無関心であることが、まるで意思疎通のできない獣のように、恐怖をかき立てるのである。

日々モノづくりや農業に勤しむ一般の人には申し訳ないが、むしろチャイナのいいところがあるなら教えてほしいと思うくらいだ。麻婆豆腐以外に好きになれるところを探す方がむつかしいぞ。

 自由、民主主義、基本的人権という価値観を共有しない国になにを求めても無駄なのだろうが、ジャパンとチャイナは東アジア人という共通項があり、コロナ後の世界で根強く続いていくであろう「アジア人差別」に日本人も無関係ではいられない。

アジア以外の世界からは、シナ人もコリアンもジャパニーズも見分けはつかないのだ。

こういうアメリカンジョークがある。
「日本人と韓国人は、なぜもっと仲良くできないんだ! キミたちは、みんな同じ、中国人じゃないか!」

余談だが、僕は中国人と書くときいつも躊躇してしまう。
岡山県広島県鳥取県の人たちのことを思うからだ。東北人、関西人、九州人、中国人。おかしい。コピーライター/コラムニストとして、言葉の正しい用法には常に気を配っているつもりなので、そもそも「中国」という表記にも違和感が残る。
中華人民共和国を「中国」と呼ぶことはオッケーなのに、ジャパニーズを「ジャップ」と略すことは侮蔑なのだという。

世界中でチャイナとかシナ、チナと呼ばれる国なのだから、シナ人と書いてなにが差別的なのかまったくわからない。ここに差別的な意味合いはない。これに文句をつけてくる日本人に蔑視感情があるのだろう。

 

差別というのは、「いわれなき差別」のように、ネガティブな意味で使われるときには、行為や制度を指していう。尖閣諸島の国有化とはなんの関係もないのに、日本企業という理由で焼き討ちにされる、というのが差別に基づいた暴力であり、ヘイトによる犯罪だ(2012年)。 

日系企業を放火・破壊 トヨタ・パナソニック 標的に (写真=共同) :日本経済新聞

 

以上の批判は、政府の政策および人々の組織的行為に向けたものだ。

相談者が言うように「国と人は分けて考える」ことが肝要で、少なくとも僕は、日本国内への観光客には、それがどんなに大勢で、街の景色を短期間に一変させてしまった現象であっても、微笑ましい目で見ていた。
ミナミの街をドラッグストアだらけにし、チープなホテルを林立させてしまったのは、あくまでも貧しい発想しか持ち合わせなかった日本人ビジネスマンとデベロッパーのせいだ。

わざわざ旅行に来た人は、せめて我が国を好きになって帰ってほしい。

チャイナに赴任経験のある友人に話を聞いたところ、彼のチャイナ評はこうだった。
「チャイナはひとくくりにはできんな。内陸部と沿岸部で、人、食事、文化がぜんぜんちがう。共産党政府がそれを無理矢理に束ねている。なんでもありで、なんでもありではない不思議な国。至るところに矛盾を抱えた国家なんだよ」

まぁ、好意的に見るならば、14億人を抱える政府も大変なのだろう。巨大な国に充分な食い扶持を見つけるのに必死なのはわかる。

ただ、ほかの国の人の安全を脅かすことはやめてほしい。ビジネスでも外交でもルールいうもんがある。……言うても無駄だが。

さて、日本および世界の安全保障は、今後ともアメリカとチャイナの二大国家がどのような渦を巻き起こすのかにより、様々な影響を受けるという視座は変わらない。

日本は地政学的条件とパワーバランスの中で、ますます難しい舵取りが求められる。

つまらない結論になってしまったが、最後に申し上げる。

僕はこれを書くにあたり、「チャイナの友人にも堂々と読ませることができる言説」であることを意識した。事実に基づいた批判であり、考えの足りない人が安易に飛びつくヘイトスピーチとは大きく隔たりのあるものであることはお分かりいただけるはずだ。

人であれ、国であれ、なにかを嫌うことの自由は認められている。前述のように、それを不法行為で表現したり制度に反映させたりすると差別になる。
だから、もちろん、日本を嫌うことも、僕を嫌うことも自由にしたらいい。
それをどのように表現するかが、知性というものだ。

付言するなら、どこの国の人であれ、機会があれば一緒にグラスを傾けることに対して、僕のドアは開けておこうとは考えている。

「ワタシはどの国のことも、誰のことも嫌いではありません!」などという意識高め知能低めの偽善者は、国や故郷や家族が滅ぼされてもそう言えるだろうか。

香港の人の恐怖感や、台湾の人の危機感を理解できているだろうか。

 

……って、相談者のあなた、まだその彼氏と付き合ってる? 元気にしてる? 
これを読ませても「こいつはバカだ」と言われるかな。まぁ、いつもは解決策を空想でも書くのに、今回はなにも提示できないバカなんだけど。

「自分以上に信じたい人はいますか?」

ケニー・ロジャースが2020年3月20日に、81才で老衰のため亡くなった。

日本では知っている人は少ないかもしれないが、アメリカの国民的スターと呼んでも差し支えないカントリー歌手であった。
わかりやすい例を挙げると、1985年に”U.S.A. for Africa”というアフリカの飢餓と貧困救済のキャンペーンのために、ビッグアーティストたちが歌った”We are the World”の歌。
超有名な歌手たちが集ったから、だいたいどれが誰かわかると思うけど、ケニー・ロジャースはおわかりになるだろうか。

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前半に、ポール・サイモンのあとに出てくるのが彼である。
ケニー・ロジャースの歌声は、大人っぽい深みがあって、カントリーらしい鼻にかかったところがあり、セクシーな割れがあり、なんとも言えないやさしさがあるのだ。

僕自身はケニー・ロジャースよりも新しい世代のカントリーを愛好してきたのだが、僕の父親が大変好きだった歌手なので、ケニー・ロジャースといえば亡父を連想する。
アメリカに住む弟からも「ケニー・ロジャースが亡くなったな」と、一言だけメッセージが来た。僕の家族にとっては、それだけでわかるのだ。
「親父が好きだったよな。なつかしいね」という含意が。

そんなわけで、恒例のカントリーソングの邦訳です。

ケニー・ロジャースの絶品のバラード、“She Believes in Me”は、売れないカントリー歌手が主人公のラブソングである。
駆け出しのカントリー歌手というのは、夜な夜な全米各地のナイトクラブ(日本でいうライブバー)でドサまわりをするのが通例だ。
だから、家を空けることが多いし、夜遅くまで帰宅しない。

おそらくこの歌の彼も、日々酔っ払い相手に歌声を披露しては、もっと大きなハコから声がかかることや、レコード会社からスカウトされることを望んでいるのだろう。
奥様(または彼女かな)は、そんな彼がきっといつか売れることを信じて、ベッドで待っている。
彼は、辛抱を強いている彼女に申し訳ないと心を痛めつつ、深夜にやはり自分が信じる曲を作り、歌を歌い、彼女を想うのである。

夢を追ったことがある人ならきっと理解できる、胸がしめつけられるような一曲のはずだ。
「そんなふうに誰かを信じて、なにかを願ったことはあるか?」と問われるようで、自分のことで手一杯の下卑た人生に、恥じ入る思いがする……。

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“She Believes in Me”

 While she lays sleeping, I stay out late at night and play my songs
And sometimes all the nights can be so long
And it's good when I finally make it home, all alone
While she lays dreaming, I try to get undressed without the light
And quietly she says how was your night?
And I come to her and say, it was all right, and I hold her tight

彼女が寝ているあいだ
僕は夜おそくまで帰らずに僕の歌を歌う
ときどきそんな夜がとても長く感じられる
ひとり家に帰り着いてほっとする
彼女が横になって夢を見ているあいだ
僕は灯りをつけずに服を脱ごうとする
今夜はどうだった? と彼女は静かに言う
僕は彼女の枕元でよかったよと答え ぎゅっと抱きしめる

And she believes in me
I'll never know just what she sees in me
I told her someday if she was my girl, I could change the world
With my little songs, I was wrong
But she has faith in me, and so I go on trying faithfully
And who knows maybe on some special night, if my song is right
I will find a way, find a way

彼女は僕を信じてくれている
彼女にとって僕のなにがいいのか 僕にはわかることはないだろう
僕はあるとき言った
もしも彼女を僕のものにできるなら
僕の歌で世界を変えてみせるって
僕はまちがっていたみたいだ
それでも彼女は僕を確信してくれている
だから僕は信念をもって挑戦をつづけるんだ
誰にわかるってんだ もしかしたらある特別な夜にさ
僕の歌がちゃんと届くことがあれば
僕にも道がひらけるだろう 道はひらけるさ


While she lays waiting, I stumble to the kitchen for a bite
Then I see my old guitar in the night
Just waiting for me like a secret friend, and there's no end
While she lays crying, I fumble with a melody or two
And I'm torn between the things that I should do
And she says to wake her up when I am through
God her love is true

彼女が横になって待つあいだ
僕はよろよろとキッチンへ行ってなにか口にする
そして夜の闇の中に ひみつの友達のように僕を待つ古いギターを目にする 
またはじまるよ
彼女が横になって泣くあいだ
僕はひとつふたつのメロディーをもてあそぶ
僕が本当にすべき事どものあいだで 僕の心は引き裂かれる
彼女はおわったら起こしてねと言う
神様 彼女の愛は本物だ

And she believes in me
I'll never know just what she sees in me
I told her someday if she was my girl, I could change the world
With my little songs, I was wrong
But she has faith in me, and so I go on trying faithfully
And who knows maybe on some special night, if my song is right
I will find a way, while she waits while she waits for me

彼女は僕を信じてくれている
彼女にとって僕のなにがいいのか 僕にはわかることはないだろう
僕はあるとき言った
もしも彼女を僕のものにできるなら
僕の歌で世界を変えてみせるって
僕はまちがっていたみたいだ
それでも彼女は僕を確信してくれている
だから僕は信念をもって挑戦をつづけるんだ
誰にわかるってんだ もしかしたらある特別な夜にさ 
僕の歌がちゃんと届くことがあれば
僕にも道がひらけるだろう
彼女が待つあいだ 彼女が僕を待つあいだ

 

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ライオネル・リッチーとは本当に仲がよかったみたいで、微笑ましいデュエットのバージョンもあります。

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ケニー・ロジャース氏に、数々の素敵な歌への感謝を捧げるとともに、冥福を祈りたいと思います。

「食っていく、という話をしてきた」(後篇)

映画カフェバー「ワイルドバンチ」(大阪市北区長柄中1丁目4−7)で毎月開催されているトークイベント『食っていく、という話をしよう』の第7回に呼ばれて、90分お話ししてきた。

当日お話ししたことをベースに、青春記のようなかたちでまとめたのが本稿です(後篇)。
前篇と合わせてご笑覧ください。いよいよ本題である「食っていくこと」にも話は及びます。 

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友人が贈ってくれた「いいとも」ふうの花w

電通を辞めたこと

その2年前くらいから予兆はあって、長い時間をかけて考えて計画的に、かつ最後は「エイヤ!」と思い切って会社を辞めた。きっかけは友人の小谷さんから、ひとりでレザーブランドをやっているm.rippleの村上氏を紹介されたこと。

彼は優れたレザー製品を自分で考案し、デザインし、製作し、販売している。
それは立派なことだが、売れれば売れるほど作る時間や考える時間が取れなくなり、ジレンマに陥ることにならないのだろうか、と僕は考えたのだ。
それからいくつかのそういったレザーブランドと知り合ったが、いずれも「すばらしいモノを作っているのに、伝え方を知らない」という同じ課題があるように感じた。

そもそも日本人は、自分が作ったものを自信満々で人におすすめすることが苦手なのだ。
アメリカ人みたいに、「俺が作ったコレ、どうよ? サイコーだろ? お前もそう思うだろ、マイフレンド? 〇〇ドルなら譲ってやってもいいぜ。ただし、来週になったら××ドルに上がるからな」などと上から目線でグイグイきたら、僕なんかは
「わかったから、クスリ抜いて出直してこいや」
と思ってしまうのだが、ビジネスの世界ではそうではないようだ。

「伝え方」なんて僕にもわからないものの、コピーライターだし、少なくとも、尊敬できるクラフツマンが手がけた製品なら、僕は大きな声でおすすめできる、と思った。それが、僕のレザー専門ストア「スナワチ」のはじまりで、「これって、すなわち、こうじゃん!」と、良さをわかりやすく伝える役割が当社だから、社名が「スナワチ」なのだ。

そういう仕事が作れたらなぁと構想しているときに、電通が「早期退職制度」をはじめた。退職金にドーンと上乗せをするから、100名ほど出ていってほしい、という募集だ。
これまでも何年かに一度、恒例のように行なわれていたのだが、これは天啓かと思った。

応募の条件が「勤続10年以上、かつ50才以上の社員」ということだったので、入社14年になっていた僕はデスクの下で拳を握った。「おぉ、神よ……」

しかし、待て。僕の年齢は39才(当時)なのだが、この「かつ」というのをどう解釈したものか。
「and」なのか「or」なのか。

ふつうに考えたら「and」なのだろう。しかし、新卒入社が圧倒的に多い中で、入社10年なら、まだ30代前半。それをわざわざ50才以上と限定するということは、40代で中途入社してきて10年だけ働いたら、そんないい条件で早期退職できるの? そんな人そうそういないだろ。

この疑問を人事局に電話でもして訊こうものなら、「はい、そうです。あなたは応募条件を満たしていません」と言われて話がすぐに終わりそうだったので、僕は知らんふりしてメールを書いて、早期退職に応募した。なんかスルッと通ってしまわないかな、と期待して。

翌日、担当者から返信があり、
「あなたは応募条件を満たしておりません」
とのことだった。なんやねん。

このとき僕はあることに気がついた。早期退職は9年前にも募集があり、「40歳以上」だったと思う。4年前にもあり、そのときは「45歳以上」だったように記憶する。
つまり、いつも同じ世代の人たちがターゲットなのだ。いわゆるバブル世代のことだ。
いつまで待っていても、このとき40手前の僕には巡ってこないのだ……。

これであきらめもついて、むしろ会社を辞める後押しになった。

 

■カウボーイのこと

こうして僕はフツーに退職金をもらって電通を辞めた。退職金はそのままスナワチ社の資本金になった。

僕にはもうひとつやりたいことがあって、それをできる時期はここしかなかった。

「カウボーイってなんなの?」という長年の疑問を体験的に解決したかったのだ。

先述の通り、僕は亡父の影響でカントリー音楽が大好きで、ケンタッキー州で大学を出ている。カウボーイの姿形は知っている。カントリー歌手同様に、ハットをかぶって、ブーツを履いている。
そして、アメリカでは「カウボーイは男の中の男」と考えられているようだ。

「なんで?」、「なにをする人たちなの?」、「今でもいるの?」という、日本人なら誰でも思うような疑問が、僕の心の中では大きくなっていて、いつか自分で知りたかった。

「カウボーイの牧場でひと夏働いてさ、その仕事と生活を本にしたらおもしろいと思うんだよね」
そんな話を与太話のように、飲みの席で友人たちにして、実のところは「それをしないと死ねないじゃん」というくらいに心の中では、はち切れんばかりに大きくふくらんでいたのだ。

でも、どこに問い合わせたらいいのかわからなくて放置していたのだけど、あるとき偶然ラングラー・ジャパンのウェブサイトを見ていたら、芝原仁一郎さんという方が「ロデオ」に関するブログをそこに書いていた。

彼はロデオ選手(ブルライダー)としてアメリカで転戦しているようだった。僕は、そこに記載されていたアドレスに宛てたメールを書いて、事情を説明した。

すると、「カリフォルニアにウェスリー畠山という人がいるから、彼なら牧場の知り合いがいるだろう」と教えてもらった。
翌月に(まだ電通時代だから)有給休暇を取ってアメリカ旅行の予定があったので、僕はさっそくウェスリー氏にコンタクトをとって会いに行った。

ウェスリーさんは「カウボーイやりたいの? 紹介できるよ」と話は早かった。
僕は「お! 一発で解決したじゃん」と夢への扉が開いたような気持ちだった。

芝原さんが帰国して、その年の暮れに連絡があった。
「前田さん、正月に大阪の友達の家に遊びに行くんだけど、来ませんか?」

僕はまだお会いしたこともない芝原さんに会うために、ジェリー杉原という見ず知らずの人の邸宅に伺った。
そこには日本に帰るのは7年ぶりという、ジェイク糸川氏もいた。彼はカナダの牧場でカウボーイをしていて、僕はあるテレビ番組でその存在は知っていた。

「うわ、ジェイクさんだ! テレビで見たことがあります」
「ジェイクでええよ~」
彼はフレンドリーな態度だったが、その眼光にはこれまで会ったどの男にもない特別な光があり、僕ははじめちょっと怖かった。

ここまで読んだ皆さんは、「なんやねん、ウェスリーとかジェリーとかジェイクとかw」とお思いになるだろう。僕も思ったよ。

春が過ぎたころ、いよいよ電通を退職する日が迫り、カリフォルニアのウェスリー氏に連絡をとった。

「ウェスリーさん、例の話、この夏にやりたいんですけど、牧場を紹介してください」
「え! 夏にやりたいの? それは無理だよ」

聞けばこうだ。
「カリフォルニアからテキサスまで、ここ数年は干ばつで雨が降らず、牧場はやむをえず夏前に牛を売ってしまう。だから、夏は仕事にならない。そもそも日本人がいきなりカリフォルニアの夏にカウボーイのハードな仕事は、とても耐えられないと思うぞ」

電通は6月末に辞めてしまうことが決まっていた僕は、はたと困った。
「おいおい、どうしよう……」

そうだ! ジェイクがいた。
僕は、慌てて正月に一度だけ会ったジェイクにメールを送って、牧場を紹介してほしいと頼んだ。慣用句でいうと「泣きついた」というやつだ。
ここで失敗したら一巻の終わりだから、僕は文面には細心の注意を払った、と思う。

「ええよ~」
ジェイクは僕の恩人なのだ。ここからの続きは拙著『カウボーイ・サマー』に譲ろう。

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■食っていくこと

ここまで44才の「青春記」にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
最終項になったので「食っていくこと」について、僕の知っていることを少しだけ。

僕はこれまでに本を2冊書いて、自分のストアを持って、たまに広告系の仕事もやっている。それでも食っていくことの秘訣なんてわからなくて、僕自身が食っていくために日々あれこれ思索して模索している最中である。

電通での仕事は、クライアントから予算をいただいて制作物やキャンペーンを作ることだったから、「納品することで終わり」「やりました、という事実で完結」なのだが、自分の仕事はそうはいかない。
作った(仕入れた)けど売れないモノもあるし、やったけどうまくいかなかったことも多々ある。

売上がよくなくて「どうしよ」と思っていると、知り合いからコピーライティングの仕事を頼まれて助かったり、店をやっていると、思わぬ人が思わぬ日にやって来てくれたり、本当に自分ではどうしようもないタイミングでその都度救われて生きている。

本当にわからないことばかり起きる。

ただ言えることは、会社員を辞めて、自分自身の仕事をやっていると、
「継続は力なり」とか
「できることから少しずつ」とか
「(売り手、買い手、世間の)三方よし
といった、これまで何度も耳にしてきた、先人たちの当たり前の言葉たちが、まったくちがった鮮やかな色彩を帯びて僕に迫ってくる。

「ぜんぶ本当だったんだ!」
と、今まで「ハイハイ」と聞き流していたような気がして、僕は自分の不明を恥じる。

イベント当日には、主催のワイルドバンチ森田さんからこのような質問をいただいた。
「最近は副業に寛容な会社も増え、様々な働き方がある社会になりつつあります。ストア、執筆、広告の仕事など、いろんな仕事を組み合わせて生きていくことに関して、前田さんが思うことを教えてください」

僕はこのようにお答えした。
「僕は自分がなにをしようと、会社も個人もなく、『前田将多という仕事』をしていると考えています。だから、なにをしてもいいし、できることはなんでもやろう、と思っています」

僕ができることを増やすために、宿題でもない感想文を提出し、求められてもいないCM案を見せ、呼ばれてない早期退職に応募し(笑)、はじめての人に会うために知らない人の家を訪ね、やらなくてもいいカウボーイをやり、1円にもならないこの『月刊ショータ』を書き続ける。

最後にもうひとつ。
「カウボーイをしていると、生とは、死のすぐ近くにあることを感じました。コヨーテがいたらライフルで撃ち殺すし、育てた牛は殺されて肉になるし、土地は広いけど人間社会は狭いから、『あそこの誰が死んだ』とか『誰々が心臓を患った』とかいう話がしょっちゅう聞こえてくる。都会に住んでると、皆さん、永遠に生きる気でいるでしょ。でも、そうじゃない。
生きてる間に、やりたいことをひとつでも多く、やっていきたいですよね……」

以上、「食っていく」という話を、しました。

 

(了)

「食っていく、という話をしてきた」(前篇)

映画カフェバー「ワイルドバンチ」(大阪市北区長柄中1丁目4−7)で毎月開催されているトークイベント『食っていく、という話をしよう』の第7回に呼ばれて、90分お話ししてきた。コロナウィルス騒動にもめげずに来てくださった皆さん、ありがとうございました。

そこでお話しした内容を掻い摘んで、そして、その場で話せなかったことも加筆して、書いておこうと思う。
この『月刊ショータ』では、僕自身のことは「誰が興味あるねん」と考えて、なるべく書かないようにしているのだけど、今回はご容赦ください。

ある男の青春記としてお読みいただければと思います。

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アメリカの大学へ

都立高校卒業後に、ノースキャロライナ州の小さなカレッジで一般教養課程を2年半で終えて、州立のウェスタンケンタッキー大学に三年生として編入し、社会学マスコミュニケーション専攻で卒業した。

そもそもアメリカの大学に行こうと思ったのは、カントリーミュージック・ファンで、つまりアメリカかぶれだった父親の影響である。

高校一年の春休みに家族旅行ではじめての海外に連れて行ってもらったのが、フロリダ州オランドだった。ディズニーワールドやユニバーサルスタジオがある観光地だ。
フロリダの空の大きなこと、青いこと、芝生が輝くような緑だったことは、16才の目には「こういう国に住んでる人もいるんだ!」と衝撃的だった。

自由で個人の考えを重んじる家庭教育方針の父親だったので、はやくから「大学をアメリカで行くという手もあるんだぞ」と言われていた。だから、「じゃあ、そうしてみる」と決断するのは自然なことでもあった。

しかし、手続きのすべてを自分でしなくてはならなかったから、インターネットも世間一般にはない90年代に、僕は本を買ってきて、間違いだらけの英語で大学に手紙を書いて、入学の方法を問い合わせた。

そのころは、将来の夢を訊かれたら「映画監督」と答えていた、と今回自分の来し方を振り返って思い出した。池袋の文芸坐にせっせと通う高校生だったから、文学としての、エンターテインメントとしての、総合芸術としての映画に心酔していたのだ。

だけど、スピルバーグが出た南カリフォルニア大学の映画学科に行こうと思ったら、学費が年間200万円を超える。これはいくら父親が「教育にはカネに糸目はつけん」と言ってくれていて、1ドル=88円くらいの超円高の時代とはいえ負担が大きすぎるので、せめて日本の私大と同じくらいの学費をメドに学校を選んだ。

そして、そのころには僕も父親と同じくらい熱心なカントリーミュージック・ファンになっていたから、地域的にカントリーが聴ける南部の田舎に行きたかった。
そこでノースキャロライナであり、ケンタッキーだったのだ。

本当は、カントリー音楽業界の中心地として、レコード会社やスタジオやミュージック・バーが集まるナッシュビルが州都のテネシー州に行きたかった。
しかし、学費の面や人種構成の面で適した大学が見つからなくて、北へ70マイル(約110キロ)離れたケンタッキー州ボウリング・グリーンを留学生活のメインの場所にしたのである。

面と向かってそう言われたことはないが、父親は僕がやがてはナッシュビルでカントリー音楽関連の仕事に就くことを期待していたようだ。

学生生活を送るうちに、映画監督の夢はなんとなく立ち消えて、僕の興味はものを書くことに移っていった。雑誌ライターとか、今はもう死語と言ってもいいかと思うけどルポライターになりたかった。なんだか得体の知れない、いかがわしいけど、独立していて自由な仕事に憧れた。
言葉も不自由な外国で、よくわからないけどなんとかしていくことの連続である留学生活と、社会学のフィールドワークを通じて、知らない人に問い合わせてお話を聞いたり、密着取材をさせてもらったりするようなことは、自分にとって得意なことなのではないだろうか、とおぼろげに感じたのだ。

文章に関しては、中学のときに、夏休みの宿題として出ていたわけでもないのに、勝手に映画の感想文をしたためて国語の先生に提出したら、「おもしろいから、コンクールに出しとくわ」と言われたことがあった。
高校時代には、クラスに「誰が書いてもいい交換日記帳」のようなノートが一冊あって、あるとき僕が「オタク論」みたいなことを書いたら、みんなが「おもしろい」「そうだそうだ」「もっと書け」と言ってきたことがあり、”伝説の新聞記者(笑)”の孫として、これも得意なこととかなり早い段階で認識していた。

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ケンタッキーの大学で社会学マスコミュニケーションを専攻した際、マスコム(英語ではマスコミではなく、こう発音する)の中には、広告、パブリック・リレーションズ、ジャーナリズムの3つの授業があった。
ひと通りすべて単位をとったときに、「ジャーナリズムは文体に独特の制約があるから僕には向かない。やるなら、広告コピーの方がいい」と思った。それで、サラリーマンをやるなら広告会社がたのしそうだ、と考えた。

アメリカの大学は5月と12月の学期の終わりごとに卒業のタイミングがあり、僕は98年の12月に卒業した。しかし、そこから帰国して就職活動をすると、いわゆる新卒扱いにならない。フリーターになってしまうのだ。

だから、日本のスケジュールにアジャストする目的と、もうちょっと社会学をやりたいという理由で、法政大学の大学院に行った。あわよくばそのまま大学教授になって、「小難しい話をわかりやすく書く」ことを仕事にできるかもしれないとも思った。

ところが、大学院というところはその正反対の場所で、「かんたんな話でも小難しく書く」ことがヨシとされているような感じだった。もっと言えば、「小難しく書く芸」を競うかのような雰囲気があり、アメリカの大学で触れた社会学とはだいぶ様子がちがい、僕はうまくなじむことができなかった。

であるなら、「ややこしいことをわかりやすく伝える」コピーライターの方がやりたいと考えた。

就職活動では、電通ADKの2社だけ受験して、落ちたらどこかの編集プロダクションに潜り込んでライター稼業にありつこうと目論んだ。そしたら、電通に受かってしまったので、大学院を中退して、コピーライター志望として入社することになった。

 

電通でのこと

電通に入社するとまず、新入社員研修が当時は2か月間あり、最後に配属が発表される。
僕は実家が東京の練馬にあり、当時新社屋だった汐留まで大江戸線で一本だから、当然東京配属になると思っていたら、関西支社と言われた。しかも、部署も(コピーライターやアートディレクターが所属する)クリエーティブではなく、プロモーションという、なにをするところなのかよくわからない局に行くことになった。

プロモーションというのはセールスプロモーション(SP)分野の業務をするところで、内容は幅広い。展示会ブース、街角でのPRイベント、店頭販促物、懸賞キャンペーンなどなど、あらゆる「手間がかかるわりに予算が少ない」仕事を担当した。
関西支社の売上など、電通全体の1/5くらいで、さらにプロモーションは関西支社の中の1/10くらいの規模だったから、気楽なサラリーマンとしては非常にたのしい部署だった。

それでも、初心はコピーライターになるために就職した会社なので、それをしないからには「オレはなんのために入ったんだ」という気はしていた。
だから、クリエーティブ局員でもないのに、クリエーティブの人たちとの会議には勝手に「CM案」を絵コンテにして提案していた。

CD(クリエーティブの部長)には「お前、またなんか書いてきたんか」みたいに半分煙たがられ、半分かわいげのあるやつじゃと思われていたのではないだろうか。

クリエーティブの人は総じてプライドが高いものだから、他部署の若手が出す案など採用されるわけはなく、いつもなにか書いて見せては「お前このCM案、30秒に入らんやろw」と一笑に付されたり、およそ歯牙にもかけられなかったりするのだが、営業さんの中には、あとになって「前田の案、あれよかったよな……」と苦笑まじりに言ってくれる人もいた。

もちろん今から思えば、広告クリエーティブの訓練を受けていない人間の出す案など、たわいなさすぎるものだったことは確かだったはずだ。たまにクライアントが出してくるしょーもなさすぎる広告案に毛が生えたようなものだったろう。

(当時)クリエーティブ局に転籍するには、社内の試験があり、入社3年目から10年目までで、所属長の許可を得た社員に受験資格があった。
僕はその試験に3年目で落ち、5年目で受かった。

CDが無記名の答案用紙(ただの白い紙にペンで課題への企画を書いたもの)に採点をして上位が一次通過して、二次は役員面接がある。僕が一次を通過したときに、採点担当だったCDが、前出の「お前、またなんか書いてきたんかw」とおもしろがってくれていた方で、
「高得点だった企画のフタを開けてみたら、前田やないか」
と、そういう縁にも救われた。

僕は、それ以来およそ10年間コピーライターをした。

名刺の肩書がコピーライターになったからといって、いきなり仕事があるわけではなく、先輩のうしろをウロウロするくらいなのだが、はじめて仕事らしい仕事に呼んでくれたのは、あのCDだった。彼が引退するまで、大変お世話になった……。

世話になったといえば、コピーライターになって1年目に父親がこの世を去った。行きたかった部署に5年目で移って、がんばらなくてはいけない時期だったが、末期ガンの父親に会いに行くために毎週のように東京へ帰っていて、ちゃんと企画できる精神状態ではなくて困った。

実家のベッドに、書いたコピー案の紙をズラズラ並べて、携帯電話で先輩と何事か話す。そんな姿を見て、僕の家族は「こいつはなんちゅう仕事をしてるんだ」と思ったかもしれない。

アメリカに住んでいる弟も一時帰国してきていた。
病床の父親は「俺が早く死なないと、あいつがアメリカに帰れないな……」と、顔半分で笑って、ハードボイルドなセリフを遺した。

その後も、後述するように僕の人生には大きな転機がいくつか訪れるのだが、そのたびにふと、僕は父に相談したいと思うし、なにか作ったら父に見せたかったと思うことはある。

あ、母親がここには登場しなかったけど、口うるさいおばはんとして、東京でネコ2匹と元気にしておりますよ。

(後篇につづく)