月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「どーでもいいこと、よくないこと」

■「ジェイクという男」篇

十五年近く勤めた広告会社を辞めて、ひと夏の間、カナダにてカウボーイをして過ごすことにした。今、ひと月経とうというところだ。

会社は大企業だったから、知人の中には「えぇーっ、もったいない」などと言う人もいたけれど、「おぉ、おめでとう。楽しみだな」と激励してもらえるのが一番うれしかった。

会社も広告業界も、もしかしたら日本社会すらも、僕にとっては複雑になりすぎて、ちょっと小休止であり、僕の人生にとっては大勝負といったところだ。別に、なにもかもに厭世的になってここに流れてきたわけではない。もちろん用心棒でもない。

カナダに来て、まずお世話になったのはジェイクというカウボーイだ。ジェイクといっても、彼は日本人だ。愛称で長い間そのように呼ばれている。ジェイクは十数年に渡って、ステュアートという老牧場主の下でカウボーイを生業としている。

「カウボーイとは何か」という説明は、僕も今それを自分なりの解釈で言葉にしたいと思っているところなので省きたいが、簡潔に述べるなら「牧畜業」でいいと思う。食肉用の牛を育てて売る。それが本業だ。そのために、穀物をはじめとした作物も栽培すれば、人間の手足となり働く馬や犬も世話しなくてはならないし、様々な機械も運転・操作しなくてはならない。

僕はジェイクのところで数日間手ほどきを受けてから、カナダ人の牧場に移るのだ。

牧場の朝は早い。ジェイクは七時には家を出る。クワッドと呼ばれる四輪バギーで牛たちの見回りをし、馬たちに餌をやる。その他、敷地を囲って牛たちの移動を制限するフェンスの修理、出産や治療といった牛の世話、牧草の管理、トラクターや各種機械のメンテ・修理などなど。毎日あれこれとある仕事のほとんどを、ジェイクひとりの手で行うことに驚かされる。

土日というものはないに等しい。一日家でゴロゴロという日は何かよほどの幸運か、大雨や雪で閉じ込められるなどの不幸が起こらない限り訪れない。それでも、夕方から遊びに行くとか、一緒に働いている牧場主の息子、ディーンに任せて数日間キャンプに出掛けるといった余暇はたまにある。

ジェイクの牧場にはミーと名付けられた寝たきりの牛がいた。尿管結石を伴う病気らしく、お腹に穴を開けられ、垂れ流しの状態でアリーナ(馬を調教する厩舎)の片隅で時折「オォォ~」と苦しげな声を上げていた。その日、僕たちは夕方からロデオを観に行こうかと話していた。ところが、いざ出ようとしていたところ、そのミーが横倒しになり動かなくなっているのを発見した。

ジェイクが確認するとすでに絶命していた。

急遽ロデオ観戦は中止して、ミーの死骸処理をすることになった。解体して、肉は冷凍し犬の餌にするという。ジェイクは「もしも気分が悪くなったりしたら、向こうにいていいから」と言う。僕は血が苦手なので内心ビビったが、押しかけカウボーイをしている以上、できることはやらなくてはいけない。顔は青ざめていたかもしれないけど、なんとか平静を装って彼の指示を待った。

ジェイクはまず牛の首にナイフを入れて血抜きを行なった。それから、ミーの亡骸の両足に鎖を結び付けてトラクターのバケット(ショベル部)にくくる。トラクターを操作して体重五〇〇キロ以上はあろう牛の体を逆さ吊りに持ち上げる。ミーの鼻から血液と体液が流れ出てそこに血溜りをつくる。足首からグルリと皮を切って、脹脛から真っ直ぐ下す。そうやって、皮下脂肪と肉の間に刃を入れて毛皮を剥いでいく(以下、残酷描写のため省略……)。

とにかく僕はナイフ片手に、ジェイクの仕事をできる範囲で手伝った。訪れて四日目のことだ。

翌日、ジェイクとクワッドに乗って牛の見回りに行くと、一頭の仔牛がうずくまっていた。ジェイクが後ろに回り込むと、お尻のあたりから肉が赤く露出していた。

「コヨーテに噛まれたんだ。肛門のあたりの柔らかいところを狙うんだ」 と、ジェイクが教えてくれた。 「こいつは助からないから、殺るしかない……」

ヤレヤレという顔をして彼が言う。ところが、牧場にライフルと弾丸を取りに帰ると、二十二口径の弾だけが見つからない。

「他のもっと大きな弾ではダメなんですか?」 と、素人の僕が尋ねると、 「それでは頭ごとブッ飛んでしまう」

牧場主のステュに報告に行くと、「それならナイフでやれ」と言う。ジェイクはさすがに嫌そうな表情をしていたが、「ボスの言うことだからさ……」とそれに従う。

僕は「写真を撮るので、離れたところにいていいですか」と断って、カメラを構えた。それを言い訳にして直視したくなかったというのが正直なところだ。

ジェイクがロープを投げて仔牛を捕え、身動きを封じるために縛りつける。他の牛たちが、一様に不安げな眼差しをこちらに向けている。その視線に抗議めいたものを感じなくもない。

ジェイクはナイフを手に仔牛の胴体を跨いだ(以下、残酷描写のため再び省略)。

僕は、自然と対峙し、命あるものを扱う厳しさを目の当たりにした。仔牛の生命が完全に消失するのをうな垂れて待つジェイクの後ろ姿に、僕はなんだか感情の昂ぶりを覚えて涙をこらえた。

「二日で二頭失うとはね」と、手を血だらけにしたジェイクは諦めの混じった笑みを見せた。

これが五日目の出来事だ。

こういうことが毎日のように起きる、と言っては語弊があるが、起きてもおかしくない状況にあることは確かだ。しかし、これらは「どうでもよくないこと」で、緊急の判断と対応を求められる。死肉は腐る前に処理しなくてはならない。襲われた仔牛は苦しみを長引かせるよりも殺処分してしまうべきだし、銃弾がなければ刃物を用いて手を汚しながら仕事をやり遂げなくてはならない。ビジネスとしては、コヨーテ被害は保険申請の対象だから損害を写真に収め死骸を持ち帰り、証拠を残さなくてはいけない。

翻って、広告会社時代のオレよ。なんと「どーでもいい」ことに右往左往させられてきたことか。いや、今でも働く仲間たちには申し訳ないが。いやいや、みんなもうとっくに気付いているだろう。ほとんどのサラリーマンの仕事など、どーでもいいことの集積だ。

ちゃんと手続きを経て制作して掲出済みのポスターに対し広告主の上役が「なんだこれは!」とお怒りだという情報を誰かが持ち込んでくる。僕ら制作チームは、渋々会議室で頭をつき合わせて代案をヒネリだし、デザイナーたちは徹夜してそれを提案用に描き出す。

いざ上役を呼び立てて、「こちらが『元々の』ポスターです。こういう意味が込められています」とプレゼンテーションすると、 「あっはっは。おもしろいじゃないか」 と、彼は聞いていたのとは全く違う反応を見せる。そりゃそうでしょうよ。我々プロが本気で作ったのだ。プロのギタリストに「ギターうまいですね」と言うか?

うちの営業が「次のはもう見せんでいい」と目で合図を送ってくる。結局、オオゴトどころか何事もなく、元々のポスターで一件落着する。一体なんの騒ぎだったのだ。徒労感とデザイナーたちへの申し訳ない気持ちで恥じ入る。そのポスターはのちに、広告コピーの賞を受けた。

おそらく上役は悪気もなく、「アレさぁ、誰が作ったんだい? ワタシはちゃんと見ていないが?」とでも言ったのだろう。小指の先みたいな些細な一言を、さも天地がひっくり返ったようなオオゴトになるまで拡大して、若いデザイナーたちの週末は、彼らの労働時間は、彼らの家族は……。こんなことの繰り返しだ。

またちょっと涙出てきた。

とはいえ、大きな意味ではどんなことも、もしかしたら僕ごときの人間が死ぬことですらも、どうでもいいことなのかもしれない。カウボーイにとって牛というのは財産であり商品だから、敷地から逃げられたりするのはオオゴトだ。ジェイクの友人のカウボーイは、逃亡した牛がなかなか見つからなかった時でも「まぁ、同じ地球上のどこかにいるさ」と笑ったという。

僕は、僕にとってはどうでもよくないことをしようと思うんだ。少なくともこの夏は。