月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「彼女は、死んだのだ」

こんな駅貼りポスターを目にした。人材派遣会社だったか、転職情報会社の広告で、こんなコピーが書かれていたかと思う。

  • 「大人のあなたを変えるのは、恋と仕事です」
僕はこれを見て直感的に疑問を感じたのである。「そうかな……?」と。
いや、正直に申せば、心の中では「なにを甘っちょろいことをヌカしとんねん!」と毒づいたのである。
ハッキリ言おう。大人を変えちまうのは、「死」なんだよ。
仕事については異論はない。あの純真だった私を、薄汚れた大人に変えてしまったのは、仕事である。これを書いている本日、私は三十九才になった。一般には働き盛り、つまり薄汚れ盛りである。ハッハッハ。カネよこせ。
恋で変わるのなんかは大人ではない。恋で変わっていいのは、思春期の人間である。初めて手をつないだ、初めてキスをした、初めて人の肌の温度を知った。こういう一つひとつのステップを経て、人は成長するとするならば、恋によって確かに人は変わるのかもしれない。
しかしだ、我々大人は、一旦の完成品として(恋愛)市場に製品として陳列されているべき存在である(あ、結婚とかしてるのに、「我々」などと今、ちゃっかり自分も入れた)。
もちろんマイナーチェンジされることはあっても、完成品として販売されている限り、完成品として市場の過酷な審判を受けるべきなのである。「恋すると変わりますから、ボクを選んでチョ」なんていうポンコツを受け容れることができるだろうか。オトトイ来やがれ、だろう。
僕が「大人を変えるのは『死』である」と気付いたのは、父親が死んだ時だ。そこでまず、「人は本当に死ぬ」ということを知った。それまでは、死を身近に感じたことはなくて、ドラマや映画の中で死んだ役者が、また別の作品に出てくるような、漠然とした再生可能な感覚があったような気がする。それが、オヤジがいなくなって、もう話すことができないと悟った時、「うわ、本当に死んだんだ。死ぬってこういうことなんだ」ということを徐々に受け入れざるを得なかった。
それから、自分が三十五才になった時、今度は「うわ、オレの人生もう半分終わったんだ」と知った。僕の家系はあまり長命ではない傾向があるので、七十まで生きれば万々歳だ。だから、普通に考えて半分来てしまったと考えたのだ。
それ以来僕は「我慢メーターの目盛り」を、「弱」の方向に動かした。「若いうちは我慢だ。勉強だ。謙虚さだ」と思って働いてきたのだが、ふと気付いたら若くもなくなっていた。いつまでも我慢していたら、このまま人生が終わってしまうと思ったのである。
とはいえ、「辛抱できないオッサン」こそが、切れる若者よりもずっと社会の害悪だということを僕はわかっているので、我慢しないことを自己中心的であることと履き違えないようには注意している(つもり)。
喩えるなら、「最後に残った唐揚げを放置しない人間」になろうと決めたのだ。衝突を怖れて、一つ残った唐揚げを見て見ぬふりするのではなく、自分で食べるか、誰かにあげることを心がけているのだ。つまらん喩えだったな……。ちっさい人間は喩えも小さい。
まぁ、とにかく少なくとも「死」によって、大人としての僕は変わったのである。言いたかったのはそういうことだ。
そして、壊れかけのワタシから、「思春期に少年から大人に変わる」のに不可欠なのが、「失恋」なのであるということも付け加えておきたい。前回、「恋愛と失恋はセットである」と述べたように、哀しいかな、失恋によって少年は大人になっていく。オレは失恋もしたことない人間を、大人の人間とは認めていないぞ。
失恋に関しては評論家になれるくらいの経験がある私でも、簡単で、素早くて、お得な別れ方というのは未だに指南できない。しかし、これからまだまだ失恋していくであろう前途ある若者に言えることはいくつかある。
  • ■「他に好きな人ができた」
これは最悪の部類なのでやめておきましょう。「捨てられる」という拒絶感と、「人に取られる」という敗北感をダブルで浴びせる必要はないのだ。
  • ■「友達に戻りましょう」
戻れたためしはないので、やめておきましょう。「過去に友達だったことなんかねえよ! オレはいつだって、そういうイヤラシイ目で君を見てきたよ!」と、僕なら思うかな。失恋は語れるほど知っていても、恋愛の方は、全然経験したパターンが少なくて申し訳ない。
  • ■「あなたのことが以前ほど好きではなくなったの」
このあたりが及第点かもしれないな。そう本音を言われると、ちょっとは反省する気になれるかもな(今僕は、過去のあれこれを反省している神妙な顔をしている)。
  • 「そんなこと言わずに、以前のようにボクを好きになってよ!」とか言っても仕方ないしな。前号からの繰り返しになるが、人の心はコントロールできないのだから。
  • ■「お互いのために別れましょう」
アメリカ人か。
あいつらはそんなことを言いつつ簡単に離婚して、週末になると子供を迎えに来ては、別れた女房とハグしているから意味がわからん。「お互いのためとか、オレを勝手に含めるなよ。オレを捨てるのは、オレのためにはならん。なぜなら、嫌だから」だ。
なお、アメリカ人夫婦が結婚二十周年を迎える確率は、半分とちょっとだそうだ(女性で五二%、男性で五六%:National Health Statistics Reports 2012)。
あ、そうだ。僕は別れる専門家なのではなくて、フラれる専門家なのだった。
失恋すると色々とウジウジ考える。この未曾有の、経験したことのない辛さに、世界の終わりが到来したかのような気分になる。大変な痛みを伴う、人生の構造改革だ。どう対処していいかわからないから、とりあえずテレビで見たことある「フラれた人が取る行動」をとってみると何か効果があるのではないかと、縋るような思いで考える。酒を飲んでみるとか、雨の中を走ってみるとか、部屋の隅っこで体育座りしてみるとか。
ハマショーを聴くとか。そりゃオレか。
残酷な真実を突きつけるようだが、失恋とは、「あなたは私の人生からいなくなってくれて構わない」という宣告である。商品だったあなたが、ついに不燃ゴミになったのである。この屈辱感とか喪失感とか絶望感とかは、なかなか若い心には処理しづらいものだ。
辱められたような気持ちになって、一部の男は「リベンジ・ポルノ」で仕返しをしようとしてしまう。男はこういう卑劣な反応をしては絶対にいけない。お前の人間としての価値を下げるからだ。しかも、「自分のチ〇ポも写っている」という恥ずかしい事実をわかっているのか、僕はとっても疑問なんだな。
さて、結論めいたことを言うぞ。女性のことは僕はまったくわからないし、「男性は恋愛の記憶を保存し、女性は上書きする」というからな、あいつら全然アドバイスとか必要としていないからな。主に男性諸君に言うぞ。
いいか、失恋とは「死」なのだ。
君ではない。死んだのは彼女の方だ。彼女は死んだのだ。
失恋も死も、その激痛がどこから来るかといえば、喪失からだ。「もう逢うことができない」という別離の難さ(かたさ)という意味で、本質的には同種だ。
よく、死んだ人がまだ「心の中で生きている」という表現がある。死に接したことのある人間なら、それが本当に起こり得ることだと理解できるだろう。
あれの逆バージョンを心の裡で創製するのだ。実際には死んだ人が心の中で生きているように、実際には生きているかもしれない彼女は、君の世界では死んだのだ。いや、実際に死んだものと思え。君の世界とは、君の生きる現実のすべてだ。そこでは、彼女は、死んだのだ。
敢えてそのように思い込み、自分を説得し、難しくても嚥下し、受諾するしかない。
それができた時、人の痛みが分かる大人の男が一人、そこにいるだろう。
そして、「死んだ彼女」が「心の中で生きていて」、「あの世で元気にしてるかな」と、あたかも死者を思うが如く、その幸せを祈れるようになった時、彼女は本当に、君の中で死んだのだ。いや、本当にじゃないんだけど、本当になんだ。この複雑な心理状態こそ、大人の心の複雑さなのだ。
大人を変えるのは「死」なのだ。
本当のこと過ぎてポスターには採用されないが、そうなのだ。