月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「二〇〇〇㍍と二〇〇〇㌔の旅(トレイル篇)」

  • 2/4回
カリフォルニア山岳地で、朝の涼やかな空気を吸って、コーヒーでも飲むとこれから冒険に臨む気分が高まる。二三六三メートルのスミス・ピークは標高だけを見れば大した山ではないかもしれない。しかし、ウェブサイトでは、「あまり使われないトレイルを六・七マイル行く」と書いてあった。マイナーなコースなのだ。人がいないのだ。ということは、トレイルが草に埋もれて分かりにくいかもしれないし、熊が出るかもしれない。
モーテルの駐車場に停めたシェビー・タホーに、僕、友人の大谷さん(仮名)、後輩の滝下(仮名)の三人分の荷物を詰め込み、出発。
ヘッチーヘッチーからヨセミテ公園に入るための道を探して走る。細かい道なので、僕が持ってきていた地図にはそこまで載っていなかった。代わりにWi-Fiルータ関空でレンタルしてきていたのだが、山奥に入るに従いその電波もなくなる。たまにアイフォンが受信しても、なぜかGPSが不正確で現在地を示すことができない。
  • 「日本の道だったら、標識がもっと親切だよねぇ」などとこぼしながら、なんとか森の奥にヨセミテ公園のゲートを発見した。そこでレンジャーと入園の手続きをするのだ。
オリーブグリーンの制服が凛々しい髪もヒゲも赤いレンジャーが、ゴミや熊に関する注意点、スミス・ピークへのトレイル上でのわかりにくいポイント、そして、森でのウンチの仕方などを丁寧に説明してくれた。
  • 「原生自然でのウンチの仕方」という貼り紙までしてある。要点はこうだ:
  • トレイルやキャンプ地からは一〇〇フィート(約三〇メートル)、水場からは三〇〇フィート(約九〇メートル)離れた地点でする。
  • 六インチ(約一五センチ)以上の穴を掘り、そこでする。
  • 土を元通りに埋め直す。
生まれて初めての野ウンチができるかも、とウレシ恥ずかしワクワクな気分で心が高鳴る。
そこでは、熊から食べ物を守るベア・キャニスターという高さ三〇センチ、直径二〇センチくらいの強化プラスティック製の筒を借りた。これの携行は義務づけられているのだ。テントで寝る際には食べ物や汗拭きシートなど匂いのするものは全てこの中に入れ、テントから離して置いておく。
僕は訊いた。
  • 「えーと、『離す』と言っても、どれくらい離して置けばいいのですか?」
レンジャーは即答だった。
  • 「それは君が、熊にどれくらい近付かれても平気かによる」
おいおい! どれだけ遠くても基本的には平気じゃねえよ!
まぁ、こういう場所なのだ、とお分かりいただきたい。
自然環境と自分の身を守るための厳格なルールがあり、その責任を負える者だけが入園を許されるのだ。もちろん日帰り観光ならその限りではない。
僕のバックパックが一番容量が大きかったので、ベアキャニスターは僕が担当した。水が三リットルに、テント、寝袋、マット、食糧、食器、バーナー、防寒具、雨具などなどですでに大きく膨らんだバックパックに、さらにベアキャニスターを捻じ込み、背負ってみると呻き声が漏れる。
車をトレイルヘッドに駐車し、歩き出すと、すぐに急登だった。九十九折の山道を登るに従い視界が上がり、右手後方の彼方にヘッチーヘッチーのダム湖が見える。空の青さと、ダム湖の水の碧さに歓声を上げていられたのも束の間、我々三人はすぐに汗に塗れた。
暑いのだ。太陽が肌を灼くのだ。予想していたよりもずっと暑くて、乾いていて、頻繁に休憩を取らざるを得ない。
乾き切った土を踏みしめ、土埃にブーツを汚しながら、脚全体の筋肉を意識して一歩一歩往く。消耗も怖いが、怪我も怖い。
それでも、前半戦は草花が目を楽しませてくれた。長さ三〇センチはあろうかという松ぼっくりの巨塊。テニスボールサイズのタンポポの綿毛。鼻孔をくすぐるラベンダーの花の群れ。
色鮮やかな花畑の中央にうっすらと識別できるトレイルを進む滝下(仮名)の後姿を眺めていると、
  • 「あいつ死んだんちゃうか。ここは死後の世界か」
  • 「そっちに行ってはダメだ! 戻って来い!」
  • などという不謹慎な冗談が思い浮かぶ。イメージとしては、白いコットンのざっくりとした衣服を着た金髪の美女たちが、滝下を取り囲んで「あははは」「あははは」とスキップしている感じ。
  • 「滝下! お前には見えていないのか! ダメだ、惑わされるな!」
まぁ、そんなのが僕が想像する「楽園」なのだから仕方ない。
しかし、楽園は一瞬だ。ずっと気になっていたのだが、周りの杉林がやたらと黒焦げなのだ。炭化した木々の残骸が、死してなおその場で屹立していたり、横倒しになって無残な骸を晒している。真っ黒の林に足を踏み入れると、古の戦場跡のようで不気味だ。一度など、焦げて横たわる幹と枝のかたちが、虚空を掴みながら焼死している巨大なトカゲように見えてゾッとした。
これは新しく植林でもするための焼畑のようなものなのか、木々を侵した疫病をそれ以上蔓延させないための処置なのか、その時点ではよくわからなかった。
その後も焼けた杉の木はずっと続き、パサパサに乾いた土と石と草の道を、三人は荒い息をついて進んだのだった。
途中、何か土木作業をしている一団のそばを抜けた。大谷さんが怖がって、「ちょっと先行ってください」などと僕に道を譲る。ガイジンをビビりすぎだって。そういえば、サンフランシスコで僕が運転中に、ノロい車にクラクションを鳴らしたら「や、やめてくださいよ!」と制止していたっけ……。作業者たちに僕が手を振ると、向こうもにこやかに手を振り返してきた。
僕たちが車を停めた場所にもう二台あったのが彼らのものなのだろう。女性も何人か見えたが、大変な仕事である。現場まで何時間も徒歩で登るしかなく、肉体労働をしてまた同じ道を戻るのだろう。
散々歩いて、トレイルが小川にぶち当たった地点で地図を開く。するとまだ半分と少ししか来ていないことがわかり愕然とする。いや、本当は半分にも達していなかったかもしれない。僕は、山歩き初心者の滝下を絶望させないために、小さな嘘をついたのかもしれない。
その日の予定では、僕たちはスミス・ピーク手前の、スミス・メドウ(草地)で一泊テントを張り、翌日に頂上を攻略して下山するはずだった。しかし、メドウまでまだまだありそうだ。
しばらく川を右手に見下ろしながら崖道を往く。川といっても草叢の中を流れていたり、淀んで溜まっていたりで、ちょっとわざわざ降りて行ってまで水を汲もうという気にはなれない。そのあたりの途中で休憩中に、唯一のハイカーとすれ違った。滝下が言うには「カメラマンですね」ということだ。本格的な三脚を持っていたし、森林の中で目立ちにくい色の服で身体を覆っていたからだ。
呼び止めて、メドウまでの遠さを尋ねてみた。彼はサングラスの向こうで表情も変えずに答えてくれた。
つまり、「About an hour? (一時間ってとこじゃないかな?)」ということだ。そして、彼は物凄い速度でトレイルに消えて行った。
先頭の滝下が引き攣った表情で僕らを振り向いたのは、そのしばらく先でのことだ。
  • 「く、熊がいます……」
斜面の前方二十数メートル先を、熊が上手から下手へ移動している。仔熊なのだろうが、僕らよりも明らかに大きな茶色い塊だ。そして、速度が速い! 斜面を横移動しているとはいえ、岩もあれば倒木もあるだろう。それをものともせずグングン前進している。
熊をやり過ごす間、三人はフリーズして「こっちに気付くな、気付くな」と念じた。
物音を立てないようにカメラを起動させてズームしてみたが、結局、木立の間に姿を朧げに捉えられたのは大谷さんだけだった。その画像だって、言われなければどこに熊が写っているのか判別できないくらいのものだ。
安堵の溜息をついた我々は先を急いだ。この先確かにスミス・メドウまでもう少しだったと思うのだが、僕のある勘違いが隊に予定の変更を強いてしまった。
トレイルが別のトレイルと交差するちょっとした広場に出たところで、道案内の標識があった。そこには「Smith Peak 1.5」とあり、ピークまで一マイル半ということだったのだが、僕はそれを「スミス・メドウまで一マイル半」と思い込んでしまったのだ。
つまり、そこがスミス・メドウだったのに、「うわー、まだかよー」と落胆しつつ、さらに奥へと進むことにしてしまったのだ。
地図によればメドウの直前はこんなに登っているはずはないので、「おかしい、おかしいぞ」と思いながらも、実際に目の前のトレイルは上っているのでとにかく登った。
幸運なことにきれいな水が流れる川を見つけ、今夜分の水を得た。持参したフィルターで濾過して、ボトルや水用バッグに保管した。
大谷さんの指摘で、メドウを過ぎてしまったことには気付いたが、メドウにはまともになかった水場に出合えたし、むしろ良かった。
その晩は、頂上へ達する体力がなく、それを見上げる隣の丘の上でテントを張って寝ることにした。行動時間は七時間。
ぐったりと疲れ果てていたが、テントは張らなくてはいけない。それを終えると、近くの岩場の上でバーナーでお湯を沸かして、フリーズドライの夕食を摂った。コーヒーを飲んで一服する頃には、遠い山並みが夕陽に灼け始め、それに炙られたかのように、すでに焦げ朽ちた木々の姿が漆黒の影絵になり再び命を失う。
荒涼とした丘の上で、足元は火山灰のような乾き切った細かい土。歩くたびに土埃が立ち昇り閉口したが、僕たち以外は誰もいない僻地での静かな夕闇の訪れはそれはそれで悪くなかった。
それでは、僕はお花でも摘みに行こうか……。「お花を摘みに行く」は「排泄をしに行く」の隠語だ。
以降は次号で。って、そんなん誰が楽しみに待つねん!