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月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。2003年より書いていた月イチコラム「月刊ショータ http://monthly-shota.jp 」をhatenaに転載しました。そのため、一部お見苦しい点があることをご容赦ください。

「おばあちゃんの勲章」

column

祖母が亡くなった。享年九十九。これで僕の祖父母はみな冥途へと旅立ってしまった。 おばあちゃんは十年くらい前からボケが始まり、孫の僕らはおろか、最後の数年は自分の息子や嫁たちのことも認識しなくなった。だから、その次男である僕の父親が七年前に亡くなった時も、そのことは伝えずにいた。言ったところで数分後には忘れ、もしかしたら同じ質問をしてきて、何度も悲しみを繰り返すことになるかもしれないからだ。

僕にとっては、おばあちゃんは彼女の心の中から僕のことや思い出を喪失してしまった時点で死んでしまったようなものだった。だから、葬儀場に向かう車の中では、僕は悲しい気持ちは持っていなかった。僕だったら、僕が死んだら何人かには泣いてもらいたいかなぁ、などとぼんやり思っていたくらいだ。それについて罪悪感は感じないでもなかった。 だから、せめてその日一日はおばあちゃんのことを考えてあれこれ思うことにした。

おばあちゃんに関する笑い話は尽きない。東京で生まれ育った僕にとって、西宮(兵庫県)のおばあちゃんは「トボけた関西のおばあちゃん」だった。

子供の頃、家族でおばあちゃんを訪ねた時に、庭先の花壇にあった小さな看板に兄弟みんなで大笑いした。そこには粗雑な手書き文字でこう書いてあった。

  • 「犬のフンをささないでください」

「させる」を「さす」というのは関西弁で、東京育ちの僕らからしたらそれは「犬のフンを刺さないでください」としか読めなかったのだ。カッチカチの犬のウ○コを花壇にわざわざ突き刺すことに聞こえるのだ。子供はそんなウ○コネタには大喜びだ。 甲子園球場の歓声が聞こえてくる距離にある家だったので、中学・高校の夏休みには友人を誘って高校野球の観戦に、おばあちゃんのうちに遊びに行った。そこから大阪にも出かけたっけ。

  • 「おばあちゃん、大阪の○○ってどうやって行けばいいの?」
  • 「梅田まで出て、地下鉄ちゃうかな。あのあたりでな、前に人が死んだんやで」
  • 「えっ? マジで」
  • 「木ぃにヒモ吊るしてな、首括ってん……」
  • 「えぇー! それいつごろ?」

今から向かう大阪の街がにわかに気味悪くなって僕は訊いた。

  • 「んー、……四十年くらい前や」

僕は吉本新喜劇くらいズッコケたものだ。

成人したのちの学生の頃に一人で泊まりに行くと、僕は一階の和室で寝ることになった。おばあちゃんが二階から布団を用意してくれるので、僕はせっせとそれを一階に下ろした。 季節は初秋だったろうか、僕は寒がりでもないので、そんなに多くの寝具は必要ではなかった。一階に持って降りるのもそれなりに骨が折れたし、最小限にしたかった。 だけどおばあちゃんは「これも持っていけ」「あれも要るで」と主張し、「もういいって」と断る僕のことも聞かなかった。僕は仕方なく、重たい寝具を抱えて階段を何度も往復した。

汗が滲んだ頃、全て敷き終わって布団を見ると、かなりこんもりと盛り上がっていた。 それを見たおばあちゃんは、

  • 「あんた……、これ暑ないか?」
  • 「おばあちゃんが持ってけ言うから!」

再び、吉本新喜劇だ。

鶏肉のことを関西の古い人間は「かしわ」ということを知ったのもその晩だった。

  • 「晩ごはん、カシワしかないけどええか?」
  • と言われて、僕は晩メシに「柏餅」を食べさせられるのかと思った。おかしいとは思ったけど、和菓子は好物だし、おばあちゃんちにそれしかないと言うんだから、まぁいいかと思うしかなかった。

結局、作ってくれたのは鶏の唐揚げで、ようやくカシワの意味を知ったのだった。 その際、醤油差しに中身が少なくなってて足りないことを伝えると、おばあちゃんはそれに水を入れてカサを増そうとした。

  • 「いや、おばあちゃん! もういいよ!」
  • と僕は慌てて阻止した。今思えば、戦後の物資が少ない時代を生き抜いた人からすれば、醤油が少なければ水を足してしまうことくらい何でもないことだったのだろう。

だって、九十九才ということは、敗戦の時にすでに三〇才だ。 しかも、食べ盛りの息子が三人もいて、あの生き難き時代をいかに生き抜いたのかは、恵まれた我々には想像するに余りある。

しかも、おばあちゃんは若くして夫を亡くし、保険会社に勤めながら女手ひとつで息子たちを育て上げた。六十年余りも未亡人として生きた。未亡人、つまり「未だ亡くなっていない人」という日本語も酷い表現だけど。 僕の父親はだから、自分の父親の顔を覚えていないという。生きている頃そう言っていた。「片親」という当時の表現をあえて遣うが、それで就職の際などに理不尽な扱いを受けることもあったようだ。詳しくは語ってもらったことはなかったけど。

おばあちゃんからも、そう言えば、子育て時代の苦労話などは直接に聞いたことはなかった。昔の人間というのはそういうところがある。色んなことがあっても、黙して語らず、すべきをして生きていたように、僕の目には映る。

僕からしたら、おばあちゃんは記憶にある限りおばあちゃんだったので、元々おばあちゃんだったかのような錯覚すら覚えるが、当然そうではなかったわけで。若い頃の話なんかを元気なうちにもっと聞かせてもらえばよかったと、今さらながら後悔が胸に小さな穴をあける。

昨日の通夜は、全体としてしめやかというより和やかで、「おばあちゃんのどの写真見ても、いっつもなんか食べとんなぁ」とか「おばあちゃんの家に駐車場がないから、車で訪ねた時に不便だと言ったら、川沿いの道を指さして路駐させんのよ」とか、「そのくせ、私が運転する車には乗りよんねん」とか、みんなでおばあちゃんの思い出話をしては笑っていた。

帰り道に運転をしながら、ひとつわかったことがある。 僕が死んでも、誰も泣いてくれなくたっていい。人を悲しませるためにここまで生きているわけではない。 みんなに微笑んで送ってもらえるというのは、九十九まで生きたからこその、おばあちゃんの特権だったのだ。死ぬ時に誰も泣かせないというのは、これだけ生き切った者だけに与えられる勲章のようなものなのである。老衰という死因は、なによりもカッコいいじゃないか……。

長い人生を、大変おつかれさまでした。おばあちゃんがしてくれたことすべてに、ここまで生きてくれたことに、ありがとね。