月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「演技する競技はスポーツか」

ソチオリンピックが終わって、なんだか「おつかれさん」感が世の中に漂っている。とはいっても、パラリンピックはこれから始まるので、奇麗事でなく、ちゃんと放送なり解説なりしてほしいなぁと思う。 前回のロンドン大会の時の英国のテレビ局が行なったパラリンピックの番宣広告コピーが「Meet the Superhumans」というもので、僕はコピーライターとしてこれは秀逸なコピーだと思った。人の見方を一八〇度変える言葉だと感銘を受けた。

今回の冬期ゲームは僕は熱心に観ていたわけではない。冬季スポーツに個人的になじみが薄いのと、時差による放送時間の問題もあって、夜にテレビで試合やニュースがやっていれば眺める程度だった。

ある晩、うちの主人(=妻)が女子カーリングの生中継を見ながらこう言った。 「カーリングってスポーツとは思われへんわ。どっちかと言えば、ボウリングやダーツなんかのゲームや」

汗をかく感じがしないからだろうか。僕は同意しないでもなかったが、真剣に戦う選手たちを擁護するつもりで

「いっぺんあのシャカシャカやってみ? しんどいで」 と返した。次の言葉は衝撃だった。

「それは他の人がやったらええ」

私はこういう人ともう何年も住んでいる。

ちなみに、調べてみたところ、カーリングというのは一チーム四人で、順番に全員がストーンを投じるそうだ。しかし、シャカシャカをする人はうち二名のリードとセカンドである。テレビで観ているといつも美人の小笠原選手(スキップ)か船山選手(サード)が投げているところばかりが映し出されるので、この二人しかシャーしないスポーツなのかと思ってしまう。 加えて、小野寺歩だとばかり思っていた小笠原歩氏は結婚後に名字が変わったとのことで、チームメイトに小野寺佳歩という選手がいることも、このスポーツをとってもややこしいものにしている……。

カーリングがスポーツかゲームかはともかく、あっと驚く神業や大逆転劇が飛び出すこともあるから、まぁいいではないか。 僕は、誤解を恐れずに言うなら、フィギュアスケートの方がスポーツなのかなんなのかわからんのだ。日本中が感動した浅田真央選手の演技に水を差す気は全くない。僕はニュースで観たに過ぎないが、それでも人間の崇高さというものを感じることができた。

しかしね、今も書いた通り「演技」なのだ。素朴な疑問として、スポーツで演技ってなんなんだ。以前にもフィギュアスケートに、もっと品のない観点から疑問を呈したことがあったのだけど、今回はより詳しく言ってしまおう。

スポーツで演技と言われて真っ先に思い浮かんだのは、サッカー選手がペナルティエリア内で倒された「演技」。大げさに痛がって、審判が笛を吹いたとたんに元気に立ち上がる、アレ。スポーツマンシップからは最もほど遠い行為だ。 フィギュアスケートは選手が演技をして、それをジャッジが評価することになっている。人の評価次第で得点が決まるというのが、毎回禍根を残す原因だと思う。スッキリしないのだ。 四角い枠にボールを手を使わずに入れたら得点のサッカー、スタート地点から一〇〇メートル離れたゴール地点まで同時に走り出して一番早く到着した人が優勝の一〇〇メートル走。わかりやすい。 陸上競技レスリングなどの格闘技で構成された古代ギリシャのオリンピックは、そうやって誰が強いか、誰が速いかを競い合っていて、観客を単純に興奮させるものであったろう。そういう観点からはフィギュアスケートが最も遠いものと、僕には思える。 観ている人のほとんどは採点方法も完全には理解できていないだろう。こんな複雑で細かい採点方法など、よほどのマニア以外把握できやしまい。

いや、リンクは載せたけど、僕は全部は読んでませんよ。読んだところで到底理解できないからね。ですので、以下の言説も全く素人の素人による素人のためのイチャモンですよ。

GOEってなんなんだい。Grade of Executionといい加点のことらしいのだが、要するに審判の心証ちゃうんか。フェイスブックの「いいね!」と同じことであるが、それをどうやって小数点まで使う数値(加減点)に表しているのか。食べログか。 あんなもん信じちゃいけませんよ。店やってる友人がいたら訊いてみて下さい。いかにいい加減に「★★☆☆☆」とかになってるか。 数値化できないものを評価なんてできないのだ。美しさとか、おいしさとか、おもしろさとか、クリエーティブに関するものは全てそうなのだ。好き、嫌い、いいね! しかないのだ。

熟達した審判員と大衆の無責任な書き込みを同列に扱うのは失敬だけども、審判員がそないに神ならば、審判員こそ金メダルじゃないか。どちらかといえば、審判の競技。各国代表の審判が選手として並んで、対象(スケーター)を正確にジャッジした人が金メダル。本来ならこういう競技だろう。

テレビでは、ジャンプして何回転しました、成功しました、失敗しました、という点ばかり取り上げられるのだけど、いっそせーので勢いつけてジャンプだけ見せる競技にした方がいいくらいに思える。 それがスキージャンプなのかと思ったけど、スキージャンプにすら飛型点という点数があり、複雑になっている。昔は飛行中にスキー板を揃えて飛んだのだ。現在はV字に開いているが、今後、鳥のように腕をバタバタさせてものすごい距離を飛ぶ方法が編み出されたり、M字開脚で飛ぶ卑猥な選手がどえらい記録出したらどうするのだ。頭から雪面に突っ込んで、槍投げの槍のように突き刺さるレジェンドが現れたらどうするのだ。つまり言いたいのは飛型の美しさなど、普遍的なものではないということだ。走り幅跳びに飛型点なんかありますか? 着地して足を前後にズラして膝を曲げる動作をテレマークといい、これができないと減点になるという。残念ながら新レジェンドは現れない。

話をフィギュアスケートに戻すと、回転ジャンプを競うだけにした方が良いと思うことをわかりやすく説明するために、こういう場合を想定してみよう。 仮に、デブでブスで肌ブツブツで少数民族で(欧米から見た)異教徒の呪いの音楽的なものに合わせて滑る選手が七回転半くらいするとしよう。現状のフィギュアスケートで、この人は金メダル獲れますか? おそらく獲れないことくらい想像できますよね。ということはこの競技はなんなんだ。回転数を競うだけにすれば金メダルを差し上げることができるのだ。どうでしょう?

美しさみたいな曖昧なものを基軸にするから、それをどうにか競技として成立させようと糊塗するがために、かように複雑怪奇で、結局は納得のいかないものになっている。金メダルに輝いたロシアのソトニコワ選手が、一体どういう演技で最良の評価を得たのか、私たちに簡潔に説明できる人はいるのだろうか。

あー、なんだか自分が屁理屈ばっかの最低な人間に思えてきたのでそろそろやめよう。屁理屈ばっかの最低な人間であることは否定しないが、しかし、これは我々サラリーマンの世界にも言えることなのだ。 よくテレビで、営業成績を棒グラフにして「所長賞」とかをあげている光景が出てくるが、同一・単一の商品を売っているならそれでいい。ところが、もうちょっと大きな会社で、複雑な仕事で、部署も担当も違う人間たちを評価することなどハナから不可能なのである。 営業成績は抜群だけど人間性はクソな人と、仕事はできないけど周囲をいつも和ませてくれてオフィスの雰囲気をとても良くしてくれる人、つまりそれによって周りの人が好影響を受けて社業が順調に回っているような人、この二人をどう評価できよう。カネだけを評価していくのがアメリカ的なやり方なのだろうけど、それでできてきたアメリカ社会の現状をよく見てみよう。マネしちゃいけないパターンでしょう。

競争がいけないなどと、日教組みたいな幻想を説くつもりはない。競争するなら、条件を整えて公正にやるべきだ。特にそれがスポーツなら。 屁理屈をさらに重ねてしまったが、僕がフィギュアスケートを好きになれない最大の理由は、先述のようにそれが「演技」だからだ。演技なのに競技面しているからだ。男子金メダリストの羽生選手のゼエゼエした姿など、正直かなり演技くささを感じてしまう。穿った見方をすれば、今後女子の選手はみな演技後に天を仰いで涙しないとも限らない。演技なのである。心証を作り上げる競技なのだ。こう言ってしまっては言い過ぎだろうか……? いや、いろんな部分で言い過ぎた気がします。すみませんでした。