月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「人は青春にしか生きられないのだ」

高校生の頃に、映画が好きでよく劇場に行っていた。今は亡き池袋の文芸座(現在は新文芸座としてパチンコ屋のビルの一テナントとなっているという)に、旧作の映画を観に行った。現在の新文芸座で、名画が二本で一三〇〇円という。九〇年代当時は千円ではなかったかと思う。
映画雑誌もよく購入していた。そこでたまに「歴代名作ベスト一〇〇」みたいな特集があると、思わす手に取ったものだ。しかし、大概失望して雑誌を棚に戻した。
なぜなら、いっつも上位は『天井桟敷の人々』『市民ケーン』『カサブランカ』やチャップリンの白黒映画に占領されていたからだ。当時十代の僕が、そんな古い映画を素直に観てみる気持ちにはなれなかった。まぁ正直、三〇代後半になった今でもなれないでいる。
教養の問題と言われてしまえば「はい、すみません」としか言えない。
あえて、自らの恥と無教養を晒すつもりで言うならば、半世紀以上も前の表現が自分の歴代ベストだ、なんて言えるのは、人間の進歩を否定しているとすら思える。その半世紀の時間に、人間は過去の作品を越えるべく常に研鑽を重ねてきたわけで、それが成功していないはずはない。成功していないとするなら、人間は進歩していないことになる。そりゃところどころでは優れていても、トータルで劣っているはずはない。随分を乱暴な論理だが、僕は基本的にはそんなふうに考えている。
異論がある向きには、
「ほな、お前、ポルノの進化知ってるか? 昔の人はこんな汚い画質の、ブスしか出てない、インチキのポルノで興奮してたんだぜ。お前今でも同じように興奮できるか?」
と問いたい。
いや、観ないわけじゃないんですよ。あ、フツーの映画の話に戻しましたよ。たまに観てみるんです。でもその度にガッカリするのである。老人たちが熱く語る作品への思いを共有できなくて、世代感ギャップだけでは済ませられない隔たりと、自分の底の浅さかという疑いと、しかし僅かな優越すら感じるのである。
「あなた方、よーこんなんで興奮してましたよね。えらい時代っすね」という侮蔑にも似た感情。あ、今はポルノの話に戻しました。
映画に限らず、文学でも音楽でもなんでも、古典と呼ばれるモノをリスペクトしたい気持ちは持ち合わせているのだが、いざ娯楽としてそれらを鑑賞して、自分のベストに挙げるかとなると、おそらく挙げない。そこまで感動できない。
シェークスピアはもちろん、フィッツジェラルドも読んだことないけど、ヘミングウェイなら読んでみた。ギンズバーグは読んだことないけど、ジャック・ケルアックオン・ザ・ロード』は読んでみた。しかし、まぁ「わけわからん」のですわ。私には。
僕個人のベストの映画を挙げるなら、
  • 一)『スタンド・バイ・ミー
  • 二)『プラトーン
  • 三)『ダンス・ウィズ・ウルブス』
  • かなぁ。いつも言うことだけど、芸術表現を数値化して順位付けるのは愚かしいなどと、理屈っぽい言い訳をしながらさせてもらいますが。
これら全て、僕が十代の頃に観た作品である。二〇代、三〇代と生きてきて、その間何百本という映画を観たかもしれないけど、結局、青春時代初期(現在はその中期バリバリ真っ只中)に触れたものの評価が最も高くならざるを得ないのだ。やはりその頃が一番心が柔軟で、感受性が高くて、無知だったのだろう。そして、感動できる何かを求めていたのだろうと思う。人生には感動が詰まっているのだ、そのはずなのだと、信じて疑わない時期だったのだと思う。
誰でもそうなのだ。だから、年寄りの映画評論家に訊いて回った「歴代ベスト一〇〇」は、当然白黒映画ばかりになるのだ。彼らが若い頃に衝撃を受けつつ観た映画なのだ。
結局、人は青春にしか生きられないのだ。
所謂青春時代に好きになったものに、再び出合えることを求めて一生彷徨っているだけなのではないかと思う。それがなかなか叶わずに、青春時代に惚れたものや持った感情(友情、恋愛感情、社会への怒りなど)を反芻しつつ、その対象たり得るものに再会できる機会を探し回りながら、残りの時間を生きているのではないかと思う。少なくとも、僕はそうしているような気がしていて、それができなくなった時には死んでもいいとすら思っている。
どんなに腐ったクソおやじでも、「オレはちがう」と否定することができるだろうか。まぁ腐ったクソおやじは、そんなん気にせんでええから早く死んでしまえとは思うが。
僕は幼少の頃は『仮面ライダー』世代であり、十代の頃は『北斗の拳』、『マッド・マックス』、『ターミネーター2』世代(そんな世代くくりは聞いたことないが)として過ごした。だから、男はモーターサイクルに乗るものだと思っていた。悪い男も、善い男もバイクには乗って然るべきだったのだ。大人の証であり、自由の象徴であり、現代のカウボーイの相棒なのであった。
十年前にやっと鉄馬を手にして跨がった時の震えるような昂揚と怖れは、今でも忘れることができない。
今でもどこかであれを探し求めている。心には、果てしない大地を貫く一本道がはっきりと描かれている。
えー、大変失礼いたしました。だいぶ遠回りしましたが、以上が、十年前におかんに黙ってモーターサイクルを買った僕が、昨日二台目を主人(=妻)に黙って購入した理由です。
こんな具合で、ご納得いただけますでしょうか。