月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「おっさん的傾向と対策」

週が明けると年度が変わり、僕は入社十二年目になる。
昨夜は会社の野球チームでシーズン開幕前の飲み会をしていたのだが、知らない間に自分が若手ではなくなってしまったことに気付かされた。僕よりも先輩の四〇代の方々とテーブルについて、皿やビールなんかを給仕しようとすると、二〇代の後輩たちが「いいですから! ショータさんは座っててください」と僕を制すのである。
テーブルもなんとなく、おっさん組と若手組に緩やかに分かれて座ったのだが、当然のように僕はおっさん組である。
現在の三十六才という年齢は、普通に考えればおっさんの年齢である。もしくは、どう甘い目に見ても、かなりおっさんに近づきつつある年齢であると言わざるを得ない。
なってしまうことは止められないので、こういうおっさんにはなりたくないというイメージと、そうならないための対策をそろそろ具体的に持っておかなくてはいけないと思うのである。人生何事も備えである。
  • 【髪型だけ若いおっさん】
いわゆるギョーカイ人にいるタイプだが、肌の質感もシワも体脂肪率もおっさんそのものなのに、頭髪だけジャニーズみたいな人がいる。あれが僕が「なってはいけないおっさん像」として思い浮かべる最たるものだ。髪型「だけ」というのがポイントだ。
たぶん、三〇くらいから「若く見えますね」とか「二十五くらいだと思ってた」とか言われてきたのだろう。そして「自分は若い、自分は若い」と思い込んでいる内に、外面はそうでもなくなってきて、いつの間にかセルフイメージと実際の姿に乖離が生まれてしまうのだ。このセルフイメージと実際の乖離というものが、おっさんが犯す間違いの根因となっている。運動会で思いっきり前のめりに転んでしまうお父さんも、要するに頭の中での「こんなふうに走れるはず」というイメージに、実際の肉体が付いて行けずに、意識だけが体を取り残したまま前に飛び出してしまい、頭から地面に突っ込んでしまうのだろう。おやじギャグだって同じで、彼らが若かった頃はそれでおもしろかったはずなのだ。しかし笑いの感覚というのは時間とともに変化するから、当時のままイメージしてた冗談と、今の実際の笑いに隔たりが生まれているのだ。セクハラも同様。昔は親しいOLさんのお尻とか普通に触ってたらしい。少なくとも、うちの親父は触ってたらしい。
「髪型だけ若いおっさん」にならないための対策としては、自分を客観的に見つめる、と言いたいところだが、これだけ多くの人が失敗しているのだから、難しいことなのだろう。誰だって勘違いしたまま生きていても構わないなんていうスタンスではいないはずだ。そりゃ自分は自分だけは自分を客観的に見ることができていると思い込んで生きている。「あなたとは違うんです。私は自分を客観的に見ることができるんです」と記者を面罵した首相がいたが、誰もそうは思わなかったもんね。
だから、客観的になんてなれないことを自覚して、「そもそもジャニーズみたいな髪型なんてハナからしない」ことだ。これが一番よい対策になる。
ジャニーズはあくまでも例だが、流行りの髪型なんてするからおかしなことになるのだ。髪に限らず服装もそう、喋り方や語彙、語法もそう。流行りというものに乗っかるから、あとになって恥ずかしい目に遭うことになるのだと思う。流行はまた一周するから今後のことはわからないけど、肩パッド、巻き上げてスプレーで固定した女性の前髪、ダブルのソフトスーツとか一体なんだったのだろうと、今四〇代の方々は茫然とする思いで回想することだろう。恥ずかしいですね。
言葉はもっとサイクルが早くて、リバイバルはほとんどしない。生き残るか死ぬかだけ。「チョベリグ(一九九六)」「おっはー(二〇〇〇)」「残念!(二〇〇四)」「どんだけー(二〇〇七)」などなど、今聞いたらサブいでしょ。だから死服はないのに、死語という言葉があるのだろう。カッコの数字はユーキャン流行語大賞にノミネートされた年である。
今から数年たったら「なう」なんかもそうなっているかもしれない。というか既にその兆候が感じられる。
自分の昔の写真を見て恥ずかしいと感じる人は来し方を考え直してみた方がいいのではないか。
追うべきは流行ではなく永遠なのである。いつの時代に見てもカッコいい髪型って、わりとスタンダードな(非奇抜な)髪型だと思うのだが、なぜジェームズ・ディーンのリーゼント系の髪型は常にカッコいいのか。個人の感想ですけど。
服もそう。長く使えるものというのは、結局流行に左右されないものだ。
と思って、僕はまぁ、髪型はなるべく手の込んでいない感じの、前髪を上げる頭にすることを心がけているんだけど、あまりこだわり過ぎてオリジナリティを創り過ぎると、いつ「髪型だけ若いおっさん」に成り下がってしまうのか、非常にギリギリなラインを歩いているような気もする。やはり、自分のことはわからない。
  • 【ややこしいおっさん】
仕事上では、誰しもややこしいおっさんから迷惑を被った経験をお持ちなのではないだろうか。ややこしいと一言で言っても色んな種類があるのだが、ここで指すややこしいは「自分が正しいと思い込む力」の強い人だ。
以前に、とある有名なCMディレクターを追ったドキュメンタリーを観たことがあり、その中で彼は撮影中にカメラマンと意見が食い違い、お互いに譲らない場面があった。カメラマンの方も一流の人だから、彼自身の意見がある。結果的にはディレクター氏が意見を貫き通し、番組はそれを「プロのこだわり」「自分を信じることの大切さ」のように美化して伝えていたと記憶する。
そこで僕は引っ掛かったのだが、ではカメラマン氏の「貫くことを許されなかった自分」はどのように扱えばいいのだろう。彼の方も「プロのこだわり」を発揮したら仕事は着地することはない。早く言えば、声のデカいやつが勝っていく嫌な世界なのだ、我々の住むビジネス界という世界は。
「自分を信じる」ことよりも「自分を疑うこと」の方が難しいことなのではないだろうか。
仕事の能力やセンスなどというものは永遠ではない。いつかは時代に置いていかれる性質のものであるとするならば、そういう「自分が正しいと思い込む力の強い」、つまり、それによってこれまではうまくやってきた人、成功体験を重ねてこられた人は、ややこしいおっさんになる可能性が高い。しかしながら、そういう人の方が上昇志向が強いから、企業の上層部というのはそういうタイプの人間だらけになってしまう。現実にそうなっていると思う。困ったことだ。
人間いつかは、時代とズレてしまうのだ。石原慎太郎氏が好例である。失礼ながら……。
そういうおっさんに対して周りが、冒頭での飲み会の場面のように「○○さんは座ってて結構です」「上座へどうぞ」「お車用意します」などといった扱いをしていくと、おっさんは勘違いしてなおさら自分は正しいという考えを強固なものにしていくのだろう。
エライ人こそ、自分の意見を否定されたり、間違いを指摘されていかないとおかしなことになるのだ。自己肯定は放っておいても充分なさるからいいのだよ。でしょう、ナベツネさんと読売グループよ?
だから、後輩というのは先輩を立てるのは結構なことだが、先輩を甘やかさない方がいいのだ。いつでもツッコミを入れ、時に不躾でもいいくらいだ、と僕は思う。なぜなら、かつては確かに優秀だった先輩を「ややこしいおっさん」にしない責任は下の者が負う部分も大きいだろうと思うからだ。
一方、自分を疑うことは自信のなさの裏返しでもあるから、そういう人は出世はしない。どちらがいいのかは、僕にはわからない。ただ、ややこしくあることは「生き恥」にも近い感覚が僕にはある。
書いていて気付いてしまったが、「髪型だけ若いおっさん」も「ややこしいおっさん」もタイプは違えど、原因は自己イメージと現実の乖離にある。
つまりは、これは老化現象の顕在化した症状だ。うーむ、気を付けなくては。
永遠だかなんだか知らないが、リーゼントなんかしてていいのか、疑わなくてはいけない。