月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「どうせオレは忘れちまうんだ(トレイル篇)」

ジャスパーに着いた翌日。ホテルの部屋で、夜中の三時半に目が覚めてしまった。

七時に階下のレストランが開店するまで、装備の点検でソワソワ。 これから一泊のトレッキングを敢行するため、北米らしい卵やベーコンのブレックファストで、せめてカロリーをたくさん摂っておく。

僕が行くのはマウントロブソン州立公園内にあるバーグレイク・トレイルというトレッキングルート。二十一キロを歩いて、バーグレイクという湖の畔でテント泊して、翌日同じ二十一キロを戻ってくることになる。 つまり二日かけてマラソンと同じ距離を行くわけだから、そんなに難しくないように思われるかもしれない。しかし、テントや寝袋や水、食糧を含め十五キロ以上のバックパックを背負って、標高一六四一メートルというバーグレイクまでアップダウンしながら、およそ八〇〇メートルを登ることになるのだ。 結構タフな行程になるはずだ。しかも、天気予報はすこぶる悪く、曇りとにわか雨の予報。ずっと晴れない。

レンタカーを駆って七時半に出発。 ジャスパーの町を出て、法定速度で恐る恐る西へ赴く。日曜日の朝だから車はほとんど走っていない。すると、いきなりハイウェイは緑に囲まれた。 両側に針葉樹林が迫り、遥か前方にはカキ氷のように冷たく尖った山が濃紺色の岩肌を晒している。カーブを曲がる度に、湖が出てきたり、草原が広がったり、崖を巻いたり、大自然のスライドショーが繰り広げられる。空は寒々しく白く霞んでいるのだが、それが却って超現実な感覚を与えている。

僕は思わず日本でのトレッキングの相棒である、大谷さん(仮名)の名前を叫んだ。

  • 「大谷さん!」

一人で笑みを浮かべている。

  • 「大谷さん! この景色はいつか見んとあかんで!」

途中のムースレイクという湖では、車を止めてみた。雲のように白く、霧よりも重たげな靄が湖面近くまで垂れ込めていた。朝の陽光が白い空を透して輝き、空と靄の間の部分に、雪がまだらに積もった山々の稜線が覗く。鏡のようにツルツルに凪いだ湖面が上下逆さに、それら神秘の全てを映している。誰に見せるでもなく。 僕は偶然そこに居合わせシャッターを切っただけの通行人その一。

天国の一部はもう始まっている。ここらが入り口だ。

ジャスパーからマウントロブソン州立公園まで三〇キロとガイドブックにあったので、すぐに着くと思い込んでいたところ、行けども行けども着かない。あとでわかったことだが、確かに州立公園の敷地まではそれくらいの距離なのだろう。しかし、公園自体が広大過ぎて、僕が目指すトレイル入口までは距離にして一〇〇キロほどもあったのだ。

トレイルに入る前にインフォセンターに寄らなくてはいけないので、そこが開く八時には到着したかったが、これでは間に合わない。 「仕方ないな」と思って運転を続けていたところ、実に幸運なことに、時差があったのだ。 昨日、鉄道でブリティッシュ・コロンビア州からアルバータ州に来てタイムゾーンを越えたのだが、この日は逆にブリティッシュ・コロンビアに返るかたちになるため一時間戻るのだ。だから、一時間遅刻かと思ったのに、ちょうど八時に到着。

インフォセンターでは、金髪美人のおねえさんにテント場の予約確認をし、トレッキングに際してのレクチャーを受け、最後に十五分ほどのビデオを見させられる。熊も出るから、いい加減にはできない。 "Leave nothing but footprints. Take nothing but pictures." 「残していいのは足跡だけ。とっていいのは写真だけ」 なるほど。

車で十分ほど道路を北向きに進むと、トレイルの入り口がある。駐車スペースに車を残し、余分な荷物はトランクに隠し、ブーツのヒモを締め直し、重たいバックパックを担いで、二十一キロばかり、天国へ分け入っていくのだ。

初めの数キロは歩きやすい小道を、ロブソン川を右手に見ながら歩く。流れはかなり激しい。エメラルドグリーンの水が、轟音を立てて岩を洗っている。ゴォォーという水流の音と、ドーンドーンという波打った水面が岩壁に当たる音の二重奏。 キューキュー音がするので、すぐそばの樹に目をやるとリスが「見つかっちった!」という顔で幹の裏側に逃げ込む。

二キロ地点。空は晴れてはいないが問題なく、清々しい午前の空気に気分は最高だった。 あまりに気分がいいので、誰もいないトレイルで"Alberta Bound"を大声で歌っていたところ、自転車の二人組が気付かぬうちに近づいていてあっという間に追い越していった。ちょっと恥ずかしかった。

ロブソン川とは近づいたり離れたり、水辺を歩いたり上から見下ろしたりしながらトレイルは伸びている。左側には朝露に潤んだ森林が人間を寄せ付けない奥深さで広がっていて、そこから鹿が飛び出そうが、熊が草木を分けて出ようが不思議ではない雰囲気だ。 景色が変わる度に感嘆していたところ、四キロあたりでふと気付く。 「あかん、先は長いのにいちいち感動してられへんぞ」 と思い直して先を急ぐ。

もうすでに一時間以上も歩いている。荷物もあるので、大体時速にして三キロ程度しか進めないのだ。ってことは、あと……? いや、考えるのはやめよう。

五キロも歩いたところで初めて、歩きの人とすれ違った。 「ハーイ」と挨拶を交わす。川辺を離れ、湿気を帯びた森林の中だ。足下もぬかるんでいる。先ほど自転車に追い抜かれたように、トレイルを往くのはトレッカーだけではないようで、土の地面にはタイヤの跡が幾筋も刻まれている。少し嫌だなと思う。卑怯者め、歩けよ、と。ソロトレッカーの勝手な言い分。

七キロ地点で橋を渡ると、キニーレイクという湖に出た。日帰りのハイカーなどはここまでで帰ることになる。僕もそこで小休憩。 白濁したエメラルド色の湖に沿ってさらに奥へ進むと、初めてのキャンプサイトがある。 バーグレイク・トレイルには七つのキャンプサイトがあり、僕が目指す場所は五つ目だ。

この辺りから何組ものトレッカーたちに出会う。休憩中に追い越されたり、追い越したり。

カナダというともっと乾燥したイメージを持っていたが、このあたりは実際には降雨量もかなりあり、湿潤な土地らしい。トレイルを外れた地面や針葉樹の倒木や岩の表面には、苔がビッシリとむしている。ソフトシェルは脱ぎ、登り下りの連続に荒い呼吸を繰り返す。

キニーレイクを後にすると、平原へとトレイルは続いている。四方を山に囲まれた平らな土地にトレイルの幅だけ真っ直ぐ草が剥げている。とんでもない僻地へ連れて行かれそうな不安感が過るが、まだ半分も来ていない。

『ダンス・ウィズ・ウルブス』というケビン・コスナー監督主演の映画の中で、最後にインディアンがコスナーに別れを告げるために、崖の上から叫ぶ感動的なシーンがある。 歩きながら、僕を取り囲む岩山の上部を見上げると、拳を突き上げ雄叫びを響かせるインディアンが見えるのではないかという気がしてくる。そんな場所だった。

そして、そこを抜けるとつづら折りの登り道となる。尖ったガレを踏みながらジグザグに登る。と、ここでちょっとしたアクシデント。バックパックの右横のポケットに水のボトルを入れていたのだが、写真を撮ろうと屈んだ時にスポリと抜け落ちたのだ。 「しまった!」と思った時には遅く、ボトルはガレの斜面を落ちていく。二つの理由で焦った。ひとつは落石を起こしてしまう怖れがあったこと。ふたつ目は三リットル持参したうちの一リットルを失ってしまうかも、と思ったこと。これは大きいのだ。 しかし、ボトルは下の道で運良く止まり、ボトルが何年も使い込んだように傷だらけになったことと、僕が今来た登り道を下らなくてはいけなくなっただけで大事には至らなかった。

その登り道で、おかしな動物に遭遇した。人間の僕に気付く様子もなく、迷わずこちらへヒョコヒョコやってくる。初めは小さなイノシシかと思ったが、それより細い。長くて真っ直ぐな毛に覆われている。 急に僕に気付いて逆上されてはかなわんと思って、こちらから「ヘイ! ヘイ!」と声を出す。……全く英語で言う必要はなかった。 オレは長嶋さんか。

すると、今度は慌てた様子で、横へ逸れようとするが、急坂で登れない。引き返して、なんとか登れそうな場所を見つけてノソノソ逃げる。お尻の方の毛先は黄色いのが見える。 「お前なぁ、それでも野性かよ」と呆れて、こちらが気を遣って静かにそばを抜けて避けてやる。

明日、下山後にインフォセンターに寄っておねえさんになんという動物か訊いてみようと思った。あとでスケッチしておこう。

しばらく道を下って、吊り橋を渡ると、やっと二つ目のキャンプ場。団体さんが休憩しているのか、キャンプの準備をしているのか、集まっている。 彼らを横目に、僕は素通りして進む。

「この先四キロ急登。水場なし」の標識。 約八〇〇メートル登るうちの五〇〇メートルくらいはこの十三から十七キロ地点辺りで一気に登るのだ。 すでに右足のカカトが痛み出し、ストラップは肩に食い込み、全身が軋み始めている。なのに、まだ三分の二くらいしか来ていないのだ! 行動を始めてから五時間くらいになり、「やばい。辿り着けるのか……」と真剣に案じ始めた。

岩場のトレイルを踏みしめ、とにかく登る。一歩また一歩と足を出すしかない。行動食のグラノーラバーを齧り、アミノ酸を飲み、なんとか体が持ってくれるよう管理する。

トレッキングというのは自己管理と予測の遊びと言っていい。標高がどれくらいで、気温がこれくらいだろう。天気がこうで、距離がこう。だからこんな装備が必要だ。食糧と水はこれくらいでどうだろう。こういった一つひとつの計画がバシッと的中した時に快感を覚える。失敗すると、ひもじい思いをしたり、寒かったり、最悪は命を危険に晒すことになるかもしれない。しかし、勝ち負けはない。 そこがいい。

それにしても、距離に関しては甘く見ていた。

かなり高い崖の上まで登ってきて、谷の向こうの山肌から滝が吹き出して飛沫を撒きながら落ちていくのが見える。イタズラ心で崖から身を乗り出すと、針葉樹を真上から見下ろすかたちになり剣山のようにこちらに先端を向けている。「落ちたら串刺しやな」とすぐに後ずさる。

このあたりで、一人の男に声をかけた。バックパックを背中だけでなく、突き出たお腹にも乗せている。 「荷物デカいね」 「ああ、仲間がもっと前を歩いてるんだけどな。これ(荷物)は、全部食い物だよ、わはは」 なかなか陽気な男だ。アルバータ州の北部から来ているという。 僕は「死んでもいい」くらいの気持ちでこんな山奥まで単独トレックで来ているのに、地元の人たちは「週末にちょっと遊びに」くらいの感覚でやって来るのだろう。この彼もお腹出てるし、およそストイックな感じはしない。ホントにプラプラやって来た感じなのだ。呆れるやら羨ましいやらだ。 そして、僕はまだまだ見たい場所がこの世界に溢れているし、立てる限りはまだまだ歩き倒したらなあかんなぁ、と決意を新たにしたのだった。

悲壮感すら漂わせて黙々と登っていたが、こんな所で人と話せて少し気分が楽になった。彼も行くんだから、僕も行けるだろう。

ひと山越えると、平たくて鋭利な地層が積み重なった斜面に出た。岩と石のガレ場の斜面に神様が彫刻刀をスーッと水平に滑らせたみたいにトレイルが跡を残している。 右手の谷には、ここもエメラルドブルーの川が幾筋か、それぞれ思うがままの曲線を描いて流れている。所々にある中州には明るい色の草が茂り、まるで芝生と池の配分が逆転したゴルフコースのようだ。木々がフェアウェイとOBの境を示すように疎らに並んでいる。

そして……、川の向こう、斜め前方には、カナディアンロッキー最高峰、三九五四メートルのマウントロブソン! 頂上付近には雲が漂い、まだ全容は見えない。でも、もうすぐ、近くまで行くから! ちょっと待っててくれよ。

(つづく)